納涼フラワリングナイト
――紅魔館。
人里を遠く離れた、広大な湖を臨む霧に包まれた洋館である。
館の主を護るかのように、立ちこめる霧が日差しを遮り、厳かかつ神秘的な空気をあたりに漂わせている……はずであった。
そう、いつもなら。
深紅の館の門前で、ひとり立ちつくしている妖怪は、自分の足下にくっきりと映る黒々とした影に視線を落とし、今日何度目になるか分からない言葉を零した。
「……暑い……」
うつろなまなざしで天を仰げば、そこには灼熱の塊である日輪があざ笑うかのような存在感を誇示し、大地に生きる者を容赦なく突き刺してくる。
「な、なんなのこの暑さ……。普段なら夏だって寒い位なのに……」
彼女――紅美鈴が、この屋敷の門番になって、たしかに妖怪としての歳月を考えればそれほどの歳月は経っていない。
だが、この館の主は吸血鬼である。日光を嫌う種族である主は、それを避けるためにこの地に屋敷を構えたと考えるのが自然だ。
ならばやはり、この状況は異常だといってよい。
美鈴は深く息を吐きながら、額から流れ落ちる汗を手の甲で拭う。帽子を被っている程度ではこの日差しを防ぐことなど出来ず、むしろ頭に熱が籠もってしまう気さえする。
「あー……のど乾いた」
ぽつりと呟いてみるが、炎天下に立ちつくす門番に、ドリンクの差し入れがあるような気の利いた職場ではない。それどころか、草むしりだの荷物運びだの、余計な雑用まで回ってくることのほうが多いのである。
「こんなあっつい日に、吸血鬼のお屋敷に来る奴なんていないわよね……ちょっと湖に行ってくるくらい、見回りってことでいいわよ、ね……?」
言い訳の台詞を口にしながら、遠慮がちにきょろきょろと辺りを見回す。
もちろん誰が聞いているわけでもないのだが、その辺は使われている立場から、自分の行動を正当化する建前が必要なのである。
「うん、そういうことにしよう!」
自らの言葉を励ましとして、美鈴は固く拳を握ると、視界の先に広がる広大な湖へと駆けだしていった。
湖の近くまでやってくると、心地良い冷気が湖面を撫でる風に乗って流れてくるのを感じる。
「お水、おっみず~☆」
喜び勇んで膝を折ると、冷たい水をすくい取ろうと湖面へ両手を差し入れようとした。
……だが。
直後に響いたのは、ぐきりという鈍い音と、それに匹敵するほど鈍い悲鳴であった。
「んぐっ……い、いったぁぁぁ……!」
悲鳴の主は、当然美鈴である。
あらぬ方向に曲がった両手の指を胸に抱え、ごろごろと転がって悶絶する。
幸い、大事には至らなかったようで、赤くなった指に息を吹きかけながらも、どうにか立ち上がった。
「もう、なんなのよ一体! なんで湖が固いのっ……」
目に涙を溜めて、もう一度湖面に顔を寄せると、おそるおそる手をかざす。そしてゆっくりと……確かめるように湖面に触れてみた。
すると、やはり湖面は固かった。ひんやりとした感覚が、痛めた指に心地良い。軽くこつこつと叩いてみるが表面が割れる気配はなく、分厚く深いところまで凍っていることが分かる。
「これって……氷、よね? なんでこの暑いのに、湖が凍ってるの……?」
この湖が凍るのを見たことがない、というわけではない。真冬になればこのあたりは深い雪に閉ざされるし、氷の精たちも集まってくるので、スケートリンクのように湖面は凍り付く。
だが、今は見ての通り、灼熱の太陽が照りつける真夏である。にもかかわらず、これほどの氷が張るというのはどういうことか。
よりはっきりと湖の様子を探ろうと、美鈴は顔を上げ、瞳を凝らしてみる。
すると、凍結した湖面から立ち上っている水蒸気の奥に、かすかな影が見える。氷の上に乗っているようにも、氷からなにかが突きだしているようにも映った。
美鈴は意を決し、軽く地を蹴って身体を宙に浮かせる。
湖面はおそらく体重をかけても割れはしないだろうが、うっかり転んだりしたら間抜けなことこの上ないのでやめておいた。屋敷のものに知られでもしたら、延々と笑いのネタにされかねない。
小さな影を目視で確認し、慎重にその傍へと舞い降りる。
そして、その正体を確認した美鈴は、思わず言葉を失った。
そこにあるのは、純白のカボチャパンツ……もとい、湖に頭から上半身を突っ込んでいる、間抜けな妖精の姿だった。
