「春蘭の突撃がよい方向に働いたわね」
刻々と変わる戦況を後方より俯瞰しながら、曹操は優美なあごに手を当て満足そうに頷く。
「はい、正面と右翼より受けていた圧力を春蘭が左翼を押し上げることでひとつにまとめ、二つの圧力の方向をひとつにしましたから。まぁ本隊と分隊を合流させたことで圧力自体は大きくなりましたが」
「その合流が本隊の混乱を分隊にまで伝播させたわ。董卓軍はその数を十全に使える状態ではないわ」
曹操と荀彧が話し合うとおりに戦いは進んでいる。
突撃の機会を虎視眈々と力を蓄えつつ待っていた夏侯惇は、孫策の強襲により混乱した董卓軍の隙をつき、その猪突なまでの突進力で強引に左翼集団を後退させ、全体の陣を雁行へと移行させる。ここで長年の主従の絆か、はたまた血のなせる業なのか、中央の夏侯淵が姉の突撃とほぼ同時に流れるように董卓軍の攻勢を右翼へ右翼へと受け流していたため、董卓軍としては望まざる形で本隊と分隊が合流することになってしまった。
予定外の合流というものは、その人数が多ければ多いほど統制をとることが難しくなる。さらに片方が別の事で混乱していようものなら、まとまるものもまとまらず混乱に拍車をかけることになる。そしてその混乱は統制のとれていた一方にも伝播し、収拾をつけることは時間が経てば経つほど困難になっていく。
「情勢をなんとか五分にしたけれど、時間が経てば数の差で押し切られるか……」
「さすがに凡そ倍の兵数の相手に、二正面で好きに暴れられましたから。被害も大きく現時点で約三割、兵力を消耗しています」
「ふむ。やはり戦は相手がいるだけに常に私の思い通りになるわけではないわね。ここまで兵を失うつもりは毛頭なかったというのに」
「申し訳ありません。董卓軍は虎牢関にて時間を稼ぎ、討って出ることはないとの考えは存外甘かったようです」
この戦いで現在も磨り減っている兵士の数に、曹操は筆で書いたような形のよい眉を顰めさせる。この連合が終わった後に必ずくるであろう群雄割拠の時代のために、極力自分達の兵力は減らさずに戦功だけをとるように立ち回っていたものの、ここにきてのこの大損害に今後の予定を修正せざるを得ない。
「汜水関以後は気をつけろって言ったのに、俺の話を聞かないから」
「うっさいわね、この年中発情お下劣男。その話は虎牢関を抜けて、洛陽間近で奇襲に気をつけろというものだったじゃない!」
「一刀、過去のことを言っても仕方がないわ。それに桂花も一刀の天の知識の有用性は身に沁みたでしょ」
自身の見識の甘さを曹操に謝る荀彧を見て、ポソリと小声で一刀は自分の言葉を信じてくれなかったことを愚痴った。それを耳ざとく聞きつけた荀彧は、忠告を取り入れなかった後ろめたさも手伝っていつも以上の剣幕で一刀を怒鳴り散らすが、時間が惜しい曹操の仲裁にジロリと睨みつけることと舌打ちをすることを忘れることはなかったが、一先ずその舌鋒を収めた。
「桂花、公孫賛の様子はどう?」
「安全策をとったようで、時間はかかりましたが直に右翼分隊を殲滅できるかと」
「そう……。ならばこの戦い、勝ったわね。と言いたいところだけれど」
「はい、それでようやく五分。勝つためにはもう一押し欲しいところです」
「かといって麗羽がこちらに援軍を出しているとは思えないわね」
戦況を話し合う二人の表情は暗い。
数で負け、初手をとられ、常に後手に回っている中、最前線で兵達はよく戦い互角以上の戦をしている。けれども人間は常時動き回り、戦い続けることが出来ない以上、この曹操の兵達の働きもいつか限界を迎える。この限界を遅らせるために休憩を取らせたいところであるが、交替して戦ってくれる人手がまったく足りていないのである。常に戦っているのなら董卓軍も疲労が溜まるだろうと思うかもしれないが、董卓軍は多数であることを利して交替で休憩をとっている。
いくら挟み撃ちの状況を作ったとしても、疲労困憊の軍では十全にその力を生かすことなどできようはずもなく、前後に意識を分散させることで何とか互角に近い状態を保っているのが今の曹操軍であった。
