No.150492

二重想 第二章 弐

米野陸広さん

第二章第二話です。
オリジナルと二次創作を両方投稿していると、やはり二次創作が強くなりますね。
まだまだ技術力が足りないんでしょう。
頑張って閲覧数が常に百を超えるようになるといいんですが。
さて話もだいぶ架橋です。というか、結構面倒になってますね。

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2010-06-14 01:30:09 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:1430   閲覧ユーザー数:1337

夢なんて、見ようと思って、見られるものでもないけれど、ここのところ、本当に夢を見ない。それだけ熟睡しているということだから、身体にはいいんだろうけど……。人生としては味気ないよな。

僕はそんなことを考えながら、自宅にて、朝飯を食べていた。パジャマ姿で傍には、昨日読んでいた文庫本の続編を置いている。手には、狐色に焦げたトースト。たまには、白い炊き立てのご飯を食べたくも思うのだが、生憎、家には、炊飯器が無い。あるのはポンッと飛び出てくるタイプの、トースターだけだ。

焼きたてのパンに、マーガリンを塗っていく。丁寧に無駄にならないように、薄く満遍なく塗る。

これは僕のこだわりで、マーガリンを使う理由だ。バターは硬すぎて、どうしても固形状のままになってしまう。僅かな給料を節制するためには、なるべく少ない量で、美味しくいただく必要がある。もちろん、具は載せない。朝飯なんてただのトースト一枚で十分だし、他の栄養分は、夜に摂取している。不健康かもしれないが、昼には『黄金堂』で、日暮さんの奥さんに恵んでもらえるから、何の心配も要らなかった。

働き始めた当初は、さすがに遠慮していたのだが、二人には子供がいないので、僕が子供のように見えたらしく、是非そうしたかったのだそうだ。そういうわけで、それを断るのは、彼らに悪かったし、僕にとっても好都合だった。

「さーて、今日も一日頑張りますか。」

少ない朝食を腹にしまい込むと、服を着替え、僕は今住んでいるアパートの107号室の外に飛び出した。

まず太陽が僕を照らし出し、次に映るのは、五十代半ばの女性の影。

「聡志君行ってらっしゃい。」

「行ってきます。」

彼女はちょうどこの時間帯、アパートの前を掃除している大家さん。いつもニコニコ顔で、僕に向かって挨拶をする。

敷地内から道路に出た僕は腕時計で正確な時間を確認する。……八時十七分三十六秒。

デジタル時計はそう表示していた。でも、この時計は二分二十四秒遅れているから、……お、丁度八時二十分だ。ラッキー。なんか今日はいいことがありそうだ。

僕は徒歩七分の駅へ向かって歩き始めた。

……やはり、大分涼しくなってきたな。まだ、葉っぱは色付いてないけど、もう少しすれば、落葉して、この一帯の道路も、真黄色だろうし。

僕は、イチョウの街路樹を見上げながら、のこのこと歩いた。

今日は十分に時間がある。少しぐらいゆっくり行っても、遅刻はしない。九時までに駅に辿り着けばいいんだから。

「さてさて、どこか、回り道でもしてみようかな。」

危ない人間のように独り言を呟きながら、僕は、横道に入った。特に理由はない。ただ、こっちの方に行ったことがないだけだ。

横道とは面白いもので、そこに入ると必ず、迷うのだが、なんとなく勘を当てに歩くと、大概、知っている道に出る。それで、今日も入ってみたのだが……、なにかおかしかった。いつもと違う、この道はなぜか知っている気がするのだ。前に一回歩いたような……。これが、最近よく聞くデジャヴ、というやつなのだろうか?

前世、僕はこの辺りの住人で、毎日、この道を通って通勤をしていた。……なんて貧弱な想像力なんだろう。想像なんだから、もっとロマンチック且つ、ドラマチックになってもいいのに。たとえば……、だめだ。思いつかない。これでも読書家なんだけどなあ……。

ふと一つの表札が目に入った。自然と、歩んでいた足も止まる。

『霧下』

一瞬感じる電撃。急な鼓動。

もちろん彼女の家のはずがない。彼女が昨日降りた駅は、『黄金堂』がある、ここの最寄駅から二つ隣だ。ここに彼女が住んでいるはずはない。

だが、そう肯定しようとした僕の脳裏に、さっきの既視観と思しき感覚が、再びよみがえった……。

まさか、そんなうまい話が……。

あるわけないじゃないか、と胸中で呟きかけるものの、僕の視線はその表札に釘付けだった。バカなことに、その考えが打ち消せないでいる……。

「……はあ。」

そこで、一つ吐くため息。

僕はどこまで間抜けなんだろう。そんなことあるわけないんだ。霧下さんなんて探せばいっぱい、いるんだから……。さて、そろそろ駅に向かいますか……。

失意を胸に、僕はその、霧下家を後にした。彼女が、今日も来てくれるかもしれない、そんなバカなことを考えながら。

「……はあ。」

本日、五十三度目の溜息。客が来ないから、吐いた溜息の回数も、数えてしまうほど暇だ。朝十時の開店から、ひとっこ一人、店には入ってこないという事実。店主でないアルバイトの僕でさえ、虚しさがこみ上げてくる。しかも、こんなことで給料なんて貰っていいのだろうか、そういった感情まで湧きあがってくるほどだ。

だが、問題はそこではなかった。溜息が出てくるのは、決してこの店が暇だからではない。暇なら暇で、本を読めばいいだけのことなんだから。問題は、そう、霧下冴子、彼女のことに他ならない。

