どうも、二重想をお送りしてる米野です。
いまいち孤独な人がうまくかけてないんですよね、この作品。
読んでいただき誠にありがとうございます。
第一章第二部スタートです。
弐
目の前には髪の長い女性が立っていた。私はその人の名を知らなかった。彼女はにっこりと私に笑いかけ、また私を慈愛に満ちた瞳で見つめていた。
一目見て、美しいと思った。また、懐かしくも思えた。
そこで私は気づく。これは現実ではなく、夢だということに。
当たり前だ。現実世界の何処に、こんなもやもやした世界があるというのだ。夢。気付いてしまえば、どうという事はない。すぐに現実に戻ることが出来る。私は目覚めることが出来るのだ。
「――」
誰かが私を呼んでいるようだ。勿論、現実世界からだろう。大声で誰かが、私の名を……。何故そんなことがわかるのか自分でも不思議に思う。が、夢。その一言は自分自身を納得させるには十分だった。
目の前の女性の表情が変化する。彼女は、慈愛に富んだ瞳は、悲しみに溢れ、嬉々としていた口元は、何か言いかけるように半開きになり、躊躇が滲み出ている。最後には、諦める要に首を振って、彼女は目をそらした。すると彼女の背後に零れ落ちている長い髪が揺れ、綺麗なウェーブを描いた。その閉じた瞼からは、今にも悲しみが変化した涙が流れ出しそうだった。
しかし、彼女の口元は再び微笑みに変わる。
理由はわからない。何故だ?だが、何処かで見た光景。
「――」
もう一度、誰かが私の名を………。
そこではたと、気づく。自分の名前を呼ばれているのはわかる。だが、
(……私は、……だ・れ・だ?)
目が覚める。自分の名前を、思い出せないままに。
夢の中の女性の姿は、ゆっくりと薄れ、靄の中へと消えていった。
覚醒後、まず、頭に痛みを覚えた。ジンジンと中枢部から響いてくる痛みだ。身体も、いつもと違い自由が利かなかった。目さえ開けるのが億劫だ。まったく、風邪をこじらせた時のだるさにそっくりだ。
「雪村さん!」
大声が響いた。今の私には、頭に響いてとても辛い。
「う……」
思わず呻き声を上げる。頭へ右手を動かし、……しかし、その右手は既に誰かに握られていた。私はその正体を見極めるために、ゆっくりと瞼を持ち上げた。それと共に各五感が、少しずつ働きだす。
現れたのは、眼鏡をかけた髪の短い女性で、私が夢で見た女性とは別人だった。……それはそうだろう。そんな偶然ありうるはずがない。当たり前といえば、当たり前だが。
彼女は心配そうな顔でこちらを見ている。
そのうち、彼女以外のものも、私の感覚が近くし始めた。
……潮の匂い。
……青い空に、ひょっこり浮かぶ綿雲。
……遠くから聞こえる、波の音。近くから聞こえる、車のアイドリング。
……じりじりと照りつける陽射し。触れたところから伝わってくる、アスファルトの地熱。そして傍らにいる彼女の体温。
……口の中に広がる血の味。いつの間に口内を切ったんだ?
……何故私は倒れている?
……それよりも、私は誰だ?
