選ばなければいけない。生きていく以上は、自分で選びとらなければいけない。
恋はいつも自分にそう言い聞かせてきた。
選ぶ。自分の道を、またはその生き方を。
その結果、どんな結末を迎えようと、それは仕方がない事だった。選んだのは自分自身なのだから。
恋は五原都九原県に生まれ、育った。国の端、片田舎である。
匈奴の民との交友が盛んだった恋は、実力を丁原に認められるまでは馬に乗って、狩りをして暮らしていた。
そのまま自分は悠々と暮らしていくものと思っていたので、丁原の養子になるのにはあまり気乗りしなかったが、実父の勧めで士官することにした。名誉であるし、暮らしが楽になると言うからである。実際給金もよく、家族の暮らしは楽になった。丁原には感謝した。実の娘のように慕ってくれる、果敢で誠実な初老。そんな印象だった。だから仲も良好で、このままこの人の為に戦っていこうという気になっていた。
だがそれもあまり長くは続かなかった。
董卓の横暴が酷くなり、丁原が討伐に立ち上がったのである。地位が高く、実力もある丁原が董卓を討伐するのは自然の流れだった。
恋はそれに付き従い、洛陽に同行した。洛陽は騒がしい街で、恋は好かなかった。そこで和解できればよかったのだが、それはかなわなかった。まず董卓が皆の前に姿を表さないのである。
代わりに李儒という文官が前に出ていろいろ話していたが、ついに対立した。
恋はどう転ぼうが主も決まっていたし、負ける気もなかったので構わなかった。
実際、董卓との初戦で何人かの将の首を刎ねとばし、丁原軍に凱歌を挙げてみせた。涼州の人は馬も下手だし力もない。これで将と呼べるのかと純粋に驚いたくらいだった。
勝つ戦。恋はそう思っていた。兵数はこちらが圧倒的に下回っているのに、あちらは怯えて早々に陣を崩してしまう。
弱い。指揮官はもちろん、兵も使えない。ふと気になることは、この間際にも董の旗が一向に掲げられないところだけだった。思えば、恋は洛陽に来て董卓を見たことは一度もなかった。
いよいよ敵は後がなくなり、明日は決戦というところに来た。
恋はその夜、黙々と方天画戟を研いでいた。隣の幕舎では丁原が休んでいた。
もう少しで研ぎ終わると言うところで、客が来た。
李粛だった。どうやら密談であるという話は先に知らせに来た部下に聞いていたので驚きはしなかった。
「久しいですなぁ、呂布殿」
「久し振り……李粛」
恋は取り敢えず酒を持ってこさせた。
李粛はそれを飲んで話を始めた。
「今日呂布殿を訪れたのは他でもない。これを呂布殿に献上したかったからです」
李粛の後をついて外に出ると、見たこともないほどの金銀が積まれている車と一頭の馬があった。
馬の名は赤兎馬と言った。匈奴の馬を多く見てきたが、これほど素晴らしい馬は見たことがなかった。
「恋に?」
「えぇ、差し上げましょう。ただ、赤兎馬は気性が荒く、気位が高い馬です。あなたにも乗りこなせるかは分かりませんが」
恋は赤兎馬に近寄った。赤兎馬はぶるるっと鼻を鳴らした。
確かに、癖のある荒馬だ。
恋はゆっくりと手を出し、赤兎馬の腹を撫でた。
李粛は驚きの声を上げた。
「これは驚いた。赤兎馬がこんなに大人しくしているとは。初めて見ました。これはもう、運命のようなものでしょう」
李粛は首をふった。
「ただ、勿体無い話です。例えこれをあなたに贈ろうとも、丁原がこれを取り上げてしまうでしょうからな」
そんなわけがなかった。丁原はそんな男ではない。
恋は赤兎馬から離れた。
「それに、あなたほどの武将が、丁原などに飼われているということが、私はとても悲しい」
李粛は大げさに鳴き真似をしてみせた。
思わず、眉をひそめた。
「……恋はどうすればいい」
「もちろん、決まっております。丁原を殺すのです」
そうくると思った。
恋は見せしめに晒し首にしてやろうと思い、天幕にかけてあった戟を持ち上げた。
それを見て、李粛は笑った。
「そういえば、残念でございましたな、呂布殿のお父上は」
恋の実父は、すでにこの世を去っていた。少し昔のことで、病気と言う事だった。