忙しければ、何も考えずに、ただ仕事に忙殺されていればいいのに、暇だから、ついつい彼女のことを考えてしまう。おかげで、本を読む気すら起きない。……完全な恋煩いだ。

「……はあ。」

五十四度目の吐息がこぼれる。

「聡志。その辺でやめないか?少々耳障りだ。」

日暮さんが僕に注意する。

「おおかた、冴ちゃんのことでも考えていたのだろう?」

「わかりますか?」

「いや、あてずっぽうで言ってみただけだ。」

「……そうですか。」

全く。この人は。勘がいいというか、なんと言うか。

僕は、隣で、いつものように入り口を見張っている日暮さんを見やった。

「だが、」

その日暮さんの口が開いた。顔は入り口一点を見続けながら、

「彼女を落とすのは難しいぞ。特に、お前はな。」

「……。」

「冴ちゃんは、そもそも、男と付き合うことにあまり積極的じゃない。前まで付き合っていた男とも、……そうだな、要するに、相手から告白してきたから、ちょっと付き合ってみただけ、そういう気持ちだったんだろう。冴ちゃんは優しいからな。無下に断ったりすることが出来ないんだ。……だから、付き合う。深く求められれば、すぐに別れる。そういう女の子だ。」

淡々と彼は語った。……なんでそんなことを彼が知っているのかは謎だったが、まあ、筋は成り立っているから本当のことなんだろう。

日暮さんは言葉を続けた。

「彼女は恋をしない。それは、何故だと思う?」

日暮さんの目だけがこちらに向けられ、僕に答を求めた。僕は、首を横に振る。さあ、と。

「簡単なことだよ。……他の男に恋をしているからだ。」

胸をえぐるような言葉だった。僕はかろうじて、憶測の言葉を吐き出した。恐る恐るだったが。

「相手は、……雪村恵吾さん?」

「正解。よくわかったな。というか、これは、昨日言ったか。」

「ええ。」

彼女が、取った行動から考えれば、簡単に予想はつく。記憶喪失の男を、自分の家に寝泊りさせようと考えるのだ。幾ら身内の元恋人だからといって、彼女がそこまでやる義理はない。しかも、二人の男女が一つ屋根の下で暮らす状況。特別な感情無しに、それをする人間がいるとは、とても思えない。

しかしその男はもう、……僕は、思ったことをそのまま口にした。

「……でも、彼は―――。」

「恋をするのに、相手がいようといまいと、関係ない。恋してしまったら、それまでなんだからな。」

「……。」

日暮さんに途中で遮られ、僕は押し黙る。事実は受け止めなければならない。

「そのうえで、しかも、お前さんは、その雪村恵吾に、そっくりと来ている。……彼女は間違いなく、お前との距離を置こうとするだろうな。」

「そう、でしょうね。」

彼女は、間違っても僕を、彼として愛さないように、僕との距離を置こうとするだろう。彼女は優しいから。僕のためにも、自分のためにも、決して僕を愛さないようにするだろう。

「だから、彼女が、ここに来ることは、あまり期待しない方がいいぞ。」

「わかってますよ。」

……心の方はぜんぜん理解してくれていませんけど……。

と、僕は聞こえない声でそっと、付け足した。そうだよ、いつになったって、心を飼いならすことなんて、出来はしないのだから。人間でいる限り……。

僕は気分を変えるべく、まだ書棚に並べる前で、レジの周りに積んである本の山の内、一番近くの山から、一冊手にとった。裏表紙を表にし、あらすじを読む。

―――戦いから帰ってきた男は、続くその坂道を登りつづける。大戦中、極秘作戦を成功させたジョン。だが、英雄であるはずの彼を迎えてくれる人は、誰もいなかった。それどころか、戦友にはめられ、国を追われる立場となってしまう。果たして、ジョンは如何にして、このピンチを潜り抜けるのだろうか!―――。

つまらなさそうだ。……もともと、こういう類の小説は好きじゃないし。

僕はその本を元の場所に戻し、別の山から、一冊取った。さっきと同じようにあらすじを読む。

―――十八の誕生日を迎えた彼は、その日全てを失った。友も家族も、そして恋人さえも。なぜなら、その日から、彼は『幸せになることを許されない男』の運命を背負ってしまったから。彼に関わるもの全てに、数々の不幸が訪れる。彼は二度と、幸福にはなれない。しかし、彼には、自殺出来るほどの覚悟もなかった。……果たして彼は、絶望の先に何を見るのだろうか?―――

僕に、一体何を読ませるつもりで、こんな本がここに置いてあるんだ。マイナスだ、マイナス過ぎる。絶望の果てに何を見るか、だ?そんなこと僕の知ったことじゃない。最後が、ハッピーエンドなのか、どうなのか、全く知らないけど……、絶対、暗い。暗いに決まっている。

八つ当たりであった。……意味がない分、心にぽっかり穴が開いている。だからそれを埋めようと、ついつい何かに当たってしまう。きっと、そうにちがいない。

僕は、ため息をつかないように努力しながら、本を元の山に戻した。

なんか、さっきから暗い話ばっかりだな。裏切り者の末路に、絶望に陥ったバカの末路だっけ?何処か違う気がしたが、敢えて気にしない。どうせ読まない本なのだし……。

次の山に、手を伸ばす気にはもう、なれなかった。理由は簡単だ。あらすじを読まなくても、その本の中身が容易に想像できたからだ。

表紙に、耳の取れた青い自称猫が片手を上げて笑っている。僕はしばらく、その自称猫を見つづけていた。

……悲しいぐらいに、時間が無駄に過ぎていく。視るのではなく、見えるだけの自称猫。それだけが、僕を笑って見つめ返してくれる。最初は励ましに見えていたその笑いも、今は嘲りにしか見えない。……僕は、なんてやつなんだろう。幼いころはあんなに好きで、いつも友達だったら、と思っていたのに……。とはいっても、さすがに実在するとは考えなかったが。

