恋姫無双SS『単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話―』第四回
夕暮れ。市場の外れに、屋台が出ていた。
簡単な煮物と焼き物。それから、自家製よりはやや上等な酒を飲ませる安屋台。頑固な上司と手強い商人の板挟みにあいながらも、懸命に使命を全うし続ける彼女ら、啄県政庁商業許可取扱窓口担当下級官吏達の強い味方である。
「だーかーらー、搾り取るだけじゃじぇいしゅー(税収)は延びないっちゅーことなんですよー」
わっかりますかーと、箸を振る……おそらく妙齢の女性。
見える限りの目鼻立ちは整っているので、もしかしたら美人かもしれないのだが、目が隠れるくらい伸びた猫っ毛の髪とだらしなく着崩れた官服のせいで、全体的にうさんくさくも、いかがわしく、且つ、まぎらわしい印象になっていた。
そんな彼女は煮物をつまんだ後で汁がついたままの箸を右左に振り回しながら、なおも続ける。
「肝心なことは市場そのものおー、活性かー、そして、かくだいすることなんですー 一つのピザをどう分けるかではなくー、ピザそのものの大きさおー(ひっく) おっとー」
さらに逆の手で、けらけらと笑いながら銚子を逆さまに振る。
「ピザとゆーのわー、天の国の食べ物ですー ……しりませんよー どんな食べ物かなんて! でも、天の食べ物なら美味しいにきまってますー。ええっ! 県令殿の国の食べ物がまずいわけがないっ」
そして、自分が焼き鳥を追加したのか、酒を催促していたのか、すでのわからなくなっている。
りっぱな酔っぱらいであった。
「アタシは一度でいいから、ピザというものを食べてみたいんだよおおおっ。……なあっ、妹っ」
と、べろんべろんになった猫っ毛の娘が、となり女の子の肩を叩いて、「ぱあん」といい音をさせた。
酔っぱらいの遠慮のない張り手である。叩かれた方はたまったものではない。
当然彼女は「痛っああいっ」と叫んで飛び上がり……その後、涙目になって、
「もおおっ。誰ですかっ、憲和さんにお酒なんか飲ませたのはっ」
と、となりに座っていた長身の女性に食ってかかる。
が、長身の女性は、騒ぎの真っ直中にありながら台風の目のように、マイペースだった。
「ここは酒類販売許可済みの屋台だぞ、麋妹《び・いもうと》。客に対して酒を供するのは適法にして当然。君の質問は『誰か彼女を止めなかったのか』とすべきだ」
「じゃあ公祐さんっ、どうして止めてくれなかったんですか!」
「呑み始めた簡さんを誰が止められるというのだ」
「あああああっもうっ」
がっこん、と椅子を蹴立てて彼女は立ち上がった。
「役所で一日仕事してクタクタなのに、ささやかな癒しを求めるひとときが、なんでいつもいつもこんなぐだぐだにいいいっ」
うがーと天に向かって吼える麋家の次女。彼女の咆吼が収まって、一拍おいてから、
「……妹。やかましい」
と少し離れたところから声がした。
ぐりん、と絡繰《からくり》細工のような動きで、顔の方向をかえた先では、麋芳《かのじょ》と寸分違わぬ顔がもりもりとスズメの焼き鳥を頬張っている。
「こらっそこの姉っ。あんた、何を一人で安全圏に逃げてんのよっ――っていうか、お願いだから私と同じ顔で、スズメの姿焼きを丸ごと頬張った挙げ句、ぽりぽり音立てて小骨をかみ砕くのはやめてええええっ」
漫才まがいの口論を繰り広げている同じ容姿の二人は、啄県政庁の名物双子姉妹、麋竺と麋芳。 性格は正反対だが、外見は背丈から、目鼻立ちから、服装までほぼ同じ。サイドポニーにまとめた髪型が、右向きか左向きかの違いしかない。
一人一芸を義務づけられた役所の忘年会で、仕方なくやった鏡のコントは、不本意ながら大ウケだった。
「……おっと、どうも、やかましいことですみませんね」
ひょろりとした長身の女性が七分目残った自分の銚子を卓子《テーブル》の対面へ傾ける。
「先生の勉強のタシになる事なんて、お話しできるかどーかわかりませんが、お近づきのしるしに、まずはひとつ」
「これはどうも」
そう言うと、対面に座る女性は椅子の上で実に綺麗なお辞儀をして、盃を差し出した。
「公祐殿。そうお構えにならずに。私も本日はお酒が飲みたくて来ておりますから――どうか、無礼講で」
いつもどおり、麻の単衣に黒紗の羽織というこざっぱりした出で立ちの小夜里は、にっこりわらって相手に告げる。
彼女は市場でも評判の『聞き上手』であった。
恋姫無双SS『単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話―』
第四回 どこの誰かはしらないけれど 前編
商業と軍事に力を入れている啄県の政庁は、市場や守備隊の時間割と連動して動く部署が多く、必然的に朝早く始まり、日が落ちる前に仕事を終える。
ことに商業許可を取り扱う部署は暗いうちから、担当職員が出勤していた。何しろ、遠くの村からやってきた隊商が、夜明け前から門の前に並ぶのである。
午前中に列を解消させようとすると、必然的に出勤時間が早くなる。
そんなわけで、現在、商業許可取扱窓口は啄県政庁の中でも、もっとも激務といわれており、また、選りすぐりの新人若手官吏が集結している。
ウソかホントかわからないが、数ある採用試験の答案の中から、県令たる『天の御遣い』こと北郷一刀みずからが選び出して、配属を決めたとの風評すらある。実際、処理速度も仕事ぶりも、同期の新人とは比べものにならない。
それどころか、あまりの有能ぶりに古株の官吏達は、すでに彼女らを自分たちの地位を脅かすライバルと見なして戦々恐々としている……
「と、市場ではもっぱらの噂ですよ」
などと、小夜里が話を振ると、
「それはまた、新人の身には過ぎた評価ですね」
相手の女性官吏――姓名を孫乾、字は公祐という彼女は、気楽に笑った。
彼女は激務激職で名高い「商業許可取扱窓口」を実質取り仕切る立場の人物である。
女性にしては長身で、歩く姿もきびきびしている。剣も扱えれば馬にも乗れる彼女は、最初軍隊への配属も検討されたらしい。