少しずつ、思考が回復し始め、論理を展開し始める。それは自分でも驚くほど冷静なものだった。
……記憶喪失……だろうな。他に考えられない。私は目の前にいる彼女の名前を、私は知らないし、どうして、こういう成り行きになったのかさえ、不明だ。だが、とりあえず、この女性を信じるしかあるまい。通りすがったにしろ、一緒にいたにしろ、自ら面倒ごとにかかわる人間は、悪い奴ではないだろう。……もしかしたら恋人だったのかもしれないが。まあ、憶測に過ぎないし、可能性は低いだろう、な……。しょうがない。……しかし、記憶を失うとは。困ったものだ。
「……雪村さん? 大丈夫ですか?」
「いや、あまり大丈夫とはいえない」
「はい?」
彼女は戸惑った表情を見せた。まあ、当然の反応と言えるか……。小説などで読んだ記憶喪失の症状では、以前と現在では、口調は変わっていなかったはずだが……、まあ、小説で読んだ知識だ。たいして当てにはならないだろう。
私は、仰向けになっていた状態から、上体起こしの要領で、上半身を起き上がらせた。すんなりと起き上がる。もしかしたら、記憶を失う前は何か運動などをやっていたのかもしれない。そんな私の上半身が起き上がってくるのを、彼女は女性の割りには意外とたくましい両腕で、そっと支えてくれた。どうやら私の推測は間違ってはいないようだ。彼女は親切な人に違いない。そう直感した。ならば、こちらも事態を複雑にしないようにしなければならない。
私は出来るだけ速やかに、この状況を解決するべく、手っ取り早い方法を思いついた。冷静に対処すれば、逆に怪しまれてしまうだろう。ならば、これが一番素早く、相手に私が置かれている立場を理解させることが可能なものだろう。
「君は……誰だ?」
私は、記憶喪失になった者が、よく発する言葉を、さらっと口にした。続いて、空いていた左手を額に持ってくる。少し考え込むようなふりをした後、
「……私は、誰、だ?」
と呟いた。演技ではあったが、嘘はついていない。まさに迫真の演技と言える。すると彼女は驚いたように、
「ゆ、雪村さん?」
予想通りの反応。彼女は問い掛けるように、私に向かって、多分、私の名と思われる言葉を発していた。ということは彼女と私は、知り合いであるということだ。私は冷静であったが、不安でないはずがなかった。この事実はその心境を幾分楽にした。
彼女は両手で握っていた私の右手を、もう一度握り直し、静かに息を吐いた。その唇は、僅かに震えていた。それは恐怖からか、不安からか。まさかとは思うが歓喜からか、一体彼女は今何を思っているのだろう。だが、その仕草は、
なんと言えばいいのだろう。その仕草、いや表情が、なんだかとても、愛おしく思えた。
「……何も、覚えていないんですか?」
「ああ、残念ながら」
彼女はどうやら今の状況をちゃんと理解してくれたらしい。判断力を持った女性で助かった。
彼女は側に駐車してあった赤い自家用車から、彼女のものと思しき若草色のバッグを助手席から取ってきた。その途中、ピンクパールの携帯を取り出す。どこかへ電話をするようだ。病院だろうか? ……そういえば私も携帯を持っているかもしれない。そうすれば、ほかにも何か手がかりがつかめるかもしれない。
急にそんなことを思い、私はポケットを調べた。今、上着は着ていない。あるとしたらジーパンのポケットの中だけだが、……どこにもなかった。両足にそんな感触はない。それどころか、財布さえ持っていないみたいだ。私は一体何をしたかったんだ?
と、傍に随分と大きいリュックサックがあるのに気付く。……私は家出でもしたのか?
「今、救急車を呼びました。五分ほどで来る、みたいです」
そんなことをしているうちに彼女の電話は、……いや、まだ終わっていないようだ。どうやらまだ、連絡を取りながらいろいろと指示を受けているらしい。彼女は電話の先の相手からの命令を聞きながら、優しい口調で私に質問を投げかけてくる。私は素直にそれに答えていた。
それから、本当に五分ほどで、救急車はやってきた。私は担架に乗っかり、ちゃっちゃかその白い箱に乗せられていた。私が担架に乗せられる間際に彼女は、
「私は、自分の車で病院に、行きますから」
と囁いた。今の自分に信じられるのは、とりあえず彼女しかいない。それに単なる勘だが、彼女は味方だと、私の本能が先ほどよりも強く訴えていた。
ただの記憶喪失で何故、こんなに大掛かりになるのかわからなかったが、もしかしたらどこかに頭でもぶつけたのかもしれない。そのせいで、この頭痛が発生している、という可能性も考えられる。まあ、これまで考えたこと全て、推測の域を出ないが。でも、そうだとすれば、脳内出血を心配する必要があるが……。
と、そこまで考えて私は、目をつぶった。
これ以上考えてもどうにもならないだろう。結局、真実を知っている彼女だけなのだし、それを聞き出すのは診察を受けてからでも、構うまい。いろいろと知らなければならないことが、たくさんある。……それにしても、自分の名前がわからないっていうのは、なんかふわふわしている感じだ。安定しない。彼女は確か、『ゆきむら』と呼んでいたが、……名前か?名字か?
