凛が入ってきたとき、言峰は床に座して書物を読んでいた。
前まで来ると凛は一礼し、言峰に向きあう格好で正座した。 あどけない少女の顔はそれでも緊張を帯び、場にふさわしい威厳を保とうとしていた。
「寒くないですか、綺礼」
「平気だよ」
春を迎えたとはいえ、地下にあるこの工房はまだ冬の冷たさを残していた。床の上に直接組んだ脚からは言いようのない寒さが這いのぼってくるが、自分の内にある雑念を冷ますにはちょうどよいと思えた。
照明は周囲が見えるぎりぎりにまで落としてあった。石で組まれた眺めは、無機質な静けさを生み、冷たさをより強めている。一見乱雑に置かれた道具類もひとつひとつに意味があり、魔術的に計算しつくされたものだと言峰は聞かされていた。
言峰にはその意味がわからない。わからないが、逆らう理由もないから従っている。
「その本は」
凛が書物に視線を落とす。古びた装丁の書は師から与えられ、くりかえし読むことを命じられたものだ。言いつけどおり何度も開かれた紙は端が陽に焼けて変色し、背表紙の一部もほつれて糸が出はじめている。頁をめくるときに添えた指の箇所がかすかな汚れとなって残っているほどだ。
「諳んじているけど、また読んでいる。おなじ内容でも、新しい発見があるかもしれないから」
「勉強熱心なのですね」
「私が凡人だからだよ。君のような才がないから、何回もくりかえさないと身につかない」
凛がなにかを言いたげな目を向けてくるが、適当な言葉が見つからないようだ。言峰にしてみれば事実を述べただけだが、凛には卑下とも世辞とも受けとられたかもしれない。
結局なにも言わないまま凛は姿勢を正した。
「お父様が呼んでいます」
遠坂の家に滞在すると、どこの国にいるのかわからなくなる。
教会の抑えた色合いに慣れているだけなのかもしれないが、さまざまな国を見て文化に触れてきた言峰からも、この屋敷はどこにも属さない異国に見えた。赤を基調にした模様が部屋のほうぼうにちりばめられ、絢爛な眺めを支えている。なにかしらの装飾が施された調度品も家柄を主張するかのようだ。
この家にはひとつの理想が息づいている。由緒正しい家柄をあらわした空気と、誇りをあらわした人々の振舞い、そして徹底的に整えられた家族という形式。
居間には凛の両親と使用人がいた。どこかへ出る準備をしているらしく、使用人が慌ただしく動き回っている。遠坂は姿見の前に立ち、葵から上着を着せかけられていた。
鏡にうつりこんだ言峰に気づいたらしく、遠坂がこちらを向く。
「すまない、呼びだててしまって」
「いいえ」
「急に出かける用事が出来てしまってね」
言いながら手を伸ばした遠坂に、葵がタイを手渡す。
「子供を連れて行ける場所ではないから凛を置いていかねばならない。夜までには帰るつもりだが、それまで凛の面倒を見てやってはくれないだろうか」
凛が自分に寄り添っているのを言峰は感じていた。両親のそばにいかないのは、支度を邪魔してはならないという配慮だろう。それでも隠しきれない寂しさがこの距離になっているのだと思う。
「ご要望とあれば、喜んで」
「よろしく頼む」
遠坂が満足そうに頷く。
玄関から入ってきた使用人が、迎えの車が到着したと告げる。上着の襟を注意ぶかく整えていた葵が娘の名を呼ぶと、ようやく凛は母親のもとへ駆け寄った。
「言峰さん、よかったら、凛を街に連れていってはもらえませんか」
葵はたえず貞淑な表情とひかえめな動作を見せ、いつも遠坂の一歩後ろにたたずむ。遠坂のような男の妻としては最適だと思う。おのれの道を追求するがあまりともすれば社会から外れがちになる魔術師を支え、修正し、孤高な存在とそして高貴な家柄という形につなぎとめている。
葵の指が凛の髪に触れ、リボンを直している。やわらかな笑みは無償の愛をたたえ、いいかなるときも周囲へ注がれている。
そういった仕草、家族の肖像を見るたび、言峰は立ちくらみを思いだす。自分の伴侶であった女性、そして彼女が抱いていた赤子。記憶はただの事実であり映像をともなわず、近づこうとすれば恐怖にも似た眩暈がおとずれる。記憶じたいが存在を消そうと身震いするようだ。