しかし、頭も切れれば弁も立ち、統率力があるということで、新人ながら主任待遇で行政部門へ回る事になった。文字通り啄県政庁が誇る期待の星である。
「でも、私たちは結局、自分に出来ることを真面目にやるだけです。
実際、目の前の仕事で手一杯ですしね」
二人は今、市場から役所へ向かう道を並んで歩いている。
小夜里は普段この時間は市場で薬草店を開いているが、今日は早々に店じまいし、庵の留守番を年長の子供達に任せて役所に赴いていた。
その道中で、顔見知りの孫乾と同道することになった。彼女は露天の店の縄張りなども担当しているので、時間を見付けてはこまめに市場を見回っているのである。
「近々、大きな馬市がありまして。その準備でてんてこ舞いですよ」
孫乾の言葉に小夜里も「幽州は良馬の産地ですからね」と肯く。
見れば、馬を連れた商人がいつもより随分多い。使う言葉や出で立ちも独特な彼らの多くは北方の商人で、幽州の更に北に住む鮮卑の民から馬を買い付けてくる。このような馬商人に強い影響力をもつ太守としては「白馬長史」の異名で知られる公孫賛がいて、騎兵を使った戦術を得意としている。
馬といえば、と小夜里は孫乾の方を振り向いた。
「北郷様が旗揚げの時、丁度啄県にいた馬商人が、心意気に感じてその時連れていた良馬を全部献じたとか……」
「ええ、そうです! よくご存じですね!」
と、自分たちの噂の時とは打って変わった満面の笑みで、孫乾が言った。
「今では単なる『勝ち戦の美談の一つ』になっていますが、当時は、なんというか街全体が乾坤一擲の博打《ばくち》をするような切羽詰まった雰囲気だったんですよ」
啄県は黄巾党に目を付けられて、風前の灯火。役人は逃げだし、朝廷からは見放され、諸侯には無視されて……だから街中からありったけの食料や武器や馬やらが集められて、戦えるものは一人残らず武器を取った。
「だからなおのこと、数に勝る黄巾党を打ち破って県令殿が凱旋してきた日のことを私は忘れられません。
この街の人間にとって県令殿は、まさに天空の星が人の姿を取られたのだ、とそんな風に思えたものです。国から見捨てられた私たちを、天だけは見捨てなかったのだ、と……」
それはきっと彼女だけの感想ではないだろう、と小夜里は感じた。そして、啄県の結束力と、その結束力が裏返しになった朝廷や国への反感の根っこには、北郷一刀への熱狂的な信頼がある。
一代の虚名というべき『天の御遣い』という異名を、受け入れざるを得ない状況が、黄巾に狙われたこの町には既にできあがっていた。北郷一刀はまるで出番を待っていた舞台俳優のように、これ以上ないタイミングで、動乱の啄県に『降臨』したのである。
それは偶然だろうか? それとも誰かの謀《はかりごと》か?
――と小夜里が考え込んでいる内に、二人は役所に着いた。
時刻はそろそろ昼下がり。そろそろ午後のお茶の時間でも、という時間帯で、通称『役所』と呼ばれるところの啄県政庁は、朝から続いた混雑も一息ついてのんびりムードが漂っていた――の、だが。
「ああ、戻ってきたっ――公祐さーんっ」
役所の門を潜ったとたんに二人に向かって、駆け寄ってくる人がいた。髪をサイドポニーにまとめた小柄な女の子である。
「あれ? 麋妹じゃないですか。どうしたんですか?」
「どうしたんですか、じゃありませんっ」
彼女は麋芳、字を子方という名前の女性官吏だった。妹と呼ばれているのは同じ部署に双子のお姉さんがいるからである。
「昨日着いているはずのお茶の隊商の人たちがまだ着かないんですっ」
「は? そりゃあ一日二日遅れることだってあるでしょうよ」
「何を暢気なことをいってるんですかっ。南から来る梁さんの隊商ですよっ 普通の隊商が着かないのとはワケが違うんですっ。馬市までに着かなかったら、お茶の値段が二倍になりますよっ」
「それは、……大変困りますね」
「困るんですようっ」
と其処までしゃべった後で、麋芳は孫乾が一人でないことに気づいた。
「あれ? 小夜里先生? 役所にご用ですか?」
「いえ、用事というか……」
よいしょ。と小夜里は手にした風呂敷包みを掲げて見せた。
「今日はお店を早じまいにしたので、頼まれていたお薬とお茶菓子を持って、皆さんの陣中見舞いにきたのです」
啄県政庁商業許可取扱窓口――の、奧の休憩室兼来客用待合室。
「ぐああああっ。まずいいっ」
どろりとした青い液体を飲み干した後で、一人の女性官吏が『感に堪えない』という風情で呻いて――それから
「でも、もう一杯っ」
と湯飲みを差し出した。
もしゃもしゃとした猫っ毛の髪が、顔の上三分の一を覆い隠しているが、見える限りの造作が整っているので、多分美人な彼女は、名前を簡雍、字は憲和という。
「くううっ。やっぱ二日酔いには先生とこの薬《コレ》だなっ」
孫乾、麋姉妹とならんで有能な若手官吏のひとりであるが、何しろ勤務姿勢がよろしくない。
身なりはだらしないわ、仕事はさぼるわ、気がつけば何処にいるかわからなくなっているわ、常に二日酔いだわで、上司のウケははなはだ悪いのだ。
「……しかし、彼女くらい街の近況に詳しい官吏はいない」
ぼそり、と、誰かが、小夜里の心を読んだかのような発言をした。
振り返った先には先ほど玄関で小夜里たちを迎えた麋芳と、うり二つの容姿をした女性官吏が立っている。
名前は麋竺、字は子仲。麋芳の姉である。
会話の間合いが独特なので、こちらはこちらで、上司や周囲との人間関係が難しい。だが、やはり事務処理能力は高く、また彼女の実家である麋家はもの凄い大金持ちで、さりげに交友関係も広かったりする。
しかし(妹もそうだが)本来麋家の当主として労働する必要すらない彼女が、何故試験まで受けて啄県政庁に出仕しようと思ったのかは『謎』だった。
その麋竺に、孫乾は「何の連絡もないんですか?」と、尋ねた。
すると、こくりと、肯定の頷きが返ってくる。孫乾は少し考え込むように人差し指を唇に当てた。
「たしかに、いつもの梁さんらしくないね」
話題の隊商は傭兵などで武装して長距離を旅してくる規模の大きなモノだった。
