『よく見たらお前さんはザドック君じゃないか。君将来は銀行員になるって色々小難しい資格とってただろ? いつから錬金術師になったんだい』
いきなり聞きなれない声を聞いて俺はぎょっとした。確かに俺は銀行員になりたいし、金融関係に有利そうな資格を取りつつ頑張っているつもりだ。だってどんな錬金術師達も彼等には静かに従うんだぞ。
いつも偉そうな錬金術師達を言葉少なに言いくるめるこの寡黙なスーツの男女達に俺は混じってみたかった。でもそれは個人的な夢であって親しい間柄しか知らないことだ。大体俺が将来銀行員になりたいと知ったところで大部分の人は何の疑問も抱かずに「いいね」と言う。だって年収がよくて堅気な職種で一番有名なものだからな。
この女が何故俺の事を知っているのか分からない。いや、この人じゃない。この人の中から聞こえたんだ。という事はこれが俺の行動に対するフェ・ラジカのリアクション? 想像していたのよりもはるかに穏やかで親しげなものだが、これが人に猛烈な殺意を示す危険な改良株? とてもそうには思えんが…
それは俺の体内のフェ・ラジカも思ったようで、不信そうに、だが一応体裁を保ったまま『お前は?』と尋ねた。すると女の体から『俺はアモスだ』と返事が。俺の体内にいる株と違ってどことなく力強くて低めだ。
俺と言うから男…? カビなのに男も女もいるのは変な話だが、思えばシダやイチョウにも雄株と雌株がある。植物にもあるんだから、カビにあってもおかしくはなさそうだ。納得しかねるけど。
にしてもアモスね…サイクリングクラブの先輩にもアモスって名前の人がいたな。立派なマウンテンバイクを持っている人なんだが、どうもそれで学校へ来ているそうで、しかも年中専用ウェアで色々な意味でまぶしすぎて直視できない人だった。
マウンテンバイクで街中走るのはまあ歩道を突っ走ったりスピード出さなきゃいいんじゃないかなとは思うけど、一年中あのピッチピチにフィットする自転車用ウェアで学校内歩き回られるのはちょっとどうなのとは思う。
夏はいいけど冬は見てるだけで体が凍りつきそうだからせめて上着かズボンを履いてくれといつも思うが、本人は「これくらいで寒いって言ったら戦争中凍死した人たちに申し訳ない」とか良く分からない事言って話を聞いてくれない。戦争中って何の話なんだ。ちなみにこの辺は冬になると寒い日だと零下になるんですが。
ともかく色々と自然体で健康的な人だったが故に現在のフェ・ラジカにも無駄なくかかってごほごほ咳き込んでいるようなので、コレを機に懲りて普通の服を着て欲しいと思う。フェ・ラジカが原因であるってのは殆どの人が良く分かってないみたいだし。最初はちょっとした風邪の症状だから病院に行かない人が大多数だしな。それにまさか自分がそんなはず無いって思い込むためにもどうしても有耶無耶のままにしたがるようだ。
アモスと聞いて先輩のアモスさんを想像したが、まさかこのセールスレディに先輩の生霊か何かが憑いてるわけでもあるまい。俺はいつもの調子で「アモス? カビの癖に名前があるのか?」と口走って、はたと気がついた。何にって、セールスレディの驚愕の、しかしどこか哀れんだ様子の視線にさ。
ただの人から見れば今の俺は意味不明な独り言をブツブツ言ってる危険人物でしかない。本物の錬金術師は知らんが少なくともカルト研究者レベルのモドキは皆こんなもんだから偏見の目はむしろより本物っぽくて好都合なのだろうけど、俺自身のハートが耐えられそうも無い。
ここでなんでもないと訂正すると錬金術師特有の狂気がかき消されてしまうので、錬金術師を語る以上は何もしないで堂々としていたほうがよさそうだ。それにこの噂が広がったとしても実害を受けるのは俺じゃなくてソロモンだし。そう開き直ってもやはり視線が気になるので、おもむろに携帯電話を取り出していじった。
人間間の気まずい空気を破ったのは、女の体から聞こえてくる笑い声だった。
『仮にお前さんが本当にソロモンならそんなヘマしねえよ』
アモスはそう笑ったが、昔から錬金術師としてある程度修行を積んでるソロモンは俺と同じように声が聞こえるのだろうか? そんなはずない。声が聞こえるならこいつが死に掛けるほどの酷い実験をしたり、改造して凶暴化させようとしたり、捨てたりしない。そんな非道な事できるはずない。
笑うアモスとは対照的にあまりいい顔しない俺を見かねてか、『今は私が代わりに話そう。ザドックも色々聞きたいことがあるだろうが辛抱してくれ』と俺の体内のカビが気を利かせた。
だがアモスはソロモンの話はどうでもよさげで、どうも俺自身が錬金術師かどうかを話したいらしい。アモスは博識にもソロモンを知っているらしいが、どのソロモンの事を指してるのかよく分からない。俺がソロモンと聞いて真っ先に連想したのは兄貴のソロモン4世のことだが、始祖はソロモン1世だし、親父はソロモン3世だ。
『交信術を使うのに通話の仕方が分からない錬金術師なんていねえ。交信術使いは周りに人がいる場合アイコンタクトやボディランゲージ、何気ない会話の中に声無きもの達へのメッセージを仕込むんだ。そうしないと頭が沸いてる人にしか見えないからな。交信術血統の錬金術師は普通ならそういうのを訓練するもんだ…お前さんは錬金術師でもないのに何で俺達の声が聞こえるんだ? 変な奴だな』
俺が変わってるってのは俺の体内にいる奴も言っていた。思えば俺は小さい頃は近所でも評判な変な子だったらしい。
男の子なのに人形遊びが好きだったり、その人形も男の子用の勇ましいヒーローばかりではなく女の子用のものからどう考えても子供が興味を示さなさそうなオブジェまでまきこんで独りで遊んでいたそうだ。というか、何でもおもちゃになっていたそうだ。
ただその遊び方が普通じゃなかったようだ。子供の人形遊びは普通一方的で割と乱暴に遊ぶものだが、俺は物と会話して物をペットのように可愛がる妙な行動を取っていたそうだ。あきらかにごっこ遊びを超越した対応をしていたそうだから、俺にとってはごっこ遊びではないのかもしれないと周りに感じさせたのだろうか。
でも俺はその時の記憶が無い。皆事後の大きくなった後聞いた話だ。とはいえあまりに小さい頃の事はこの件以外も皆あいまいだったり忘れてるから、別におかしいとは思っていなかった。
どうせならその当時の心境を思い出してみたいところだが…大きくなってから「お前は想像力が豊かな子だった」と笑われただけで、本当に何も思い出せない。しかし、もしかしてそれが知らない間に訓練になっていたんだろうか? そう思っていると体内からとんでもないツッコミが来た。
『そうか…何かおかしいと思ったが、お前は生まれながらに交信術が使えたのか。しかもその様子だと物に宿る精霊達の声すら聞こえたようだな。ソロモン2世以上の潜在能力を持っていたから、お父上は放置するにはあまりにも危険と判断して暗示をかけてそのセンスを封印したのだろう。当時の事を全く覚えていないのが何よりの証拠だ』
封印? いきなりお芝居か何かのような単語が飛び出して俺は面食らった。今は割と切り離されてる感じが強いけど、昔の錬金術師はカルトと密接に関係していた。だからある程度そういったものには慣れているが…遠巻きに見ていたものが実は自分に施されているといわれれば誰だって戸惑うだろう。
だが体内のカビはあっさりと『お前は忘れていても脳内ではしっかり記憶は残されているぞ。お前は一人遊びをしていたわけではない。おもちゃに宿る精霊達と遊んでいたのだ。運よく気のいい精霊達に守られていたから無事だったようだが、潜在能力を持った幼子に目をつけて取り付く悪霊もいるからお父上はそれを心配したのだろう』と言った。