だから家には母が何人かの従者に見守られて暮らしているだけだ。
「……恋も残念」
だからこそ、丁原は実父のように接してくれた。母の面倒を見てくれる従者も丁原が手配してくれたものだった。
李粛はいやらしく笑った。
「母上も悲しく思っていることでしょうな。しかし、それももう少しの間でしょう」
李粛の、何か引っかかる言い回し。
恋は戟の刃を地面におろした。
「どういう事?」
「もうすぐ会えるからですよ、お父上に。ご逝去なされる、と申しておるのです」
「……母様が、死ぬ?」
そんなワケがない。
母は健康そのもののハズだ。手紙も、ニ、三ヶ月に一度はくる。今度の分ももうすぐくるはずだ。
何を言っているのだ、この男は。
どういう事だ。
何故笑っている。
自分が今死の淵に立っているということに、気がつかないほど愚かではないはずだ。
どういう事だ。
不意に、カチッと物が合わさったように合点がいった。
「お前……」
「鈍いですなぁ、呂布殿ともあろう者が」
思わず、戟を振り上げた。李粛の表情は変わらない。
渾身の力を込めて、戟を振り下ろした。
バッと李粛の前髪が散った。
戟は、李粛の額を掠めて、地面に深々と突き立っていた。
しかし、李粛は身じろぎもしない。
「これは勧告です。明日の朝までに丁原を殺し、我らに帰順せよ。さもなくば母の命はないと思え」
歯噛みをしている恋に李粛は笑みを送ってきた。
「大丈夫ですよ。李儒殿はそう申せと仰っていましたが、義理と言っても父親、殺りづらいでしょう。何も呂布殿が行う必要はないのです。少しの間、丁原の幕舎から目を離して下されば」
「させない」
恋は戟を李粛の喉元に突きつけた。
「お前はここで死ね」
「それでは母殿も死ぬことになりますよ」
戟を持った手が震える。
たった一人の、母なのだ。今まで苦労をかけさせた、唯一の肉親なのだ。死なせるわけにはいかない。
かと言って、丁原を殺せるか。殺せるのか。これだけ恩があるのに。
李粛はやんわりと戟の刃を押し下げた。
「何をお悩みになる。丁原は義父、母殿は実母ではありませんか。どちらを選ぶかは一目瞭然。さらに、あなたは私どもの計に掛かって、仕方なく丁原を見殺しにするのです。これは裏切りではありますまい」
沈黙する恋に李粛はたたみかけた。
「もちろん、董卓様に帰順して下されば、給与も丁原とは比べ物にならないくらいです。更に、丁原を討ち取ったとして莫大な恩賞を得られるでしょう。母殿をこの洛陽に招き入れて、貴族階級の暮らしをさせることだって出来ます。どうです? どこに悪い点がございますかな?」
恋はうつむいた。戟が手から零れ落ちてカラカラと鳴った。
「このまま戦に勝っても、相変わらず丁原の下で、小さな田舎街で暮らすだけですぞ。しかも母殿を失って。どうです? この差は」
李粛は恋の両手を握りしめた。
「今こそ、今こそが最大の親孝行の好機ですぞ。今まで苦労を重ねさせた母殿を、貴族にするのです。大丈夫。丁原のことは母殿の耳には入らないようにしましょう。『丁原は暗殺され、将を失った呂布殿は仕方無しに董卓に降伏した』。どうです。呂布殿の汚名を叫ぶ者などいないでしょう」
ヒヒヒ、と赤兎馬がいなないた。
空がじわりと白み始めていた。
「さぁ、選んで下され。私共々母殿を殺してしまうか、大金持ちになり親孝行するか」
「……お前の言うとおり。選ぶ必要、ない」
恋は両拳を握りしめた。
その通りだった。実母と義父では、実母を助けるのが道理だった。
母を見殺しには出来ない。
恋の拳から赤い雫が流れた。
「ただ、お前はいつか殺す。お前の一族は、恋が皆殺しにする。董卓も。それでもいい?」
「えぇ、いいでしょう」
李粛はにんまりと笑って、腰に差してあった剣を抜いた。
「では、私が」
「……まて」
恋は重い足取りで、自分の幕舎に入った。
砥ぎかけの、方天画戟。
丁原からの贈り物。初めて武功を立てた時の祝い。
すぐ外にいる李粛に、恋は振り向きもせずに言った。
「父様は、私が殺す。お前に、父様を斬らせるわけにはいかない」
そう、李粛のような外道に、丁原を殺させるわけにはいかなかった。