金でやとった兵を伴っており、啄県に定期的に訪れるようになってからは、軍隊さながらに伝令が街に到着の時期を知らせていた。
それが予定に遅れて、しかも何の連絡もない。
「何か『とらぶる』があった、と考えるのは時期尚早……でも、現実にお茶が届かないと、向こう三週間は三時のおやつを水で食べることになる」
……麋竺の報告は実に自分本位だった。
「じゃあ酒にするか。贅沢いわなきゃその方が安いし」
そして、簡雍の意見も彼女本意だった。
だから(例によって)
「違うでしょっ。このままだと、お茶の流通量が足りなくなって、市場価格が高騰するのよっ!」
妹――麋芳が爆発した。
ちなみに彼女たちが使用する言葉のうち「とらぶる」だの「市場価格」だのは「天界言葉」と言われている。北郷一刀が時折口にする言葉で、かつ耳慣れない概念を表すこれらの言葉を好んで使うのが、啄県政庁の若手官吏たちの「とれんど」だった。
「……あの」
月餅やら団子やらを机の上に並べ終えた小夜里が、四人の会話に加わった。
「隊商の一つが遅れたくらいで、お茶の値段が二倍になったりするものなんですか?」
四人は顔を見合わせた。小夜里を置き去りにして話していた事にやっと気づいたらしい。
皆を代表して孫乾が口を開く。
「仰るとおり、他の城邑と違い啄県のお茶の流通量は、人口に比べて多く、その為に価格自体は安いのです。特定の商品に税制上の様々な優遇を約束し、啄県における流通量を増やしてきた結果で、県令殿が進めておられる規制緩和政策の成果の一つです」
でも、と次に簡雍が言葉を続ける。
「それも、『平常時』であれば、という但し書きがつくんスよ。近々に大きな馬市が予定されていて、北から馬商人が続々と街に入ってきてます。この馬市は回数を重ねる事に規模が大きくなっていて、扱われる馬の数は今回も前回を上回りましてね」
さらに、麋竺が次を引き取る。
「馬市は単に馬の売り買いだけが行われるのでなく、馬を連れてきた北方の商人や他所から買い付けに訪れた商人の宿泊や食事、この機会に馬のエサを売りに啄県にやってくる近隣の農民、多量に出る馬の糞を肥料にするために引き取る人、引き取ったのを買う人――そして、集まった人相手に商売をする人等々、色んなところに波及効果がある……」
最後に麋芳が続ける。
「馬市の時は、そうでなくても人が増えて色んなモノが品薄になって値上がりするんです。
かき入れ時だから、儲けようという町の商人の邪魔をするつもりはありませんが、それにしても、北の人はもの凄くお茶を飲むので、南方産のお茶が凄まじく値上がりするんです」
少し息を継いで、結論を述べる。
「啄県のみんながお茶を飲めるように頑張ってくれ……と、県令殿が仰ったので、私たちも出来ることはないかと色々考えました。
それでお茶の値段が高くならないように、馬市の時期に併せて、お茶の流通量を増やす計画を立てたのです」
「それが、到着が遅れている隊商なのですね?」
はい――と、いつもは元気がありあまっている麋芳が肩を落とす。
「梁さんの隊商は啄県がお茶に関する規制を緩め始めた当初からお茶を大きく商っていて、実際今回もあてにしていたんです。だから、馬市の日取りが決まった時点で連絡を取り合って、相当量のお茶を啄県に持ち込んでもらおうと……」
「……なるほど」
うん。と一つ肯いて、小夜里は孫乾の方を向いた。
「公祐殿。この場合、一番優先すべきことはその隊商と連絡をつけることだと思いますが、いかがですか?」
「たしかにそうですが――この時勢です。相手の隊商が何処にいるかわかりませんし、いつもの経路でこちらに向かっているかも定かではありません」
「定期的に啄県にくる行商人なら、経路は大体きまっていますよね?」
「はい。今までも変更はありましたけど、ここ三回は同じ道を辿ってきているはずです……」
では、と小夜里は背筋を伸ばした。
「私が行って、探してきます」
意外な発言だった。もとより、官吏でも武官でもなく一介の処士にすぎない小夜里には、四人の手伝いを――ましてや、この物騒な時勢に軍使まがいの伝令をする義理はない。
「いやいやいや!――まってくださいっ! 先生にそんな事をしていただくわけには」
「でも、馬市が近い時期に遠くに使いを出す人手もないでしょう」
たしかに、それは、そうなんですが……と孫乾は口を濁した。
彼らは有能で仕事が出来るかも知れないが、役所では一番の下っ端だ。
動かせる人手には限りがあるし、自分たちも大きな仕事を抱えている。
それに彼女らがやろうとしている政策の『意味』を正しく理解している役人や商人が啄県にどれだけいるかも心許ない。
北郷一刀を信奉する彼女らは、発想が些か先鋭的なのだ。役所でも「浮いている」らしいと、噂で聞いてもいた。
「我々にとっては願ってもないこと、ではありますが……でも、先生。子供さんたちはどうするんですか?」
「あの子らは私が二、三日家を空けても、しっかり庵を守ってくれます」
「それは……本気ですごいスね」
と簡雍が言った。
「だめもとですよ。うまく出会えれば問題ありませんし、意外に行き違いで、私より先に啄県に隊商が着くかも知れません」
そう言って小夜里は四人に対して、指を三本立てて見せた。
「往復三日。成果があろうが無かろうが、それで啄県に帰ってきます」
四人は黙ったままだった。相談する様子はない。
ほかに手がないと、承知しているのだ。
ややあって、孫乾が迷いを振り払うように肯いた。
「わかりました。先生にお願いします」
小夜里は孫乾に向かって頷き、四人を見回した。
「件の隊商が行方不明になったことについては、けして外に漏れないようにして下さい」
「売り惜しみで価格が上がるのを防ぐんですね? 勿論です」
確認とともに麋芳が肯く。
さらに小夜里は言った。
「私は隊商の人とは初対面ですので、どなたか相手の商人さんと面識のある方の手紙を預けて下さい。
それから申し訳ありませんが、馬と、三日分の水と食料をお願いします」
「わかりました。当然です。こっちでご用意します」
簡雍はそう言って席を立ち、逆に聞き返した。
「先生。武器はどうします?