何だよそれ…こいつら本気で人の頭の中を覗けるのか。薄気味悪いを通り越してある意味感動しちまったよ。でも頭を覗いたら精霊と遊んでたとか常識を疑うファンシーな記憶って…コイツもさぞ驚いただろうよ。
だって普通逆じゃないか。俺が昔妖精さんを見たといって憚らなかったとして、頭の中を覗いてみたらただの思い込みでそんな事無かったってのが普通じゃないか。どうなっちまったんだ、俺の脳みそ。それともカビが気でも触れたのか。
『君はずっと声なき声を耳にしていた。だがそんな声は聞こえるはずがないという暗示をかけられたから、自然と聞こえないふりをしてきたのだ。私の声が聞こえたのは深夜だった事が関係しているはずだ。
元々君はお父上が交信術を使えた頃の事をごまかす際の表現の通り想像力豊かで、やや臆病な性格だ。深夜聞こえた声を心霊現象か何かかと勘違いしたから、暗示を無視して聞こえたと判断できたのかもしれんな。その後私の声がはっきり聞こえたのも極限状態で神の啓示か何かかもしれないと暗示を無視したからだ。
私と対面した後蚊の声が聞こえるようになったのは、私と会話して交信術の存在を知ったために暗示が解けてしまったからだろう』
暗示…暗示って一言に言われても、そんなのかけられた覚えなんか無いぞ。そんな事いきなり言われて納得されても困るんだが。いや、困るって言うか置いてけぼり食ってる感がぬぐえないというか。しかもソロモン2世って誰。いや、ご先祖様であろうことは何となく察する事が出来るんだが。
すると体内のカビは説明し始めた。俺よりアブラメリンの一族の事をよく知ってる様だが、一体どこで知ったのだろう? それともこいつ等の間では俺達の一家は有名なんだろうか。
『ソロモン2世はお前の曾々爺さんにあたる存在だ。近代に復活した交信術師であり最近のアブラメリンの一族の中では最も錬金術師らしい活動をしていた事で有名だ。それまでは錬金術師というよりはもはや錬金術を嗜む医者と言った趣があったからな。
医者のほうがはるかに安定した収入があるし、交信術は厳しい修行を積む必要があったから苦労の割に割が合わないという悪循環に陥っていた。流行り病を予知したり誤った診断をしてしまう確率が0に近くなるといった医者にとってありがたい効力があるから修行して交信術を会得するといった感じに目的がシフトチェンジしていたから、当時のアブラメリン一族は錬金術師というより不思議で頼りになる医者という認識が強かった』
曾々って事は、俺より4代前のご先祖様か…意外と最近なんだな。大体百年くらい前ってことだよな。という事はソロモンという名前を持つ者が短期間のうちに現れたのか。何故だろう? その何故という疑問はカビの説明によってすぐに解明された。
『アブラメリンの一族は奔放で恋愛を好む情熱的な一族だからか恋愛婚がほとんどだった。そのためか当時かなり血が薄れて特有の赤毛の子が生まれず交信術も使えなかったり、使えても修行をつんで初めて使える程度のグレードまで落ちた。
ごく普通の庶民であるビルキス家の娘と熱烈な恋に落ち、その娘を家に迎えた当時の当主ルツ・アブラメリンはもはや名乗らなければ分からない程アブラメリン一族の特徴を持ち合わせず、黒髪の見目麗しい美男だったそうだ。
そんな彼と女の間に生まれたのは、赤毛の女の子だった。どちらにも似ても似つかないのが生まれて不義の子とさえささやかれたそうだが、赤毛の娘…アンナは鋭い感性の持ち主で、どうも交信術らしいものを生まれながらに持っていたようだった。
その次に生まれたのは親に似た黒髪の女の子だった。レイチェルと名づけられたその子は姉のアンナと違ってごく普通の女の子だった。錬金術師としての才能は何も持っていなかったが、親に似てとても美しかったという。
3番目に生まれたのは待望の男の子だったが、彼も赤毛で、親に似ず随分大柄で逞しげな男の子だった。
恐らく彼もアンナと同じく交信術を備えた子供だろうとルツは考え、先祖返りした風雲児という意味合いで始祖の名前を拝借した。そしてルツの思惑通り男の子は生まれながらに交信術を備えた神秘的な錬金術師になった。それがソロモン2世だ。
血が薄まり強いセンスを持たない黒髪のアブラメリンが大半を占めた近代で、赤毛の子は決まって始祖と同じ強力なセンスを持っている事から、赤毛の男が生まれると始祖の名前をつける風習が出来た』
なるほど。つまり親父は2世に続いて久しぶりの赤毛だったからソロモンという名前なのか。
思えばうちの爺さんは白髪交じりだったが確かに黒髪だった。赤毛そのものは漫画のように真っ赤ってわけでもないし、赤毛そのものは別に珍しいわけじゃないから別に変だとは思ってなかったが、アブラメリン家の赤毛は特別な意味を持っていたようだ。
普通なら赤毛は粗野で乱暴者ってテンプレートがあるから嫌がるが、アブラメリン家は普通とは違って赤毛がサラブレッドらしい。思えば始祖はテンプレに見事に当てはまってるよな。それがベストならその子孫もそれがいいと思うだろう。俺は嫌だが。
しかし稀に生まれる赤毛の錬金術師がまさか連続して赤毛の男子を生むとは思わなかっただろうな。しかもただでさえ赤毛ってだけでも珍しいのに、始祖そっくりの骨太の体躯に鉤鼻という胡散臭さを前面に押し出した特徴を持った双子の男子だ。ここまで条件が揃ってると親が考えずとも自然とソロモンとザドックという名前にされてた事だろう。因果な名前だとしみじみ思っていると、カビは驚愕のシメを持ってきた。
『先祖と同じ交信術を使う子供が生まれる事を不思議に思ったルツがビルキス家をよくよく調べたところ、何とビルキス家の遠い祖先にザドックがいるらしい事が発覚した。
ザドックは一人娘を残して早くに死んだが、その一人娘がビルキス家に嫁ぎアブラメリンの遺伝子を受け継がせていたようだな。何百年もたってからアブラメリンの血が再び濃くなり、アブラメリンの一族から失われつつあった特異な力を持つ子供が生まれたのだろう』
何世紀もたった後に兄弟の血が偶然出合ったから、赤毛の子供が再び生まれるようになったらしい。ザドックの血が何世紀の間を経て力を失ったアブラメリンを再び神聖な錬金術師一族として復活させたってのか…
『特に君は親戚一同が慄く程の強いセンスを持っていたようだ。交信術はあまりに強すぎると必ず不幸に見舞われるというから、お父上は一切のセンスを封殺して元々なかったことにしたのだろう。
強すぎるセンスを持つ交信術使いは精神修行を繰り返さなければいつかは狐憑きになってしまう確率が高い。出家し僧として完全に俗世を捨てて精神修行を続けるか、センスを封印して一般人になるかしなければやがては病院送りになってしまう末路が待っている。
何より君に似た卓越したセンスを持っていたとされるアブラメリンの錬金術師は最悪な形で生涯を終えているから、同じ道を歩ませたくなかったのだろう。
いくら子供の将来の為とはいえ息子を修道院に放り込むのは忍びなかったお父上は一般人として育てる事にした。暗示の影響で君は錬金術師を軽蔑の目で見るようになり、錬金術師になりたがらなくなった。暗示をかける際同時に錬金術師に憧れを抱かせない為にわざと悪い面を教え込ませて錬金術そのものを嫌がるように仕込んだのだ。そうする事で封印したセンスを復活させないようにしたのだろうな』
しかし俺と同じようなアブラメリンって誰だろう? 少し興味を抱いたのを知ってか、カビは簡単に説明を加えた。だが、今までと違って若干含みを持たせたものだった。何だか話をしたくないような感じだが、やはりネガティブな存在だからだろうか?