この戦場で今、一番援軍を待ち望んでいるのは最前線で必死に戦う兵士達ではなく、ここで戦況を分析し指示を出し続けるこの二人かもしれない。
「告げる! 夏侯惇将軍より報告。公孫賛軍、我らが横を駆け抜け、敵後陣を強襲す!」
すぐ傍で戦っていたとはいえ、ある意味別の戦場で戦っていた公孫賛軍の参戦に、大局的な視点を持っていようはずのない伝令が歓喜の表情を浮かべて走りこんできて、大声で報告を告げた。
「これで五分……。最後の一押し、いかにするべきか」
体に溜め込んだものを吐き出すように洩れた曹操の呟きは、戦いの喧騒の中で荀彧と一刀の鼓膜を震わせるだけだった。
董卓軍分隊を壊滅させた公孫賛軍は大げさなほど騎馬隊に土煙をあげさせ、ことさら目立つように行軍し、曹操軍左翼の横を駆け抜け董卓軍の後陣を討つ動きを見せる。
このわざと目立つ動きの狙いは二つある。
ひとつは董卓軍に後陣を討つ動きを見せることで、その意識を分散さえ曹操軍への圧力を減らすこと。もうひとつは曹操軍に援軍の存在を教え、その士気を向上させることであった。
伯珪のこの思惑は半分成功し、半分は意味を成さなかった。
成功は言うまでもなく曹操軍の士気の向上であり、歓声をもって横を駆け抜ける白馬義従を見送り、槍や戟を掲げ董卓軍へと踊りかかっていく。
意味を成さなかったことは董卓軍への陽動で、孫策軍の強襲に夏侯惇、淵姉妹による意図しない分隊との合流がもたらした混乱を収めることで手一杯であり、公孫賛軍の動きをいちいち気に出来る状態ではなかった。
「敵陣を見よ! 奴らはおろかにも戦場にて混乱の極みに達した。ものども、手柄は立て放題だ。全軍突撃!」
強行軍ではあったが、少数の脱落兵をだしただけで董卓軍の後方へと回りこむことができた公孫賛軍は、勇ましい伯珪の号令一下、子龍を先頭に鋒矢の陣形をとり董卓軍へと突撃していく。
「我が名は趙子龍。死にたいものだけ我が前に出よ!」
所々泥や返り血に濡れ、まだら模様となった白馬に跨り子龍は自慢の業物、龍牙を振るう。一振りごとに董卓軍の兵士の首が飛び、新たなまだら模様をその身と馬体に色づけていく。その姿は夜叉のごとく、子龍を前にした董卓軍の兵には映ったことだろう。しかしそれは自らの白衣を朱に染めるほどの激戦を戦い続けている証であり、相手の数の前に返り血を避けるといった余裕と体力を失っていることの証明でもあった。
ことさら圧倒的な力を見せ付けることで、少しでも戦わずにすむようにしているのだ。
董卓軍の兵士達は遠巻きに子龍を囲み、けっして龍牙の殺傷範囲に入ろうとはしなくなる。
「はーはっは。董卓軍は腑抜け揃いの弱兵ばかりか! この趙子龍に立ち向かう蛮勇を持つものはおらぬか!」
その場で白馬を足踏みさせ、龍牙についた血を一振り振ることで払い落とす。
子龍の言葉はその場に響き、その侮辱に子龍を取り囲む董卓兵の顔に怒りの朱が差す。けれども朱く染まった白馬に跨り、自身の身も朱に染め上げた子龍のニヤリとした笑いを見ると、その頭に上った血も一気に下がり、顔を青くして一歩後ずさりしてしまう。
「くっ、えぇい、言わせておけば頭にのりおって、この売女が! この侯成様が相手になってやる。我が大夜叉金棒の錆にしてくれる!」
「フム、私が売女か。遊郭の姐さん達から習った技を見せてもよいが、ちとおぬしのモチモノでは私は高すぎるな。フフフ」
遠巻きに囲む董卓兵を押しのけて現れた、豊かな顎鬚を生やした隈のような男の言葉を受けて、子龍は一度上から下までゆっくりと侯成を値踏みするように見定めてから鼻で笑う。
「それでも私の相手をしようというのなら、せめてその軟らかそうな金棒を硬くしてから来るのだな」
そして哀れむような、それでいて蔑むような視線を侯成に向ける。
「……人が黙って聞いていれば言いたい放題。直接見たわけでもないのに何がわかる! お前が思っているほど貧相なモノは持っておらん!」
「ホウホウ。だがおぬしが言うほどのものを持っているとは思えんな。短いしすぐ噴火しそうではないか」
