真・恋姫✝無双 ~美麗縦横、新説演義~ 第二章 彼願蒼奏
第四話 片鱗
路地の端に男の身体がどうと倒れ込んだ。
人通りも少なく、あっても多くは酔っ払いの類だろうと考えてか、人々は視線をチラチラと向けこそすれど、声をかけようなどと考える酔狂な人間はいなかった。
ややあって、男は壁を背にして座った。
そのまま手を顔に持っていき、覆う様にして被せてから呼吸を整える。
誰が気づくだろうか。
その男が、つい先日まで魏軍の都督をやっていたなどと。
路傍で空を見上げるその男は、司馬懿だった。
混濁する意識と霞む視界の中で、やっと一息つける程度に回復した身体を必死に動かし、何処とも知れぬ場所で息を整える。
(……ハハ、何とも無様なものだ)
あの二人――馬超の侍女に身を落とした董卓と賈駆――を振りきる様にして別れた直後、『また』あの頭痛が僕を襲った。
(確か、最初は連合で朱里と出会う前で、その次はあの黒騎士……)
荊州出兵の前に一度だけ典医に見せたが、やはり原因は不明だった。
というよりは、匙を投げたと表現した方が正しいだろう。
病名も治療方法も分からず、判明しているのはただ激しい頭痛が襲い来るという症状のみ。
全く以ていい迷惑である。
(―――董卓、か)
あの少女の言葉が気にならないと言えば嘘だ。
だが、おぼろげでしかない記憶を探ってみても彼女と出会った記憶はやはりない。
『ずっと前に、子供の頃にこの街に来て、太守に会った事はありませんか?』
しかし、彼女の言葉は確かに僕の過去の行動に当てはまる。
事実僕は嘗てこの街を訪れ、太守に目通りした事があるのだ。
叔母の司馬防に連れられて、随分と昔に。
(……太守…………奥方、膝の上……少女)
確か、私塾から引きずり出されて宮仕えを始めてまだ間もない頃だったか。
大陸の景色全てが無色に見えて、心の奥底にぽっかりと穴が開いていたその時に、叔母上に連れられて天水まで商業圏を広げに来た折だ。
「太守に挨拶をする」と、あの人は言って僕の腕を掴み太守の屋敷へと向かった。
ただただ惰性のままにそれに従い、形ばかりの礼だけを取って簡略な宴に出席して―――
(…………駄目だ、やはり思いだせなッ!?)
瞬間、再び激痛が襲う。
「ッ!アッ……ガァッ!!」
頭が割れそうな程に鋭く激しい痛みが襲い来る。
胃の内容物を全て逆流させてしてしまいそうな程に凄まじいそれは、しかしこれまでと違って長々と続いた。
(チッ!なん、だと……いう……ッ!?)
痛みで細めていた瞳にありえない光景が映る。
そこにある筈がない。
あってはならない。
だというのに、だというのに――――――
「き、さま……らッ!!」
脚に力を込める。
震える身体を鞭打ち、起こす。
「なにを……して、いるッ!?」
僕の視線の先。
そこには、剣を首筋に突き付けられた董卓の姿があった。
時は少し戻り、月と詠と司馬懿が話をしていた店に戻る。
司馬懿が去った後、少ししてから月達もその店を後にする事にした。
「ねぇ、月」
「……え、えっ!?な、何?詠ちゃん」
詠の言葉に、ぼんやりとしていた月は慌てて返事をする。
その様子がどうも気になった詠は、先程の話を蒸し返した。
「月はさ、あの司馬懿って奴と知り合いなの?」
「え!?え、えっとね……その…………」
詠の追求に、月は視線をそらしたり指を忙しなく動かしたりと実に挙動不審だった。
その事が、ますます詠の機嫌を急落させる。
(なんなのさ、その反応…………ま、まさか……!?)
