「あ。出ちゃった……」
優一の情けない声と共にかがみの顔に雫が滴った。
指で拭って見てみればそれは鮮血だった。
どこから降ってきたのかと思えば、優一の両方の鼻の穴からだった。
かがみとの抱擁は優一にはあまりに刺激的で、鼻の血管が興奮に耐え切れなかったらしい。
かがみは体を放すとポケットからティッシュを取り出し、
千切って丸めて優一の鼻に押し込んだ。
すると多くの女生徒を惑わす折角の可愛い顔も台無しになり、思わず笑いをもらした。
「笑わないでください」
座りこんだ優一は、ふてくされた様に顔を背ける。
肝心な時に興奮のあまり鼻血を出してしまう自分の不甲斐なさに苛立っていた。
そんな優一をかがみは正面から抱きすくめた。
一度やってしまえば二度目の躊躇いはなかった。
「好きだよ、ゆう君。大好き」
息を吹きかけるように耳許でささやくと、
優一の鼻に詰められたティッシュはたちまち真っ赤に染まり、
吸いきれなくなった血が溢れ出す。
優一には、はしゃぎまわりたい程嬉しい言葉だったけれど、
そんな元気もないほどに血が流れ出てしまった。
その日、家に帰ったかがみのセーラー服には気づかないうちにわずかな赤い染みができていた。
それを目敏いまつりが見つけた。
「つかさ……も、もしかしてかがみの制服のあの血は……」
驚き動揺しきっているせいで、指した指は小刻みに震え目は瞬きも忘れて見開かれている。
「今日、お姉ちゃんは優一くんに抱かれたんだよ」
つかさは今さら驚くこともなく、顔色一つ変えずに淡々と語った。
その事実は噂となってたちまちのうちに広まった。
翌日、久しぶりに勉強会が開催された。
かがみと優一の間に騒動が起こる前までは、
放課後の自習室で二人だけの勉強会が頻繁に開催されていた。
騒動が落ち着いて久しぶりに開催された勉強会は異様に参加者が多かった。
「あんたたちも勉強するなんて珍しいわね」
一団の先頭を切って廊下を歩いていたかがみが振り返りながら言った。
「そっかそっか、ごめんねかがみ。せっかくの二人きりの時間を邪魔しちゃってさ。
なんの勉強をしてるのかしらないけれど」
いやらしく顔を歪めたこなたが冷やかす。
「ごめんね、優一くん。私たちちょっと大きな課題の提出が明日だから……」
とつかさは申し訳なさそうに言う。
「そんなに大変な課題なんですか?」
優一はさらに後ろからついてくる見慣れぬ上級生に目を向けながら言った。
高良みゆきに日下部みさおと峯岸あやのも一緒なのだ。
「それじゃあ早速、」
と自習室に入るなり、こなたとみさおの二人はかがみの両隣の席を確保した。
「あんたたちの目当てはこれでしょ」
かがみは既にできあがっている自分のノートを机の上に放り出すと席を立ち、
優一の隣に移った。
「い、いいんですか?かがみ先輩」
椅子とりゲームに負けてさっきまで少しばかりいじけていた優一の顔が、
嬉しそうにほころぶ。
「いいのよ、どうせあいつらはまじめに勉強するつもりなんてないんだから」
「なんだよ、冷てぇなぁ柊は。友情よりも男をとるのか?」
「かがみも男ができるともう私たちには突っ込んでくれないんだね……」
「だって、もう突っ込まれてるからな」
ダメな友人二人はかがみが突っ込んでくれるのを期待して、
声のボリュームをあげて喋っていたというのに、
かがみは優一の指導に集中して気づかないのか振り向きもしない。
ダメな友人二人は寂しげにため息を漏らした。
「よし、一年生!辞書を取ってきてくれたまえ!」
みさおはおもむろに立ち上がって叫んだ。
「え?……僕ですか?」
驚いた様に顔をあげる優一。
「他に一年生はいないだろ?」
「日下部、そんなの自分で行ってこい!」
優一を使い走りにされるのがよほど気に障ったのか、かがみの口調はいつもの三倍厳しかった。
「ひぃっ……わ、悪ぃ」
敵意の籠ったかがみの目に睨まれて、みさおは椅子を跳ね退けるようにして立ち上がった。
「僕、大丈夫です。行ってきます!」
「そんなの行かなくてもいいわよ!」
かがみが止めるのも聞かず、優一は自習室を飛び出して図書室へと向かった。
「一体どういうつもりよ!」
「まぁまぁ、みんな柊ちゃんの話を聞きたいのよ」
憤慨するかがみをあやのがなだめる。
「私だって今までいじられてきたんだから、今度は柊ちゃんの番だと思うの」
言いながらあやのも好奇心の溢れる眼差しを向ける。
「したんでしょ?」
「お姉ちゃん、したって何したの?」
「しちゃったんだろ?吐いて楽になれよ」
「やっちゃったんでしょ?淫行」
五人は目を輝かせてかがみを見つめる。
ん?淫行?