『ダビッド・アブラメリンという始祖の曾孫にあたる人物だ。彼は金と野心の為に悪魔に魂を売り渡したとされる悪名高い錬金術師だが、よく調べていくと生真面目で誰よりも家の事を想う保守的な錬金術師で、生真面目ゆえに道を誤っただけだ。その道を誤らせた元凶が、交信術だったらしい…』
悪魔に魂を売る話なんざ昔の錬金術師じゃごくありふれた伝承だ。一般人からしたら自然の摂理を解明して操作しようとする奇怪な連中でしかないから、魔術と結びついてそういうオカルト的発想が出てくるのだろう。
ダビッドってご先祖様も、偏見があたかも本当の話だったかのように伝説化してしまったらしい。一体何をしでかして悪名高くなってしまったのか知らんが、最悪な形で生涯を終えているという前触れからろくな人生を歩まなかったということだけは分かる。
体内のカビは『お父上は自分のせいで錬金術師の兄と不仲になったと思っているかもしれない。だから表立って怒るに怒れなかったのかもな』と話を締めくくった。
俺に暗示を施して錬金術師から遠ざけようとしたから今の俺がいるってのか? 俺は自分の意志で錬金術師以外のものになろうと考えたはずだ。だから親父は関係ない。それに親父は兄弟喧嘩すると人並みに怒ったぞ。そりゃあ一気にその場で、ではなくて別々の場でって随分遠回りなやり方だとは思ったが…
親父の手の内で踊っていると暗に言われたようで、俺は少々むかついた。俺はそこまで親父達に依存しちゃいない。俺は銀行員になりたいと思っていたから錬金術師には興味が無かっただけだ。何より喧嘩の元が錬金術師という奇妙な存在そのものであると言われた事に納得いかなかった。そのもやもやした気持ちだけで体内のカビには十分俺の意志は伝わっただろうが、どうしても自分の言葉で表現したくて携帯をいじった。そしてじきに【俺はアイツが錬金術師だから嫌いというわけじゃない】という文章が携帯の画面に写された。メール画面だが、別に誰に送るわけでもない、ただ言葉にしたかったからメールの書き込み画面を使っただけだ。
体内のカビがそれを見たのかどうか分からない。だが、何も言わなかった。あれだけ饒舌だったカビが黙るというのはどういうことだろうか。単にもう喋ることがないのか、俺の意志を重く受け止めているのか。
今まで話していた奴が口をつぐんだのを見計らってか、アモスが『ダビッドと同じくらいのセンスを持ってるのに会話方法が分からないのは今まで封印されていたからなのか。なかなか面白い経歴もちだなーお前って』と話しかけくる。俺が携帯を触っていたからか、セールスレディもいつの間にか携帯を触っていた。お互いそっぽを向いて携帯しているのに裏では体内に宿った別の意志がそれぞれ会話してるというのは何とも妙な話だ。
セールスレディの体内のカビは興味深そうにほうほうと唸っていたが、ふと思い立ったようにこんな事を言い出した。どうやらフェ・ラジカってのは教えたがりらしい。
『うし、折角だし簡単な会話方法だけ教えてやろう。イエスの場合は目をこするなり目じりを押さえたりするんだ。目を触る際ちょっと首をうつむかせるだろう、それを少し意識してやれ。頭が動けば目がかゆかっただけとは勘違いされない。
ノーの場合は顔を少し背けて鼻を掻くんだ。しぐさは他にも色々あるけど、要は本当に目がかゆかっただけとか本当に鼻がかゆかっただけって勘違いされないようにするには首の動きに注意するんだ。
あと、その逆でただのちょっとしたしぐさをボディランゲージと取られないように普段の身の振る舞いに気をつけるんだな』
さっき言ってた錬金術師の会話ってやつだろうか? しかし随分曖昧なボディランゲージだ。これじゃ誤解されても仕方ない気がするが…会話して空気に慣れるしかないから、修行がいるのだろうな。するとセールスレディのカビは『じゃあちょっと練習してみようか』といきなりレクチャーを始めた。
『ここに来る前にアブラメリンの事務所に連絡を取ったかい?』
はいかいいえで答えられる質問だ。これならさっきのボディランゲージで十分意思を伝えられる。確かイエスの場合は目じりを押さえる、だったっけか?
確かに連絡したから俺は携帯から目を離さずにちょっと目尻を指で軽くこすった。これならセールスレディからは液晶を見続けてちょっと目がかゆくなった程度にしかうつらないだろう。
俺のランゲージを見たのかアモスは『用意がいいね。協会に連絡したのなら安心だ』と呟いた。奴等はどうも人の記憶を読み取る事ができるらしいので、宿主が見ているものも分かるのだろう。
つまりセールスレディは今の行動を見たって事か。奴等は俺たちの頭の中を覗けるようだから、どうも寄生中は宿主の感覚を覗き見て情報を得ているようだし。お互いそっぽを向いてるけど、あっちはかなり俺に対して警戒しているようだ。そうじゃなきゃこんなしぐさを見ないだろう。
ともかく初めてのボディランゲージでの意思疎通は無事成功した。錬金術師は落ち着きが無い奴が多いが、中には交信術を体得していて何かと通信していただけだったのかもしれない。手話に近いものだから、会話している間はせかせかと何気ない行動をしているからな。
アモスは何故アブラメリンの事務所について知りたがったんだろう? やはり駆逐する錬金術師を呼ばれたら都合が悪いからだろうか。だが、奴は思いがけないことを言い出した。
『俺は以前からこの人の血肉を分けてもらってるんだが、さっきから意図しない事をしてることが気がかりなんだ。俺はせめて仕事中は咳をしないようになりを潜めてるんだがな、ご覧の通りなんだよ。しかもさっきから妙に息苦しい。一体何があったんだろうな…アブラメリンの錬金術師ならその原因を探れるはずだ』
何、もしかして呼んでほしかったって事か? 駆除されるってのに随分のんきな奴だ。それとも危害を与えてないから駆除するなってアピールだろうか? 何が言いたいのかよく分からないが、それは俺の体内のカビも同じだった様で、質問を投げかけた。
『お前は随分人に優しいな。だが人に優しいだけでは命を制御できないはずだ。お前は?』
確かにこんな人想いなのが危険な株とは思えない。こいつは一体何者だ? 問い詰めるランゲージが無いから俺からは何も言えないのが何とももどかしい。だがアモスは俺の気持ちを逆なでするように至ってのんきに『何かえらく協調性の高い株だと思ってたが、もしかしてお前が捕獲された野生種か? てっきりもう死んだものと思ってたけど、ザドック君と一緒にいるとはね』と感心した。こいつ…一体どこからどこまで知ってるんだ?