「この子にはなるべく外を見てもらいたいのですけど……最近私も主人も忙しくて、なかなか連れて行ってあげられなくて。言峰さんについていただけるのでしたら、安心ですし」
「そうだな、それがいい」
遠坂の声は威厳に満ち、葵の言葉を裁定するかのように大きい。人の上に立ち決定権を握る者の響きは、言峰の父親に似ていた。
「綺礼君もたまには息抜きが必要だろう。もうすぐ遊ぶどころではなくなるから、楽しんできたまえ」
「そうします」
こちらを見る凛の目に戸惑いが走った。
言峰は黙ったまま凛のあとをついていく。小さな背中は周囲を意識しているのか、精一杯に伸びている。そのせいか、ふたつに結いあげられて揺れる髪が可愛らしく見えた。人々が歩く隙間にスカートの残像がひらめき、小さな影を走らせていく。
通りに出てから今日が土曜日だと思いだす。透き通った陽射しはそれでも強く、行きかう人の顔色もこころなしか明るく見える。道に沿って植えられた欅にはようやく葉がつき、新緑が雑踏を春に染めている。それぞれの歩き方、出会いと別れ、交わされる会話。休日という、ほんのすこしだけ日常から外れた時間の眺めだ。
脇に並ぶ店はほとんどがガラス張りになり、広告と反射の河になっているせいで、ただでさえ多い人通りがさらに多く見える。露店から漂ってくる焼き菓子の匂いが甘く気怠く感覚にまとわりついてくる。
凛に視線を置いたまま言峰は雑踏の流れに従っていく。
遠坂の、暗喩に満ちた視線を覚えている。街に連れてこさせたのは凛だけではない。遠坂は言峰にも街を見ておけと命じていたのだ。
遠坂のもくろみは正しくもあり、間違ってもいる。すでに言峰は冬木のほぼ全域をめぐって利用価値がある立地を覚えこんでいた。この繁華街は昼間でこそこの賑わいだが、夜になれば人どおりも途絶える。言峰は来た道をふりかえり、建設途中のビルを見あげた。最近になって増えはじめた建造物のなかでもひときわ大きい。剥き出しになった鉄骨と何台ものクレーンが空を刺している。近くで抗争があった場合、あれはいい見張り台となるだろう。
近いうちにここは戦場になる。日常の隙間、夜の奥底で、人智を超えた技量と力のぶつかりあいがはじまるのだ。だが肌で感じていても、いまだ納得はできていなかった。
右手の痣を眺めるたび疑問がわきあがる。血の色と混沌の模様で構成された聖痕。見慣れてしまった令呪は、まるで生まれたときからついていたかのように言峰の人生に添い、いまでは疑問の代名詞になっている。いったい何がどんな理由で、リスクの大きい手順を踏むよう仕向けたのか。
聖杯が自分を選んだ理由もそうだ。よりにもよって教義に反する異端として魔術師を狩っていた自分が、こうした形で魔術に関わることになろうとは。どんな仮説をたてても辻褄があわない。自分が遠坂を補助するために選ばれたなどという、遠坂時臣だけに都合のよい説明は、いまだ信じる気にはなれなかった。
言峰が遠坂の家に弟子入りしてから二年が経とうとしていた。
はじめ母親の隣にいるだけだった凛はやがてひとりで言峰の前を歩くようになり、今では継ぐ者としての自負を仕草に垣間見せるようになった。大人びた喋りかた、周囲とはちがう見識、高く留まろうとする視線。すべては父親である遠坂時臣のものだった。貴族たる者が、上流であることを誇るための動作だ。
みずからが遠坂の唯一無二の跡継ぎであるとまわりに印象づけることで凛は不安を拭い、父親に甘えてもいるのだ。凛にとっての父親とは、魔術師としても人間としても絶対の存在だった。
凛は情にひきずられやすいが、賢い子だと思う。確固たる目標と信念を持ち、それに近づくための努力も怠らない。
おなじような待遇を受けるほどに、凛と自分、ひいては世界と自分との違いを思い知る。自分は心に空虚を抱え、いつまでたっても満たされず、基盤すらわからず世界をさまよっている。自分を満たそうと努めるほど底が深くなっていくようだ。