やがて、聡明な詠は脳内で一つの結論に至る。
「まさか月、あいつと恋仲なの……!?」
「ふぇっ!?ち、違うよ詠ちゃん!!違う違う!!」
詠の呟きに、月は首まで真っ赤になって手をパタパタと振る。
その反応は実に大真面目なもので、詠もそれを察して「違うんだ……」と安堵のため息を洩らした。
「じゃあ何なの?別にそんな、口にするのも憚られる様な関係でもないんでしょ?」
「う、うん……」
詠の言葉に、月はコクンと頷いた。
その仕草を見て「ああもう月は可愛いなぁ」なんて考えてしまう辺り、詠の脳はそろそろ危ないかもしれない。
「あ、あのね……わ、笑わないでね?」
「笑わない笑わない。だから早く教えてよ」
言うと、月は詠に屈むよう頼み、その耳元に口を持っていく。
暫し躊躇う月の吐息がかかる度、詠が乙女が浮かべてはいけない程に顔を崩壊させていた事は周囲の人間は誰もが見てない事にした。
いよいよもって駄目かもしれない軍師の至福の表情は、しかし次の瞬間驚愕に染まった。
「……ハァッ!?憧れぇ!?」
「わっ!わっ!!こ、声が大きいよ詠ちゃん!!」
「い、いやいやいやいや!ないないない!!あれはないって月!!幾らなんでもあれを指して憧れは流石におかしいでしょ!?」
幼馴染の突然の赤裸々発言に詠は渾身の力で「ありえない」を連呼した。
月は月で、羞恥に今度は全身が真っ赤になっているのではないかと思える程に赤くなりながらも、必死に詠の口を塞ごうとしている。
が、突然詠は月の肩をがっしり掴んだ。
「ふぇ?え、詠ちゃん……?」
「月。見てくれに騙されちゃ駄目だよ。男なんて考えてる事はみんな一緒なんだから」
付き合いの長い月ですら見た事のあまりない真剣な表情で、詠はそんな事をのたまった。
暫く間をおいて、それが何を言っているのかを漸く理解した月は、今度は違う理由で顔を真っ赤にした。
「え、詠ちゃん!!女の子がそんな事言っちゃ駄目だよ!?」
「ボクは月の心配をしているの!月は人がいいからすぐ騙されちゃいそうだし、そんなんじゃ散々貢がされた挙句ポイ捨てされちゃいそうで、ボクは気が気じゃなくて……」
そこまで言って、不意に詠はとある事を思い出した。
―――そういえばこの子、初めて会った時もボクの事を「凄い凄い!」って言って憧れた目を向けてなかったっけ?
幼い頃に月の両親が戦に出た折、まだ齢一桁だった自分が軍師として急遽出陣し、采配を揮ったのは彼女の自信の元でもある。
(……思いだした。その後この子、暫くの間ずっとボクの後をついて回ったんだっけ)
まるで子が親を慕う様に。
(……えーと、つまりはそういう事?)
幼心の憧れ、という奴か。
そこに帰結した途端、詠は全身に脱力感を覚えた。
「え、詠ちゃん!?どうしたの?」
「……ううん。何でもないよ、月」
「え、え!?わ、私何か変な事言った?」
慌てふためく月を尻目に、詠はちょっとだけ悲しくなった。
(……騒ぎ立てた事を謝るべきか、腹を立てていた事を恥じるべきか、あれと同類扱いなのを落ち込むべきか)
ハハハ……と力なく笑う詠。
昼をやや過ぎた頃、天水の大通りに珍妙な光景が広がっていた。
「―――姜維」
「はっ……」
漆黒の部屋の中、女性はその名を呼んだ。
それに応える様にして、何処からともなくスウッと一人の人物の輪郭が彼女の視界に映る。
「『アレ』は?」
「現在は天水に留まっている様です」
「天水……ほぅ?」
何処か愉快気に、女性は声音を軽くした。
「如何致しましょうか?」
「……ふむ、そろそろ頃合いか」
鷹揚に手を翳し、女性はその命を下した。
「――――――姜伯約、あの者に近づき、その動向を探れ」
「御意」
静かに、再びその人物は姿を消す。
それを気配で感じ取ったのか、女性は静かに笑みを浮かべた。
「さて……どう動く?『咎人』よ」
何人をも凍りつかせん程に凍てついた、怜悧な微笑を。
「へぇ……じゃあ月が小さい頃に、アイツと会った事があるんだ」
「うん。そう…………だと思う」
「忘れちゃったの?」