俺の体内のカビはアモスに対しに警戒心を強めた。
『何も改造を受けずに人と共存できる…そんなフェ・ラジカが実在するものか。しかも私の事を知っているようだな。お前は何者だ?』と問い詰めると、アモスは随分あっさりと身の上を語った。
『俺は人里に降りてきた奴等から人を庇うためにやってきたフェ・ラジカだ。俺はお前等と違って穏やかな洞窟内で暮らしていたから、進化から取り残された古代種のようなものさ。本来フェ・ラジカは俺のように毒性は比較的低かった。俺からしたらお前等のほうが異常だよ』
古代種…こいつの言う事が正しいならつまり昔のフェ・ラジカは今ほど毒性が強くなかったのか。洞窟内でって、カビはそういうものじゃないのだろうか? と思っていると、体内から説明が入った。
『フェ・ラジカは乾燥や太陽光に強い。人一倍通気性の良し悪しに敏感なカビだから、本来は岩や地面の中に根を張っている。我々は言うなれば意志を持つ赤血球のようなもの。少ない酸素を取り込むために鉄を食うのだ。
何でも大昔の我々は洞窟内のしがないカビの一つに過ぎなかったらしいが、洞窟内は生存競争が激しすぎた。繁殖力が強いわけではない我々は野外に移り住まざるを得なかったそうだ。
野外に適応するまでに随分たくさんの犠牲を出したが、変わりに特異な進化を遂げたようだ。だから我々は頭数が少ないカビだが太陽光に晒されてもなんとも無いし、乾燥しているところでも繁殖できるようになったし、少しだけなら自力で動く事も出来る』
通気性に敏感なら体内にもぐりこんでもいいのだろうかと思ったが、よく考えたらだからこそ寄生するのか。だって体内には酸素と鉄があるじゃないか。赤血球のようなものなら土より赤血球そのものを食う方が確かに効率がよさそうだ。しかし見た目は赤血球と言うより白血球と言ったほうがよさそうなのに…そういえば外に出た写真を見ると鮮血のように赤いから、日に当たると赤くなるのかもしれない。
それにしてもフェ・ラジカは昔はごく普通のカビだったのか。古代種っていうアモスはどうにも普通のカビには思えないが、普通だったのはもっと前の話だろうか? それとも野外に出なかったらしい古代種は古代種なりに独自の進化を遂げたんだろうか。古代種も毒を持っているようだから、進化した野種は猛毒化したって変じゃない。
だからなのか、アモスは現代のフェ・ラジカであるにもかかわらず比較的安全に人と共存している俺の体内にいるカビが不思議らしい。『お前はお前でなんか違うな。お前こそ改造か何かされたのか? 調教はされてるようだけどな、ははは』と逆に質問を返してきた。フェ・ラジカ的にはこっちの方が変なのだろうな。
確かに変な個体だし、変なのにも理由があるから体内のカビは簡単に説明しながらアモスに色々探りを入れた。どうしてもアモスが信用できないらしい。このセールスレディの中から凶悪な改造株の気配を感じるからだろう。
『私は改造された弱体株だ。生命力が久しく落ちているようだが、そのおかげでこうして人の体にいても短時間なら共存できる。お前が無害な古代種というのはいささか信じられない。お前から私と同じ危険なにおいを感じるのだ。いや、私達以上の危険な臭いをな…』
その問いに対しアモスは意外な答えを用意した。
『俺だって毒はもっているから無害って程じゃない。量を多くすればお前等の毒と同じで人を殺すさ…だがそのにおいってのが気になるな。俺はお前等みたいにだだっ広い外で孤独に土を食ってたわけじゃないから、他の株を察知する力が無いんだよ』
セールスレディの中に複数のフェ・ラジカが? 俺の体内のカビは『馬鹿な』と呟いたが、それもそうだろう。寄生されている間はフェ・ラジカの出す毒によって他の株はその宿主の体に根付くことが出来ないのだ。
だから寄生されている俺は抗体を持っているようなもので、安全だという話だった。セールスレディの中にアモスと別のカビがいるという事は、俺も危ないってことじゃないか。だがアモスはそれ以外に考えられないらしく、一人合点して話を進めた。
『何かおかしいなーおかしいなーと思ってたとこだ。で、お前の話聞いてたらそれが確信に変わった気がするぜ。この人、俺以外の別の株を拾ってる』
『体内の毒で他の株が根付けないはずだ。一人で複数の株を有するなど…』
俺のフェ・ラジカは混乱しているようで、声をやや荒めてそう言った。俺としてもそうじゃないと困る。だって、それじゃ俺は無意味なことをしているんじゃないか。ただ血肉を提供するだけで、損してるだけじゃないか。
アモスはアモスでそう考えるに至った論を語り始めた。ちゃんと理由が言えるあたり、ただの思いつきでそう言い出したわけではなさそうだ。
『俺は毒が薄い古代種だぞ。それに輪をかけて毒を薄くしていた。多少の貧血は大目に見てもらうとして、けだるいままだと仕事にならないじゃないか。この人はこの仕事に入ったばかりで緊張していたんだ、それなのに苦しめて能率下げたらかわいそうだろ。折角仕事楽しそうなのにさ…俺もなんか妙な化粧品見るの面白いから気に入ってたのに。だが、そこにお前の言う危険な株が侵入してきたのかもしれん』
アモスは人を庇う為にやってきたと言っていた。何故人を庇おうとしたのかは知らないが、単純に考えてこの人を助ける目的でなら、毒素で苦しめて生活できなくさせるのは不本意なのだろう。だから出来るだけ健康体でいられるようにセーブしていたらしい。丁度俺達のように。フェ・ラジカが寄生している宿主には別のフェ・ラジカが寄生できないってのの根本が毒をもって毒を制する感じなら、その毒が薄まっていれば確かに別の株も入り込めそうだ。
俺の体内のカビは『まさか楽しそうだったのは女ではなくお前だったのか? どちらにせよお前は女と同調していたようだな。ではあの妙に苛立っていた感情の主は…』と呟いた。苛立っているのがどうやら俺達の探していた危険な株のようだ。『油断したなあ。これじゃ親父に怒られちまうよ』とアモスはぶつぶつと一人で呟いているが、親父とは誰だろう?
それよりもいまいち危機感が無いアモスに痺れを切らしたのか、体内のカビは『それどころじゃないだろう。お前と同居している株は私が正しければ鳥が運んできた凶悪な改造種だぞ。まだ根付いて時が経過していないからのんきなことを言っていられるのだ。奴がしっかり女の体に根付けばお前は奴の猛毒で女もろとも殺されてしまうぞ。今ならまだ間に合うはずだ、お前の毒で改造株を殺せ。やられる前にやらねばその女もお前も命が無いぞ』と指摘した。ついでだから俺も言わせていただくが、あまり毒をセーブされると俺が危ないのでもっと遠慮なくやってくれてもいいんですよ…体内のお方。
そう思いながら携帯をぽちぽち触っていると、不意に現実のこの空間に異変が起きた。今まで携帯をいじっていたセールスレディがけだるそうに携帯をしまいこむと、はあと深いため息をつくとうなだれたのだ。
彼女の異変に気づいた俺は「どうしたんだ?」と声をかけたが、セールスレディの垂れる前髪から見える顔色は酷く悪く、息をするので手一杯のようだ。まるで貧血の人が立ちくらみでも起こしたような…いや、それよりももっと劇的だった。
何が起こったのかと彼女に近づこうとすると、俺の体内のカビが『ザドック、離れろ!』と注意した。彼女は様子からして放置しておけないが、カビは何か察したらしい。不安そうにこう言った。
『何か様子が変だ…殺意が倍増した?』
殺気…人に危害を加えようとする意志か。追い詰められたアモスが化けの皮をはがしたか、追い詰められた第三者の殺人カビがやけくそで行動を起こしたのか。アモス曰く後者のようだ。
『どうやら潜伏してた事を悟られて慌ててるようだぜ。本格的に吸血を始めやがった』と笑いながらアモスは言ったが、それでもどこか苦しそうだ。
体内から吸血するなんて…俺は一体どうすりゃいいんだ。どうすれば止めることができるんだ? このままじゃこのセールスレディは衰弱して死んでしまう。ここで黙ってみてるしかないのか? 正体を明かしたら外に出てきてくれよ。それがお約束だろう。手出しできないところで人殺しするなんて卑怯だ。俺がまごつきながら遠巻きにしているのを察してか、アモスは俺にこう言った。
『錬金術師ごっこはここまでだな。これ以上は真似事ではどうすることも出来ないぜ。本来なら一般人がこういう事件に首を突っ込むとこういう目にあうという手痛い勉強代ってことでこの人が弱って死んでいくのを黙って見てるべきなのかもしれんが…出合ったのも何かの縁だ、俺の言う事聞いてくれたら俺の知ってることを教えてやるよ』
どうやらアモスは助けてくれるらしい。しかし一体どうやって…
『やり口から見ても確かに野生種以上の凶悪な株っぽいが、まだしっかり根付ききれてない雑菌モドキだ。今なら人間本来の免疫で追い出せそうだ…俺が手を貸してやればな。そうすると俺は暫くこの女と同化しなきゃならん。毒でこいつの成長を押さえつけておけん』
今漸くまともに吸血を始めたような株はまだ人の免疫だけで大丈夫らしい。しかし同化? 同化って何だろう。尋ねるまでも無くアモスはいそいそと説明し始めた。こいつも養分を横取りされているんだ、かなり厳しい状態に追い込まれているんだろう。声からは何となく緊迫したものを感じる。
『俺達は細胞の物まねが出来る。養分をたくさんとって成長していればいるほど精巧かつ大きなものにもなれる。こいつ吸血もそうだが毒が強い…女が暴れだすかもしれないから、一時的にエントランスから避難しろ。免疫によって殺されかけてる株が何をしでかすか分からないからな』
育っていればそんな事までできるって? そりゃあすごい。同時に何故人の免疫から攻撃を受けずにのうのうと体内に居座っていられるか何となく察した。取り付いた後は細胞の物まねをして免疫からの攻撃を避けているのかもしれないな。根付ききれていないってのは、要は栄養が足りずに人の物まねがうまく出来てない状態なのかもしれない。
逃げていろといわれたが、どうしたものか…本当にこいつに任せてもいいんだろうか。どんどん様態が悪化していくセールスレディを見ながら俺は戸惑ったが、体内から『今はこいつに従おう』と促される。
その声に従うように俺は後ずさるようにして階段のほうに移動し、階段に通じる廊下に到達するとドアをぴしゃりと閉めた。キャリアと接触したのに不用意に外に出るのはよくないかもしれないと思ったからだ。
ドアは丁度強化ガラスがふんだんに使われた割合モダンでお洒落なものだ。身の安全を保ったままエントランスが見えるので、様子を伺うには丁度よかった。
それにしても毒が強すぎると死ぬし毒が弱すぎても別のカビが侵入してくるし、共存して利益を得るのはなかなか難しいようだ。体内の殺人カビは俺の負担を軽くする為に極力セーブしているという話だが、大丈夫なんだろうか?