薄汚れた刃で、死んで欲しくはなかった。
恋は方天画戟を研いだ。より切れるように、より輝くように。
より、綺麗に。
苦しまないように。
零れ落ちた涙が、頬を伝って刃の上に落ちた。
『軍人たるもの、戦場で涙することは決して許さん』
如何なる時でも守ってきた丁原の教えに、初めて背いた瞬間だった。
丁原は暗いうちに起床し、幕舎の中で竹簡を読んでいた。
恋の母も病に倒れ急死してしまった旨が書かれてある手紙だった。
恋が生まれた地域では珍しくないのだ。ヤブ医者もいない片田舎では仕様がなかった。
実はこの手紙、一ヶ月前のものだった。丁原はすでに恋の母を丁重に弔うように手紙を書いて、送っていた。
恋にはまだ伝えていない。伝えてやることが出来なかった。
もし自分が恋をこれほど重用しなければ、死に目に合わせてやれたかもしれない。そもそも自分が戦を起こさなければ心労も重ねず、恋の母は元気でいれたかも知れない。
自分のせいなのだ。娘はとても悲しむだろう。
自分のせいで。
心が痛む。この年になって、良心の呵責に囚われるとは思ってもいなかった。
丁原は、恋の事を可愛がりすぎた。
子供のできない丁原に、恋のような勇猛果敢な娘ができたのは言葉で言い表すことができない程の喜びだった。
恋は天才だ。恐らく、時代を駆ける英雄になる。
この乱世を、見事に駆け抜けてくれる。
自分はその時、もう隠居しているだろうが、後ろから娘の勇姿を見ているのも悪くはない。
丁原は立ち上がった。
明日は、決戦だ。
恋に手紙のことを話してやれない理由の一つは、恋の士気を挫きたくないからだった。
母の死を教えてやれば、恋はきっとがっかりする。親思いの良い子だった。だから、きっと落ち込む。
恋はもう一角の将なのだ。私情によって兵たちの士気を落とすことは許されなかった。
もう勝利は目前なのだ。
帝と洛陽を取り返したら、最悪董卓を討ち漏らそうと、恋に母のことを伝えて一度自分が治めている国に帰ろうと思っていた。
一緒に墓参りをするのだ。
その時、恋にも謝ろう。
「父様」
幕舎の影から、声が聞こえた。
恋の声だった。
「何だ?」
「明日のこと、相談したい」
「わかった。中に入れ」
白み始めた薄暗い世界。恋の褐色の肌は、それに溶け出すように浮いている。
恋は片手に方天画戟を携えていた。
丁原は恋に戦で使う獲物は、戦の前から握って慣らしておけと教えていたので、不思議には思わなかった。
「それで、どうした? 明日はいつも通り、お前を先頭に騎馬で押そうと思っているが」
「そう」
恋はうつむいた。本当に、落ち込んでいる時の表情だ。最後に見たのは恋の実父が逝去したときだった。
丁原はもしや母のことがばれたのかと考え、それでも思わず開っぱなしの竹簡に手を乗せて覆った。
「目が赤いぞ? 砂でも入ったのか。目が見えねば戦に立てんぞ」
恋は顔を上げて、じっと丁原を見た。
「父様、恋は、良い子だった? 悪い子だった?」
「何だいきなり」
「答えて」
丁原は恋に背を向け、椅子に座った。
何を聞いてくるかといえば、気恥ずかしいことを。
丁原は、恋は孤独癖に似たようなものがあるが、寂しがりだということも知っていた。
悪い夢でも見たのかも知れない。
「そうだな。お前は……まぁ、まずまずというところだ」
「父様、恋のこと、好き? 嫌い?」
丁原は両手を組んだ。よほど、悪い夢を見たらしい。
思わず、微笑がこぼれる。
鬼神だの、武神だの言う者がいるが、やはり娘はまだ子供なのだ。不安になる夜だってあるのだろう。
「娘を嫌っている父親など、いるわけがあるまい。お前は自慢の、孝行娘だ」
言ってみると、しみじみそう思った。
自分は果報者だ。
背に砂利を踏む音が近づいてくる。
丁原は竹簡を見られてはまずいと思い、巻き取ろうと端に手をやった。
刹那に、目の前が暗転した。
妙な浮遊感があった。
それは、貧血で目の前が夢見心地に真っ暗になるのに似ていた。痛みはない。
丁原は自分は歳だと苦笑した。突然、倒れることなど珍しくなくなっていたのだ。
自分が倒れるのはいいが、竹簡を恋に見られてはまずい。
手で探ろうにも、指先の感触がない。