剣か槍なら用意できますよ――丸腰というわけにはいかんでしょうし……」
その問い掛けに、小夜里は軽く笑った。
「心配無用です。剣は使い慣れたのが一番ですから」
その答えに、四人はそれぞれに意外そうな表情を浮かべた。
小夜里が剣を使う姿がイメージ出来なかったらしい。
「子供達に留守を頼まなくてはいけないので、私は一度庵に帰りますが、すぐに戻ってきます――それまでに準備を」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ぱっかーん。――と底抜けに脳天気な音がした。
わーという歓声に混じって、
「う……い、痛い」
と涙声で、訴えるのが聞こえた。そりゃそうだろう。
そこを殴られるのは「二度目」だ。
「はっはっは。残念だったな。ほれ。交代しろ」
そういわれた少年は、目の前の青年――北郷一刀を上目遣いににらみ返した。
「……も、もう、一回っ」
「だめだ。交代するって約束だろ?」
「~~~~っ」
ほらほら、と、手を振ると、少年は悔しそうに『場所』を次の少年に明け渡した。
次に座った少年は少し緊張気味に、目の前の道具を見下ろしている。
道具とは、一本の『棒』と、大きめ『ザル』。
どのくらいの大きさかといえば、棒が大人の肘から先ぐらいの長さ。
ザルはザルは子供の頭が隠れるくらいの大きさと深さ。
ちなみに棒は割れ竹を組み合わせて縛ったものを革袋に入れ、これをさらに布でくるんでつくったものである。
派手な音がするわりに、痛みは少ない。
「県令様、おねがいします!」
「よし、かかってきなさい!」
二人が正座の上、両手を膝の上に置いたのを確認して、お下げ髪の女の子が声を掛ける。
「準備はいいですかー」
「いいぞ」「頼む」
では、と声を切ってから
「最初はぐー、――たたいてっかぶってじゃんけんぽんっ」
再び、ぱっかーん。――と底抜けに脳天気な音がした。
さて。
話は、啄県県令・北郷一刀が、小夜里不在の庵を訪問したことに始まる。
仕事とか勉強とかに日頃いそがしい小夜里の生徒達であるが、今日は先生が急に役所に行くことになって、帰りをみんなで待っていた。
そこへ、一刀がふらりと訪れたのである。
で、小夜里の留守に落胆したものの、さりとて帰る気にもなれず、一刀は現代日本の遊びを子供達に教えて一緒に遊ぶことにした。
別に思惑があったわけではない――が、あえて言えば、いつ来ても真面目で忙しそうにしている子供達が、さすがに先生がいないところでは少し元気がないように見え、寂しそうに見えたのである。
そこで「影踏み鬼ごっこ」「陣取り」「手つなぎ鬼ごっこ」「かくれんぼ」「だるまさんがころんだ」「ハンカチ落とし」「はないちもんめ」「カンけり(竹筒で代用)」――と、大人数でやると無駄にエキサイトする遊びを色々伝授して、そこそこ満足したところで、今は年長組男子バーサス啄県県令による、「叩いて・被って・じゃんけんぽん」の最強王座決定戦。
一刀は一番最初に「勝負に大人も子供も無いっ!」と断言した上で、子供相手に全力で遊び、今のところ全勝無敗。実に、大人げない勝ち方を続けていた。
北郷一刀。我が世の春。
まさにこれこそ『一刀無双』だ。――と、それはもう祇園精舎の鐘の音が聞こえてきそうな栄耀栄華真っ盛りである。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「はーはっはー。その程度の腕で、この俺様の頭に触れようなどと、十年早いわー」
「……おっかしーなあ、何で勝てねんだよー」
三度も同じところを叩かれて、さすがに赤くなった頭をさすりながら、今年十三になる最年長の少年が言った。
「オレ、今、剣術習ってるのに……」
「ほー先生は誰だ」
小夜里なら一刀としても泣くに泣けないところであるが。
「関将軍……」と少年は呟いた。
「いい師匠についたな。強くなれるぞ」
「けどさー県令様にも勝てないんじゃなあ」
「コラてめ……って、まあそうだなあ」
特に抵抗なく、少年の言い分を認めてから、一刀は棒を片手に少年の方へ向き直った。
「でもなあ、どんなに剣術に強くなっても、この『遊び』で俺に勝つのはムリだぞ」
「え、何で?」
「それはお前がやっているのが『剣術』で、俺がやっているのが『剣道』だからさ」
「けんどう?」
そう、と一刀は少年向かって肯いた。
「お前は俺の頭を力一杯殴ろうとしているだろ?