俺はドアに半身を預けながらため息をついた。同時に「毒は弱めると危ないらしいから強めて」と頼んでみた。すると体内から『これ以上は強められない』と返って来た。弱めたんだからせめて元に戻せるだろうに…と不思議に思っていると、カビはとんでもないネタ晴らしを始めた。
『今だから言うが、取り付いてから一度もセーブなんてした覚えは無い。すれば危険なのは目に見えているからな。しかも私は何日もあんな調子で放置されてて死ぬかと思った程腹が減っていたのだから生物的に我慢は不可能だ。お前は思い込みの激しいタイプだ。だから心情的なものだったと思い込ませて負担を減らそうと思ったんだが…こうも元気になるとは思わなかった』
何だよそれ! 俺がバカみたいじゃないか。…でも本当の事が発覚してもあの病的な気持ち悪さが戻ってきたわけではなかったので、本当に気分的なものも絡んでいたに違いない。ただ何かさっきから動くのがしんどいと思っていたのはフェ・ラジカのせいだったらしく、真相が分かった事で疲労が余計に悪化したような感じだ。それでも被害は今のところそれだけだし、よかった。
とはいえ長い事吸血されていれば俺も無事ではすまないだろう。早いところ終わらせて、連絡を受けて来た錬金術師達に彼女を引き渡してこの一帯を消毒してもらって、こいつを体外から取り出して、そして帰ろう…
この年でこんな深いため息をついていたら老け死にそうというくらいのため息をつきつつそう考えていたら、突然ガタンと大きな音が廊下に響いた。我に返った俺がガラス越しにエントランスを見ると、セールスレディがよろよろと出口に向かって歩み寄っている。床に商売道具の鞄が転がっている。さっきの音はあれが倒れた音らしい。あのかばんに気をかけられるような余裕は彼女には無いようだ。
出入り口には鍵がかかっているが、中からなら簡単に開けることが出来る。今彼女に外に出られたらまずい。俺は慌ててドアを開けようとするが、体内のカビはそれを制した。
『お前がやれる事は全てやりつくした。これ以上の介入は逆効果だ。お前は錬金術師ではないのだから、助けが来るまで隠れていろ』
そうこうしているうちにセールスレディはひいひいと喘ぎながら出入り口のドアを叩きだした。叩くというよりもはや体を打ち付けている感じだ。鍵ならすぐに開けることが出来るはずなのにそれをしないという事は、彼女は鍵に気がつけないほど取り乱しているようだ。表情を伺う事は出来ないが、一心不乱に上半身をたたきつける姿は尋常ではない。
彼女は死にそうな喘ぎと共に「助けて」と悲鳴を上げていた。セールスレディの体内では本性を剥き出しにした殺人カビとカビを排除しようとする力がせめぎあっているのだから、その辛さは俺の比じゃないだろう。
その必死さは次第に増して行き、しまいには頭を乱暴に打ち付けさえするようになった。もう正気の沙汰ではない。俺は自分の背筋が凍るのを感じながらも凝視していた。せめて目をそらしてやるのが優しさなのだろうが…
出入り口の扉もガラスが使われた綺麗なものだったが、強化ガラスだからか割れる気配は無い。しかし、一面がガラスという訳ではなく、アルミか鉄かは存じないが白を基調にしたドアにガラスをうまくはめ込んでいる感じだ。手すりが黒くメリハリが利いてて結構かっこいい。見た目はともかく防犯がウリの女性用アパートなのだからかなり頑丈だろうが、その頑丈さが仇となってしまった。
暫くは台風の日だってこんな激しくは叩かれないだろう扉が廊下を揺らすほどの音を立てていたが、その酷い轟音に混じってぐちゃっというかすかな、そして嫌な音が聞こえた。打ち所が悪かったのだろうかと注意深く観察していると、白い扉と廊下に赤いものが滴りだした。あまりに酷くたたきつけた為に出血してしまったようだ。
このままではどうあっても無事じゃすまない。せめてあの発作的な破壊行動をやめさせないと、カビが体外に出る前に打ち所が悪くて死んでしまいそうだ。それだけなら一般人でもできる事だろうか?