しかしそれが誰なのかは、悲しいかな、美鈴には分かってしまった。
「チルノ……あんた、なにやってんの」
返事があるはずはないが、半身氷付けになっている氷の妖精に、それしかかける言葉は見つからなかった。
生ぬるい空気の籠もる薄暗い洋館の中に、しゃりしゃりと小気味よい音が響く。
その中に時折、小さなクシャミと鼻をすする音が割り込んでいた。
「ちょっとチルノ、クシャミするなら口くらい押さえてよ。かき氷に入るじゃない」
「夏風邪を引くのはバカだ、っていうけど、本当ね……」
頭からタオルを被って身を震わせているチルノに、館の主と居候の魔法使いが揃って眉を顰める。
ふたりの手には、真っ赤なシロップをかけられたかき氷があった。
「う、うるさいわよっ。第一そのかき氷が食べられるのだって、あたしのおかげじゃないの!」
髪の毛から水滴を落としながら食ってかかるが、悲しいかな、口で叶うほどチルノの頭は達者ではなかった。
「ふうん。頭から氷にはまって窒息寸前だったのを、美鈴に助けてもらったのは誰?」
「う、それは……」
吸血鬼の赤い瞳に見つめられ、たちまち言葉を詰まらせる。
「……飛んで 水に入る 夏のバカ……字余りね」
「ちょっとパチュリー、なに一句詠んでるの! せめて『夏チルノ』とかにしてよっ」
タオルをはじき飛ばしながら抗議するチルノの言葉に、削り終えたかき氷にシロップをかけているメイド長、咲夜の手が止まる。
「あら、チルノが珍しく知的なことを言っているじゃない」
「熱に浮かされているんじゃないですか?」
手渡されたかき氷を受け取りながら、美鈴は苦笑する。まるで集団でチルノをいじめているようだが、まさにその通り――もとい、妖精というのは総じてあまりおつむの出来が上等ではない。ゆえにドジや失敗ごとは日常茶飯事なのだが、今回はさすがにそればかりでは片付けられなかった。
スプーンでシロップと氷を混ぜながら、美鈴は苦笑を浮かべたまま語りかける。
「ねえチルノ、そりゃ外はすっごく暑くて、私だって倒れそうだったわよ。だから湖に水くみに行ったんだけどさ……あんた、氷の精よね? どう考えても水より氷の方が冷たいと思うんだけど」
その言葉に、チルノがぴたりと動きを止める。
そしてそのまま、微動だにしなくなった。
「……もしかして」
「今更気付いたのかしら」
氷像のごとく固まっているチルノを放置し、皆は黙々とかき氷を口に運んだ。
「それにしてもレミリア様、今年の暑さは異常ですよね」
後片付けを終えた咲夜が、カーテンの隙間から差し込む光を気にしながら主を振り返る。
赤い目の吸血鬼は、隙間にちらつく光に眉を顰めつつ、彼女の言葉に相槌を打つ。
「そうねえ。かれこれ五百年以上生きてるけど、こんなに暑いのはあまり記憶にないわ」
「本当ね。この屋敷は窓が少ないから、こう暑いと風を通せなくて辛いわ」
手にしている本で仰ぐような仕草をしながら、パチュリーも同意する。
吸血鬼の館である紅魔館は、主が苦手とする直射日光を極力内部に入れないようにしているため、窓は換気に必要な程度に抑えられている。そのため、風を通して涼を得る、というのは無理なことであった。
過去に日差しを防いで活動しやすくしようと魔力で霧を濃くしたこともあったが、その一件で博麗の巫女に目をつけられてしまっているので、同じことをするのは好ましくないだろう。
「ここは涼しいところですから、普段であればそれで不自由はないんですけどね。私も門番をしていて、暑いなと思うことはあっても焼け死ぬんじゃないかとまで思ったのは、この夏が初めてですよ。……日焼けもひどいし」
「え、でもそんなに黒くなってないんじゃない?」
「……焼けると赤くなるんです。腕とか、寝ててうなされるくらい痛いんですよー」
袖から覗く腕をさすり、美鈴は自分の苦労を吐露する。不平を口に出来るような立場ではないので、これまで何も言わなかっただけである。
真夏でも真冬でも、常に野ざらし。それが門番という任務の、悲しい現実であった。
「でもここでこれだけ暑いのなら、人間の里はもっと大変かもしれないわね。ねえ咲夜、人間たちはどうやって暑さをしのいでいるのかしら」
アイスティーを口にしながら、レミリアはこの屋敷唯一の人間である咲夜へと視線を向ける。