「し、仕方ないでしょ!?まだ三つか四つくらいの時の事だし、その時は母様にずっとくっついててよく覚えてないの!!」
市街地をぶらぶらと歩きながら、詠は月の昔の話をあれこれ聞いていた。
「そ、それに……」
「それに?」
「司馬懿さんは『違う』って…………」
手をもじもじさせながらそうのたまう月が途方もなく可愛く見えてしまう辺り、詠はそろそろ本当に不味いかもしれない。
ついでにその思考の隅には「月にこんな顔させるなんてアイツ何様よあァ?」とかなり不機嫌になっている辺り、更に不味いかもしれない。
「で?なんでアレが『憧れ』な訳?」
とりあえず、どうにか月を抱きしめたい衝動と司馬懿をどう始末してくれようかという思考を隅っこに片づけてから、詠は改めて本題に移った。
「あのね、司馬懿さんはその時まだ十歳ぐらいだったんだって」
「うん」
「それなのにね、お家のお仕事を手伝って、この街にも自分のお店を作ったんだって」
「うん」
「あとね。司馬懿さんって凄く琴とか笛とか……そう、楽器が凄く上手なの!それに舞も嗜んでて、後は剣術とか槍術とかも一通り修めたんだって!」
「へぇ……」
意外と多芸なのか、と詠は胸中で感心していた。
しかもそれが十歳前後の話なのだから、当時はさぞ神童と謳われた事だろう。
……いや、そう言えば都で高名な大学者の一人が『今張良』とか讃えた子供がいなかっただろうか?
確か彼の名も―――
「ねぇ月。その司馬懿ってもしかして、蔡邕って学者の弟子だったりする?」
「そうなの!後漢でも一、二を争う程の学者さんなんだぞーって私の母様や父様も言ってた人の一番弟子さんなんだって!!」
やはりか、と詠は満面の笑みを湛える幼馴染の顔を見ながら胸中で嘆息を洩らした。
つまりは自分より少し年上で、頭が良くて、多芸で、高名だから。
そういう物珍しさに彼女は憧れを抱いたという事だろう。
「…………でもね」
ふと、月は何処か陰った表情を浮かべた。
「私の印象に残ってた理由は、それだけじゃないの」
静かに、呟く様に月は零す。
「他にも?」
「うん……あのね」
―――その瞬間だった。
「おいっ!そのガキを抑えろっ!!」
月の視界がぐらりと揺れ、急激な勢いでその体躯が引っ張られた。
咄嗟の事に呆気に取られていた詠は、次の瞬間響いた野太い怒声に漸く意識を取り戻す。
「動くんじゃねぇ!!このガキぶっ殺すぞ!!」
驚いて視線を向ければ、そこには複数人の男達が兵士に囲まれている。
そして囲まれている男達は、その太い腕に月を抱え、首筋に刃を突き付けているではないか。
「ゆ、月ッ!?」
「動くんじゃねぇ女ァ!!このガキがどうなってもいいってのか!?」
血走った眼をギラギラと輝かせながら男は怒鳴る。
見れば身体の所々に切り傷が奔っているそのでかい身体は、しかし肩が激しく上下している所から察するに随分と追い込まれている様だ。
それは男達の窮地であると同時に、月の危機である事も詠には即座に理解出来た。
「へっ……!安心しな、無事に逃げおおせたら、このガキは解放してやるよ」
「―――おら!!さっさと道を開けやがれ!!」
手に武器を持った男達が怒鳴り、兵士達は囲みを解かないまま―――しかし徐々に道を開け、じりじりと距離を測る。
「少しでも変な真似してみろ。ズブリと行くぜぇ……!?」
男の一人がそう言って、月の顔のすぐ傍に切っ先を突き付ける。
「止めてッ!!月を放しなさいよぉッ!!」
「うるせぇ女ァ!!連れの命が惜しいんだったら大人しくしてろっ!!」
男の目は狂気に取り付かれていた。
本気であの男は、彼女を殺す事に躊躇いがない。
それが察せるからこそ、余計に詠は悲鳴を上げざるを得なかった。
「月ェ!!目を覚ましてよぉ!!」
先程の衝撃からだろう。
月は意識を失い、ぐったりとしていた。
それ故に人質として、これ以上ないくらい格好の獲物になっていた。
「さわぐなっつってんのが……!!」
男の一人が激昂し、剣を月の首筋に突き付けた。
このまま刺してやろうか、と男が目に見えるくらい息巻いていた正にその時―――