体内のカビはそんな危ない事はやめる様言ってきたが、このまま放置してこときれた後に錬金術師達に渡すわけにはいかない。何より彼女が予想以上に衰弱してしまったら凶暴な株はどう動くか分からない。俺の体内に入ってるコイツは傷をつけてその傷口から体内に入り込むという荒業をやってのけたが、『少しだけなら動ける』様に進化したのであればその逆だって出来るはずだ。死にかけた女の体にいつまでも収まってくれるだろうか? 養分は何も肉体がではない。鉄と酸素が欲しいのだ。鉄はともかく酸素が供給されづらくなったら外に出てくるかもしれない。
俺は俺と住人達を守る最初の扉を静かにあけてエントランスに戻った。同じように静かに閉め、血だらけになったセールスレディにそろりと近づく。覚悟を決めて彼女を背後から羽交い絞め…とまではいかないが、とりあえず出来るだけ動かないように腕をつかみ押さえながらドアから引き剥がした。
しかしいっそのこと羽交い絞めにしたほうがよかったかもしれない。不安定な姿勢で後ろに引っ張られたからか、バランスを失った彼女はしりもちをついた。そこで初めて彼女の顔を見たが、俺はぎょっとして顔を凝視してしまった。
彼女は額が割れ血まみれだったが、どす黒い赤は顔の色をより奇妙に際立たせた。この女性は青白い顔しているわけではない。なんていうのだろう…土色、でもない。何か青あざが治りかけてきた頃の気持ち悪い黄色といえば分かるだろうか、そんな顔色だ。
よく見ると白っぽいところと黄色っぽいところと混ざってて気持ち悪さに拍車をかけている。何より何となくむくんでいるような不気味な丸さだった。こんな顔つきじゃなかったはずなのに、目を離した途端にこうなるなんて…
体全体が硬直しているようで、しりもちをついても痛がらない。まるで棒の様に倒れてしまった。腕をはなしたら頭を打っていたに違いない。
酷くこわばった体はとても重くて支えることもままならず、俺は頭を支えながら寝かせることしか出来なかった。喉の奥からうめくような声が聞こえる事だけが彼女に辛うじて意識があることを教えてくれる。しかし何故口をつぐんでいるのだろうか。何か話したいようだが、口が開かなくて我を失っているようにも見えないことは無いが…
息をするのも大変そうな状態で、俺は「大丈夫ですか」と声をかけることしか出来なかった。
泡を吹いた後が口元にくっきり残っている。見苦しいのでぬぐってやるのがいいのかもしれないが、俺はこういう生々しいものに慣れてるわけじゃない。ともすれば俺まで吐きそうだ。だからどうしても触るのがためらわれた。
今の彼女は一文字に口をつぐんで一言も喋ることはない。穏やかにしているわけではなく、唇の裏では歯が欠けかねないほどの力がかかっているのが何となく見て取れる。腫れぼったくなっている目も同じくきつく閉じられていて表情を推し量ることは出来ない。まるで痙攣を起こした人のようだ…このままで大丈夫なのだろうか。
体内からは何の声も聞こえない。アモスは無事だろうか。俺の体内のカビは『殺意だけは倍増している…アモスは同化して気配が読めない。唯一凶暴な株に立ち向かえるアモスが生きているのか分からない以上危険だ。この女性が心配なのは分かるが、早く離れたほうがいい』と促した。
確かにそうなのかもしれないが…俺も全く同意見なのだが、何故だか腰が引けて立ち去ることが出来なかった。腰が抜けたわけではないのだが、離れたら離れたでまた何か起こりそうで恐ろしくて行動に移せない。視線だけ移して血だらけのドアの向こう側を見たが、誰もいない。ただ道路と駐車場に止まった車数台、そして向こう側の壁が見えるだけだ。まだ誰も来ない。
ため息混じりにああ、という声が意識せずに出た。そこまで落胆しているなら何故さっさと逃げないんだろう、俺は。逃げる勇気もないのか。
漫画とかでよく見る化け物を目の前にしてただ黙って殺される奴を見てると何で抵抗しないんだろうとイライラしたもんだが、いざ同じような状況になると全く同じ様に何も出来ない事に驚いた。同時に無力さを痛感した。漫画の中の人は化け物を目の前にしてたが、俺はただの病人を前にしてるだけでこうだ。俺は今まで馬鹿にしてた奴より腰抜けなんだな。
セールスレディの唸る声がフロントにかすかに響く中、俺はただ彼女を呆然と見るしかなかった。錬金術師なら呆然とせずに何かできるのだろうか。
何も出来ずドアと女の顔を交互に見ることしか出来ない俺は、不意に女の顔に異変を見た。今まで歯を食いしばっていたように硬く口を閉じていたセールスレディが、口を動かした。
しかしその動かし方は妙だ…彼女は口を開きたがっているようだ。まるで口をボンドか何かで塞がれ、それをはがそうとしているように見える。もどかしそうに口を動かし、唸り声がより克明になっていく。
何か話したいのだろうか? それとも単に口をあけたいだけか? 思わずかがんで顔を近づけてしまったが、体内のカビはそれをよしとしなかった。
『殺意が近づいている! 離れろ!』
殺意が近づく? 妙な言い回しをされて俺は戸惑った。誰しも何か考える時視線を晒したりするモンだろう。俺もそんな感じでふと視線を上げた時、何かが千切れるような音が聞こえた。それは女から聞こえる。何だろう、と再び視線をセールスレディに戻すと、殺意が近づくの意味を悟った。
女は力の限り口をあけようとしていた。女の唇の内側には赤黒い糸の様なものがびっしりと映え、まるで口を縫われてしまったようだ。女はそれを引きちぎろうとしているのだ。
何故糸が? そう思っている間に、女はぶちぶちと嫌な音を立てて赤い糸を引きちぎっていく。それは一気に紐解かれ、口をふさがれくぐもっていた唸り声が絶叫に変わった。
開かれたと同時に口から何か黒っぽい粉のようなものがぶわっと舞った。顔を覗き込むように見下ろしていた俺はそれを顔にモロに浴びてしまった。物凄い生臭さだ。思わず後ずさり倒れこんでえずいてしまった。
魚のようなにおいどころじゃない。あれは…あれが血のにおいって奴なのか? 一体何なんだ? 口の中に苦々しい奇妙な無味が広がり、胃が全てを拒絶するかのように俺に吐き気を催させた。肺が恐怖のあまり中から胸を叩く。痛い。息をするのが苦しい。
叫び続ける女は思い出したように酷く取り乱しもだえ始めた。糸から解き放たれた口内は不気味に赤黒い。今まで溜まりに溜まったかのような血溜りだ。
暴れるうちに彼女は口からどす赤い血を垂れ流し始めた。血に混じって膿のような白い塊がごぼりと嫌な音を立てて白い床を汚していく。断続的にそれが続き、まるでそこだけ地獄か何かにでも繋がっているんじゃないかと思わせた。
彼女が獣のように叫ぶごとに血が口から噴き出すが、それに混じってどうも血ではない何かが彼女の頬に張り付いた。糸のようなものだが、口を塞いでいたものか? あの糸のようなものは一体…
『あれは糸じゃない、フェ・ラジカの菌糸だ!』
体内のフェ・ラジカは俺の気持ちに共鳴しているかのように嫌悪感一杯にそう叫んだが、それを聞いて俺はやっと少し落ち着きを取り戻した。
そうだ、写真で見た魚を食うコイツと同じであの血の中に凶暴な株がいるんだな。あの膿みたいなのが凶暴な株の本体だろう。恐らく外に出てくる為に口の皮膚を破って逃げ出してきたんだ。という事は、アモスが勝ったのか!
やった、と声を出そうとしても咳ばかりで何も言えない。倒れこんだまま咳き込み続ける俺に、聞き覚えのある声が罵倒した。暫く聞かなかった声だ。
『逃げてろって言っただろうが! お前、奴の最後っ屁の胞子を吸っちまったんだろう? 馬鹿な奴!』
どうやらアモスは無事らしい。しかし、あの血なまぐさい粉みたいなのは胞子なのか…俺じゃなかったらきっと危なかっただろう。俺は別のフェ・ラジカに守られているから大丈夫だ。それを伝えようと口を開いたが、口内がまるで針でつつきまわされたかのように痛む。おまれに酷くしわがれた声しか出ない。これは本当に俺の声なのか?
