一刀と呂布の戦いは、日が傾くまで続いた。通常の戦いならこれほどまで消耗することはなかったが、さすがの呂布も心身ともに疲れ果てていた。セキトに乗って戻った彼女を、ねねと黒装束の男が出迎える。
「なぜ奴の首を取らなかった?」
感情の籠もらない声で、黒装束の男が問いかける。
「向こうは全力じゃなかった。そんな相手に、本気は出せない」
言い訳のようにも聞こえたが、それは呂布の本心でもあった。武人ならば、全力には全力で応える。しかし手を抜かれた相手に、本気にはなれない。
「そうか。ならば、奴が本気で挑んで来たならば、お前も本気で迎え撃つと?」
「うん」
「……わかった」
黒装束の男は、不気味に体を揺らす。そして、深く被ったフードの奥でその目が妖しく輝きを放ちはじめた。すると、凝視する呂布の意識が、深い霧の中に呑み込まれてゆく。
「恋殿!」
ねねの声が、はっきりと聞こえるのにどこか遠い。
「深い、深い、夢の中に落ちるがいい。思い出の地……魂に刻まれし前世の記憶とともに……」
「だめです! 恋殿!」
「ねね……」
呂布の目から、光が消える。体がゆらゆらと揺れて、どさっと崩れ落ちた。意識は深い夢の中にあり、彼女は心の失った眼差しで虚空をじっと見つめている。ねねの呼びかけも、もう届かない。
(……か……ず……と)
懐かしい笑顔が、呂布の心を呪縛した。
一刀は泥のように眠った。そして翌朝目覚めると、待ち合わせ場所の食堂で自分でも驚くほど食べた。山のように積まれた皿を見て、やって来た桂花と明命は呆れたように目を丸くする。
「ずいぶんと消耗したみたいね」
「ああ。自分でもびっくりしてるんだ」
「でも、あの呂布と互角に戦うなんて、やっぱり一刀様はすごいです!」
「そうかなあ。へへへ……」
興奮して褒め称える明命に、一刀は照れながらも嬉しそうに笑った。
「あんまり褒めると調子に乗るから、そこまでにしなさい明命」
「いいじゃないの、荀彧さん。俺もやる時はやる男なんだってことだよ」
「まだ向こうも本気を出してないんでしょ?」
「あれ? 何で知ってるの?」
「さすがの呂布だって、本気を出してあれほどの長丁場を戦えるわけないでしょ?」
「ああ、まあそうか」
実際に見てはいなかったが、桂花のところにも噂は届いている。誇張されていることを踏まえたとしても、今まで聞いた呂布の話からするといささか物足りない気がしていたのだ。
「昨日はまだ、お互いに相手の力量を探る意味もあっただろうけど、今日はおそらく始めから全力で来るかもしれないわ。十分に気をつけなさい」
「わかってるよ」
桂花の言葉に、一刀は気持ちを引き締めた。
「それよりも、明命。何かわかったかしら?」
「はい。董卓軍がどうして呂布を討伐しようとするのか、その理由がわかりました」
「えっ? 勅命だからだろ?」
賈駆からそう聞かされていた一刀は、驚いたように明命を見る。
「呂布討伐の勅命は、過去に何度も出されているの。けれど董卓は、そのいずれも断っているのよ」
「そうなんだ……」
「はい。それ以外の勅命は、かなり無理をしてまでも受けていた董卓でしたが、呂布に関してはハッキリと断っていたようなんです。ですが今回に限り、これを受けています」
「心境の変化か何かかな?」
「いえ、もっと深刻な事態のようなのです」
明命は周囲の目を気にしながら、声を落として話を続けた。
「領内の視察という名目で出かけた董卓ですが、現在はどうやら洛陽にいるようなのです」
「洛陽……まさか?」
「確かなことはわかりませんが、おそらく監禁されているらしいと、侍女たちは噂していました」
「それって、人質ってことか?」
「はい……」
一刀は、静かな怒りを感じていた。董卓に会ったことはなかったが、街の様子を見れば優秀な君主だということくらいはわかる。
「もともと、呂布は董卓と仲が良かったようです。董卓軍ではありませんが、盗賊の討伐などには力を貸したりと協力関係にあったみたいで」
「その仲を引き裂こうとでも考えたのかしら?」
「呂布は朝廷にとっても脅威だったのだと思います。董卓は民の信望が厚い君主でしたので、この両者が手を結ぶことを恐れたのかも知れません」