「くぅぅぅぅ。もう我慢できん! 誰が短小で早漏か。生かして女に生まれたことを後悔させるつもりだったが、もう生かしておかん。殺す!」
子龍の物言いに我慢の限界に達した侯成は、顔を真っ赤に染め上げて大夜叉金棒を振り回し、悠然と構える子龍に襲い掛かる。
ぶんぶんと空気を切り裂いて唸る金棒による大振りの攻撃を、子龍は最小の動きでかわし、龍牙を使い受け流す。子龍にしてみれば、怒りに我を忘れた大振りの攻撃をかわすことなど造作もない。子龍は侯成の攻撃をかわしながら、見せ付けるように大仰に溜息をつく。
「言ったとおり“気が”短く、すぐ“頭に血が上って”噴火したではないか。侯成よ、やはりおぬしでは私の相手は務まらんな」
大振りの攻撃を何度もかわされ、次第に体力を奪われていく侯成。始めは唸りを上げて鋭く振りぬかれていた一撃が、鋭さが次第になくなり振りの速度も遅くなっていく。一直線に振られていた一撃が、フラフラとブレが大きくなっていく。それでも怒りに我を忘れている侯成は攻撃を止めようとはせず、ただただ金棒をブンブンと振り回す。
「ぜぇぜぇ……。さけるな! おとなしく……当たれ!」
大きく振りかぶり侯成は金棒を思いっきり振り下ろす。上から下へのこの一撃は余計な力が入らず、金棒の重さを十二分に生かした鋭く見事な一撃ではあった。
それでも子龍に当てるには一歩も二歩も及ばなかった。
ヒラリとかわされた一撃の勢いと金棒の重さに侯成は耐え切れず、体勢を崩したたらを踏む。
子龍はドスンと大きな音を立てて地面を打った金棒を、上から思いっきり叩き侯成の手から叩き落す。そしてその勢いを殺すことなく龍牙を回し、石突を侯成の頭に落とした。
「董卓軍が将、侯成は公孫賛軍が将、趙子龍が討ち取った!」
白目をむき泡を吹いてその場に前のめりに崩れ落ちた侯成を見て、子龍は高らかに名乗りを上げた。
子龍のいる前線は、彼女の働きによって優勢に董卓軍の陣を切り裂き、陣深くへと兵を進めていく。
しかし彼女一人の力だけで全ての兵を相手にできるわけもなく、細く伸び始めた公孫賛軍の横腹を食い破り、分断させるべく董卓軍の兵士が襲い掛かってくる。
「護衛隊は密集せよ! 御遣い様をお護りするのだ」
「歩兵隊、前へ! 槍を構えて近寄らせるな」
厳綱と公孫越が声を張り上げ兵に指示を、董卓軍の動きに対応する。けれども細く伸びきって兵の数が分散してしまった状態では、その二人の奮闘も焼け石に水でしかない。
「厳綱さん、オレのことは二の次でいい。まずは分断されるのを防がないと」
「しかし、それでは何かあったとき危険です」
「分断されれば、その何かが起こりやすくなります。襲われたら白煌が逃げてくれますよ」
晴信の言葉を危険を理由に渋る厳綱に、自身が乗る白馬の首を叩いて晴信は心配は要らないと伝えるも、厳綱は渋い表情を崩すことなく、護衛隊の密集隊形も崩そうとしなかった。
「厳綱。今、兵を遊ばしておける状態ではありません。護衛隊の半分を鮮烈に加えなさい」
言い争うというほどではないが、意思統一できていない晴信と厳綱のやり取りを打ち切るために、越は将軍の立場を使い厳綱に命ずる。
「将軍! 御遣い様に何かあっては……」
「厳綱! 少しは私の愛馬を……それと諏訪を信じてください」
なおも言葉をもって反対しようとした厳綱の言葉を、越は強い口調でその名を呼ぶことで遮った。それからはにかむ様な苦笑を浮かべて、晴信をチラリと目を向けた。
「……フゥ。副長! 第四から第六まで分隊を連れて越将軍の指揮下に入れ。護衛隊の力、存分に敵味方双方に見せ付けて来い!」
ほんの一瞬、晴信と越に視線を送り厳綱は溜息をついた。澱を全て吐き出した後、胸を張るようにあげた顔には、実にうれしそうな笑顔が張り付いていた。
厳綱の命を受けた護衛隊はすばやく隊列を組み替える。
半数が矢のように馬を駆けさせ、董卓軍を必死に押さえる前線へと行き、その半数が抜けた穴を残りが薄く広がることで一応塞いでいく。
「越ちゃん、ありがと」
「お礼を言われるようなことをした覚えはありません。戦力が少しでも欲しいから、厳綱に命じただけです」