「さて、聡志。そろそろ昼にするか。」

「あ、……はい。そうですね。」

日暮さんがお昼の誘いをかける。僕は腕時計を確認した。時計はきっかり十二時をさしていた。……逆だよな、普通。僕は苦笑する。

日暮さんと僕はレジ内の座っていた椅子から、立ち上がる。日暮さんは茶の間に、引っ込み、日暮さんの奥さんに、ご飯の催促。僕は、店の外にかけてある『開店』の看板を、『ちょっと待ってね!』にひっくり返す。その緑ペンキでかかれた文字の下には、小さく黒マジックで、『私用の方は裏口へ』とあるが、僕が働き始めてから、これに従って、訪れた人は皆無だ。

「……はあ。」

五十……六だっけ?……もう、どうでもいいか。せっかく数えてきたんだけど。

僕は、ひっくり返した看板から、手を離し、苦笑した。今、吐いた溜息が、彼女の来訪について考えていたことを、必然的に示していたからだ。

恋は盲目。……名言だな。

僕は、頬を両手で軽くたたき、彼女のことから、少し頭を離そうとする。ムンクの『叫び』のような顔をしながら、入り口である引き戸についた窓ガラスに、自分の顔を映す。……恋に踊るものは、みんなピエロなんだよな。

もう一度、僕は自分の頬を叩き、『黄金堂』の中に戻った。懐かしく感じる古本の匂い。いつもは心落ち着けてくれるその香りが、今はなんだか無性にいらついた。

なぜかはわかっている。

今までは、満足していたんだ、この生活に。この空間に。だけど、彼女が現れた。欲しいものが出来れば、人間の欲望には限りがない。……彼女の存在は僕を大きく変えてしまった。まだ、逢ってから、たった一日しか経っていないというのに。

……彼女がいない空間。漠然とした空虚。

今まで満足していたどんな場所も、彼女がいないなら、もうそこは、僕の居場所じゃない気がする。例えば、この『黄金堂』さえも。

しかし、彼女は、彼女には好きな人がいる。

僕は、店の中心で、木製の天井を見上げた。豆電球が、ぶら下がっている。実るはずのない恋に、視界が歪んだ。

それでも、僕は……。

溢れる悲しみを拭い、店の奥にある茶の間へと上がる。そこで、日暮さん夫妻に、笑顔で迎えられた。

「遅かったな、聡志。」

「もう、ご飯できていますよ。」

「はい。」

僕も座ると、そこにタイミングよくチャイムが鳴った。

「ん?客か?」

「そうですね……、珍しい。」

三人の食事の手が止まる。

「僕が出ましょうか?」

「そうしてくれるか。」

「はい、喜んで。」

僕は、箸をテーブルにおき、立ち上がった。久しく使われていないと思われる、裏口へ向かう。……一体誰なのだろうか。もちろん、心の奥には、彼女の姿がちらついたが、あまり、がっかりしないように、その姿を慌てて、打ち消した。

ドアのぶに手をかける。

「どちら様でしょうか?」

そう、言いながら、引き戸を動かす。そして、……僕は、カウンターパンチを食らった。

「こんにちは、雪村さん。」

そういって、にっこり笑う。

何故彼女がいる?僕は、驚愕の表情を浮かべずには、いられなかった。

薄レモン色のブラウスに、若草色のロングスカート。秋というよりも、春を意識したような感じだが、今はそんなこと、どうでも良かった。

喜びに疑問が、スパイスされた心中。だが、そんなことを知る由もない彼女は、僕の呆然とした態度に気づかず、口を開いた。

「雪村さん、……今晩、ご予定、入っていますか?」

「い、いいえ。特に、予定はないですけど……。」

「良かった……。」

彼女は嬉しそうに、ほっと、安堵の息をついた。……それはどういう意味だ?

鼓動が意味もなく早まっていく。

「あの、今日一緒に、夕飯を食べませんか?」

「えっ!」

「……駄目、ですか?」

彼女が、頬を赤くしながら、残念そうに呟く。

「いや、そんなことはないんですけど……。また、何で僕と?」

……理由がわからない。彼女が好きなのは、僕ではなく、『彼』のはずだ。それなのに、何故?

すると彼女は、俯いて僕から目を逸らした。

「……その理由は、そのときに、話します。」

彼女の声は自然と、小さくなっていった。どうやら、日暮さん夫妻には、聞かれたくないことらしい。……それとも。

何かただならぬ、事情がある。そして、それには、必ず『彼』も関係している。直感だが、そんな気がした。

しかしながら僕は彼女の申し出を、素直に喜ぶことにした。それが、本音だったのか、彼女に心配させないための演技だったのかは、自分でもよくわからない。けれどこれによって、彼女がこの奇妙な縁を、一体どのように捉えているのか、はっきりするだろう。

僕は彼女と午後六時に駅前の銅像の前で、逢う約束を交わした。

未来は、常に変化していく。それは、運命というプログラムに組み込まれた、単なる事象かもしれない。

そうすると未来は、自分が行動しなくても何かが、もしくは誰かが行動すれば、次々と変わってしまう。そうであるなら、せめて自分の未来ぐらいは、自分で動かしたいと思う。たとえそれが、既に組み込まれてしまった歯車であったとしても、僕は一向に構わない。