魔術は探求に値したが、自分の心には何も残さず、身体の動作としてしか実を結ばなかった。師をしてみずからを超えたと言わしめた治癒の技術でさえ、言峰自身の欠損は癒せない。神の教えも同じだった。あまたの人に生きる歓びを説き進むべき道を示せても、自分には乾いた砂をつかむような感触しかない。
渇望が絶望を生み、絶望が渇望を記す、永遠の輪廻から抜けだせずにいる。残ったのは研鑽された力と、憤怒に渇いた心。
春独特の白くやわらかな陽射しが、自分の底にある烈しさを照らしだす。まだ足りないのだ。自分はまだ、答えを得られるべき場所にまでたどりつけていないだけだ。
凛は言峰の先へ先へと急ぐように歩く。意識しないように振舞うのは意識されている証拠だろう。言峰にとっては余裕の歩きだが、凛はほとんど駆け足になりはじめていた。雑踏のなかではちょうどよい歩幅がつかめないらしく、たびたび石畳に爪先をひっかけては身体をよろめかせている。そのたびに通行人の腕が凛の頭をかすめ、リボンが危うげに揺れる。
「凛」
見かねて言峰は凛の肩を支え、
「転ぶといけない」
さしだした手を、凛はおおげさに首を振って拒絶した。
「ひとりでも大丈夫なのに」
「君は遠坂家の大事な跡取りだよ。より気をつけなければいけないんだ」
「じゃあ、大事に扱ってください」
凛がそっぽを向く。事の次第がようやく言峰にも呑みこめてきた。凛は自分を認めながらも、同じ師を持つものとして嫉妬と警戒を拭えずにいるのだ。だからせめて優位に立ち、自分をかしずかせていたいのだろう。
喉の奥から洩れた笑い声を聞きつけたのか、凛はますます向こうを向く。
「承知しました、お嬢さま」
こちらから凛の手をとると、小さな指が握りかえしてくる。そして凛はわずかながら誇らしげな笑顔を見せた。
ゆるやかな坂道にさしかかった。
足先に街路樹の影がさざめく。ひらけた視界のなかで、人々が春を楽しんでいる。道端には装飾品を売る者や絵を描く学生たちが色とりどりの敷布を敷き、各々の世界を広げている。大道芸人の披露する技に群れをなした人々から歓声があがった。
白く透きとおった陽光が、それぞれの人々や家族の形を浮きだたせ、輝やかせている。近くもあり、遠くもある風景だった。
時間のせいか若者や家族連れが多く、その中には凛を注視し、容姿を褒める者もいた。陶器のような艶やかさを持った肌に、うすく紅をさしたような頬と唇。子供らしいあどけなさを残しながらも、まっすぐな眉と長い睫毛が強い意思を宿し、印象ぶかい表情をつくる。身なりの良さと気品をあらわしたような凛の振舞いは、たしかに人の目をひいた。視線を浴びるという意味を凛は理解し、他人の注目をみずからの養分として取りこんですらいる。
凛と自分は他人の目にどううつるだろうかと言峰は思う。親子にしては距離が遠く、兄弟にしては歳が離れすぎている。極めつけは自分の格好だ。十字架を下げた男と良家の子女の取りあわせは、傍から見て不可解なものにちがいなかった。
もしかしたら、遠坂と葵は自分に同情してくれているのかもしれない。妻を亡くした自分を気づかい、擬似的な家族を味わわせようとしてくれたのかもしれない。それは自分にとってまったくの見当違いだったが、今の状態を受け入れる余裕は持ちあわせていた。言峰の境遇などおかまいなく色々な感情、特に苦悩や不安までもをあらわにする凛は、遠坂時臣や父親が自分に寄せる筋ちがいの期待よりもだいぶ好ましく感じられた。
「お父様が言ってました。綺礼は呑みこみが早いって」
沈黙がかえって本音を引きだしたらしく、凛の声には多少の羨望が混ざっていた。
「愚直なだけだよ」
「見習いなさいって」
「碌な事にならないと思うが」
人は言峰の努力は見るが、その下に澱む憤怒までは知らない。生命を削り自分を限界に追いつめてようやく会得した異端の術も、なんの指針も示してはくれない。成果も賞讃も、自分の欠陥を思い知らされるだけだった。
凛が立ちどまるので、言峰も倣う。
「もう」
凛は語気を荒げ、
「褒められてるのに、どうして素直に喜べないの?」
「事実だから」
「わたし、貴方が苦手」
「それは失礼。てっきり私は、凛が大人あつかいしてほしいのだとばかり思っていたからね」