「んー。オレを信じてくれたことに、お礼を言ったんだけど」
「青い顔をしていても、真直ぐ目を見て逃げないと言った人間の言葉は信じます。……騎馬隊、抜刀! 陳栄隊を援護! 押し返すぞ」
馬を寄せお礼を言う晴信から顔を背けた越は、自らも腰に佩いた長剣を引き抜き、馬群の先頭になって駆け出そうとした。
後ろを振り向き、後続がしっかりとついてきているか確認するその目に、キラリと日の光を反射するモノが映る。
越に続けと騎馬隊の兵士が抜いた剣も、そこかしこで日の光を反射してキラキラと輝いている。しかし晴信の真後ろで、うつろな目をした兵士が勢いよく振り上げた剣が反射する光は、越の目にとても禍々しく映ったことだろう。
「諏訪!」
晴信に注意を促すべくその名を叫ぶ。
なぜ、真剣で厳しい表情で自分の名を呼ぶのかと不思議そうな晴信の顔を見ながら、越の体は自然と愛馬を促して晴信に襲いかかろうとしている兵士のもとへと駆ける。
「後ろだ、さけろ!」
剣の修行を一切していない晴信に、後ろからの不意の攻撃をさけることなど不可能なことは、越は百も承知している、それでも彼女は叫ばずにはいられなかった。
やけにゆっくりと振り下ろされる剣に、自分なら間に合うと思うものの越自身の体もそれに合わせるようにゆっくりとしか動かないことにもどかしさと苛立ちを感じてしまう。
越の声に後ろへ振り向いた晴信の左上腕にゆっくりと食い込んでいく剣。
うつろな表情の兵士は躊躇いも後悔もなく、無慈悲に剣に力を込め振りぬいていく。
左腕を切り落とし、そのままの勢いで切っ先がポリエステルの制服の腹部も切り裂いた。切り裂かれた左腕から血が噴出し、襲い掛かったうつろな兵士をその血で朱に染め、白かった制服も着られた腹部から滲んだ血も加わり朱に染まっていく。
「諏訪!」
そこでゆっくりと流れていた時が加速し、いつもの通り動けるようになる。
越はその手に持った長剣を、なんとか馬上にいる晴信に止めをさすべく、再びその凶刃を振り上げるうつろな兵士に叩きつける。
鍛錬し身につけた剣の技など忘れ去ったとばかりに、ただただ力任せに剣を叩きつけた。
うつろな兵士の持った剣を飛ばし、その腹を一刀のもとに切り伏せる。
「蟲は……消……去。バ……グは……」
横一文字に腹を切られたうつろな兵士は、ずっと呟いていた言葉を口にしながら下半身を馬上に残し、幾分軽い音を立てて落馬する。
地響きに似た音か近づいてくるのを越はここでようやく感じる。
「諏訪、生きているか!?」
しかしその音を無視して、暴挙を犯した兵士を倒した越は晴信に視線を向けた。
無くなった左腕を残った右腕で押さえ、全身を朱にそめた晴信の姿と、前線を抜け槍に戟、剣を振り上げ迫る董卓軍騎馬隊の姿がその瞳に映る。
フラリとゆれて馬上から滑り落ちていく晴信と自身に突きつけられる槍の穂先。
晴信の体を支えるべく伸ばした左手と槍を払う剣を振るった右手。
左手は虚空を掴み、右手はしっかりと槍を払った。
董卓軍騎馬隊は攻撃を避けられようが、当たろうがその勢いを止めることなく駆け抜ける。
次々と迫る槍を、戟を、剣を払い、かわし、受け止めつつも反撃を加え、少なくない損害を越は董卓軍騎馬隊に与えるも、その瞳には失意しかなかった。
何の重みも感じない左手を、血が滲むほど握り締める。
白煌から落馬し、董卓軍騎馬隊の馬群にのまれた晴信を掴むことができなかったその左手を……。
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双天第二十六話のその五です。二十六話まだ終わりません。あと一回くらいで終わるかなぁとは思いつつもどうなるやら……ハァ。
今回皆さんがどう思うかまったく予想できませんというか、なんじゃこれと思われる方多いかなぁと思ったり思わなかったり。多分これくらいでは全然大丈夫とは思いますけど、流血表現というかそういったものが書かれています。本当はもっときちんと書いたほうが生々しいんですけど、私の技量ではこれが精一杯。