結果が良くても悪くても、幸福になっても後悔しても、自分で切り開いた道ならば、例えそのときは無理でも、いつかはきっと納得出来ると思うから。

自分の未来は自分で動かしていく。決して他人任せになんかしたりしない。

これだけは、この指針だけは、誰にも譲りたくないんだ。絶対に……。

日暮夫妻は突然の彼女の来訪に、多少驚いたようだったが、それでも、またいつも通りの態度に戻っていた。

「あの雪村さん。」

「……ん、何ですか?」

約束を交わし、彼女は帰る間際になって、僕に問い掛けた。

「その右手の甲の傷痕、どうしたんですか?」

「ん、これっ?」

僕は自分の右手の甲を見やった。そこには、中指の延長線に真っ直ぐと入った、小豆色の模様がある。……今まで特に意識したことなどなかったけど。

というよりも、存在自体に気づいたのも初めてだった。不思議である。しかしそれ以上に、僕にとって不思議だったのは、そこに彼女の瞳が必要以上に、その線に注がれていることだった。

……けれども、今の僕は、その理由を気にすることなど出来ない状態になっていた。彼女の視線が、僕に釘付けになっている。例えそれが、身体のほんの一部に過ぎなかったとしても、僕だけを見ていることに、かわりはない。その事実が、僕の心臓のビートを少しずつ、着実にペースアップさせていた。

このままでは、また、顔が茹でタコ状態になりかねない、そう察知した僕は、非常の策として何とか、今話題の傷跡の出生の秘密を思い出そうとした。ちょっと考えればどうせすぐに思い当たることだろう。これだけの傷痕ならば。

「これはね、えっと?……あれっ?」

鼓動が急なリタルダンドを起こす。僕の視線も、自分の右手に集中していた。

思い出せない。なぜ、これがここにあるのか、記憶が蘇ってこない。

「覚えてないんですか?」

「んー。そんなことはないと思うんですけど……。多分、子供の時につけたんだと思う。……確か。」

僕は、適当なことを言って誤魔化そうとした。理由は良くわからないが、とっさに嘘をついていた。

「子供の……頃ですか。」

「うん。あんまり記憶にないから、理由まではわからないですけど。」

あんまりではなくて、全くだったけれど、確かに記憶にないのだから、きっとそうなのだ。だが、しかし、それならそれで、親に一回も、その理由を聞いたことがないというのは、奇妙なことではあった。聞いていたら、きっとその理由も覚えているだろうに。

おかしな現象に少しだけ頭が冷静になる。

「でも、何でそんなことを?」

「いいえ、ちょっと気になっただけですから。あまり、深い意味はありません。」

そう言って彼女は、嬉しそうに微笑んだ。

その感情の意味を読み取ることは僕には出来なかった。いや、待てよ。

僕は光の速さで論理を構築する。……ああ、そうか。『彼』には、この右手に傷跡がないんだ、きっと。だから嬉しいんだ。僕と『彼』とが、違う存在であることが確認できて、嬉しかったんだ。

一つ問題が解決され、良い気分で、彼女のことを送り出せそうだった。けれど、その反面に、もう一つの感情が自身の中に存在していたことを、僕はそれとなく感じ取っていた。

「それでは、雪村さん。また、後ほど。」

「はい。また、後で逢いましょう。」

彼女が去り、外界との接触を絶ってしまった扉の前で、僕は再び右手の甲に目をやった。原因不明の傷跡。何のためについた傷痕なのか。……やはり思い出せない。

これは一体……?

さっき出した結論から、この傷跡が、僕と『彼』を見分ける区分だということに気づく。そう思うと、急にそれが恨めしく思えた。

こんなものが、何で……。

傷跡への疑惑は、やがて、浅い憎しみへと変わった。彼女に僕を『彼』として愛されるよりは、僕を『僕』として愛して欲しい。そのはずなのに、それを判断するための、この傷跡に、僕は怒りを覚えている。……それは、どういうことなのだろうか。僕は戦う前から彼の幻影にさえ勝てないでいる。そういうことなのだろうか。

僕は、大衆と変わらない右の手の平を見つめながら、しばらくそこに立ち尽くしていた。日暮さんの声が掛かるそのときまで。

夕餉の時間は、瞬く間に過ぎ去っていった。だが、それはとても楽しいものになった。

霧下家の面々のことが良くわかり、それぞれの人となりも次第に掴めてきた。

まず、冴ちゃん。彼女は、耀子の五つ違いの妹になる。今は、高校三年生で、私と耀子が通っていた高校に在学しているそうだ。外見と違い体育会系で、水泳部に所属し、実力も相当なものらしい。もう、大学への、推薦もほぼ決まっているとか。

次に、順子さん。実質、この家の柱と言える存在である。母権社会である霧下家では、彼女を元に生活が成り立っている。結婚する前は服飾デザイナーだったそうだ。年齢は、霧下家の法律に触れたくないため、敢えて聞かないようにしたが、見た目、四十代半ばといったところか。化粧といってもルージュを引いているぐらいで、特に若作りしている様子もなく、輪郭が耀子に似ていた。また、特筆すべき点は、料理の才能だ。あらゆるジャンルの料理をマスターしていると思われる、順子さんの腕にはひたすら感服するしかなかった。

「和食の方が得意なのだけれど……、」

と順子さんは、微笑を浮かべていたが、彼女の料理は和食に限らず、洋食も中華も、普通のファミレスより、断然味がしっかりしているし、見た目の盛り付けも、一級品といえる出来栄えだった。現に食事中、このような料理を毎日食べられたらどんなに幸せか、と幾度そう思ったことか。それほどまでに、素晴らしい食事の品々が、テーブルの上に並んでいたのである。

そして、最後に、建前、一家の主である、要さん。現在四十三歳。職業は、公務員。特に、何の職業かまでは言わなかったが、なんとなく、国会議員さんのような気もした。

本当にダイエット中だったのかは定かではないが、とにかく、要さんは体格の割りに、良く食べた。総量としては、私を優に超えたと思われる。食事中も、女性陣にからかいの対象とされてはいたが、空腹感が充足してきたのか、後半では、大分テンションも上がってきていた。幸いなことに、愛煙家ではなく、寧ろ煙を嫌う傾向があるらしい。私もタバコは吸わないので、喜ぶべきことだ。

