横浜から東京方面への振り替え輸送は、横浜市営地下鉄とみなとみらい線と相互乗り入れをしている東急東横線の上下線のみに委ねられたが、横浜駅を始めとして、どの駅も大混乱となっていることは、ニュース番組が再三再四、報道している。こんな凄まじい状況の中で、百号のキャンバスを持って歩くなど、わざわざ苦心惨憺の末に仕上げた作品を、自ら破壊するようなものであった。
今から搬入代行業者の手配などつくはずもなく、基樹が茫然としていると、瀬川は不意に自分の携帯電話でどこかへ電話をかけ始め、
「えっ? 今日は午前中で仕事は終わりだって言っていたじゃないか! いいから、十五分だよ、十五分できな!」
一方的にまくし立て、携帯電話をぶつりと切ると、
「お兄ちゃん、おばちゃんのこと怨んでいるんだろう? それでもいいよ、だから、おばちゃんを利用すると思って、六本木へ行きな!」
瀬川は真摯な瞳で基樹に言った。基樹は瀬川の言うことが解らず、
「一体、どんな手段を使って、絵を運ぶんです。もう、万策は尽きて……」
思わず聞き返すと、瀬川は不敵に笑い、
「うちはね、元町でもう三十年もガラス屋をやっているんだ」
胸を張って言った。その言葉が終わらぬうちに作業着に安全靴を履いた身長百五十センチメートルそこそこの小男が、貸しスペースにずかずかと入ってきて、
「おい、文子。どの絵を運べって言うんだ。もう、五分、お前から電話くるの遅かったら、飲んじまっていたぜ」
瀬川の夫が妻に聞くと、
「この絵だよ、傷一つつけたら承知しないよ」
瀬川は基樹の『希望の飛翔』を目で示した。小男が基樹の作品を目にするなり、真顔になり、
「こいつはあんたが?」
基樹に確かめると、基樹は気後れしながらうなずいた。小男は妻と漸次、目を見交わせると、豪快に笑い出した。ひとしきり笑うと、
「解った。運び出すぜ。なーに、今日は土曜だ、湾岸を突っ走って行きゃ、一時間もかからねぇ!」
自信満々に言った。
本来ならば、ガラスを運ぶ二トントラックの荷台に、基樹の作品を厳重に緩衝材で梱包して積載すると、念入りに荷台に固定した。
入念で素早い積載作業を済ませると、瀬川の夫は基樹を助手席に座らせ、新山下町料金所から首都高湾岸線へと二トントラックを走らせた。
首都圏の鉄道輸送が大打撃を受け、国道一号線や首都高湾岸線も混雑しているだろうと基樹は予想したが、思いのほか流れがいい。横浜ベイブリッジにさしかかると、
「あんた、俺の女房が悪いことを言っちまったんだって?」
瀬川の夫が基樹にぽつりと尋ねた。基樹が言葉を探していると、小男は、
「許してやってくれよな。こんなことで罪滅ぼしになるとは思っていないけどよ……」
妻になり変わり、潔く詫びた。基樹は、
「いえ……そんなこと……僕の方こそ、すっかりご迷惑をかけてしまっています」
瀬川の夫に本心を答えたとき、横浜ベイブリッジのすぐ傍らを、白真珠色の巨龍が飛翔していることに気付いた。
陽菜であった。
基樹はふと『等伯画説』の追補の文中に、陽菜の父龍が伝法院の庭の上方から等伯に対し、『貴様は出会いを全く活かそうとはしなかった!』と、一喝したという記録を思い返した。
自分が、瀬川夫婦に対し、こだわりを捨てきれず、拒み続けていたら、こうした助力も得られなかっただろう。父龍が等伯に言った『出会いを活かす』という一言の意味が理解できたようであった。
こうした基樹の心が、陽菜に伝わったのか、白真珠色の巨大な龍は、不意に速度を上げ、有限会社瀬川硝子と荷台の側面に記された二トントラックを先導するように追い越していった。
やがて、基樹を乗せたトラックは、鶴見つばさ橋を渡り、有明ジャンクションから十一号台場線へ入った。ここから浜崎橋ジャンクションから都心環状線へ入れば、目指す六本木料金所までは、後わずかだった。
昨年までは上野の東京都美術館を会場に使用していたが、今年からは六本木に新設された国立新美術館で第四十回日本美術展覧会が開催されると、真新しい展示室は、美術愛好家たちで連日、賑わいを見せている。
第一科日本画、第二科洋画、第三科彫刻、第四科工芸美術、第五科書と、部門ごとに厳しい鑑査で認められた作品が、愛好家の目を奪っている。
こうした中で、第二科の洋画部門で内閣総理大臣賞に輝いた『希望の飛翔』は、際立って注視を浴びていた。
直上から注ぐ陽の光が乱反射する雲海の中を、白真珠色の巨大な龍が、宝珠を前肢に捧げ持ち、躍動感と遠近感をもって飛翔する姿を、後方から捉えた作品だった。
北京オリンピックで沸き返りながらも毎月のように無差別殺人が全国で発生し、政情不安、金融不安と国民の心に暗い影を落とし続けた二〇〇八年に、希望を与える作品として受け入れられたのだった。