「そうね……」
黙って話を聞いていた一刀が、不意に立ち上がった。
「こんなの、間違ってる」
「落ち着きなさい、北郷」
「だって!」
「いいから!」
腕を引かれ、仕方なく一刀は腰を降ろした。
「冷静さを失ったら、相手の思うつぼよ」
「そうです。こういう時こそ、落ち着いて考えるのがいいと思います」
「……わかった。ごめん」
桂花は溜息を吐き、お茶を一気に飲み干した。怒りを感じているのは、彼女も同じだった。
薄暗い廊下を、張遼は歩いていた。帝に突然、呼び出されたのである。
(なんや、薄気味悪いところやなあ)
宮殿の奥まで来たのは、初めてだった。人の姿はなく、窓のない廊下が真っ直ぐ伸びている。そして突き当たりにある大きな扉が、帝の寝室だった。
「張遼や」
扉の前でそう叫ぶ。とても帝に対する態度ではなかったが、大事な月を人質に取る帝に臣下として振る舞う気は彼女にはなかった。
「入っていいよ」
そう中から声が聞こえ、張遼は扉を開ける。そして思わず、顔をしかめた。
「なんや、これ……」
部屋中の壁に、苦しげな人々の顔がびっしりと浮かんでいた。そんな部屋の中央に天蓋付きのベッドがあり、少年がひとり座っている。張遼はキッと睨みつけ、ふと気が付く。
「月!」
間違いない。少年の隣にある透明な卵のようなものの中に、全裸で膝を抱え丸くなる月の姿があった。
「月に何をしたんや!」
「大切な僕の月に、何もするわけないじゃないか」
「月はお前のもんやない!」
張遼は少年のいるベッドに歩み寄ろうとする。だが、不意に黒装束の男たちが現れ、行く手を遮った。
「そこをどき!」
「……」
「うちは素手でも、結構強いんやで」
そう言って、張遼は指を鳴らす。
「恋と組み手して、さんざん鍛えたんや」
「ふふふ……その呂布も、もう最後かも知れないよ?」
「なんやと?」
「邪魔だったから賈駆に消させるつもりだったけど、おもしろい使い道が見つかってね」
「……悪趣味な奴や」
張遼が吐き捨てるように言うと、少年は楽しそうに笑った。
「君もさ、もう少し大人しくしてくれれば良かったんだけどね」
「どういう意味や?」
「最近、街で人助けなんてやってるでしょ? あれ、目障りなんだ」
「……」
「虫けらは虫けららしく、暗い穴蔵にでも籠もっていてくれればいいんだよ。洛陽の連中さ、近頃、明るくなっちゃってつまんないよ。先の見えない絶望に苦しむ様子が、見ていて楽しかったのに」
少年はそう言って、唇の端を歪めた。笑っているような、怒っているような、どちらにも見える表情だった。
「ウチにどうしろと?」
「酒でも飲んで、のんびりすればいいじゃない。好きだろ、酒?」
「好きや。でもウチは、楽しい酒がいいんや。こないな葬式みたいな場所で飲んでも、全然酔えへんよ」
「そう、残念だね」
黒装束の男たちが、間合いを縮めてくる。
「こうなったら、覚悟決めるしかないみたいやな……」
張遼は戦う構えを取り、ニッと笑った。
「月、待っとれや。今、助けたる」
拳に力を溜めた張遼は、一番近くに居た男に向かって一歩を踏み出した。
一人の男が、門番に止められた。
「洛陽には今、入ることは許されない。すぐに立ち去れ」
だが、男は引き下がらなかった。
「そうはいかない。ここからは、病に苦しむ者たちの声が聞こえる!」
「お前、医者なのか?」
「そうだ! 俺は華佗という」
「そうか……」
男の言葉に、門番のひとりが何か考え込んでいる。
「おい、どうした?」
「なあ、こいつを通しちゃだめか?」
「何を――」
「三日前から、妹が寝込んでいるんだ」
「……」
「……」
「……わかったよ。ただし、こいつ一人だけだからな」
「ありがとう、恩に着るよ! 華佗とやら、中に入れてやるから俺の妹を診てやってくれないか」
門番の言葉に、華佗は頷く。
「もちろんだ」
こうして、ひそかに一人の医者が洛陽に入った。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
ようやく物語が大きく動き始めることができそうです。
楽しんでもらえれば、幸いです。