「き、さま……らッ!!」
何処からか、青年の声が聞こえた。
「なにを……して、いるッ!?」
詠も、兵士達も、男達も。
皆一様に、声のする方を向いた。
「……ッ…………う、ッ……?」
そんな中、誰も気づかぬ内に月は意識を僅かに取り戻す。
朦朧とする意識の中、その耳目は確かに彼の存在を感じていた。
「司馬、懿……さん?」
軋む程に痛む頭の痛覚を無理やり抑え込み、司馬懿は眼前の光景をただ睨んだ。
痛みからその眼光は凄まじく喧嘩腰になっており、それが余計に男達を刺激する事になるとも知らず。
「何……だ。何だってんだよ、テメェ!?」
「んだよその目は!!殺ろうってのかァ!?」
「黙れ……!」
怒声が金槌の様に彼の頭をズキズキと痛ませる。
その苦痛に司馬懿は表情を歪ませ、身体を預けていた壁から離れ男達を睨んだ。
「その子から、手を……放せッ!!」
「うるせぇ!!折角の人質を早々手放せるかよっ!!」
切っ先を司馬懿に向け、男が怒鳴る。
「盗みを働く、様な……下衆が。耳、障り……だっ!」
「―――アァ!?」
瞬間、ブチリと何かが切れた。
「上等だ……!!だったらテメェから殺してやる!!」
「どいつも、こいつ……も」
大振りに長剣を振り回し突進する男を見て、司馬懿は微かに嘲笑を浮かべた。
「―――なぁっ!?」
刹那、その巨体は宙を舞う。
次いで大きな音を立てて男の身体が地面に打ち付けられ、その手に握られていた剣は地面に突き刺さる。
「口を開けば、殺す……死ね、消えろ……失せろ。ハッ……耳障り、だな」
その柄を握り、司馬懿は逆手に剣を構え足を踏み出した。
「実の親がいない……だけで、そんなに…………異物か」
何を言っているのか。
周囲の理解が及ばない中、司馬懿はまるで独白の様に続ける。
「他者より……特別秀でていれば、それだけで……異物か」
「……ッ!何を、ごちゃごちゃと!!」
耐えきれず、一人の男が飛びかかる。
「―――そんな理由で、朱里を虐げるか」
閃光が、閃いた。
「親を戦禍で失っただけで彼女を虐めるか」
血飛沫が舞う。
「年下なのに自分より秀でていただけで彼女を虐げるか」
男の身体が二つに裂ける。
「その影の努力も知らず、知ろうともせず、彼女を穢さんとするか」
刀身から血が滴り、その筋の合間に男達が映る。
「……ハッ、僕を殺す?」
ニヤリと、嘲笑うかの様な笑みを浮かべて司馬懿は呟く。
「やってみろ、下衆共」
スウッと、剣を構えて。
ごく自然な、一部の乱れもない動作でその切っ先を突き付けて。
「僕の命を奪うに、その薄汚れた魂魄が釣り合うというのなら。
彼女を虐げるに、貴様ら程度の存在が相応しいというのなら。
―――この司馬仲達を殺してみせろ。僕の存在の全てを否定し、この命を奪ってみせろ!!」
後記
うだるような暑さにPCが焼けちゃうんじゃないかと心配になる昨今。
話の流れ的に、そろそろ司馬懿がチート化します。
ちなみに本作品では、チート化=狂(強)化、と捉えた方がいいです。
つまり後半になるにつれて司馬懿はどんどん狂化します。
で、皆様に一つ御報告があります。
本日より別サイトにて、本作品『真・恋姫無双 ~美麗縦横、新説演義~』の同時連載を開始する事を決定致しました。
といっても、主はあくまでこっちのサイト(TINAMI)で、載せる内容に変化を加えるつもりは欠片もありません。
ぶっちゃけると、より多くの方に知ってもらいたいという分不相応な野心が発端です。
二重投稿、というのは正直かなり嫌な響きではありますが、より多くの方に読んで貰い、より多くのご意見・ご感想を受けて、これからの執筆活動に活かしていこうと考えております。
私の目下一番のお気に入りであるこの作品がこれからも皆様に読まれる様、これからも頑張っていきます。
どうぞ、これからも宜しくお願い致します。
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そろそろ司馬懿が化けそうです。
*最後にちょっとご報告があります。