基樹は会場へ訪れる人たちの生の反応を目にし、今後に役立てようと、展示室の片隅に立っていた。
『希望の飛翔』が内閣総理大臣賞に選ばれたことは、十月十九日の午後三時に日展のホームページによって知っていたし、その翌日には日展事務局から速達郵便が自宅に送付されて、書面でも入賞が知らされていたが、今一つ、信じ切れず、実感がない、というのが基樹の偽らざる心境だった。
このとき、父の大志が帝国美術堂の役員たちをぞろぞろと連れ、基樹の作品の前に立つと、
「どうだい、俺の息子がとうとうやったぞ。みんなも見てやってくれ!」
自宅では寡黙な父が、職場では感情を丸出しにし、基樹の入賞を手放しで大喜びしている。大志は基樹の姿に気付くと、
「基樹、ちょっときてくれ。父さんの仕事仲間に紹介しておきたいんだ」
声をかけ、手招きをした。基樹は帝国美術堂の社長室で騒ぎを起こしてしまい、役員たちと会うのは、何とも気詰まりのまま父の傍らに立つと、大志はどことなく一回り逞しくなった息子の肩に手を置き、
「どうだい、超大型新人の誕生だぞ! 画商は作家先生とは、仲良くしておかなきゃな。あーっはっはっはっは!」
基樹を、超大型新人、作家先生と呼んだ。基樹にとって、それは父が贈ってくれた最高の賛辞だった。
ふと気付くと、基樹の心の中で、大志を責める思いが全くなくなっていた。
帝国美術堂の役員たちに挨拶を済ませると、基樹は巨大な全面ガラス張りの繭のように優美な外観をもった国立新美術館を正門から出た。
一か月前、建長寺の境内で陽菜に予言されたとおり、画家としての門出を迎え、父と国を恨んでいた思いも消え去り、心はすがすがしかった。この境地を陽菜に話したかったし、『希望の飛翔』の感想も聞きたかったが、基樹から連絡を取る術はない。
交通が激しく、壮麗なガラスの巨塔のような東京ミッドタウンが面した外堀東通りに出ると、基樹のすぐ背後から、
「ありがとう。等伯先生の魂も喜んでいる。わたしの四百年間の願い事もやっとかなえられた」
美しい陽菜の声が聞こえた。基樹は弾かれたように振り返ると、白いニットのワンピースの上に、やはり白いニットのベストを重ね着した陽菜が立っていた。
基樹は、自分の心の奥深くに永年抱えてきた恨みや憎しみが消え、救われた思いを陽菜に伝えようと言葉を探していると、陽菜は、
「これから基樹君の人生は末広がりに伸びていく。人生の王道を歩いていける……それじゃ」
再び予言を与え、立ち去ろうとした。基樹は慌てて陽菜のか細い手首をつかむと、
「待てよ。いつもいつも言いたいことだけを言ったら、消えちまうのはやめろ。龍神の時間は、人間界の三十倍はあるんだろう、少しぐらいは……」
思わず引き止めた。陽菜は目を丸くすると、すぐににこりと笑い、
「うん、どこに連れて行ってくれるの?」
基樹に聞いた。基樹は思わず、返事に窮した。ゲームセンターやカラオケで遊びたいのか、サントリー美術館や森美術館で名画を見たいのか、陽菜のことはまるで知らないのだった。
「ま……まあ、少し、歩かないか?」
基樹はそう言うと、陽菜と歩き出した。二人はいつしか東京ミッドタウンに隣接した檜町公園に入っていた。
檜町公園は、江戸時代には萩藩毛利家の大名屋敷の一部で、当時は檜が多く植えられていたことから、現在の地名の由来になっている。
明治の初めから昭和の終戦まで軍用地に用いられ、近年まで防衛庁が置かれた。防衛庁の移転に伴い、平成十九年三月に再整備を終え、上の池、中の島、下の池が配され、広い芝生広場を備えた港区立の公園として開園していた。
基樹と陽菜は当てもなく下の池の畔を歩きながら、
「俺の作品は見てくれた?」
「うん、わたしをとてもきれいに描いてくれて、ありがとう……でも、わたし、あんなに足、太い?」
陽菜が恥ずかしそうに言うと、基樹は慌てて、
「遠近法の効果で仕方ないんだ」
陽菜の気持ちも考え、真剣に受け答えする基樹が嬉しく、陽菜は微笑んだ。
二人は、区民の憩いの場として親しまれている美しい庭園を、仲睦まじく歩いた。(完)
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日展への個人搬入の日、交通事故により、首都圏の鉄道の殆どが運休となり、基樹の計画は打ち砕かれたかに見えましたが、思いもかけない助力が得られます……小市民のファンタジー、最終回です。
ラストシーンを書くに当たり、実際に六本木に足を運び、国立新美術館の近くで、基樹と陽菜が仲睦まじく歩いていくにふさわしい場所を探したところ、檜町公園になりました。興味のある方はお出かけ下さい。