凛を見下ろすと眉をひそめ、形のよい唇が不満げに曲がっている。言峰がほのめかしたところは掴みきれないものの、やりこめられたことだけは解ったようだ。
凛の瞳に葉の影が揺れ、迷いをさざめかせる。同じ志を持つ者として敬ってほしいという欲求と子供として甘えたいという欲求のせめぎあい、そして課せられた立場を納得させている凛の痛々しいまでの決意が言峰には手にとるように見える。こういう時、ふだん漠然としかとらえられなかった自分と他人との関わりかたが、ようやく実感できるのだ。
色とりどりの風船を手にした子供たちが歓声をあげながら目のまえを駆け抜けていく。
無邪気な笑いが響き、子供たちの動作にあわせて風船がせわしなく動く。そのひとつが群れから離れ、風に迷いながら空に消えていった。
見ると、雑踏の一区画で制服姿の青年が風船を配っていた。開店した路面店の宣伝らしく、人が密集している。
凛と周囲の子供たちを見くらべ、言峰はその店に足を向けた。
「ほら」
言峰が差しだしたアイスクリームを、凛は戸惑いながらも受け取った。無駄に量があり、凛の両手からもはみ出している。大げさなワッフルコーンから溢れそうなアイスクリームにはチョコレートがかかり、その上さらに果物が乗せられている。こういう無謀さを凛は見たことがないらしく、眺めわたしたままどう扱っていいのか考えあぐねているようだ。言峰とて事情に詳しいわけではないから、店員にすすめられるまま頷いていたらこうなった。
店から出ていく奇妙な二人連れに、風船配りの青年が笑いかけてくれる。
「どうしてわたしに?」
「機嫌を損ねてしまったお詫びに」
凛は置かれた状況より、こちらの笑みが気に入らないようだ。
「やっぱり子供だと思って馬鹿にしてるでしょ」
「馬鹿になどしていないよ。嫌なら食べなくてもいいんだ」
迷ったあげく、凛がアイスクリームに口をつける。いちど離してから考えこみ、もういちど口にして、
「おいしい。けど悔しい」
そう言って頬を膨らませる。
こうやって気丈さという外壁を崩し、露呈した凛の本心を味わうごとに、言峰の内に響いてくる感触があった。ついぞ意識していなかった他人との距離、ささやかな悦びとでもいうべきざらつきが心にひっかかる。このざらつきには覚えがあった。言峰が置きざりにしてきた過去の手ざわりだ。
ビルの隙間からのぞいた陽光に目を射抜かれる。白く染まった視界に立ちくらむ。鼓動が喉元にまでせりあがり、身体に揺さぶりをかける。まるで閉じられた扉を無理やりこじあけようとしているかのよう。
脳が記憶を再生しかけ、立ち位置を見失う。まぶしすぎた太陽、たえず続いていた潮騒、光とおなじやわらかさを持っていた女の笑顔。伸ばされた手、ナイフに煌めいた死、そして雨のあとを追っていた血の滴り。
いいえ、貴方は私を―――
足がアスファルトのかたさを踏みしめる。街の喧噪が耳をつく。なんの変哲もない休日が坂の向こうにまで続いていた。気候のせいだろう。春なのに初夏を思わせる太陽のせいで感受性がおかしくなっている。
凛の身体を抱きあげる。短い悲鳴もかまわず腕を伸ばし、凛を肩に乗せた。抵抗しようとした凛はそれでも動かないほうがいいと判断したのか、おとなしく肩車をされている。凛の身体は小さく、脆弱だ。この小さな身体で、遠坂の跡継ぎたる運命を受け入れようとしている。
「おろして」
いちど、頭を小突かれた。音が聞こえただけの弱々しい叩き方だったが、凛にとっては不満の堰が切れた合図だったらしく、今度は平手で頭を叩かれた。
「おろしてって言ってるのに」
「お父上の言いつけを忘れたのかな。優雅たる者がそういう気持ちを表に出すものじゃないよ、凛」
「綺礼なんてだいっきらい」
凛の声は大きく、周囲の人間が驚きの顔をしながらふりかえる。言峰は思わず笑い声をあげていた。
「何がおかしいの」
「ようやく君らしくなった」
頭を反らして凛を見あげると、はにかんだ笑顔に迎えられた。なめらかな表情が光を受けて内側から輝いて見える。わずかな癖を持つ凛の髪が艶をたなびかせ、吹き抜ける風のなかをくすぐるように動く。