「そうですね……人間は魔力で気候を操作することはできませんから、さまざまな創意工夫で乗り切っている感じですね。もっとも、気を紛らわせてどうにかしている面も大きいですけど」
「つまり、他のことに気を逸らすことで暑さを忘れようと試みる、ということかしら」
パチュリーの問いに、咲夜はそんなところですね、と頷く。
「なにそれ。全然解決になってないでしょ」
「忘れてもいいことは忘れてしまった方が楽なのよ。あんたの場合は頭からっぽすぎだけど」
調子が戻ってきたのか話に割り込んできたチルノの頭を、美鈴は指先で突っついてやる。
その横で、咲夜の答えに興味を持ったらしきレミリアが、ふわりと羽を広げる。
「具体的にはどんなのがあるの?」
「極端なものだと、わざと熱いものや辛いものを食べて、外の暑さを吹き飛ばすほど汗をかいてしまうとか」
その光景を想像した皆は、一様に頬を引きつらせている。
「人間って……案外逞しいのね」
「真似はしたくないわ……」
人間よりはるかに頑丈に出来ているはずの吸血鬼と魔法使いが、溜息混じりに呟いた。
「そんなのばかりではありませんよ。日が落ちて気温が下がる夜に、花火大会をやる、なんていうものもありますし」
「花火大会?」
ちょん、とレミリアが首を傾げる。
主が見せた珍しい仕草に、美鈴は思わず話に割り込んだ。
「レミリア様、花火はご存じないのですか」
「もちろん知ってるわ。でもあれに『大会』なんていう名称が付いているなんて思わなかったのよ。単なる出し物の見物みたいなものだと思ってたから」
そう言われてみれば、と美鈴も顎に手を当てる。
妖怪である自分だが、使い走りなどで里に下りたときに、しばしば花火大会の光景を見かけたことがあった。
そのとき目にしたのは、一様に花火を見上げて歓声を上げる人間たちであり、演劇のごとく繰り広げられる夜空の芸術に酔いしれるさまだった。
大会というからには競い合いがあるはずだが、それがどのあたりに存在するのかは、これまで考えたことがなかった。
「花火にはスポンサーがついていますし、職人同士の競い合いもありますけど、ほとんどの参加者は単純に花火を眺めて、しばし暑さを忘れて風物詩を楽しむ、という感じですね」
咲夜が笑みを浮かべながら、そう説明する。
たしかに、日が落ちて涼しくなった夜空に浮かび上がる炎の芸術は、暑さを忘れるのにもってこいだろう。
競い合いをしている連中は当然文字通りの熱い火花を散らしているだろうが、見物しているだけの立場なら、気楽なことこの上ない。
――しかしそれは、あくまで人間たちの話である。
「ふうん。でもそれって、つまらないわよね。どうせなら、夜空を彩る弾幕の競演といきたいじゃない」
かちゃり、とカップを置いて、レミリアが不敵な笑みを浮かべる。
妖怪の類は、総じて好奇心が強い。まして自分の力を誇示することで地位を保っている、上位の種族ともなればなおさらである。
「誰の弾幕がいちばん美しいか……普段のスペルカードバトルとはまた違う切り口ね。面白いかも知れないわ」
パチュリーも開いていた本を閉じ、レミリアと視線を交える。
一見いつも通りの気怠そうな表情だが、その瞳の奥には、熱い炎がちらりと気配を覗かせる。
嫌な予感が、美鈴の胸を横切る。
「……もしかして、やるんですか?」
おそるおそる確認してみるが、その答えは火を見るよりも明らかだった。
「当然! この暑さを吹き飛ばすほどの熱い弾幕で、夜空を彩ってあげようじゃない!」
羽を大きく広げ、レミリアは高らかに開幕の宣言をする。
この幻想郷では、誰かが号令をかければ催しが始まる。
そして情報は、瞬く間に広まっていくのだ。
「ちょっと待ったあ! そんな面白い行事を、お前さんたちだけでやろうなんざもったいなさ過ぎるぜ」
「もー、また面倒起こす気なの? 暑いんだからおとなしくしててよね」
バン、と音を立てて、部屋の扉が勢いよく開かれる。
姿を見せたのは、勝ち気な笑顔を浮かべた黒ずくめの魔法使いと、いかにも気怠そうな紅白衣装の巫女であった。
「魔理沙に霊夢……もう聞きつけてきたの?」
いくらなんでも早すぎるのでは、と美鈴は目を瞬かせる。
なにせレミリアの号令から、まだ三十分も経っていない。張り込みでもしていない限り無理なことだろう。