目は見えない。
どうしようか。自分がこれではだらしが無い父だと恋に笑われてしまう。
丁原はもう一度だけ苦笑して――後は、考える事など出来なくなった。
恋は、体中に返り血を浴びて佇んでいた。
目の前には目に光を失った父の首と、血を吐き出し尽くした父の体。
天幕は血で真っ赤に染まっていた。
恋は一滴の血もついていない方天画戟を放り出して丁原の首を拾った。
父は、うっすらと笑みを浮かべているように見えた。
「父様」
どんなに疲れていようが、恋の呼びかけには答えてくれた、父。
「父様」
目は虚ろで、口の端からは舌が零れそうになっている、首。
「父様、父様」
目からぼろぼろと涙が溢れてきた。
首をかき抱いて、恋は泣いた。実父が死んだ時さえ、ここまで泣くことはなかった。
薄く白髪の混じった髪、皺の走った肌。
父は最後、確かに、自分を自慢の孝行娘だと言ってくれた。
こんな自分を。
何時までも泣いていたかった。
泣いて泣いて、それで謝りたかった。
自分は最低の親不孝者だと。
だが、もういくら叫んでも、その声は父に届くことはないのだ。
そう思うとまた涙が溢れてきた。
「呂布殿、泣いている場合ではありませんぞ」
李粛が顔を出した。
「兵たちが起き始めました。事の顛末を述べねば」
恋はその声に殺意を覚えながらも、なんとか冷静になり、立ち上がった。
涙を拭いて、丁原の首を持ち上げる。
丁原の机には、一つの竹簡が開かれていた。
父は最後、何を読んでいたのだろうか。竹簡は返り血で真っ赤に染まっており、何が書かれてあったのかは、もう読めなくなっていた。
恋はそれを巻きとって机の端に乗せ、幕舎内の手につくところを適当に整えた。
「さよなら、父様」
丁原の首を方天画戟の切っ先に刺し、恋は幕舎を走り出た。
「赤兎……!」
短く叫ぶと、近くで草を食んでいた赤兎馬が首をもたげ、やがてつなぎの鎖を引きちぎって走り出した。
赤兎馬は走る恋の隣に、ぴったりと合わせてついてきた。
恋は方天画戟を一度肩にかけ、赤兎馬に飛び乗った。
朝日が血に塗れた体を照らし、風がその頬を撫でた。
速い、赤兎。その目に滲む涙。
同情、してくれているのか。馬のお前でも同情するほどに、自分は惨めなのか。
それとも、もう泣くことを許されない自分の代わりに、お前は泣いてくれているのか。
赤兎。
お前はこんな自分を主と認めてくれるのか。
父の血で汚れた自分を、愚かでどう仕様も無い、この呂奉先を、主と認めてくれるのか。
赤兎。
恋は咆哮し、首の刺さった方天画戟を掲げた。
「見よっ丁原は呂奉先が討ち取ったっ。これより我は洛陽に入るっ。我に続くか、故郷に戻るかは好きにするが良いっ」
恋は軍の内部を尽く駆け回った。
こんなにも声を出したのは、生まれて初めてだった。
殺す、董卓。まだ見ぬ暴君。
母を招いて安全な場所に移し、やがて出世して自分が軍事の権限を掌握したらまずお前を殺す。
次は李粛。お前は絶対に許さない。
しかし、今の自分には手勢が足りない。
少なくとも五百、麾下の精鋭を育てる必要がある。
ことがすべて済んだら、殺すだけ殺し尽くして、長安から逃げる。
その後は、義父の志を継いで国を持とう。義父の名を奉じて、候にするのだ。
恋は赤兎を駆って叫んだ。
もう二度と、自分がこのような声を出す事はあるまい。もう二度と、このような感情を持つことはあるまい。
後ろから強い風が吹き、恋の衣をはためかせた。
その追い風に乗って、赤兎は更に速くかけた。
もっと、もっと速く走れ、赤兎。
この悲しみを、もっと遠くまで、置き去りに出来るまで、速く。
雫が舞って、風になる。
恋は最後まで、自分の目から涙が零れていることに気がつくことはなかった。
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この話は
恋姫ベースの妄想作品です。董卓軍に入る前、月に合う前の恋を書きました。
多少のグロ描写があります。
以上を了承し、お読みくださる方、どうぞよろしくお願いします。
感想や意見、矛盾や誤字へのツッコミもよろしくお願いします。