「体内に先客がいるから大丈夫だ…だよな?」
喉の奥が縫い付けられたように痛く、そして声が出せない。それでも何とか声をひねり出すと、今までに無い激痛が走った。あまりの痛さにえずくように咳き込むと、何かが喉の奥から出てきた。鉄みたいな味のそれに耐えかねて吐き出すと、俺は喉の粘液で粘つく血を吐いていた。
痛い。痛いが、咳が止まってくれない…恐怖と激痛を癒してくれた暖かいものが頬を伝った涙だけという哀れな現状に追い討ちをかけるように、アモスは怒鳴る。
『先客がいれば根付かないというだけで胞子も立派な毒だ! 胞子数粒は人の命を脅かすほどの毒にはならんが、大量に吸っちまったら猛毒だぞ!』
…そうみたいだ。まあ、吸っちまった後だし、どうしようか…。咳は暫くすると収まり、痛みは不思議とかゆみのような痺れに変わったが、この独特の感覚に覚えがある。漸くかさぶたになってくれた手の傷をちらりと見ると、俺は立ち上がって女から離れた。
俺は顔に付いた血と涙をぬぐいながら随分のんきに今後を考えた。ぬぐってから白いジャケットを着ていたことを思い出し、クリーニング代の事を考えるだけの余裕とお茶目さは戻ってきた。でも、頭から胞子を被ったから外には出ることが出来ないし、住民達に助けを求めることも出来ない。
それでも女性はもう大丈夫だ。危険な株を吐ききったのか、ぜいぜいと喘いでいるが大分安定しているようだ。本当はまだ病気のままだが…あのフェ・ラジカはきっと毒は毒でも消毒だろう。きっと守ってくれるはずだ。
何か酷い事になっちまったが、アモスがぴんぴんしてるって事はこの件はもう心配ないんだろう。後は錬金術師達が着てくれるのを待つだけだ…後は適当に気絶してればブラックアウトして話が進むだろう。そんな冗談めいたことを考えながらエントランスの椅子に腰掛けようとした時、そう簡単にいかない事を予測されるものを見た。
女が吐いた血溜まりから這い出る無数の赤黄色い膿のようなもの…じゃない、あれは多分洗えばもちみたいに白くなるはずだ。大小さまざまなそれが、俺の吐いた血溜まりに向かって蠢いている。奴等は俺の血を吸おうとしているのか? 硬直したままそれを眺めていると、体内のカビが急かした。
『ザドック、検問所に逃げ込め! こいつはお前を食うつもりだ』
食う? 食うといっても人の体から追い出された今は無力なただのもち状の物体じゃないか。血にまみれて薄汚れたそれは動くもちというより動く膿のようで実に不気味だが、不気味と言うだけで後は大丈夫のはずだ。
それにもう胞子はいやと言うほど浴びて結構吸っちまったようだしな…今更怖いものなんて無いさ。
まるでヒルのように血反吐から這い出た蠢く膿は、俺の血反吐の中で一つの塊になっていく。バラバラだと小さく思えたが、一つになると案外大きそうだ…少なくとも俺の中にいるフェ・ラジカより大きい。両手でもてる大きさだろうか…こんなのがあの小柄な女性の体内に根付いていたのか。
いや、根付いていたわけじゃなかった。根付いてないのにこんな大きさなのか? これだけ大きかったらいくら何でもアモスも分かるんじゃ…ちょっと…おかしくないか?
ぼんやりした安心感に陰りが見える。まさか…まさか、セールスレディの血を吸って急速に成長したのか? だとしたら突然苦しみだしたのも何となく分からんでもない。死ななかっただけよかった。いや、死なないようにアモスが守っていなければ多分、多分…恐らく、この町始めてのフェ・ラジカのキャリアであるあの魚と同じことが、この女性の身にも…
内臓が砕け散り、内臓を支えていた肉片が飛び散り、頭や尾、辛うじて形を残す骨がなければ一体何なのかすら分からないあの死体。あれは体内のバランスが崩れてフェ・ラジカが急成長した為に内部から破裂したと仮設するなら…
生渇きだったのか、血反吐のあった部分をマーカーで示したかのように血が乾いた後が残っている。奴は血反吐を吸ってるのか…血じゃなくて血の中の鉄を食うんだろ? 何でこんな吸血鬼みたいな気味の悪い食い方するんだ。
いや、吸血鬼だってもっと品のある飲み方をする。少なくとも人が吐いたゲロみたいな血を啜ったりはしない。
血のマーカーの内部にある血がじわじわと無くなっていくごとに、蠢く膿は膨れていく。俺は足を引きずるようにして一歩一歩、検問所の扉へ歩む。血を飲むそいつ…血を飲んで次第に大きくなるそいつを監視しながら。
ドアノブに手が届いた時、蠢く膿はすっかり膨らみ随分大きくなっていた。どれくらいだろう…ざっと見積もって中型犬くらいだろうか。どうしてこんなに大きくなったのか俺にもわからない。
蠢く膿は小刻みに動き出し、触手らしいものを伸ばす。それは何だか翼のようだ…そういえば鳥に寄生してこの町にやってきたらしいから、こいつは鳥という生き物を知っているはずだ。十分な栄養を取ると物まねが出来るというから、鳥に変身して逃げるつもりなのだろうか。むしろそうであって欲しい。
ドアノブをひねると、検問所はあっさりと逃げ道を用意してくれた。それに少し安心したからか、後は扉を閉めるだけの体制を保ちながら変化する蠢く物体を凝視する。
羽と思しき宙に上げた触手は、羽ではなくツメのようなものに変化する。翼のような…だが、よく見ると巨大な人の手のようにも見えないことも無い。翼のように広げられた巨大な手の先には鳥達のツメが生えている。指の本数が違いすぎて数える気が起きない。色々間違っていますよってツッコミ入れたら修正してくれるだろうか。
指の翼をまるで蜘蛛の様に足にして立ち上がるそいつは、カサカサという音を立ててこちらに忍び寄る。人の顎から鼻にかけてを模したらしい胴体に、鼻の先辺りにハトらしいつぶらな目がついている。上唇を突き上げるように鳥の嘴が生えている。色は変色させる能力は無いらしく、気味が悪いくらい白い体に粘つく血を滴らせたままだ。
違う。それ、鳥じゃない。
それはつるつるの床に慣れないらしく、立ち上がって暫くはふらふらしていたが、いきなりこちらに走ってきた。何アレ? 何なの? 俺は身の危険を感じてドアを閉めた。ドアを止めたと同時に何か大きなものがぶつかったような物凄い音と衝撃がドアにかかった。慌てて鍵を閉める。それから暫くはその音と、何かを引っかくような不快な音が続いた。
俺は騒音を背に検問所の椅子に腰掛けると「何なんだよあの化け物…冗談だろ」と極めて普遍的かつ誰でも思うことを呟いた。誰だってあんなの見たらそう思うだろう。何なんだよ、本当に。
体内のカビは『どうせなら体外に出て来いって思ってたではないか…お望みどおりだぞ』と茶化したが、声が疲れていた。こいつにとってもあまり喜ばしいことじゃないようだ。仲間であって仲間じゃない奴だもんな…
『奴はお前の血を飲むことで一時的に完全体になれたようだな』
何だよ完全体って…と思ったが、そういえば養分をたくさん取ったフェ・ラジカは精巧な物まねが出来るって言ってたな。奴はデタラメな姿だが、確かに部位ごとはかなり精巧な変化だと思う。
でもあんなちょっとした血反吐だけで急に大きくなる事ないだろ。それに俺の血は一応毒入りだ。「俺の血だって一応奴にとって毒になるはずだぞ」と口を尖らすと、体内のカビは『私のささやかな抵抗の跡より、アブラメリンの血であることが最重要なのだ』としれっと答える。
またアブラメリンの血の話? 蚊もそうだったが、何でアブラメリンの一族の血を特別視するんだ? そりゃあ確かに国で5本の指に入る錬金術師の名家って言われてるけど、それでも取り立てて何かが違うって訳じゃない。ただの人間だぞ。
「蚊もそうだけど、何か買いかぶりすぎじゃないか? そりゃあ3世紀も続いてる家だけど、もっと長くて由緒正しい錬金術師の家は探せばあるぞ」
俺がそう言うと、体内のカビはこう答えた。
『アブラメリンの一族は最も神秘的な力を持つ錬金術師。錬金術師は火を支配し、同時に尊ぶ。火を使い実験を行う彼等は火を浄化…神聖さの象徴に見立てたのだ。