最初は寡黙な人と思ったが、実際はそうでもないらしい。楽しいことがあれば愉快に笑うし、自分から盛り上げようとしてもくれる。少なくとも、付き合っていて悪いタイプではない。

食事を済ませ、今日はここに来て本当に良かったと、改めて私は実感した。

料理が、あらかた片付くと、要さんが不意に、私に話があると言い出した。特に深刻そうな顔はしていなかったが、その言葉を聴くと、ほかの女性の面々は、じゃあ、私達は食器を下げるからと、食器を手に、奥にあった洗面所へ、いそいそ消えていった。

私はというと、要さんと共にリビングから直接、庭へと出た。庭はとてもよく手入れされていた。これも、順子さんが世話しているのだと、要さんは説明してくれた。

……何もかも完璧な家だな。

私達は縁側に腰を下ろした。私の隣には、蚊取り線香を入れておく豚の置物が、真っ直ぐに庭を眺めていた。その中に残る灰からは、かすかにまだ、夏の名残が香っている。

もうとっくに日は落ち、風も西よりになって、涼しく感じられる。空を見上げると、いくつか明るい星が目に見えた。けれど、月は私達の眺める方角にないのか、見つけることが出来なかった。

ふっと風向きが変わった。線香の匂いが、たちまち消える。

虫の鳴き声も何も聞こえない。要さんは、いまだ黙したままだった。

いったい何の話があるというのだろう。私はあれこれと、心の中で詮索してみたが、一向、答えには辿り着きそうになかった。やがて私は堪えきれなくなり、

「……静かですね。」

当たり障りのない、口火を切った。

「ああ。中途半端な時間だからな。この時間帯に帰ってくる奴らはあまりいないんだ。ここは道も狭いから、車も走らないし。バイクは走れるんだろうが、直線がそんなに多いわけでもないから、うるさく走る奴も少ないんだ。」

「成る程。」

実に核心から離れた、受け答え。

私達の後ろで、食器を洗う音と、三人の女性の声が聞こえる。キャッキャ、キャッキャと楽しそうだ。

「いつも、こうして座っているんですか?」

再び間が持たなくなることを恐れた私は、そんなことを聞いた

「いや、いつもは家にいないからね。なるべく、早く帰るようにしているんだが、……なかなかね。」

要さんは苦笑する。

「随分と、娘達にも、家内にも無理をさせてしまったものだよ。」

「……そうですか。」

男二人でしみじみと。それはそれで、風流なことに思える。

「……。」

「……。」

しばらくぼんやりと、二人で庭を眺めた。結局また、間が持たなくなる。横目で要さんを観察すると、どうやら話すきっかけを掴めていない様子だった。

風が流れる。それを合図に、草が、メロディーを奏でる。それは静かで小さい、けれど、美しく人の心に安らぎを与える音楽だ。私は、目をつぶりその音楽に浸る。形のない、自由気ままな、音の群れ。人によってはそれを音楽とは呼ばないかもしれないが、私にとっては十分な演奏であった。

さらさらと、時と共に、音は刻まれていく。クレッシェンド、デクレッシェンドを繰り返し、いつまでも続くかと思われた。

しかしどんなものでも、そこに在るという時点で、もう、無に変えることは決定している。風がやめば、音楽も止まる。実際そうなった。永遠に続くものなんてないのである。もちろんそれが、無であったとしても。

また風が通り抜ける。音楽は再び奏でられ始めた。

一瞬は、永遠だ。しかし、その永遠は連続することによって、永遠ではなくなり、有限となる。不可思議な世の中だ。三次元だけの構図は未来永劫に、必ず同じように存在する。しかし、それに、時間というエッセンスを加えるとどうなるか、一瞬という時の中でしか、存在できない。常に変わりつづけるしかないのだ。

私の耀子に対する愛も、その法則から逃れることは決して出来ない。形あるものも、形なきものも、全て千変万化。私の愛も、それが、常に耀子に向けられているものだとしても、必ずしも同じ気持ちとは限らない。

ただ、この法則に束縛されないものもある。それは、過去だ。時の制限から抜け出したものは、一瞬と同じく、扱われる。

もう二度と、変わることはないのだから。捻じ曲げられることはあっても、過去の事実は、絶対に変わることはない。

私は、まっすぐと、霧下家の庭を見つづけていた。

「雪村君……。と呼んでいいのかな?」

「要さんの好きなように、呼んでください。」

途絶えた私達の会話が、また始まった。

「そうか、じゃあ、恵吾君と私は呼ばせてもらおう。いいかな。」

「はい、どうぞ……。」

他愛のない会話だったが、相手を確認するためには必要なことでもあった。

「恵吾君の家族は?」

「いません、生みの親は。子供のころは孤児院で育ちましたから。……育ての親はいましたが、……ああ、小学校に入る直前に引きとられたんです。それで、育ての親は……、私が高校二年のときに、二人とも旅行中の事故で亡くなりました。」