その気持ちが強すぎるから、俺に勝てないんだよ」
「相手をやっつけようと思わなかったら、剣なんてならわねーよ」
「ま、そうだよな――でも、やっつけようと思えば思うほど、体というのは思い通りに動かなくなるんだよ」
少年は「納得できない」という顔で一刀を見つめている。
「やっつけたいという気持ち、負けたくないという気持ち、殴られたら痛いという気持ち、殴ったら相手も痛くてかわいそうだなという気持ち………とりあえず、そういう気持ちを全部無くす。
すると、たぶん、俺より早くなれる」
「え? えっと……じゃあ、何のために剣を勉強するのさ!」
「わからんだろ?」
「うん。――って、だからきいてるのに!」
からからと北郷一刀は笑った。
「その『わからない』ところが、剣道さ」
そう口にしたとたん、ふと、フランチェスカの友人の顔が脳裏をよぎる。
故郷が、そして実家の道場が思い浮かぶ。
剣道と剣術。
それぞれの剣友たち。
稽古の後、友人達と交わした雑談じみた論争が昨日のことのように思い出された。
その、郷愁にもにた甘い感傷の赴くままに
「剣道ってのはな。剣術とは似ているけど違っていて、違っているけど同じものだ」
もういちど『剣道ってのは』と口にして――それから。
北郷一刀はまるで自分自身の心の中を手探りするような気分で、少年に対する言葉を探した。
「剣道はな――『自分』と戦うための武術だ。相手に勝とうとすることは、その『手段』に過ぎない。
だから、『お前』が『俺』に勝ちたいと思う限り、『自分』に勝ちたいと思っている『俺』には、勝てないのさ」
『剣道とは何か?』という問いかけの『答え』は、ずっと剣術に関わりをもって生きてきた一刀にとって、もっとも身近で、そしてもっとも神聖で、でも、それでいて、とても簡単なことであるようで……実のところよくわかっていない。
実家に伝わる古武術として剣術を学んでいた一刀は、一時期『剣道』に、学ぶ意義を見いだせなくなったことがある。
剣とは武器。剣術とは人を倒すための術。そんな古武術のシンプルな思想に触れていたせいかもしれない。
勿論、剣道は「競技」なのだから、相手を倒すためのテクニック、試合に勝つためのテクニックが存在する。それ自体は奥も深く習得だって簡単ではない。試合でそれを発揮するとなれば、並大抵の練習では不可能だ。
しかし当時の一刀には、学校の格技場でやる剣道が「ぬるい」ものにみえた。
『相手を斬らない剣に何の意味がある』というわけである……ま、これは、一刀に限らず剣道をやっている人間が一度は通る道――「はしか」のようなものだ。
はしかはいつか治る。
多人数の剣道部員にゴリゴリ揉まれながら必死に稽古しているうちに、心より先に競技としての剣道に体が馴染み、馴染んだ体で稽古を積む内、じわじわと心が『理解』し始める。
弱点を探して勝つ方法を考えるよりも、最高の自分の『一本』を見つけることの方が大切なのだと、自然に『わかって』くる。
自分自身を鍛え上げ変えていくことが――昨日できなかった事を今日克服できようになることの方が、相手を倒すことよりも大切なのだと『悟る』。
試合の勝敗は、その「結果」であって、けっして「目的」ではない。
大会の優勝――それが誰もが仰ぎ見る玉竜の旗であろうと所詮、一生続ける自己研鑽の長い長い道行きの『通過点』――それこそが現代剣道の本質。
いわんやそこに、物理的に人間の命を絶つノウハウなど必要ない。
向かい合う「敵」すら、剣道においてはともに研鑽し、ともに高みに至らんと競う「友」に他ならないのだから。
そこに、「剣」というものが武器としての役目を終えた時代《せかい》においてなお、剣士が「剣」を握る理由がある。
(剣道の理念とは、剣の理法の修練による人間形成の道である、か……)
そして初段受験の時に丸暗記した言葉を思い出して「ああ、そういうことか」と納得し、一年前の自分を「青くせー」と恥ずかしく思い、そして――友達と竹刀でぱんぱか叩き合うのも、まんざら捨てたもんではないな、などと得心する。
たとえば――
届くかどうか、その限界点で踏み切って飛び込むこと。
息が続かなくなっても、雄叫びを上げて打ち続けること。
自分の試合を終えた後で収まらない動悸のまま、友人の背に声援を送ること。
試合や稽古が終わった後、上半身裸で水を浴びながら帰り道で何を食って帰ろうかなどと話すこと。
黄昏の中で、気の置けない仲間達と過ごした、平凡で平穏で、どってことない当たり前の『日常』。
禅問答じみた『答え』よりも、その経験こそが付属物でも副作用でもなく、竹刀を振る目的そのものなのだと、今の一刀には思える。
「剣道」という言葉は異郷より遠い異世界に身を置く一刀にとって
「もしかしたら、二度とは届かないかもしれない故郷」
への郷愁をかき立てる存在でもあった。
(とはいえ)
後漢時代末、三国時代寸前の乱世において、この剣道の理想を語って聞かせる意味があるかというと、さすがに自信がない。
(愛紗が教えてるなら、邪魔するわけにもいかないしなあ)
余計なことをいって、子供を迷わすこともない。
一刀は「むーん」と腕組みして悩み続ける少年にそれ以上剣道の説明をしなかった。
そして、すこし赤くなった頭を痛くないようにそっと撫でつづけている、と。
そんな時「……先生、遅いなあ」と後ろから聞こえた。
子供たちは遊ぶだけあそんで、思い思いに一休みしていたのであるが……さて。
どうやら、もうひとがんばりということらしい。
「よし。じゃ、先生が帰ってくるまでもうちょっどだけ、遊ぶか! ――何をやろうか?」
「えっと。わたしは『はんかちおとし』がいいーっ」
「ふははははっ よかろう!