赤毛の血族がとても強い交信術を持つことで有名なアブラメリンの一族は交信術の神々しいイメージとその赤毛という特徴を火に見立てられ、最も神聖な血統とされている。光あるところに虫が飛び込むのは自然の摂理だ。
ただ、我々の間でもそういう言い伝えがあるというだけで本当に何か特別な力があるとは思っていない。蚊が君の血を欲しがるのは人がアミュレットを購入するのと同じようなものだ。本当に何か特別な力があるなら、その血を何度も吸っている私は今頃全長25メートルの巨大ロボに変身してアパートごと粉砕している』
妙な事を言い出したのはコイツなりのジョークだろう。しかし、この状況を打破してくれるならこの際何でも構わないから「してくれよ」と頼むと、『無理だ。というか友達まで粉砕してどうする』とつっこまれた。そういえばそうだな。ジュディスを叩き潰したら何をしに来たのかよく分からない。第一の目的である危険な株のキャリアの捕獲はできるけど。
コイツの話を整理すると、要はあの化け物は俺の血で偶然必要な鉄分を溜め込めたか、俺がアブラメリンの一族って知って気分的にハイになって無理やり無茶な事をしだしたかのどちらかって訳か。勘弁してくれよ…
冗談はともかく、と仕切りなおしたカビは『折角強引に溜め込んだ養分をあんな形で使いまくっては長くは持たん。幸いここのドアはかなり頑丈に出来ているようだから、ここに篭城しながら助けがくるか奴が力尽きるかするのを待とう』と切り出した。ここなら助けが来た時鍵を渡すことが出来るし、確かにかなり頑丈そうだから安全だろう。
だが、俺の安全は確保されたが一つ重大な問題が浮かんだ。俺は慌ててカビの提案を否定した。
「まってくれよ、だったらあの人危なくないか? もしまた腹が減ったらあの人の血を啜る為に襲うかもしれない」
『アモスがいる以上取り付けば再びアモスと女の免疫のコンボでリンチにされて追い出されるだけだ』
俺の提案はカビにあっけなく論破された。そりゃあ確かにアモスが追い出した結果が今なんだから、あの化け物も今更セールスレディの体内に戻ろうとは思わないだろう。だが俺はどうしても不安だった。
「でもそれって体内に侵入したら、だろう? 俺が吐いた血は別にどうと言うこともない様子だったし、もしかしてある程度成長した株は異なる株の毒を多少受けても平気なのか? だったらあのセールスレディを傷つけて出血させることでアモスも女も制御できない血が溢れることになる。あんな化け物に無抵抗な状態で攻撃されたら無事じゃすまない…どころの騒ぎじゃないぞ」
俺の言葉にカビは黙った。相変わらずドアは定期的に激しく揺れ、激しくも不穏な音を立てている。多分へこんできているのだろう。あまり安全ではないのかもしれないが、それでもあの化け物にとってこの扉をこじ開けるのは容易いことではなさそうだ。
しばしの沈黙の後、カビは重い口調で静かに語った。俺の言い分も分かるが、コイツは俺を助けることを最重要視しているようで、余計なことをさせたくない様だった。
『だがお前が助けに出れば人の心配していられなくなるぞ。奴は君がアブラメリンの血を持つものであると確信しているようだ。殺意から奇妙な好奇心が見て取れる…どうせ吸血するならただの人間の血よりお前の血を狙うだろう。上手い事囮になっている今の状態を崩すのは得策じゃない』
カビが意見を述べるのを聞きながら俺は阿呆杖を付きながらぼんやりと机の上を見ていた。あのマスクの女は本来喫煙者なのか、それとも別の管理人の中に喫煙者がいるのか。煙草の吸殻が水の張った灰皿の中に数本漬け込まれている。その側にはよく見かける銘柄の煙草の箱が置いてある。ライターが側に転がっているが、随分安そうなものだ。だがいちいち買い換えずに使われているのか、妙に使い込まれていて薄汚れている。中に液体が入っているが、使い込まれている割に液体は並々と注がれているようだ。それを見て俺はひらめいた。
俺は机の上のものを一つ一つ確認しながら「お前等は確か火に弱いんだよな」と尋ねた。フェ・ラジカの弱いものはフェ・ラジカ当人が一番よく分かっているようで、『そうだな。乾燥に強い代わりに菌糸が水を溜め込みやすいように長くてふわふわしているから燃えやすいのだ』と事細かに説明した。確かにあの女性の糸を見るに、フェ・ラジカのコロニーは布状のようなのだろう。コイツを洗ったときは手触りがよかったが、乾燥させたら丁度クッションみたいになりそうだった。
だが、ドアに体当たりするあの音を聞くと本当に同じものなのかと疑いたくなる。奴等の養分とは鉄…だけなのかどうかは分からないが、主食が鉄なら近いものなんだろう。
俺は机の上から視線をはずして机の引き出しを物色し、やっと見つけた目当てのモノを手に取りながら「あれ位の大きさならコイツで燃やせるよな」と再度尋ねる。カビは答えを渋った挙句、答えとはいえないものを俺に寄越した。
『私からは何も言えん…言える事は、それは得策ではないという事だ。お前は感覚が麻痺しているだけであの女と何ら変わらないのだぞ…血反吐を吐き散らし悶え苦しむあの女と同じなのだぞ』
引き出しから取り出したライター用の補充オイルと、机のライター。補充オイルはライターより2.5倍ほど大きな容器で、あの化け物のサイズにぶちかけるなら十分な量だろう。俺は机に手をかけて支えられるようにして重い腰を上げると、椅子を端にどけて壁に背を向け立つ。定期的にガンガンと揺れる扉のノブに手を伸ばし、タイミングを計る。
奴はアホなのか改造のせいで思考能力が落ちたのか、ずっと体当たりし続けているようだ。何も喋らないから後者なのかもしれない。だとしたら可哀想な奴だ。…哀れんでいる余裕はないか。
体当たりする瞬間を見計らってドアを開ければ、この部屋に転がり込んで机の下に転がり込んでくるはずだ。そうじゃなくても机に体当たりして隙が出来るはず。その時にこのライターの油をかけて、あとはライターの火をつけてやればいい。そうすればコイツを焼き殺して俺もセールスレディも落ち着けるはずだ。オイルの蓋があいているのを確認して、俺はタイミングを合わせて扉をあけた。
あけたと同時に部屋の中に白いものが飛び込んできた。それは思惑通り机の下にはまり込み、すごい音と振動が部屋を襲った。奴は面食らったのか、机の下でふらふらしている。
扉の裏で様子を見ていた俺はすかさずオイルを振りかけると、奴は我に返ったのかこちらに体を向けると飛びかかろうとしたが、狭いところに嵌まり込んでいる上に油のせいでただでさえ歩きづらそうなツメ足が滑って、勢い余って机に頭を酷くぶつけた。…今なら火をつける事ができそうだ! 俺はライターの火をともし机の下に投げ入れ、結果を見る前に部屋から飛び出した。
火が上がるあの独特の波動と音を背後にした俺は、扉を閉めて奴を閉じ込めようとした。つくづく鳴く生き物ではなくてよかった。実に静かな終わりだ。俺は静かに勝利を確信した。
しかし、奴は俺の思惑どおりに焼け死んでくれなかった。炎に包まれた体で扉に突進してきたんだ。
まさかこうも早く机の下から出てくるとは思っていなかった俺は、勢いに負けて扉を閉めそこなった。俺が驚いて面食らっている隙を縫って隙間から奴が飛び出てきてしまった。
燃えているのに何故こうもぴんぴんしているんだ?
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挿絵が無いのに毎回同じサムネがついてるのは、アイコンがわりだからさ。題名だけより分かりやすそうだったからやってみました。ちなみにあれいちいちその場で毎回ちょんぎってるんですが、大体同じに見えるのでなんか自分で自分に感動しました。
あーそうそう。この辺から何となく流血沙汰になっている感じなので、苦手な方がいたらごめんね。これくらいなら少年誌レベルだとは思うんだけど。