「だって、お父様の言いつけは守らないといけないもの」
「凛にとって、導師は絶対なのだね」
「そうよ。わたしはお父様が大好きだし、お父様のような立派な人になりたいの」
得意気な声を聞くまでもなく、凛の身体がわずかに動いたことからも、凛が遠坂時臣に寄せる信頼と敬意がわかる。
「綺礼のお父様も、立派な方なのでしょう?」
「ああ、尊敬に値するよ」
だから困る、という言葉をしまいこんだ。純なる心を誓った聖職者ですら瑕疵を持つ。豪華絢爛な装飾のもとで権力をちりばめた声を発し、受難に耐えた神を語る者たち。利己的な欲を試練にすりかえ、信仰の結果だと思いこんでいる人間を数多く目にしてきた。その種の人間にかかると、自分の疑問はすべて信心が足りないとの一言で済まされてしまう。父親ですら、自分の基盤を取りちがえている。そしておそらく遠坂も、都合のいい解釈を押しつけてくるだろう。
「わたしがもうすこし大きかったら、お父様の力になれるのに」
「凛は充分、力になっていると思うよ。導師は―――」
言峰はふたたび続きの言葉を封じた。視線を落とし、適切な言葉を探す。
「先輩として、凛のお手本を示さねばならないからね。そう考えるだけで力になる。そのためなら導師は、困難も乗り越えていけるだろう」
人出が多くなってきた。歩道の上に濃い影が重なり、ひしめく合間を、自分と凛の影がくぐり抜けていく。黒々としたその影が、心に冷ややかな判断をもたらしてくる。
父親として。その言葉を言峰は怺えた。非道なまでの探究を信条とし、時に術の行使が生命を超える魔術師の見本のような男は、しきたりや目的のためなら家族も切って捨てる。そして自分もまた、父親としての形をどこかに置いてきてしまった人間だった。
「綺礼もお父様の力になってくれるのですよね」
凛も凛なりに、大人たちの非情さを理解しようとつとめている。その場その場で振舞いかたをかえられる賢さもあれば危機を切り開く強さも持ちあわせている。
「いい結果は約束できないけれど、力は尽くそう」
「ありがとう」
「どういたしまして」
アイスクリームと格闘しだしたのか、凛が黙りこむ。どうにか効率のよい食べかたを模索しているらしく、脚があちらこちらへとぶれはじめる。すました顔に爛々とした瞳を見せながら凛は春の昼下がりの感触を楽しんでいるのだろう。
風に乗ってやってきた紋黄蝶がたどたどしく羽を震わせ、人波に翻弄されながらふたりの前から去っていく。
凛も覚悟は決めているだろう。もしこの先、時臣が敗退し死に至ったとしたら、凛はこの若さで父親の死を受け入れ、当主の座に就かなければならないのだ。だから今は、こうして屈託なく笑っていられればいい。
アスファルトからたちのぼる熱気が、眺めを揺らす。ひとりでいる自分と他人と関わりあう自分。目にうつる色彩の差が、そのまま自分の差異になり、思想と振舞いに変化していく。
聖杯戦争は大きなうねりになり、この熱気とおなじように自分も凛も呑みこむだろう。
令呪のみちびく先、選ばれた理由を知れば、この渇望と絶望の行きつく先が見つかり、魂が震えるほどに満たされるのか。それともこれまでと同じように、自分の烈しさをもてあますだけになるのだろうか。わからない。違反する存在をつくりだした神の本意でさえ、自分にはわからないのだ。
家族、父親、そして聖職者。この世界を構成するおおくの雛形はしかし、どれも自分にあてはまらなかった。自分の歩いてきた道はどれも、茨におおわれた虚無でしかなかった。争いから生まれる変化がどんな雛形を用意していても、この手で受けとめ、この足で超えていかなければならない。
ゆるやかな坂を下っていく。街路樹のさざめきが雑踏のざわめきに重なる。やわらかな陽射しに包まれた肌を、影がくりかえし撫であげる。
まだ見ぬ争いの感触は目の前のそれに似て、ひどく遠く、渇いていた。
終
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Fate/stay night二次小説。第四次前の言峰と凛、ほのぼの風味。