「行って来るわね」
「ああ、勝利を信じてるよ」
「誰にものを言っているの?私は曹孟徳よ」
「そうだったな」
「一刀、貴方こそ留守をしっかりと守りなさい」
「わかってる。帰る場所が無くなったら大変だからな」
「ふふ、それじゃ」
「ああ」
「…………、一刀」
「ん?」
「稟の事、頼むわね」
「……、ああ」
呉への出征に際し、魏の頭脳三軍師が一人、郭奉孝の姿は無かった。
呉侵攻の為の軍議中に倒れたのである。
後顧の憂いを絶つ為に行った烏桓征伐の際に病を得ていたのだ。
この事は一刀をひどく苦しめた。
自分は防ぐ事が出来たはずなのにと。
そんな思いを胸の奥にしまい込み、一刀はその部屋へと向かった。
「稟、起きてるかい?」
一刀が声をかけると部屋の中からか細い声で返答が有った。
「一刀殿ですか?どうぞお入り下さい」
「失礼するよ」
部屋に入ると一刀は枕もとの椅子に腰掛けた。
寝台の上の稟は体を起こして微笑を浮かべていた。
しかし頬はこけ、目の下にははっきりとクマが浮かんでいた。
一刀はその事には触れずに
「やっぱり大分印象が違うよな」
「なにがです?」
「いや、そうやって髪を下ろして眼鏡もはずしていると。普段は知的美人って感じだけど
今は深窓の令嬢みたいだ」
「なんですか、それは」
そう言って稟は少しすねた様に俯いたが、頬に薄っすらと赤みがさしていた。
すっかり青白くなってしまった顔に赤みがさす様は、どこか一刀をほっとさせた。
「もう、そんな事を言っていないでそこの竹簡を取って頂けますか?続きを記したいので」
「ああ、わかったよ。でもあまり無理するなよ」
「分かっていますよ。此度は不覚を取りましたが、華琳様は呉蜀を打ち破ってこられるでしょう。
その後の太平の為にやる事はいくらでもあります。その為の策ですし、何時までも病をひきずる
訳にはいきませんから」
「ああ、そうだな」
一刀は立ち上がり、竹簡を稟に渡すとそのまま明り取りから外を眺めた。
稟の病が死病である事は一刀には分かっている。そしておそらく稟も。
だからこその行動なのであろう、出来る限りの『知』を置いて逝くと。
だが一刀は諦めてはいなかった。
「そうそう、俺に医者の心当たりがあるんだ。今探してもらっている。その医者に見てもらえば
すぐに良くなるさ。」
「ふふ、天の知識ですか?それでは期待しておきますね。早く治るに越した事はありませんから」
稟は筆をおき、微笑みながら答えた。
一刀は椅子に戻り、他愛のない世間話をひとしきりするとまた席を立った。
「それじゃ、また来るよ」
「ええ、お待ちしております」
一刀は満足そうに肯くと部屋を出た。
稟は閉まった扉を眺めつつ、遠くなっていく足音を聞いていた。
「こう言うのも悪くはないですね。どういった意図かは分かりませんが、桂花には感謝しなければ
いけませんね」
そう、一刀が留守居になったのは桂花の進言であった。
渋る華琳を桂花が押し切ったのだ。
「華琳様や風が居ないのは寂しくもありますが、二人きりと言うのもそれはそれで……」
そんな事を考えながら稟はまた筆に手を伸ばした。
一方、一刀は自分の部屋に戻る途中、中庭に寄るとため息をついて空を見上げた。
(この広大な空の下、どこかにいるんだろうか?)
力の限りの事を成そうと誓った一刀だが、それでも祈らずにはいられなかった。
「いるんだろ? 華佗。どうか…………」
華琳たちの進軍は順調だった。
今は小休止の為仮設の陣をしいているが、ここまでは予定通りの日程で進んでおり兵の士気も高い。
南国特有の病や水の違い等に苦しむ兵もいたが、事前に桂花が用意した薬や水の煮沸部隊。
それに現地の医者も手配していた為その数は少なく、また症状も軽かった。
「まあなんだ。ここまで順調だと逆に怖いくらいだな」
感心したような、呆れたような感じでつぶやく春蘭。
「何言ってるの。このわたしが手配したのよ。抜かりは無いわ。ああ華琳さま、このまま
あっけないほどにあっさりと呉を落として見せます」
「期待してるわよ、桂花」
初めの怒りの表情から一転、うっとりした表情で語る桂花に笑顔で返す華琳。
これが気に入らなかったのか、春蘭が皮肉をかえす。
「何をえらそうに。どうせ北郷の入れ知恵だろう。いないからといって手柄を独り占めか?」
春蘭と桂花のいつもの口げんかのはずだった。しかし桂花は常とは違っていた。
「何を言っているの。あの馬鹿男の知恵なんてそのままでは使い物にならないわ!
わたしたち、いえわたしが仕上げた至上の策よ!!」
そのあまりの剣幕に春蘭もおもわず黙り込む。
「桂花?」
華琳の問いかけにハッとしたように表情を変え頭を下げると、
「申し訳ありません。真桜のからくりの確認をしてまいりますので」
桂花はそういってこの場を辞した。
訝しげな表情でそれを見送る夏侯姉妹。
「風?」
「ぐぅ」
「おきなさい!」
「おお!? 桂花ちゃんのあまりの剣幕に意識が飛んでしまいました」
「それで?」
促す華琳に風はあめをなめつつ、
「まあ、桂花ちゃんにも色々あるのでしょう。策はすばらしいと思うのです。
進軍も順調ですし問題はないのではー」
「そう。それでも戦では何があるかわからない。しっかりと勤めを果たしなさい」
「ぐぅ」
「まったく。春蘭、秋蘭、行くわよ」
「はっ!」「御意」
華琳は少し呆れたように言うと、夏侯姉妹を連れて自分の天幕に戻っていった。
一人取り残される形になった風。
「ふー、やっぱり稟ちゃんがいないと調子がでませんねー。
それにしても、桂花ちゃんはかわいいですねー。でも選ばれたんですからそれもやむなしなのです」
ひとりごちた後、風も自身の天幕へと歩き出す。
「…………………………………………、お兄さんは罪作りさんですねー」
そんな呟きを残して。
その後も進軍は順調に進み、いよいよ呉との決戦が近づいてきた。
一刀が桂花に話した通り、黄蓋が投降の打診をし、ホウ統は船酔い対策の献策をしてきた。
桂花はそれらを受け入れるように華琳に進言し、またホウ統を陣に留まらせる様にした。
ホウ統は渋ったが、あまり強く拒絶するのはまずいと思ったのか最後には折れた。
桂花は大事な客という口実のもと、天幕を厳重に警備させホウ統の軟禁に成功した。
そして、黄蓋から今宵事を起こすとの連絡が入った。
それを受けて桂花は思考に沈む。
(ここまでは全て予定通り。鳳雛は抑えたし、真桜特製の鎖の効果も確認出来たわ。
細作からの風向きの情報と黄蓋が事を起こす時間が一致している。
懸念材料だったけれど黄蓋の行動が細作の情報の正しさを証明する形に。
…………、いけるわ!)
桂花は決意の表情を浮かべ、華琳の天幕へ向かった。
「天よ、世界よ、よく見ておきなさい!魏に勝利をもたらすのは他の誰でもない、この荀文若よ!!」
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前作の続きと言えば続きです。
(意図的に)間の話が少し飛んでいますが。
前作を短編として気に入って下さった方はお読みにならない
方がよいのかも知れません。
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