(黄巾騒乱 其の四)
一刀の出陣が決まった後、洛陽は慌しかった。
天の御遣いであり漢の大将軍である一刀の出陣とあってそれなりの形式的なことを執り行われていた。
その中で軍旗は十文字を模ったものを用意され、それが討伐軍の本隊の印とされた。
「俺の軍旗か」
少し前までただの平凡な学生だった一刀にとって自分の軍旗を見ていると照れくささを感じずにはいられなかった。
その傍らで百花はまだ不安を完全に消すことはできずにいたが、政治の見直しや今後の政策などを考えなければならなかった。
それを気にしてか、準備の合間に一刀は百花とできる限りいるようにしていたが、その時でも彼女の表情は暗かった。
何を話しても反応が薄く、そればかりか眠る時も妙な距離感を感じさせていた。
それでも一刀は彼女に声をかけることをやめなかった。
ようやく一時の休息にありつけた一刀が百花とお茶を呑みながらのんびりと話をしていた。
「このお茶、美味いよな」
「……」
「最近は張譲さん達もちょっかいを出してこないよな」
「……」
何を話しても頷くだけで口を開こうとしなかった。
それだけに一刀は何かと話題を振っていくがそれもやがて尽きると黙ってしまった。
(どうしたらいいんだ……)
だが何を言っても頷くだけで会話もなくなってしまったため、一刀とすればどうしたらよいのか悩むばかりだった。
「なぁ百花」
「……」
「何度も言っているじゃないか。ちゃんと戻ってくるって」
「……」
出陣も目前に迫ってきているが百花がこんな状態では行くに行けなかった。
「百花」
「……わかっています」
ようやく口を開いたがそこから元気さなど伝わってこなかった。
手に持っていた茶杯を机の上に置いて立ち上がると一刀に背を向けた。
「わかっています。私の我侭なのはわかっています。でも……」
一人の少女として大切な人を心配するのは当たり前だった。
皇帝である以上、いつまでも個人的な感情ではいられなかったがそれでも我慢などなかなかできるものではなかった。
「まったく百花は心配性だな」
「……」
一刀も席から立ち上がって百花の後ろに立つと、彼女の頭をポンポンと何度か優しく叩いた。
「恋や霞もいるし、いざとなったらどうにでもなるよ」
恋と霞を紹介されたとき、百花はあのモヤモヤに襲われたがなんとか我慢できた。
彼女にとって最近はそのような気分になることが多くなっており、一刀に対しても素直になれない部分が目立っていた。
「そんなに不安なら張譲さん達が言っていたようにする?」
「そ、それは……」
慌てて振り返るとそこには一刀の笑顔があった。
それを見るだけでモヤモヤが抑えられていき、代わりに胸の内から温かいものが全身に伝わっていく。
「なら我慢するときは我慢しないとダメだぞ」
「……」
一刀の言葉は厳しくもあったが優しさも含まれていた。
「それに君に追い出されたら本当に行き場所がないんだから。俺が戻って来られる場所を守っていてくれるかな?」
「一刀の戻ってくる場所……ですか?」
「うん」
一刀の居場所はここなのだ。
何度も今のように不安になってしまうといつもそう言ってくる。
天の国ではなくここが一刀の戻りたいと思ってくれている場所。
「私が一刀の戻ってくる場所を守るのですか?」
「そうだよ。俺がいない間は月達がいてくれる。彼女達と守ってくれるかな?」
笑顔と共にかけられる優しい言葉。
(私が守る……。一刀が戻ってくる場所を私が……)
何度も思っていると、それは他の誰でもない自分だけができることなのだと気づいた。
そしてそのために一刀は月達を残してくれる。
百花自身が自分の力で一刀の戻るべき場所を守るために、月達が彼女を守る。
「君は皇帝だ。君にしかできないこともある」
「それがここを守るということですか?」
「そう。君がいる場所に俺は戻ってくるから。だからそれまでの間だけ守ってくれるかな?」
一刀にとってもそれは出陣にあたって何よりも大切なことだった。