俺様の華麗なフェイントで、貴様らを一人残らず奈落の底(円の内側)につきおとしてくれるわー」
「わー、県令様 おとなげなーいっ」
「ふん。もーひっかかるもんかー」
「いったなー。よおし、勝負だっ」
という感じで、『一刀無双』がもうしばらく続くことになった。
その後、庵の主人、小夜里が帰ってきたのは、そんな風に「第二回ハンカチ落とし王者選手権」が始まってすぐのこと。
彼女は、子供たちに混ざって遊び倒している一刀を見て、驚き困惑し、そして大変恐縮した。
恐縮ついでに、彼女は、本当に申し訳なさそうに、「急な用で出かけなくてはいけなくなった」と伝えた。
小夜里が急に出かける位なのだから、と、一刀は詳しい理由も聞かず
「俺も時々様子を見に来るから安心して下さい」
と請け合って、子供たち共々、小夜里の旅立ちを見送ることになった。
――で、見送った後、へんな勢いがついてしまった一刀は。
愛紗と鈴々を呼び出し、市場に肉と野菜を買いに行って、夕食は庭でバーベキューをやり、そのまま、いろんなゲームをして遊んだ。
市場で味噌に似た調味料を偶然見付け、次の日はなんと一刀が、巨大な鍋で豚汁をつくって、愛紗と鈴々がびっくりする一幕もあった。
ほとんど林間学校とかサマーキャンプのノリ。
最後はたき火を囲んで歌まで歌ってしまった。
この世界にギターがないのが非常に惜しまれた。いや、あったところで演奏なんて出来やしないが。
北郷一刀が「俺、意外に先生とか向いているかも?」と新たな自分を発見しつつ――ともあれ、降って湧いたように始まった「お泊まりの会」は、あっちこっちに迷惑を懸けつつも、一部大絶賛のうちに終わったのである。
なお、「ハンカチおとし」と「叩いて・被って・じゃんけんぽん」における北郷一刀の『天下』(無敗記録)は、鈴々がコツをつかみ、かつ彼の姑息な反則の全てを完全に見破り尽くす二日後の朝まで続いて……終わった。
後にいう『北郷一刀の三日天下』である。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そして――そんな世にも騒がしい三日間が過ぎて。
啄県城門の望楼の上に、北郷一刀と関羽――愛紗の姿があった。
折しも、眼下の平原では鈴々の指揮の下、啄県守備隊の演習が行われている。
中隊規模の騎兵部隊を本陣の周囲にぐるりと配置する円形の陣立て――啄県守備隊得意の『車掛かり』だった。
「もう少しで、元通りかな?」
言うともなしに一刀がつぶやくと
「はい。ですが、私は『元通り』ではだめだと、考えています」
と生真面目に愛紗が答えた。
敗れた時の「元通り」では勝てない――と愛紗が言外にいっているのがわかって、一刀は苦笑した。
「愛紗は厳しいなあ」
「……そうでしょうか」
「悪いとは言ってないよ」
啄県守備隊初めての敗北から、もうすぐ二ヶ月。
装備、補給、人員、そして馬――少しずつ、戦いのダメージを癒してきた努力が、ようやく結実しようとしている。
二人がその様子を見守っていると、一刀付きの副官が駆け寄ってきて愛紗が一刀に代わって報告を受けた。
一つは演習の打ち合わせのために愛紗に現場に下りて欲しいとの伝言、もう一つは一刀への来客の取次だった。
愛紗は「今行く!」と返事をし、一刀は「ここで客に会おう」と返事をした。
愛紗が下の演習場に下りるため城壁の階段を下ると、途中で下から兵士に案内された「客」と行き会った。
「ごきげんよう。関将軍」
そういって体を捌いて愛紗に道を譲った「客」とは、ここしばらく姿を見なかった小夜里だった。
愛紗も歩くのを止めて挨拶をする。
「ごきげんよう、小夜里殿。今、お帰りですか?」
愛紗がそう尋ねたのは、彼女が何時もの長衣ではなく、乗馬用の下ばき、厚手の外套と厚底の靴という旅装だったからである。
しかもその上、ごつい黒革鞘の剣まで背負っている。
「少し遠出を致しました。しばらくは馬に乗りたくありませんね」
苦笑する小夜里に
「それはお疲れ様でした」
と笑い返して、愛紗は一礼した。
小夜里も、いつも通り綺麗な礼を返す。
そして二人は階段の上と下に別れた。
少し歩いて、愛紗は下から上を振り仰いだ。上っていく小夜里の後ろ姿が見えた。
けして急がず、淡々と同じ調子で上っていく。
「……」
背負った剣の無骨さが、今までの小夜里の印象からはズレて感じられて、それが愛紗には妙に気になった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
小夜里が城壁の上に上がると、さっと乾いた風が吹き抜けた。大陸北東部に位置する啄県の冬は、寒さ厳しく風は乾いている。それは城壁の上では、なおさら猛々しく思われた。
その風の中、北郷一刀が立っていた。
風に抗うわけでなく、避けるでなく。
実に気楽なようすで城壁にもたれて演習をみていた。
(事前に聴かされていなければ、彼が『天の御遣い』だなどと誰が思うだろうか)
小夜里は自分自身に問いかけた。
これまでの人生をほぼ旅の中に送ってきた彼女にしても、彼と同じどころか、似通った人間すら思い当たらない。
取り次ぎを待つ間、小夜里が兵士の動きを目で追っていると、兵士が駆け寄る前に一刀が気配を察してこちらを向いた。
小夜里はゆっくりと歩み寄り、少し遠い間合いで、掌と拳を合わせる拱手の礼をした。
「県令様、ご無沙汰しておりました」
「ああ小夜里先生……」
答えた後、彼は小夜里の旅装束を上から下まで一通りみた後で挨拶を返してきた。
「えっと、おかえりなさい、でいいんでしょうか?」
はい、と短く答えて、小夜里は城壁の外へ目をやった。
「お仕事のお邪魔ではありませんでしたか?」
「うん? いや、俺は何にもしてませんけど?」
問われた一刀は不思議そうに問い返し、それから、小さくあくびをした。
偉容や権威といった、いわば人間としての迫力というものと、この青年は無縁だった。
また天の御遣い等と仰々しい呼ばれ方をしているわりに、直接相対してみると別に神々しくもないし、神秘的でもない。
関将軍あたりにすれば失礼極まりない言い方かもしれないが、小夜里には彼が自分と大して歳が変わらない普通の青年に見える。
そんな彼は小夜里に対して敬語を使って丁寧に話す。
彼は啄県の県令であり、彼女は一介の処士である。身分立場の違いは歴然で、そこには儀礼なり、礼法があってしかるべき。
そう思う彼女にとって彼の態度は当初意外であり、論外だった。しかし、幾度も言葉を交わした今では、そんな彼のあり方が至極自然なことのように思われた。
そんな風に思えたことは彼女自身でも予想外のことだったのだが、しかし――けして、不愉快ではなかった。
むしろ彼の持つ邪気のない素直な雰囲気は、彼女にとっても好ましかった。
だから最近の彼女は(彼がそう望んだこともあって)出来るだけ「普通」に話しかけることにしていた。
「少し、お話してもよろしいですか?」
「どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
小夜里は「まず、お礼を」と幽かに微笑した。
「子供達と遊んで下さったそうですね。みんなに聞いてきました。
わざわざ関将軍や張将軍までお出まし下さって、とても楽しい二泊三日だったと」
一刀は面食らったように目を見開き、慌て手をふった。
「いやいやいや! アレはもう、こっちこそはしゃいじゃって勝手ばかりで……鈴々なんかもー一番暴れちゃって。
世話しにいったのか迷惑かけにいったのか分からないから!」
「いえいえ。げーむ、というのですか?
