平城京から平安京へ戻り、十日が過ぎていたが、小式部は一条大宮院の太皇太后彰子の許へ出仕せず、里下がりを続けていた。
宮中へ参内すれば、同僚の女房たちから教通との結婚に関して、あれこれと取り沙汰され、それが善意のものでよければまだいいが、言葉の奥底に嫉妬や羨望が渦巻いて見え隠れし、小式部を必要以上に疲れさせるためであった。
それ以前に、結婚という問題に小式部自身、何ら心の整理もついていなかった。考えてみれば、もう半年以上も同じ悩みを抱え、解決の糸口も見出せないまま生活していることに気づくと、言葉にならない悲しさが込み上げてくる。
さして取り散らかしているわけでもなかったが、母が局として使っていた辺りの掃除をしていると、ふと粗末な文箱が小式部の目についた。小式部は何気なく文箱の蓋を開けてみると、母がそのときどきに詠んだ歌を覚書程度に書き散らした料紙が丁寧にしまわれていた。
母の体温のような肉筆に久しぶりに触れ、ふと、心が和む思いで料紙をめくっていると、小式部はあっと声を上げ、目を見張った。
陸奥国の守にてたつをききて
もろともにたたまし物をみちのくの 衣の関をよそにきくかな
陸奥国へいひやる
たかかりし浪によそへてその国に ありてふ山をいかにみるらむ
和泉守の任を終えた父は、寛弘元年(一〇〇四)に陸奥守に任じられていたが、そうした父に母が追慕をこめて贈った歌であった。
父母の離婚の理由は、父の処世が母に受け入れられなかったからではなかったのか……では、この遠い任地に赴く父を想って詠んだ歌はどいうことなのか─単なる母の未練、という一言では説明がつかない……小式部が愕然としていると、叔母が局に入ってきて、
「小優香、御堂殿(道長)の若君がおみえですよ」
思いもかけず、教通の来訪を告げた。叔母は教通を連れてくると、気を利かすように立ち去った。教通は、ほっと安心したように小式部を見ると、
「平城京から戻って以来、一条大宮院にもう十日も出仕していないと聞き、心配で様子を見にきたのですよ」
来意を努めて明るく言ったが、小式部は、今は教通どころではなく、思わずかあっと腹立ちを感じ、
「何か用?」
怒気を込めて教通を問い質した。教通は今まで目にしたこともなかった小式部の険しい表情と語気にびくりと肩を震わせながら、
「……何って、ですから、平城京から戻って以来、出仕していないと聞き……」
しどろもどろに答えた。小式部は小二条院に仮住まいしている教通が、わざわざ一条大宮院の寝殿から東対へ繋がる渡殿へ出かけていき、同僚の女房たちに自分の消息を尋ね回っている姿を思い描くと、ますます癇に障り、
「別に何もない。ただ、行きたくなかっただけよ。用がないのなら、帰って! 今、忙しい!」
教通を見据え、声を荒げた。教通は初めて見る小式部の感情をむき出しにした姿に茫然としていると、
「いい加減にしてよ! 迷惑なの! わたしの気持ちも考えず、おとうさんに泣きついてなしくずしに婚約させられ、次は婚前旅行で、挙句は素行調べ? そんなこと続けられたら、職場にもいけないじゃない! 興福寺の東仏殿院は夫婦和合? 東大寺の戒壇院は子供の追善供養? それでわたしを口説いているつもり? あんた、馬鹿じゃないの!」
小式部は感情を爆発させた。
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平城京(奈良)から平安京(京都)へ戻った小式部は、彰子の許へ出仕することなく、自宅で過ごしていました。
そこへ小式部を心配した教通が訪ねてきますが、小式部はとうとう感情を爆発させてしまいます。
和泉式部の娘・小式部を主人公に据えた平安時代の恋愛小説、いよいよクライマックスです。