その問いに、魔理沙がにやりと笑う。
「ああ、私はたまたまここに『正面からお邪魔しよう』と思ってきたら、話し声が聞こえてきただけさ。んで霊夢は、神社でへばってたら縁側に文々。新聞号外が投げ込まれてきたっていうんで、慌てて駆けつけてきた、ってわけ」
文々。新聞――幻想郷の早耳天狗、射命丸文が発行する、虚構と脚色に溢れた娯楽誌である。
さすがは幻想郷一の速度を持つ彼女、あっというまに記事に仕立て上げてしまったようだ。
「まあ、花火大会ってことなら大目に見るけど、無駄な破壊と攻撃は禁止よ」
「わかってるわよ。花火ってやつは火薬だけど、殺戮を目的としてるわけじゃないでしょ。ならこの弾幕バトルも、あくまで華やかさを競うものにしなきゃ」
レミリアの言葉に、霊夢は溜息をつきながらも小さく頷く。
「ねえ、どうせなら他のみんなも呼んでぱーっと大々的にやらない? 紫とか、幽々子とかも!」
「……チルノ。その方々は、あんたが気安く呼び捨てに出来るようなお方じゃないわよ」
はしゃぎはじめたチルノを、美鈴は冷や汗かきながら牽制する。
「もうそのあたりにも、文の新聞が届いてるんじゃねえか? 興味があったら、頼まなくても向こうから湧いて出てくると思うぜ」
「そうね。その辺の隙間からにょ~っと顔を出すと思うわ」
霊夢が指先で、空間に裂け目を作る仕草をする。
「呼んだ?」
「うわ、さっそく出たー!」
すると、まるで霊夢が本当に裂け目を作ったかのように、そこから景色が避けて別の空間へと繋がっている。
その隙間から、にゅるりと姿を現したのは……
「……紫。あんた、人前に出るならちゃんと服着てきなさいよ」
幻想郷最強と謳われる隙間妖怪様は、タンクトップにパンツという、だらけを絵に描いたような姿で、ばたばたと忙しく団扇を動かしている。
「いやよ、この暑いのに。別に素っ裸なわけじゃないんだからいいでしょ」
「素っ裸くらい潔いのなら、私が御札で全身埋め尽くして強制送還するわ」
「それはまた、随分と前衛的なファッションね」
霊夢の睨みも、紫には通用しない。長い髪を邪魔そうに掻き上げながら、レミリアの方へ顔を向けた。
「というわけで、参加はOKかしら?」
「勿論。ぱーっと派手にやって暑さを吹き飛ばそうじゃないの。飛び入りも可能にして、派手に盛り上がりましょ」
おー、とふたりが拳を突き上げると、いよいよ祭りムードに突入といった雰囲気になった。
あと誰を誘うか、審査は誰がするのか、実況中継は……など、誰が仕切るわけでもなく話は広がっていく。
なんとも予想が付かないが、これこそ幻想郷らしいお祭り風景といえるだろう。
美鈴も、にわかに心が躍ってくる。
「ところで美鈴」
「なんでしょう、レミリア様」
自分はどんな弾幕を披露しようか、と案を練っていたところ、不意に名を呼ばれる。
「分かってるとは思うけど、あなたは当日も門番よ」
「はい、……って、ええ? 私は参加できないんですか?」
思わず声を上げると、なにをいっているの、とうような視線が、館の住人から向けられる。
「みんながお祭りやっているときに、屋敷ががら空きだったら賊に入られ放題じゃない。そういうときの泥棒って多いのよ」
「そうね。今も現に、堂々と魔理沙に正面突破されてるじゃない。いつまでも持ち場に戻らない、ぐーたら門番さんのせいで」
「え、え……」
ちくちくと突き刺さる視線に、暑さとは違う汗が背筋を伝い始める。
「ほら、分かったらさっさと持ち場に戻る! この祭りの件で尋ねてくる人があったら、ちゃんと案内するのよ」
「は、はいぃぃぃ~」
美鈴は涙を浮かべながら、弾かれるように屋敷の建物から外へと走り出る。
外は相変わらずのカンカン照り。
降り注ぐ日差しが容赦なく皮膚を突き刺した。
「うう……ここからでも花火、もとい弾幕は見えるかしら。飛び入り許可っていっていたけど、私はきっとダメなんだろうなあ……」
暑さにだれていたとき以上に深く頭を垂れながら、美鈴は近く開催される祭りへと思いをはせるのであった。
~FIN~
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東方二次創作。紅魔館に訪れた夏の暑さは、いつもと違うあまりに厳しいもので――07年に発行したコピー本の作品です。