普段水面と風景の境を曖昧にしている霧は珍しく晴れ、湖の向こう岸まで見渡すことができる。太陽光を反射させる忙しいきらめきの上で飛び交う妖精たちも束の間の絶景を喜んでいるように見えなくもない。
こんな日和が続けばカビの類も大人しくしてくれるのに。
湖畔に佇む古びた洋館のテラスから湖を眺め、十六夜咲夜はわずかばかりの気鬱を彫像のように整った無表情に混ぜた。
十六夜咲夜はここ紅魔館のメイド長であり、紅魔館の主であるレミリア・スカーレットは彼女にとっても主になる。
吸血鬼に仕える身である以上直射日光をありがたがること自体が不義にも思え、咲夜は湖へやっていた視線を主へと戻して心の中で頭を下げた。
レミリアは咲夜の胸中など知らず同じテラスで椅子に腰かけ熱心に読書に励んでいた。その表情は単純に「読書を楽しんでいる」と言うには不似合いな愉悦の笑みが浮かんでいる。
ふと視線を感じ、文字のみを追っていた目は頁から離れ空を見上げる。
眩しい青空に目を細めて微笑み、呟く。
「珍しい鳥がいるのね」
黒い対の翼。射命丸文が空中からテラスにいるレミリアを見下ろしていた。
「どうもご機嫌麗しゅう、恐縮ですがちょっとお時間いただきますよ」
恭しく頭を下げながらも双眸は好奇心で輝き今にも飛びかかってきそうな点では狂気と大した違いはない。どこまでも見透かそうとする無遠慮な意欲はこうして対峙しているだけで虫唾が走った。
「咲夜、客よ。紅魔館の名に恥じぬもてなしをなさい」
レミリアにとってはそれで「解決」のつもりだったので、いつまでも変化が起きないことに戸惑った。数瞬の間に苛立ち、いつもなら主人を待たせることなど有り得ない従者を振り返る。
咲夜は柱の陰に体を隠しわずかに顔を覗かせていた。こそこそと隠れている。
「貴方、そんな所でなにをしているの」
「汚れが少々気になりまして。これがなかなかしつこく」
「後回しで構わないから今はこの狼藉者をなんとかなさい」
「かしこまりましたお嬢様。しかししばしお待ちを」
咲夜はそろそろと柱の陰から出てこようとして、射命丸に手持ちの写真機を向けられるとさっと元の位置に戻る。それが何度か繰り返された。
呆れ、レミリアはため息をつく。
「貴方のそれ、どうにかならないものかしら」
写真の類が魂を吸い取ってしまうと咲夜が信じていることは広く知られている。
「まずは、完璧で瀟洒なメイドを無力化」
射命丸が勝ち誇るかのような余裕を含んだ声で確認し、レミリアの眉は歪んだ。
「おっとと、怒らないで怒らないで。何も戦いを仕掛けにきたのではないのです。実を言うと私、今度の新聞に付録をつけようと考えておりまして、そこで紅魔館の見取り図を題材にさせていただきたく、こうして伺った次第でございまして」
「断固拒否するわ。わかったらすぐに帰るのね」
「いえいえ、お手を煩わせるつもりはございません。あとはこちらで勝手に調べさせていただきますので、ただ中へお招きくださるだけで結構なのです。謝礼の話などはかえって失礼になるかと思いまして、まずはこうして手ぶらで参じましたが後程改めて考えさせて頂きたいと今は思っております」
断りの意見は聞かずべらべらと動く口を見ながら、レミリアの口元から笑みが消えた。
射命丸は初めから力づくで自分の望みを叶えるつもりでここへ来ている。口調は丁寧でもレミリアの意見を取り合わず話を進める身勝手な態度から明らかだ。
「お通しくださるだけでいいのです。僭越ながらご忠告させていただきますと、抵抗は無意味です。いえいえ、私のほうが強いなどと申しているわけではありません。この状況は貴方にとって芳しくない。それだけなのです」
今は真昼でこれ以上ないくらいの晴天だ。レミリアが戦う上では動きを制限されてしまう。紅魔館を傘にすれば紅魔館が傷付くだけで、それもいつまで持つかわからない。
「地下のご友人を頼るのもおやめください。私が今日弾幕に混ぜるつもりで用意した煙玉は、大変肺に悪いかと思われますので」
何もかも計算づくで備えている射命丸に対しレミリアは打つ手がなかった。閉じた本の上に重ねた手がぶるぶると震える。
「あまり調子に乗らないほうが身の為よ、下衆」
「身の程はようくわかっております、はい。だからこうして昼に伺ったくらいでして」
「昼ならば紅魔館は、このレミリア・スカーレットは怖れるに足らないとでも?」
「はい、怖れながら。ああ、これ矛盾しますね。いいえでも真実です。そこに隠れている貴方自慢の従者が戦えたとしても、結果は同じです。夜に縛られた悪魔では私には届かない。止まった時の中だけを自分の世界とする従者では私を捕まえられない。幻想郷最速の翼にかけて、取材を続行させていただこうかと。いやあ申し訳ない」
