小式部はわけが解らず、
「どいうこと? 他におとうさまとおかあさまが別れる理由があったというの? おかあさまが為尊親王とおつきあいを始めたことが、おとうさまには許せなかったのでしょう? 現におじいさまは夫の赴任中に不貞事件を起こしたとして、おかあさまを勘当している……」
小式部は、母と祖父が交わした歌を思い返しながらたたみかけるように尋ると、叔母は、
「おねえさまとお義兄(にい)さまは、世情を鑑み、よくよく話し合い、納得された上で離婚という形を選ばれたのです。全て、小優香、あなた一人のために」
受領階級の父母は決して裕福とは言えないが、それでも娘一人を養う程度の経済力はある。それにも関わらず、子のために夫婦が別れるなど若い小式部には理解できず、ますます混乱して言葉を失った。叔母はひたと端正な小式部の顔を見つめると、
「冷泉系、円融系と交互にそれぞれの親王が帝位に就かれた世の流れが、今後は何か思いもかけなかった出来事が起こり、どちらかの系譜が没落してしまうかもしれない、例えば、華やかだった中関白家が朝敵として追われたように。
現に、現在の東宮は、冷泉系で三条天皇の第一皇子である敦明親王が立たれていますが、御堂殿(道長)は、三条天皇が崩御すれば、敦明親王の立太子を取り消し、円融系の後一条天皇の弟宮の敦良親王をお立てになるお考えと、噂されています。
このように、帝位は冷泉系に戻るのか、あるいは円融系のまま流れていくのか、全く不透明なのが実情です。こうした時代を受領が生き抜くために、おねえさまは冷泉系の昌子内親王の許に残り、お義兄(にい)さまは円融系の伸長に努めた御堂殿(道長)に仕えたのです。
全ては、小優香、あなたが独り立ちしようとしたそのときに、どのような世になっていてもいいように、冷泉系にも、円融系にも、父母が力を合わせ、道を開いておいてくれたのです」
小式部の脳裏に、土御門殿が焼けた後、道長の許へ続々と駆けつけ、火事見舞いと再建のために助力したいと言上した国司たちの姿が浮かんだ。次回の除目の際に、少しでも裕福な国の国司に任じてもらうための、いわばごますりであったが、そうしなければ生きて行かれない受領の悲哀で、父母も全く同じ世界で生きてきたのだった。小式部は、目を見張りながら、
「……そんな……それじゃ、おとうさまとおかあさまの人生はどうなるの?」
茫然として言うと、叔母は、
「別れた当時は、おねえさまもお義兄(にい)さまも、自分の人生よりも小優香の将来を重んじた、ということです。あなたは、本当に二親の愛情を身一杯に受けて、生まれ、成長し、今日があるのですよ」
語り終えた。
母は、父と別れて後、交際をもった為尊親王と敦道親王とも死別してしまったが、藤原保昌と再婚し、今は丹後で穏やかな日々を送っている。父も母と別れてからも、妾子に囲まれ、受領とてして生き、半年前に生涯を閉じた。
離婚により、父母の人生は終わったわけでは決してなく、それぞれの未来があった。そうした両親の無償の愛を受け、今の自分がある……そう考えたとき、小式部の頬に滂沱と涙が滴り落ちた。追い求めていた真実を授けてくれた叔母に小式部はかきつくと、声を上げ、泣いた。嬉しかった。ただ、嬉しさだけがあった。子は、遣い切れないほどの財産を与えられるよりも、無形の父母の愛があれば、生きていける……小式部は、心の奥深くに悟った。
叔母は優しく小式部を抱きしめ、艶やかな髪をさすった。小式部は深く、大きな二親の愛情に対する感謝はもはや言葉にできなかったが、この大恩に報いるには、どうすればよいのか、真摯に自らに問うた。
すぐに答えはあった。自分自身が幸せになること、幸せを得た姿を二親に見せること、この一言に尽きるのではないか。このとき、幸せ、という言葉に教通の姿が重なった。教通ほど自分を大切にしてくれる存在はいない、教通と人生を歩む姿を両親に見せることが、自分自身の何よりの報恩に違いない、しかし、自分は……小式部は、はっと顔を上げ、叔母を見ると、
「大変! わたし、教通さまにひどいことを言ってしまって……」
「それなら、早く後を追って、謝りなさい。若君はきっとあなたが追ってきてくれることを信じて、待っていますよ」
叔母は、小式部を諫めた。小式部は、大きくうなずくと、ようやく朗らかに笑った。
陽が傾いても、平安京の三条大路の往来は激しかった。
小式部は長い影を引き、行き交う雑踏を縫うようにして摂関家が仮住まいしている小二条院へ向かい、東へと走りながら教通の姿を探したが、容易には見つからなかった。
無我夢中で走っていると、いつの間にか、小式部は鴨川を渡り、広い河川敷まできてしまっていた。
ようやくに見覚えのある檳榔毛車(びろうげのくるま)が停まり、教通の従者たちを見つけると、小式部は従者の誰ともなしに、
「教通さまは?」
息を切らせて尋ねると、従者たちは困り果てた様子で広い河川敷の一角に目を向けた。その瞳の先をたどると、西陽が水量の少ない鴨川の川面を黄金色の帯のように壮麗に照らし、その向こうの河川敷にぽつんと膝を抱え、うなだれて座り込んでいる教通の姿があった。
小式部には、美しい光の浮き橋の渡り口に教通が待っているように思えた。
小式部は足音を忍ばせ、背後から教通に抱きつくと、
「いい殿方が、たかが女に怒られたからといって、そんなに塞ぎ込んでいては、見苦しいですよ」
窘めるように言った。教通は膝に顔を埋めたまま、白檀のような香りがする小式部が自分を追ってきたことが解り、嬉しかったが、
「……まだ、何か……言い足りなかったのか……鬼女め」
少しは何か言い返してやろうと、小式部を罵った。
「まあ、わたしを鬼女などと。ひどいことをおっしゃる。女の心の中には、天女と鬼が住んでいるものなのですよ、知りませんでしたか?」
小式部はけろりとして答えると、教通はようやく顔を上げ、小式部の顔を見つめると、
「ほう、それでは、今は鬼は早々に寝てしまい、天女が起き出してきたというわけだ。ところで、天女はどうやって鬼を退治したのだ?」
金色の西陽に縁取られた教通は、すっかり、普段以上の穏やかさを取り戻した小式部が不思議で、思わず聞いた。小式部は、
「さきほど、叔母さまが教えて下さいました。わたしの両親のこと。おとうさまとおかあさまは、わたしを……」
小式部は、鴨川の川面に美しく現れた光の浮き橋と、その光に照らされた教通に、目を細めると、二親から受けた大きな愛を語り始めた。
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小式部は、父母から受けた愛情の大きさ、深さを知り、自分がしあわせになることが両親への恩返し、と気付きます。
小式部は教通の後を追いますが、なかなか見つけられず、鴨川まできたとき、川面に光の浮き橋が描かれていました……
和泉式部の娘・小式部を主人公に据えた恋愛小説、最終回です。