幸村?雪村?由希村は、ちょっと無理があるか。……いや、もしかしたらただ単に真田という名字だけで?あだ名が『ゆきむら』とか……いや、待てよ……。
私は、答えのない連想ゲームを病院に着くまでの間、ひたすら続けることにした。そう、まるで、待つことの出来ない……子供のように。
診察の結果、やはり単なる記憶喪失だった。自分で単なるというのも、嫌な話だが、予想していたとおりの結果だったことに驚いた。が、よく考えてみると、それ以外にこんな症例のある病気を、知識を総動員してみたものの私は思いつくことはなかった。
詳しいことは良くわからないが、ともかく、日常生活には影響のないもので、ふとしたきっかけで、記憶が戻ることが多いのだそうだ。この類のものは。ただし、記憶が戻るのには、個人差があり、いつになるのかは不明。もしかしたら、次の瞬間ふっと思い出すかもしれないし、一生思い出さないかもしれない。そういうことらしい。
そして今、私は彼女、霧下冴子の運転する車の助手席に座っている。住む当てがないなら、とりあえず私の家に、ということだった。彼女は両親と暮らしているそうだが、両親は旅行中で、空き部屋もあるという。
私は男女二人きりで、ということに抵抗を感じたのだが、確かに行く当てもないし、今すぐにでも記憶を取り戻したかったので、それに同意した。このふわふわした感じを、私としては一刻も早く、解消したかったのだ。そしてそれには、まず、自分の周りのことを、しっかりと把握しておく必要がある。
霧下冴子は、彼女の話によると、どうやら私が以前付き合っていた女性、霧下耀子の妹だったらしく、何度か面識があったそうだ。といっても全くぴんと来ないのだが。彼女の目には、私と彼女の姉はとてもお似合いのカップルで、喧嘩をしているところなど見たことがなかったという。出会いは、大学のサークルで、告白したのは彼女の姉から、ということだ。
やはり、彼女から引き出せる情報は、そう多くなかった。彼女もいろいろと記憶の糸をたどってくれたようだが、私自身に関する事柄は少なく、どちらかというと、彼女の姉の情報が多かった。仕方がないかもしれない。所詮、彼女と私は他人なのだから。
……もしかすると、あの夢で見た女性は、霧下耀子だったのかもしれない。まあ、全然関係ないかもしれないが。
「成る程。つまり、私は君の姉と付き合っていたわけか」
「ええ……」
私の声に頷く彼女は、沈痛な表情を浮かべていた。何か辛いことでもあるのだろうかと思ったが、私は敢えて聞かないことにした。誰にしろ、話したくない過去はあるものだ。今の私が言ったら、ただの皮肉になってしまうが。
「ちょっと待て。それでは、君の姉も、一緒に住んでいるのか?すると、彼女に会えば、私はもしかしたら記憶を取り戻せるかもしれない」
「……」
彼女は押し黙っている。私には彼女が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。私は困惑した。何かまずいことでも言っただろうか?いろいろと仮説が浮かぶ、真っ先に思い浮かんだのが、
仮説その一。霧下耀子との間にあった恋愛感情を忘れてしまった私を、姉と会わせまいとする妹の心遣い。……きっと違うだろう。愛し合う者同士が本当の事を知らない状態を、彼女が作り上げるようとするとは思えない。
仮説その二。私はもう彼女とは別れていて、もう交流は一切無い。一概に否定することは出来ないが………。なんとも言えない。
……所詮考えるだけ無駄である。なにしろ、私は何も知らないのだから。
そう結論を私が出したところで、彼女は重々しく口を開いた。その言葉には、はっきりとわかるほどの憎悪が、込められていた。
「その様子だと、本当に覚えていないんですね」
「……何の話だ?」
「姉のことですよ! 姉は、姉は、五年前に……もう」
嗚咽する彼女の目から一筋の涙がこぼれた。彼女はそれを右手でそっと拭った。
そこまで、言われれば、普通誰だって気づくだろう。……記憶喪失の私でさえ。