「そうか……。」

まずいことを聞いた、というような声色だった。私は、そんな気持ちを和らげるように話を続けさせた。

「気にしないで下さい。そのことにコンプレックスを、抱いているわけではないですから。」

「そうか……。それじゃあ、率直に聞こう。」

「はい。」

要さんは一つ間を置き、

「恵吾君は、耀子のことをどう思っている?」

身構えるほどでもない、単純な質問だった。

「好きですよ。生まれて初めて、といっていいくらい、強く彼女を想っています。」

「……それは、初恋ということに、なるのかな?」

要さんは年柄でもない言葉に、照れを覚えたのか、少し口調が狂った。

「……同世代の異性に対する、という意味合いではそうなりますね。……孤児だったこともあってか、私には、学校では友達もいませんでしたし……。」

「そうなのか?君のことは、よく耀子から、高校の時に聞いていたが……。」

要さんは首をかしげ、不思議そうに声を上げた。

「そうですか。……でも、友人がいなかったのは本当ですよ。せいぜい、クラスメート止まりが、いいところだったんじゃないでしょうか。もちろん中には、私のことを友達と思っている人間も、いたかも知れませんが……、私にとっての、高校時代の友人なんて、一人もいませんよ。今、年賀状が届くのも、耀子だけですから。」

要さんは唖然とした、顔つきだった。きっと、そんな学校生活を想像することが出来ないのだろう。一人も友人のいない学校。

私はそのころのことを、記憶の中から引っ張り出す。

クラスメートと一緒にいながら、心はどこか一人遠い場所にいたが、それを寂しく思ったこともなかった。当たり前だと思っていた。無理に、友人と一緒にいようなどと、考える必要がなかった。そのころに私は家族があったから。それだけで満足だった。

家族を愛していたあの頃。けれど、それも長くは続かなかった。その愛する対象がいなくなったからだ。そのとき初めて、喪失という言葉を味わった。私は、泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、学校にも通わず、泣きつづけた。だが、ある日、悟ったのだ。自分のしていることの意味のなさに。こんなことを続けても、失った人は帰ってこないし、私がどう足掻いたところで、過去を変えることはできないということに。

そう、私は悟ったのだ。

……それから私は、遺産を相続し、その金で引越し、奨学金制度を使うことにした。節約した一人暮らしを始め、バイトをしつつ、高校を卒業し、現役で大学にも合格した。幸い国立校だったため、金銭的な問題は存在しなかった。

「恵吾君。」

私の回想は、要さんの声で打ち消される。

「はい、何でしょう。」

「君は、何でそんなに前向きなんだ?」

「前向き?私がですか?」

内心少し笑ってしまった。

「ああ。普通、いや、そういう言い方は正しくないんだろうが、身内に支えてくれる人がいなければ、人間というのは、すぐに性根が、歪んでしまうものだからね。私はそういう人間を何人も見てきている。しかし、君には、そういったところが見受けられない。それが不思議なんだ。」

「それは、私を買いかぶりすぎですよ。」

私は笑って見せた。いや、本当に笑った。

「単に私は、歪む方向が、他の人と違ったということなのでは、ないでしょうか。」

「歪む方向?」

「はい、私は、家族というものに対して、もの凄いコンプレックスを持っているんです。子供の時からずっと。孤児院にいて、物心ついたときから既にそういう状態でした。……ああ、もちろんそのときは無意識でしたけどね。だからでしょうか、この言葉が好きだったんですよ。『恵吾君は、しっかりしてるわね』っていう言葉が、一番。それは、大人からしてみれば、単なる褒め言葉だったのでしょうが、当時の私からしてみれば、とんでもない、最上級の褒め言葉でしたから。」

「何故?」

「当時の私は、常に特出した存在でありたかったんです。孤児院の中にいるどの存在よりも。年齢などに関係なく、常に一番でありたかった。……ある人に自分だけを見ていて欲しかったから。」

「誰に。」

私はそこで、一つタイミングをとった。

「……これから言うことを、変だと思わず聞いてもらえますか?」

「約束しよう。」

私は、自分の過去を話し始めた。

「私は、初恋に陥ったんですよ。」

「さっき、初恋は耀子だと―――。」

「付け足したでしょ。同世代の異性って。」

私は、要さんの言葉を打ち切り、そして、続ける。

「私は恋をしたんですよ。自分達孤児のことを世話してくれる女性、まあ、ボランティアに来ていた女子大生だったんですが、彼女に対してですね。……しかも、異性としてはなく、母性としての女性に。」

このことを話すのは初めてのことだった。話す相手がいなかったこともあるし、そうそう話せることでもない。しかも、私がこのことに気付いたのも、ごく最近のことだった。

私は告白を続ける。

「だから、私は、彼女から与えられるものを、全て独占したいと思いました。そのためには、私が、飛び抜けた存在になればいいと、考えたんですね。子供ながらに。……しかし、」

「それは失敗した。そうすることで逆に、彼女は自分より遠い存在になってしまった。なぜなら、自分が何でもできるようになるということは、世話人にとってすれば、自分には、あまり手間をかけないでくれ、といっていること同じだから、な。」

私の言葉を受け継いで、要さんは答を引き出した。

「良くお分かりで。」

私は感心したように呟いた。

「これでも、そういう分野を仕事にしてるんでね。結構そういうのは得意なんだよ。」

「そうなんですか。」

要さんは、心理学者なんだろうか?まあとにかく、要さんの言うとおりだった。

「それで、君は、母性として見るべき対象を失ってしまった。……それからはどうしたんだい?」

「それからですか……。特になかったですかね。目立つことは。まあ、それも引き取られる前までのことですが。」

「と言うと?」

私は一呼吸ついた。

「あれも、恋だったんですかね?だから、失うまで、全く他の女性に目移りすることなく生きてきたのかもしれない。」

「やはり、母親に?」

「いいえ。寧ろ、両方ですね。母親だけとか、父親だけとかじゃなくて、自分を、本気で守ってくれる存在が、欲しかったから。それに……。」

「それに?」

「……両親は、私がいい人間であればあるほど、私に優しくしてくれましたから。……まあ、その考えも、すぐに壁にぶち当たりましたがね。それじゃあ、本当の親子じゃないって事に気付いたから。」