色んな遊びを教えていただいたみたいで、聞いているうちに、一緒にいられなかったのが残念に思えてきたくらいです」
と小夜里は苦笑した。
実際、子供達のはしゃぎようは尋常ではなかった。
おそらく目の前の青年が無心で楽しんでいたからこそ、それが子供達にも伝わったのだろう。
あの子達との付き合いも長い。そのあたりの見極めはつく。
「県令様は、子供がお好きなんですね」
「いやー好きとか考えたことなかったんですけどね」
と北郷一刀は本気で照れていた。
子供と目一杯本気で遊んでいたことか、子供好きといわれたことか、どちらを恥ずかしがっているのかわからない。
しかし彼は本当に子供達の心を掴んでいて、小夜里は正直驚いたのだ。
実のところ、それは口にするほど簡単なことではない。
小夜里はちょっと躊躇ってから、言った。
「あの子達は、戦災孤児です」
一刀は二三度瞬きをした後「はい」と小さな声で答えた。
「……以前に先生から教えて頂きました」
気楽そうな雰囲気が揺れる。一刀は心の一部がむき出しになったような表情をしていた。
小夜里に彼にそんな顔をさせてしまったことに、少し「痛み」を感じながら、話をつづけた。
「世の中の綺麗なところよりも、辛いところの方を沢山知っている子達です。
今ではそうでもありませんが、長い間、笑ってくれなかった子もいます」
「そうですか……いえ、そうなんでしょうね」
幾度か頷いて、一刀は同意の返事をした。
小夜里はそれで、一刀が子供たちのようすに何か思った事があったらしい、とわかった。
――ほんとに、不思議な人だ、と小夜里は思った。
この若者は、人の痛みを自分の痛みのように感じている。
理屈ではない。本当につらそうにしている。
この乱世に、こんな様子で、大丈夫だろうかと思うほどに。
心の中でそうつぶやいてから、小夜里は一刀の顔を見上げて付け加えた。
「でも、そんな子供たちが、あの日の事を話すと一人残らず楽しそうに笑ってくれるんですよ」
ありがとうございました、ともう一度小夜里は礼を言った。
「そうですか……うれしいですね」
俺、素で遊んでただけなんですけど、と一刀は本気で照れて鼻の頭を掻いた。
そして、改めて小夜里の顔を見た。
「先生に許してもらえるなら、また遊びに行きたいと思うんですけど――どうかな?」
「もちろんです――ただし」
「ただし? なんですか?」
「今度は、私がいる時にしてください。
子供達に代わる代わる『楽しかったー楽しかったー』と聞かされて、私は今、とても悔しい思いをしています」
これじゃ一人だけ仲間はずれのようです。と、小夜里はそっぽを向いた。
これは彼女の本音である。
社交辞令じゃなくて、本当に残念だった。
彼女は子供の笑っているのが好きだった。
そうでなければ、一緒に旅をしようなどと思ったりしない。
小夜里が本気だと伝わったのか、一刀は慌てて最敬礼した。
「すみません。ホントにすみませんっ 是非こんどは一緒に! 二度とこんなことはっ」。
「はい。――では、約束ですよ」
と小夜里は笑い、そのまま一刀の隣に立った。
二人は並んで、城壁越しに演習場を見下ろす。
眼下では円形の陣から順に騎馬部隊が走り出していく。
砂煙を跳ね上げながら、突撃を繰り返すその様は中々に迫力があった。
「車掛かり、ですか」
顔に浮かんでいた微笑みを引っ込め、じっくり吟味するような口調で、その陣形を口にする。
「めずらしい陣形です。兵法書には載っていません」
「俺の国の陣形です」
一刀も演習の様子を眺めながら、言った。
「俺の国に上杉謙信という名将がいるんですが、車掛かりは、その武将が得意とした戦法なんですよ」
なるほど、と小夜里は肯いた。
「騎馬の小集団による波状攻撃とは、天の国の発想でしたか」
車掛かりは本陣を取り囲むように配置された騎馬部隊が、代わる代わる攻撃を掛ける戦法である。
小夜里の知っているどの兵法書にも、このような陣立ては載っていなかった。
天の国の戦術だとすれば、無理もないことである。
「啄県の守備隊はこの戦法が得意だと聞いておりますが、この戦法を好んで選択されるには、何か理由があるのでしょうか?」
「別に大した理由はありません。
旗揚げした頃、啄県にはそこそこ馬があって、逆に戦える人間が少なかったから、というのが一番大きいかな。
全員素人だった最初の頃から使っていて、これで戦に慣れたという側面もあるし。
得意というより、一番慣れている戦法ということになります」
そうですか。と小夜里は肯く。
「しかし、この戦法の規模を拡大するには、兵士の増員に合わせて、馬も増やすことになります。中々大変そうですね」
「それが悩みの種でした。
最近やっといい馬が揃えられるようになって、みんなほっとしています」
馬市の規模が回を重ねる毎にに大きくなっているから――ということは、確認しなくていい。
馬の市というのは経済面の波及効果は勿論だが、より直接的には軍備の増強に繋がっているのだ。
「ああ、そういえば。先生はドコへお出かけだったんですか?」
「私はちょっとしたお使いです」
「お使い?」
けげんな顔をして振り向いた一刀に、小夜里はお茶の隊商に纏わる一件を説明した。