こなたの言葉に解せない単語が混じっていることに気づいた。
「ちょっと待て、淫行ってなんだ?淫行って!私を変質者みたいに言うな!」
「変質者じゃないよ、犯罪者だよ?かがみ」
汚名を着せられまいとむきになるかがみに対して、こなたは冷静に言った。
「えぇっ!お姉ちゃん何か悪いことしたの?」
「そんなことしてない!いい加減なこと言うな、こなた!」
「つかさって今いくつ?」
「私?18だよ」
「じゃあ、かがみも18だよね。それでゆう君はいくつ?」
「今年で16だけど、今はまだ15才よ」
とかがみ。しっかりと誕生日も把握しているらしい。
「やっぱり淫行じゃん。かがみは未成年のいたいけな少年の純血を奪ったんでしょ?」
かがみは一瞬返事に悩んだ。
実のところここに集まった少女たちが期待しているような事は何もなかったのだから。
けれど、もうやっちゃったんだろう?みたいな期待の籠った目で見つめられると、
何もなかったと言い出せないでいた。
「埼玉県青少年健全育成条例の19条に依ると、1年以下の懲役又は50万円以下の罰金、ですね」
今まで黙っていたみゆきの眼鏡がキラリと不気味にひかる。
「ちょっ……みゆきまで何言ってるのよ!」
ひょっとしてこれは脅迫か?とかがみは思った。
一部始終を赤裸々に語らないと人生をめちゃくちゃにしてやると、脅されているのか?
「ひょっとして柊ちゃん、何もなかったの?」
そう発したあやのに一同の視線が集まり、
そしてまたかがみに注目がもどる。
観念してかがみはこくりと一度だけうなずいた。
「なんでだ?ひょっとして土壇場で怖じ気づいたのか?」
「お姉ちゃんにも、こわいものってあるんだね」
「かがみも、女の子だったんだね」
「大丈夫、アレを初めて見るとみんなそうなるものよ」
みんな既にかがみを臆病者だと決めてかかっている。
そう思われるのはいささか癪ではあったけれど、
真相を語りたいとも思わなかった。
「う、うるさいわね!あんたたちには関係ないでしょ!」
かがみは思わず立ち上がって力いっぱい叫んだ。
自習室の外にまで声が漏れそうな程。
その迫力に思わず静まり返った時に、そろっとドアが開き、
そこから優一が顔をのぞかせておそるおそる中の様子を伺った。
「あの〜……今ってお取り込み中ですか?」
優一は申し訳なさそうに、かがみの逆鱗を刺激しないようにできるだけ静かに穏やかに言った。
「柊がでっかい声出すから彼氏がびびってるじゃないか」
「あんたたちが悪いんでしょ!」
そう言って、かがみは浮かしていた腰を椅子に落とした。
「僕は何の辞書を持ってくればいいんでしたっけ……?」
「なんだ、使えない彼氏だな。そう言うときはあるだけ全部の辞書をもってくるに決まってんだろ?」
「わかりました!すぐに行ってきます!」
と言い残してすぐに優一は踵を返して駆け出した。
「日下部、いい加減にしろよ」
「なんだ、やっぱり友達よりも彼氏が大事なのか?」
「でもさ、何か想像できないよね」
こなたはぼんやりと天井を見上げながらつぶやいた。
「どうしたの?」
「ゆう君ってさ、こんな怖いかがみにどうやって迫るのかな?と思って」
こなたはまだ怖い顔をしているかがみに目をやった。
「案外さ、『私を抱きなさいよ!』って柊のほうから迫るんじゃねぇの?」
「いやぁ、これでもかがみは純情な乙女だからね。
いざとなったら怖くなって怖じ気づくくらいだから。
二人きりの時にデレる、それがツンデレなのだよみさきち君」
「う〜ん……そんな柊は想像できねぇ」
そんな勝手な妄想でかがみをいじって楽しんでいた二人の頭に鈍い衝撃が走る。
優一が走って持ち帰った辞書でかがみが二人の頭をぶった。
それは首の長さが縮んでしまいそうな程の重さだった。
「もうお前ら帰れよ!」
邪魔が入ったせいで久しぶりの勉強会は長引いた。
切りのいいところまでと熱中していたら、いつの間にか二人の姿しか残っていなかった。
端から勉強をするつもりのなかったその他大勢は、