「すまん。気付かなかった。聞くべき内容ではなかったな」
なるべく、気持ちを込めたつもりだったが、なかなか上手くはいかなかった。仕方がなかった。いくら恋人だったとはいえ、今は第三者同然なのだから。かつての自分でさえ、もう自分ではないのだから。
だが、そんな言い訳が今の彼女に通るはずもなく、
「何で、何で忘れちゃうの? 私、は覚えてるのに、何で、その当人が、覚えてないの? ねえ、雪村さん、何で、……何で、お姉ちゃんのことは覚えてないの? ……私にはわかんないよ。あんなに、あんなに……」
運転をしているための責任感か、彼女は決して取り乱したりはしなかったし、それ以上、涙も流さなかったが、それは叫びに近かった。
彼女の口から紡ぎ出される言葉は、私の胸を締め付けた。人を悲しませている罪悪感、そして死者への冒瀆。その二つを、今、私の存在自体が、作り出している。
私が行えるのは……、
「……すまない」
謝罪だけだった。
虚しさが、腹の底を滑っていく。私は……どうすれば、いいのだろうか。答は生み出されるはずもなく、彼女の独白後、私達の間には沈黙が降り立った。交わされる言葉が、存在せず、見えない壁によって、密室が二つ、築かれてしまっているようだ。
霧下耀子。私が愛した女性。……しかし、その記憶は、全くない。何も覚えていない。夢の中で出てきた女性が、その彼女なのかもしれないが、確証はない。その夢の中の彼女も、私の記憶を探り出すきっかけには、なりはしなかったのだから。
記憶を辿ろうとしても、辿ろうとしても、見えてくるのは果てしなく続く暗闇だけ。そこには誰もおらず、何もない。そこに立った私は、必死に何かを探している。その探しているものが、何なのかさえもわからないまま。
この調子で、私の記憶は元に戻るのだろうか? 考えても始まらないことではある。しかし、そう思ってしまうのも致し方ない。人間不安がこびりつくと、それはなかなか剥がれないものだから。
でもだからこそ、動き出さなければ、何も始まらない。私が探さなければ、誰も探してくれない。故に私は、割れてしまった記憶の破片を、一枚一枚、拾っていかなければならない。自分を手に入れるために。一度なくした、過去の自分を……と、格好つけている場合ではなかった。何はともあれ、まずは彼女と和解しなければなるまい。
「本当にすまなかった。自分でも、無神経なことを言ったと思う。だが、もっと、教えて欲しい。君の知っている限りのことでいい。私は、自分のことを、もっと知りたいんだ。その、耀子さんとの想い出も、取り戻したい」
「……」
「頼む」
この台詞は、私にとって何なのだろう。本心なのか、それとも演技なのか。
……わからなかった。
自分が今、何を望んでいるのか、わからない。
自分がどういう人間なのか、知らない。
本当に、私は記憶を取り戻そうと思っているのだろうか? ふと、そんな疑問が頭をもたげる。記憶を取り戻す必要が何処にある? その分自由に生きていけるんだ、何の問題がある。心の片隅で何かが、そう呟く。が、すぐに、今まで生きてきた証を消すことになるんだぞ、それでも構わないのか? と、何かがまたそれを打ち消す。
私はまともな人間なのだろうか? 少なくとも正論は、ちゃんと言えるらしい。
そんなことを考えて、どれくらいの時が経っただろう。ようやく、今まで閉ざしていた口を、彼女が開け放った。最初に飛び出したのは以外にも、謝罪の言だった。
「……こちらこそ、すみません。まだ、やっぱりどこか、気持ちの整理できていない部分があったみたいで。つい感情的に……。あの時、一番辛かったのは、雪村さんだったのに。……すみません」
「私が? 一番……?」
「はい。説明、します」
彼女の声はやはり辛そうなものだった。
「姉は、あなたの、目の前で……、死んだんです。歩道橋の階段で、足を踏み外して……」
「階段から……」
その光景を思い起こそうとしてみる。瞬間、私は眩暈を覚えた。
あり得ない!