「咲夜! 従順なる私の従者!」
堂々と宣言した射命丸から逸らした目を閉じ、レミリアは声を荒げた。
「即刻この不届き者をどうにかなさい! この私は自分の上を飛ぶものを許しはしない! たとえそれが鳥だろうと竜だろうとね! こんな下衆なら尚更よ!」
我慢の限界を迎え激昂する主を柱の陰から見ながら、咲夜は落ち着いて頷いた。
「かしこまりましたお嬢様」
「その調子でどう戦うつもりでいるのか。とても興味があります。是非拝見したい」
なにがあっても死にそうにない好奇心を前に、ところが咲夜は一歩も前へ出ようとはしなかった。
「なにをしているの咲夜!」
「怖れながらお嬢様。貴方様の従者は一人ではありません。けして従順とは言えませんし、私と違い完璧でもありませんが」
レミリアの脳裏に能天気な顔のもう一人の従者が思い浮かんだ。
今日もこうして部外者の進入を許している、紅魔館の門番。紅美鈴。その怠惰を極める仕事ぶりはレミリアも実際目にしたことがあるほどで、最初から当てになどしていなかった。それを頼れというのなら苦し紛れとしか思えない。
「貴方、門番はどうしたの?」
咲夜の質問に射命丸はいかにも他愛ない、といった風に笑った。
「最初はきちんと段取りを踏んで取材させていただこうとしていたんですがね、断られてしまって。文字通り門前払いじゃ記事は埋まらないんですよ。だからこちらから手を出して、山のほうまでおびき寄せてから放置させていただきました。急いでも戻りはかかると思いますよ。途中罠などあれやこれやと邪魔が入るでしょうからね」
今日のこの晴天を待つまでに時間はあり、抜かりなく充分に支度を整えることができた。だからこそ悠然としていられる。
「そう」
頷いた咲夜が笑ったように思えて、射命丸は我が目を疑った。鉄が熱も持たずに歪むはずはない。
「なら貴方はあの子が『まいった』を言うのも聞いたわけでも、泣いて逃げ出すのを見たわけでも、ましてや死体を見たわけでもないのね」
「そこまでおおごとにするつもりはありませんので」
「感心な心がけね。でもあの子はこの紅魔館では『あらごと』担当なのよ」
突然前庭の一部、アプローチの端が爆発して土煙が高く吹き上がった。レミリアと射命丸が何事かと驚いて、咲夜が冷静に目をやると、地面に穴が開きそこに紅美鈴の首が生えていた。後頭部を虎バサミに噛みつかれている。
「げっほげっほ。うぇっ、口の中がじゃりじゃりする」
美鈴は涙目で上を見て、射命丸と目が合うと眉根を寄せて残念そうな顔をした。
「ちぇっ、ズレてる」
一言のあとに穴の中へ引っ込んだ。そして今度は、射命丸の直下で土煙が踊る。
「なっ――!」
射命丸の表情が驚愕で歪んだ。
下から来る。それがわかっていたのに反応できなかった。遅れた。
「貴方が幻想郷最速なのは」
土ぼこりから守る為咲夜は主の前へ移動し、レミリアは上半身を横へ傾がせて視界を取り戻し行く末を見守る。
「その翼が役立つ空に限った話なのよね」
地面を突き破り空中へ飛び出した拳から逃れるべく、射命丸は懸命に体を振って位置を変えた。その努力が功を奏し、射命丸の体の軸は拳が進む直線上から離れた。二段構えの拳も膝も無い。この一撃が腿でかすればそれで終わり、一瞬のうちに幻想郷最速の翼でもって大きく距離を離すことができる。
この油断が運命を分けたのかはわからない。射命丸が体を捻ったことで紐に引かれて回転した写真器が、美鈴の掌に納まった。
だが握っていた拳を開いていたことから美鈴の狙いは初めからそれだったのだろう。ならば、運命は変わらなかった。
「どっせーい!」
美鈴は手にした写真機を全力で遠くへ放り投げ、呆気に取られる射命丸を大量のナイフが取り囲んだ。
「えーっ! ちょっと咲夜! なんで私まで!」
満足そうにしていた美鈴の顔が一転青ざめた。包囲網は美鈴をも捕らえている。
「相手の策に乗る浅はかさを反省するのね」
テラスから二人を見上げる咲夜が、今度こそ微笑んだと射命丸は思った。この一瞬を押さえる写真機が無いことが無念で仕方ない。
近くに悲鳴を聞きながら、開いた本へ視線を落とすレミリアの頬には再び愉悦の笑みが戻っていた。
少し日差しが強いだけの、紅魔館の日常である。
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キャラ改編もりもりです。 東方というか二次創作自体が初めてのことなので色々とうまくいっていない部分もあるかと思います。基本的な技術はおいておいてね! 特に幻想郷に関する造脂はまだまだ浅いです。ご教示いただけると助かります。 ではどうぞ、お楽しみいただけると嬉しいです。