孫乾たちの事も含めて、一切隠さない。
新人官吏が独自に応急対処を試みたために発生したトラブルだから、トップの一刀のところにまで話が届いていないのではないか、と小夜里は見ていた。
案の定、一刀は知らないらしかったが
「それで、そのお茶の隊商は無事だったんですか?」
と聞いてきた。少し興味が湧いてきたらしい。
そんな一刀に
「無事も何も」
と、小夜里はぱたぱたと手を振った。
「啄県から一日くらいの山中で隠れるように野営していました」
「は?」と、一刀は間の抜けた声を出した。
そして、しばらく考えてから
「ああ、そっか!」
と声を上げた。
「やられた! お茶の値上がりを待ってたのか!」
梁という商人は早い時期からお茶で儲けていた。
その関係で官吏や役所とも信頼関係があった。
そして今回、今までとは桁の違う多量のお茶を啄県に持ち込む事になり、しかも他ならぬ市場担当の官吏から、
「馬市が始まったら、啄県のお茶が品薄になって、価値は二倍になる」
と教えられた。
「役人がお茶の値段を上げないように商人に頼んだ仕事だと重々承知していながら、商人はつい、儲けに目がくらんだ、と、そういうことか……」
「最近、黄巾がまた騒ぎ出しているので、それを理由に時間を稼いで、馬市が始まってお茶の値段が上がったら、啄県に滑り込むつもりだったそうです」
ありったけのコネを使い、行商人の仲間に声を掛け、さらに自分自身は借金までしてお茶をかき集めてきたらしく、多くの兵に護衛された隊商の野営地はさながら遠征軍中の本陣のようだったと、小夜里は見てきたまま、一刀に伝えた。
「二刻おきに、街と野営地の間を伝令が行ったり来たりしていたました。念の入ったことです」
まったく商人にしておくのが惜しい人材である。啄県守備隊の輜重隊に欲しいくらいだ。
「ってことは――先生はその『伝令』を追跡したんですね」
「はい」
小夜里は「よくできました」とでもいうように、頷く。
「でも、武装しているような隊商を良く説得できましたね」
隊商を仕切っていた商人だって、それなりの覚悟をしていたはずなのだ。
言い訳も、場合によっては居直る事だってありえた。
ぶっちゃけ伝令役の小夜里が――考えたくはないが、口封じされることだってありえたのである……が。
「簡単でしたよ」と、小夜里はこともなげに言った。
一刀には小夜里がいうように簡単なこととはとてもおもえなかったが……。
「商人殿に忠告をしただけです」
「忠告?」
小夜里はこほん、と拳を口に当てて空咳してから、至極真面目な顔で話し始めた。
「『お茶が安く啄県の民に行き渡るようにとは、県令たる天の御遣い・北郷一刀様の強い意向によるものです。
商人には儲けが大事とはいえ、わざと荷を遅らせて啄県の茶価をあげるようなことをすれば、この後、県令殿は貴殿に対して、どのような印象をもたれるでしょうか?』」
「……」
「『貴殿が今回どこへどれほど賄《まいない》を用意されるかは存じませんが、それは全部無駄になるでしょう。
そも、かの天の御遣い様は、常々、自分がうまい茶を飲むためには、まず啄県の民すべてがうまい茶を飲まなくてはならない、と常々仰るような方なのです』」
「そりゃ、俺じゃなくて先生が言ったんです……いいですけど」
「……続けます。
『そこで、もう一度お考え下さい。
今まで貴殿が啄県に示してきた信義は、政庁はもちろん啄県邑民の広く知るところ。
ここで県令殿が何より心を砕かれている啄県の茶価安定に身銭を切って貢献したとなれば、これは大将首にも匹敵する勲功。
県令殿はきっと今にもまして貴殿を重じられることでしょう』……と」
「……それで?」
「はい。それはもう効果覿面で。
かの商人殿は昨日のうちに野営地を引き払い、夜明け前に城門について、開門と同時に城内に駆け込まれました」
「…………」
一刀は黙って小夜里を見た。小夜里も一刀をみた。
二人とも真面目な顔をして、しばらく見つめ合ったが、
「ぷっ、くくくっ」
「……ふふ、ふふふ」
一刀の方が先にこらえきれなくなった。釣られたように小夜里も笑い始める。
一頻り笑い合ってから、一刀が
「ああ、こんな悪い人だと思わなかったなあ」
というと、小夜里は芝居がかった仕草で言い返した。
「私は真実と多少の推測しか口にしておりません。悪い人とは心外です」
「すみません――でも助かった」
ほんとした、とため息と一緒に吐き出して一刀がいう。
「これでお茶の値段が上がらなくて済みましたよ」
「そうですね」
そう相づちを打った後で、小夜里は小さな声で付け足した。
「お茶の『市場価格』が上がりすぎると、馬の取引にも差し支えがでますものね」
――ざあっ。
と、城門の上を強い風が吹き抜けた。
恋姫無双SS 単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話― どこの誰かはしらないけれど 前編 完
――第五回 どこの誰かはしらないけれど 後編 につづく
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