「……確かに、それでは、本当の親子とはいえないからな。喧嘩もして、笑ったり泣いたりしてこそ、親子と言うのかもしれない。人によりけりだろうが。」

私は要さんの言うことに同意し、頷く。

「ええ。でも、それに気付いた時には、もう遅すぎたんですよ。……悪く言うなら、いい子面するのに、慣れちゃったから。……両親のことは、好きで好きで、堪らないけど、どこか深いところで、もしかしたら見捨てられるんじゃないか、と怯える自分がいる。……そんな自分を見つけたときは、ショックでした。」

「……血の繋がりか。」

感慨深げに溜息を要さんがはく。

「はい。自分が思っている以上に、その溝は大きかったということなんでしょうね。友達と違って、愛というものを持って、両親には接しているのに、根本的なところでは全く、友達、あ、クラスメートとの接し方と変わらない。……一人でいたくないから、大勢と。……そのためには、愛されなければいけない、ああ、両親とはですね。逆に友達とは、どっちつかずでなければいけない。なるべく大勢と広く、浅く、付き合わなければいけない。」

思い返してみれば、随分と私は臆病なんだな。傷つかなければ、生きていくことなんて出来ない。そのことも、わかっていたくせに、逃げてきた。いばらの道は通らずに、いつも、市内の安全な道路しか歩かなかった。その、道路に横転したトラックが立ちふさがったとしても、乗り越えることもせずに、もと来た道を引き返し、別の道を探し、進んだ。誰にも嫌われたくならなかったから。

私は、凝り固まって来た首を、ストレッチさせるよう、時計回りした。

「だが、なんでまた、耀子と付き合うことに?大学に入ってからも、そういう習慣は変わらなかったんだろう?」

「ええ、まあ。……ただ、彼女とは、うまがあったんでしょうね。歯車がぴったりと噛み合ったっていうか。」

私は、耀子と出逢ったいきさつを、彼に聞かせた。それは、自分と耀子の始まりを確認する瞬間でもあった。

「……そうか、耀子がな。」

懐かしそうに要さんが目を細める。

「何か?」

「いやね、昔はもっと消極的だったのになあ、なんて思ってね?」

「そうなんですか?」

「ああ。極度の恥ずかしがり屋でね。人見知りというほどではないんだが、とにかく、冴子と遊ぶことが、ほとんどだったんだ。もしかしたら、随分早いうちに、男と女という部分を理解していたのかもしれないね。」

意外な、一面だった。耀子にそんな部分があったとは。

「お父さん、何話してるの?」

急に、私達の会話に入り込んできたのは、冴ちゃんだった。耀子と順子さんはまだ、洗い物をしているようだが、彼女は暇なのか、こっちにやってきたらしい。要さんに、寄り添うように、冴ちゃんは、腰掛けた。

にこにこと、本当に笑顔の似合う女性だ。

「何の話って、耀子のことだが……。」

「ああ、それなら、私のほうが良く知ってるよ。」

得意そうに、彼女はこっちを見た。その、口調からは、高校三年生にしては大人っぽさよりも、どこか幼さを感じさせた。

「……それもそうだな。じゃあ、ここで、語り部交代とするか。私は、書斎に引っ込むから、雪村君が帰るときには車で送っていこう。そのとき声を掛けてくれ。」

「いえ、いいですよ、そんな……。」

「気にするな、これもホストの務めというやつだ。」

要さんはそう言い残し、その場を立ち去った。彼のいなくなったスペースに、冴ちゃんが、寄ってくる。それから、なにやら彼女は、私をしげしげと観察し始めた。頭部から、どんどん視線は下方へ。私は、なるべくその視線を意識しないよう、努力してみたものの、無駄なものだった。

「あの、何?」

「……。」

彼女は無言でこちらを見つづける。その様子は、さながら、買い物に来た専業主婦が、野菜を見比べているかのようだった。

私は、声を掛けることもままならず、黙って、彼女の品定めの、ものとなった。

「……いいな。」

「はい?」

品評会から、数分後、その沈黙から漏らされた小さな言葉に、私は疑問の音を上げるしかなかった。

「いいな、お姉ちゃん。こんな立派な彼氏が出来て……。」

「……それは光栄なことで。」

私は苦笑を浮かべつつ、礼を言った。何処で見定めたのかは知らないが、彼女には、私はいい男に見えたらしい。

私の頭には、……彼女は、耀子の過去について話してくれるのではなかったのかと、そのことが過ぎった。

「私まだ、彼氏いない歴十七年なんですけど、どうしたらいいでしょうね。」

「……。なんとも言えないなあ。」

私は、なんと答えていいのかわからず、しょうがなく、相槌を打つ。

「お姉ちゃんに、見劣りしてるって事はないと思うんですよ。……これでも、ミスコンでも、選ばれましたし。お姉ちゃんと同じく優勝だったんですよ。」

「それは、……すごいね。」

冴ちゃんの通っている高校、即ち、私達の母校には、毎年卒業式の後の行事として、ミスコンがあった。当時の私は、特に興味がなかったため、卒業式終了後、いつもすぐに帰宅したものの、生徒内では、特に男子生徒には、最も人気のある行事であった。

……ちょっと待て、……優勝?