記憶が滝のように脳へと流れていく。……歩道橋の上を歩く私と霧下耀子。さも恋人同士のように、手を繋いでいる。いや、恋人同士なのだ。その表情には共に笑みが溢れており、生き生きとしている。その彼女の顔は、やはりあの夢の女性と同じ者だった。長く伸ばした艶のある黒髪。色白の透き通った肌。間違いない!
彼女が階段を下ろうとする。その一歩を踏み出し、ふと私のほうを振り向く……が、それとともに私の右手の甲を激痛が襲った。
「がっ! あっ! ぐぁ!」
声を上げずにはいられない、歯を食いしばって耐えることなど、不可能な痛みだった。もういつの間にか、記憶の幻像は途絶えていたが、そんなことに構っている余裕はなかった。
「ゆ、雪村さん。どうかしました?」
彼女が、横目でこちらをちらちら見ながら、尋ねてくる。運転に集中させたいが無理だろう、助手席の輩が、こんなに暴れているのでは。
過去の映像が消えても、痛みがさらに度を増し続ける。私は右手首を左手で押さえた。痛みを打ち消すように力を込める。右手の甲には縦一本の傷跡がついていた。どうやら古傷のようだったが、今の私には、それが何のものによるのか判断出来る、冷静さはなかった。
痛みがさらに度を増す。
「ぐああああああ。あっ、あっ、がああああああああああ……」
少しずつ、意識が遠のいていくのが良くわかる。彼女の呼ぶ声に反応できる気力など、私には残されていなかった。
私は、気を失った。
半
テーブルのビール瓶の数は、あっという間に増え、それから徐々に、ウーロン茶の瓶も増え始めた。私は後者の方を担当している。彼女、霧下耀子も私の隣でせっせとウーロン茶の数を増加させている。この店では私と彼女合わせて、ビール一本しか飲んでいない。別にアルコールに弱い体質なわけではない。むしろ強い方だと自分では思っている。そうでもなければ、こんな飲み会などには参加しない。が、珍しく今日、私は会話を成り立たせることの出来る人間と出会った。だからだろう、酒に意識を流すより、彼女と共に語り合うことのほうが、楽しかったのだ。
腕時計を見ると十一時半。学生寮の門限は十二時だったはず。ということは、ここにいるほとんどが自宅組ということだ。まあ、中には、友人の家に泊めて貰おうと思う輩もいるのだろうが。
彼女はどうなのだろうか?
ふと私にそんな疑問が生じた。雰囲気に酔っているせいか、妙に好奇心旺盛になっている。別に訊く必要もないというのに。
「霧下は、何処に住んでるんだ?」
私がそう聞くと、彼女は顔に驚愕の色を示した。……なにか、おかしかっただろうか?