二人が気づかないうちにそろりと自習室を抜け出して帰ったらしい。
先に靴を履き変えて当たり前のように待っていたかがみのところへ優一が小走りでやってきた。
「あの……先輩。その……もし、よければですけど……」
優一は何かを言おうとして躊躇っている。
ひょっとしたら何か嬉しいことでも言ってくれるのかとかがみは思わず期待して見つめ返してしまう。
それがさらに優一のプレッシャーとなることに気づいていない。
「家までお送りします」
なんだ、そんなことか。どんなすごいことを言われるのかとドキドキしていたのが馬鹿みたい。
「あ、でも、僕なんかが一緒でもたよりないですよね……」
そう言えば辺りは薄暗くなり始めていた。
この調子では最寄り駅から家まで歩く頃は完全に日が暮れていそうだった。
そして今日はつかさもいないから一人で歩くことになる。
優一は年下の癖に一丁前にかがみの身を案じているらしかった。
「好きにすればいいでしょ」
かがみは背を向けて先に歩きだす。
そうは言ったけれど、このまま優一が帰ってしまったらどうしようと、
内心不安でしかたがなかった。
別に夜道が恐いわけじゃない。
せっかく一緒に帰れる機会を自らふいにしてしまうことが恐かった。
それなら始めから素直に言えばいいのにと思うものの、
それができない自分がときどき嫌になるかがみ。
『一緒に帰りたい』と言うだけなのに、それが途方もなく難しいように感じられる。
小走りで距離を詰めた優一はかがみの隣に並んで歩いた。
「じゃあ、かがみ先輩の家まで着いていっちゃいますからね」
「いいわよ……別に」
そっけなく言って、ほころびそうになる顔の筋肉を引き締める。
電車を降りて、駅を出ても優一はかがみの隣を並んで歩こうとする。
かがみはそれが面白くなかった。
明るくて、人目が多いところならともかく。
外灯の少ない帰り道では通り過ぎる人の顔だってよく見えない。
おまけに田舎だから駅前とは言っても人影は少ない。
けれど優一はそんな不満に気づく様子もなく、
かがみの家を見られるのが楽しみなのか、
相変わらず幸せそうな顔をして隣を歩いている。
かがみが突然足を止めて立ち止まったことにも優一は気づかず、
そのまま何歩か歩いていってしまった。
「どうしたんですか?かがみ先輩」
ようやく気づくと立ち止まって振り返った。
かがみはつまらなさそうに地面を睨み付けている。
言葉を発する変わりに鞄を持っていない方の手を、斜め前に少し差し出した。
かがみが何か言うのかと思って待っていた優一だけれど、
かがみはその姿勢のまま動かなくなって、何も言わなかった。
「何かありましたか?」
優一は小走りでかがみのもとへ寄る。
かがみは何も言わず、鞄を持っていなかった方の手を優一に差し出す。
優一は意図がわからずかがみの顔色を覗き込もうとしたけれど、
逃げるように背けられてそれもできなかった。
「一緒に帰るんだったら……手くらい繋ぎなさいよ」
小さくて、それでいてあえて不機嫌を装ったような声でかがみは言った。
ひょっとしたらかがみの顔はゆで蛸の様に赤くなっていたかもしれないけれど、
今は暗いから誰にも気づかれる心配はなかった。
「気がつかなくてごめんなさい」
そう言って、優一はそっとかがみの手を握った。
「かがみ先輩の手、柔らかくて暖かくて好きです」
「ばっ……馬鹿じゃないの!」
恥ずかしげもなくよくそんな馬鹿な事が言えるものだと思いつつも、
かがみは嬉しかった。
にやけてしまっているに違いない顔を見られるのが恐くて、必死で隠していた。
かがみは家までの長くはない道のりをゆっくりゆっくりと歩いた。
おしらせ
夏コミ参加します。
二日目 土曜日のT01a
「いつも反省中」です。
よければお裁ちよりくださいな。
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もしも、かがみが年下の男の子から恋文をもらったら…… というような感じで書きはじめた話です。
「かがみ、デレる」