初めて聞く言葉が、耳にとまった

「さすがに、お姉ちゃんには、勝てないと思うんですけど、……あ、どうでした、その時のお姉ちゃん?お姉ちゃん、その時の写真持ってるはずなのに、見せてくれないんですよ。恥ずかしい、とか何とか言って。」

「……私も知らない。」

「えっ?」

私はぼそりと、自分の無知を言葉に出した。

「残念ながら、私も知らない。……私はその頃、霧下耀子という存在自体、知らなかったんだ。……それにしても、ミスコンで、優勝?初耳だ。」

私の台詞に、彼女は目が点になっている。その姿は自分から見て、結構、滑稽だった。

「雪村さん、お姉ちゃんとは、その頃からの知り合いたんじゃないんですか?」

「いや、違う。さっきも要さんに言ったんだが、私は心にも留めていなかったが?何故?」

「えっ、だって……。修学旅行も同じグループだったって、聞いてるし。お姉ちゃん、高校時代、いつも、雪村さんのことばっかり話してたし。」

「……そうか。」

どうやら耀子は、いろいろと家族に、私達のことを誤解させているようだ。

「違うんですか?」

「違うな。……確かに、女子にしてみれば、親しかった方かもしれないが……、少なくとも、こちらから話し掛けたことは、まず、無いはずだ。」

「……マジですか?」

「ああ。まあ、それは、全てのクラスメートに共通する点だが。」

呆気に取られた表情から、信じられないという顔つきへと、彼女の顔が変化する。そして一言。

「……よくそれで、真っ直ぐ育ちましたねえ。」

ここら辺の感想は、さすがに同じ空間で育っているというべきか、要さんとそっくりだった。

「まあね。」

私は面倒だったため、両親の説明は省くことにした。

「……でも、お姉ちゃん、その頃から、雪村さんのこと好きだったんですよ。」

「ああ、そうらしいな。『何で気付かなかったの?』とたまに真顔で言われる。」

私がそう言うと、彼女はそうですか、と苦笑した。

叢がさらさらと、風に鳴った。

その間数十秒、私と、彼女の会話が途絶える。

空を見上げると、月を雲が隠していた。

「……でも良かったです。」

「何が?」

「……雪村さんがいい人で。」

「あんまりおだてないでくれ。それに、まだわからないだろ?私がいい人かどうかなんて。」

「わかりますよ。だって……お姉ちゃんが選んだ人ですから。」

彼女の声は自信を伴っていた。まっすぐこちらを見つめてくる。その目は、姉妹揃って、よく似ていた。

 「ありがとう。」

 情けないことに、私にはその程度の言葉しか生まれなかった。

「私も、本当は……。」

「ん?何?」

彼女が呟いた言葉を、聞き取ることが出来ず、私は思わず問い返した。

「……いえ、何でも。」

私の耳に届いた小さい声は、哀しみに少し湿っていた。だが、その暗さを打ち消すように、

「ありきたりですけど、……お姉ちゃんを幸せにしてくださいね。……あっ、でも、まだ、結婚を決めたわけじゃあないんですよね。」

「私にすると、まだ、希望の段階だな。」

私は苦笑する。彼女も、くすっと声を漏らした。

「もうすぐ、洗い物も終わると思うから、もう少し待っていてください。……そうすれば、お姉ちゃんも来れるから。」

「ああ。」

微笑む彼女に、私も笑顔で応対する。すると、急に彼女がはっとした表情になった。

「あ、そうだ。雪村さん。お姉ちゃん、何で雪村さんのこと好きになったか知ってます?」

「理由?」

「はい。どうせ、さっきの感じからすると、聞いたことないでしょう。」

冴ちゃんは、意地悪く微笑んだ。

だが、実際彼女の言うとおりだ。そんなことを、耀子に聞いたことはなかったし、聞こうと思ったことも無かった。耀子によると、高校時代から私のことを好きだったというが、高校時代の私など、はっきり言って面白味のない人間の標本と言えるだろう。それなのに、ミスコンにまで選ばれた耀子が何故、私なんかを?

「その顔からすると、図星ですか?」

「あ、ああ。」

「じゃあ、教えてあげます。お姉ちゃんが、雪村さんを好きになった理由は、……ずばり、一目惚れってやつです。」

得意そうに答える彼女に対し、私は、呆然とした。

「一目……惚れ?」

……ちょっと待て、ということは、外見で、私は選ばれたということか?

「ねえ、二人で何話してるの?」

疑問が湧いたところに耀子がやってきた。洗い物は終わったらしい。食器のこすれる音ももう聞こえていなかった。

「なーんでも、ないよ。お姉ちゃんが如何に素晴らしい人であるかを伝えてたとこ。」

「何よ、それ。」

屈託の無い笑顔で答える冴ちゃんに対し、耀子は苦笑しながら応じている。

仲のいい姉妹。

温かい家庭。

孤児の私にもこんな頃があったのだろうか。残っていない過去の記憶を手探りしながら、少し自嘲気味になる。彼女たち二人を見ていると、羨望の感情が勝手に湧いてくる。

「……仲、いいな。二人とも。」

自然とそんな言葉が漏れた。

「そうかな?別に普通だと思うけど。」

「そうですよ。それに、お姉ちゃん達のほうが、仲はいいでしょ。私なんかよりも。」

意味深なニュアンスを込めて、言葉を仕掛けてくる冴ちゃん。彼女も順子さんと同様に、薄々感じているのだろうか?私と耀子の関係が、既に一線を越えてしまっているということに。

「じゃあ、私はこれにて引っ込みます。」

冴ちゃんは、要さんと同じように、立ち上がった。

「冴も、いればいいのに。」

「……宿題があるから。」

「あ、そう。」

「うん。じゃ、お姉ちゃん……頑張ってね。」

「冴!」

笑みを浮かべながら去っていく冴ちゃんに、耀子が声を荒げる。私はそれにハハハと声を上げて笑う。その笑いが少し作り物のように思えたのは、気のせいだということにしておこう。

冴ちゃんが去り、私と耀子は二人、庭に取り残される格好になる。

月はまだ、見えない。

……。

どうしても手に入れたかった、家族の感触。私はその心地よさに、しばらく身を委ねていた。庭の表情に、秋の到来を受け止めながら。

 


 
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