「どうかしたか?」
「えっ、あ、別に、大したことじゃ、ないんですけど……。初めて、名前、呼んでくれましたね」
彼女はそう言って、やんわりと微笑んだ。……言われてみれば、そうだったかもしれない。高校の頃、こっちから話し掛けたことは、あったかも知れないが、記憶にない。大学に入ってからも、学部は違ううえに、一緒になったサークルの中でも、特に親しくしていたわけでもない。
私はその事実を思い出しながら、ゆっくりそれを肯定する。
「そういえば、そうだな」
「ええ。高校のときなんか、一回も話しかけてくれなかったんですよ。大学のときも、こっちが呼びかけても無視しちゃうし……。ああっと、それで私の住んでるところでしたっけ?」
「ああ」
私は表情一つ変えずに答えながらも、少し驚いていた。以前、私が呼びかけたことがないのを、彼女が覚えていたこと。それと、私なんかに呼びかけようとしたことだ。……彼女はなかなかミステリアスである。
そんな彼女はこちらを向いて、意地悪く微笑み、
「……どうして、知りたいんですか?」
と聞いてきた。その口調にどういう意味が含まれていたのか、私には理解する術がなかったが、特に気にはせず、素直にさっき思った気持ちを口にした。
「いや、単なる好奇心だが、……気に触ったのなら謝ろう。悪かった。別に教えて貰わなくても、一向に構わない。それに、知りたいなら、帰って名簿でも調べればいいだけだ」
引っ越していないなら、高校時代の名簿を調べれば、載っているだろう。といってもどうせ調べずに、時が過ぎていくような気がするが。
「い、いえ、別に。構わないですよ。そんな秘密にすることじゃ、ないですから。」
彼女の住所は、大学の最寄駅から二駅行った場所で、私の乗り降りする駅と同じだった。そのことは、特に彼女に告げなかった。後になればわかることだし、それに、クラスメートだったこともあるというのに、そのことを今の今まで、知らなかった自分に、少しばかり恥ずかしさを感じたからだ。
伝え終わった彼女は、顔を紅くして、口をもごもごさせていた。何か言いたいようだったので、こっちから切り出す。
「何か、聞きたいことがあるのか?」
私は出来る限り可能な、優しい声で、彼女に問い掛けた。
「……あの、もし、良かったら、携帯の番号……、交換しませんか?」
どうやら、彼女の望みはそれだったらしい。恥ずかしがる必要もないだろうに。
「……そうか、が、残念だ。私は携帯を所持していない。………あー、自宅の電話で構わないなら、交換できるが」
「い、いいんですか」
彼女の声は明らかに上擦っていた。……動揺。
「全く構わないが。……どうかしたか? なにやら、顔が赤いぞ。……ああ、アルコールのせいか」
「ええ、きっとそうです」
彼女は即座に断言したが、嘘に違いない。もし、私がフォローを入れなければ、きっとおろおろしていたことだろう。その光景を想像し、少し私は笑みを浮かべた。
「なにが、おかしいんですか?」
気付かれているのがわかっているのか、彼女も笑顔だ。が、その頬は照れている。……だが、別にそんなに、顔を赤くする必要はないと思う。電話番号を聞くぐらい……、大したことじゃない。
私達は早速、やり取りを済ませた。すると、周りがまだ賑やかな中、彼女はこっそり私に耳打ちした。
「あの、外に出ませんか?」
「……ああ」
彼女の急な申し出を、私は快く了解した。代金を払って、外に出る。居酒屋の引き戸を開くと、入り込んできた街中の夜風が肌を差した。先程よりも強く感じる。
「寒いな」
「そう、ですね」
いつの間にか、自分が彼女に対して心を開きつつあることを、私は素直に認め始めていた。
二人で歩く夜の街、が、ほとんどの店が明かりを落とし、大分外は暗くなってきていた。そんな中の私達は、恋人同士に見えるのは言うまでもないだろう。男女二人きりが並んでいる風景が、友達同士に見えることなど、この年齢になったら、まずあり得ない。ましてや、友達ですらないなどと誰が信じようか? 私をもしくは彼女を良く知る人物なら、それが有り得ないことだと証言してくれるだろうが、だからといって、一体それがなんの役に立つというのだろう。この状況で……一体何の、
私は柄にもなく恥じ入っていた。いくら周りから変人と言われようと、私だって男なのである。しかも言うなれば、かなりの奥手……。女性と二人きりなど、ここ数年なったことなどない。
「雪村さん……。一つ言いたいことが、伝えたいことがあるんです」
彼女は歩みを止め、私を振り向かせた。彼女の瞳と目が合う。身体は視線を外すことを求めたが、私は敢えてそれに従わなかった。本能を理性で無理にも律する。彼女が何を訴えたいのか私にはわからなかったが、いや、経験的になんとなくは理解できていた。だが、それでも知らない振りをする。そうでもしないととてもじゃないが、耐え切れそうに無かったのだ。あっという間に顔が真っ赤になってしまう。
女性からの告白。……その体験は高校に入学してからこっち、一度もされたことがない。別段顔が良い訳でもないし、交友関係もゼロに等しかったのだ。当たり前と言えば当たり前である。中学の頃は、まだましだったのだがな。
「私……、あなたのことが好きなんです」
「……」
彼女の告白。予想通りだったが、やはり実際のそれは、思っていたものとは違う、『重み』があった。それは想いのためなのかわからないが、とても強く、私の心を、打った。
これに答を出さなければならない。私は、必ず。
曖昧な答で、彼女を縛るわけにはいかないから。
……回想してみれば、私の初めての告白だった。
「すまないが、私は、まだ、答を出すことは出来ない。今日だけで、確かに君は、他のどの女性よりも、僕にとっては興味が尽きない存在になった。こんなことは今までになかったことだ。しかし……、それが本当に、『愛する』もしくは『恋する』という気持ちに繋がるのか、まだ、私には自信がない。……だから、しばらく……、時間をいただけないだろうか。君の事をもっと知る時間を。この答は決してNOではない。むしろNOになる可能性のほうが少ないだろう。だが、自信を持ってYESといえるまでの間、待っていて欲しい」
「それは、……友達から、ということですか?」
彼女の小さく震える声が、私の胸に小さな針をさす。半端な答えにするつもりは無かったというのに、私の口から出された答えは、実に情けない臆病者が出した結論だった。……だが、事実でもあるのだ。
私は彼女と中途半端に付き合うつもりは無い。だから、自分の気持ちが、はっきりしていない、現在の状況で、YESと言うには躊躇いがあった。……が、いや、……もう少し、素直になろうか。
「友人以上恋人未満からが、私の中での君への気持ちだ。少なくとも、君へ好意を持っていると、思ってくれていい」
私の言葉に、彼女はしばらく黙っていたが、何か悟ったか、垢抜けた表情で、こちらを見た。その眼にはさっきとは違った意思が込められている。
「わかりました。もう少しだけ、時間を上げます。……だけど、必ず答は出してください。そして、間接的な手段じゃなくて、直接私に伝えてください。どっちに答が傾くにしても、あなたの口から、あなたの表情から、あなたの全てから、答を受け取りたいから」
「……ああ。約束しよう」
この時、私は、自分の中で氷結していた心が、今、彼女によってどんどん溶かされていることに、初めて気が付いた。中学時代に作った、見えない壁。それが今次々に壊されていく気がする。ちょっと表現が大げさかもしれないが。
私という人格が変わる。変わっていく。そんな気がした。
それは恐れるべきことなのかもしれない。が、きっとなければならないことなのだ。いや、当たり前のことなのだ。
万物流転。
ふとそんな言葉が、私の中に浮かんだ。……それに、変わるといっても、少し素直になるだけだしな。
「……送っていこう、か?」
「えっ?」
「同じ駅だし、……それに、さっきも言った。君の事をもっと知りたい……」
今までの自分では考えられないくらいに、柔らかい口調だった。彼女もそれに戸惑いを隠せない様子だ。
私は微笑を浮かべる。顔が妙に熱かった。
「案ずる、な。……大丈夫。少し、自分に、……そう、素直に、なっただけだから」
「……はい」
彼女の白い頬に、紅が差す。その姿はやはり美しく、とても可憐だった。
思わず、触れたくなる。……赤ん坊を抱きしめたくなるような、そんな心持ちにさせられる。が、まだ時期ではない。いつかその時が来たら、きっと……。
私ははやる気持ちを抑え、彼女と肩を並べ歩き出した。この時の感情を何と名付ければいいだろうか? 『未恋』とでも言うべきか。
冬の風が二人を包む。その風は相も変わらず、都会の風ではあったけれども、私には、とても、柔らかく温かく感じられた。
それは無意識のうちに、私の未来への展望が、生まれていたからかもしれない。
半
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二重想第一章第二弾投稿です。
意外とオリジナルなのに閲覧数が、上がってくれてうれしい限りです。
見習いも卒業してしまったので精進していきます。
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