彼女を守り、彼女の国を守りたい以上に彼女の元へ戻る。
あの夜より前からずっと思っていることだった。
「……わかりました」
ようやく百花は一刀に対してはっきりと答えた。
「一刀が戻ってくる場所を私が守ります。月達と一緒に。だから絶対に生きて帰ってきてください」
「約束しているんだから戻ってくるよ」
一刀の笑顔に百花もようやく微笑むことができた。
「うん、やっぱり百花は笑顔の方がいいな」
「だ、誰のせいで困っていると思っているのですか?」
「うっ……。それを言われたら言い返せないんだけど」
「……冗談です」
そう言って百花は小さく笑った。
今まで冗談というものをあまり口にしなかった百花は慌てて手を口に当てた。
「す、すいません……」
「どうして謝るの?」
「え、えっと……」
どう答えたらいいのかわからない百花に一刀も同じように小さく笑った。
「まったく、百花は真面目すぎるよ。こうしている時ぐらいは肩の力を抜かないと」
「は、はい」
「ほら、まだ硬い」
一刀が笑いをかみ締めていると百花は恥ずかしそうに俯いていく。
「百花は面白いな」
「か、一刀が意地悪なだけです。私がどんなに心配をしているのかわかっているのですか?」
「うん。だからこうして心配ないって言っているんだぞ」
そう言いながら百花の身体を抱きしめていく一刀。
抗うこともせず百花は一刀の背中にゆっくりと手を回していく。
こうして一刀に抱かれている時が百花にとって一番安心でき、そして胸の鼓動が早くなっていく。
彼だけが知る一人の少女の姿がそこにあった。
ようやく落ち着いたところで百花は一刀に今回の策についてもう一度確認をした。
「まぁ上手くいくかどうかはその時になってみないとわからない。でも、これをする意味は早く鎮圧したいだけじゃないんだ」
「といいますと?」
「うん、これは未確認なんだけど彼ら、特に張譲さん達によってこの反乱は操られいるんじゃないかって思うんだ」
以前、百花が拾ってきた黄色い布を見てからというもの、この黄巾党の反乱は宦官達、特に張譲が中心となって仕組んだものではないかと思っていた。
そのことを詠に話したことがあったが、詠からすればそんなことをしても張譲達にとって何の得にもならないと反論された。
制御できる範囲の反乱であればいざしらず、すでに大陸中に飛び火している今回の一件を見る限りではとてもそうには見えないと判断されていた。
「私も同じ意見です。仮に張譲達が操っているのであればどうして父上や姉上がなくなった時にしなかったのですか?」
百花からすればそのほうが確実に張譲の思惑通りになるはずだった。
「それはわからない。でも、今だからこそ反乱を起こさせる意味があるんじゃないのかな?」
「意味ですか」
その意味が何なのかまでは一刀もはっきりとはわからなかった。
大規模な反乱を起こさせて百花を失脚させ、漢の実権を完全に自分達のものにするならば彼女のいうようにもっと早く起こすべきだった。
「まぁこればかり悩んでも仕方ないな。そんなことよりも早く鎮圧する方が最優先だからね」
「そうですね。張譲達のことは私も調べてみます」
「それはいいけど、一人で突っ走らないようにな。月や詠と相談してくれよ」
「はい」
彼女も何かをしようとする姿勢には一刀も喜ばしいことなのだが、相手があの張譲だといくら心配をしても足りないぐらいだった。
身辺警護には徐栄がおり董卓軍が都を守備するのであれば張譲達も実力行使には出られないだろうと一刀は思っていたが、それでも油断はできなかった。
「どちらにせよ、今回の反乱の原因が何かは張角さん達に接触すればわかることだと思う」
「そのために一刀は危険を覚悟で行くのですね」
「そして生きて君の元に帰ってくる」
一刀の言葉に百花も頷いた。
これほどまでに自分の為に何かをしようとしてくれている一刀と離れるのは正直にいえばまだ嫌だった。
嫌だったが彼のやることを支援すると決めたのは自分である以上、一刀の言うように我慢するべきなのだと言い聞かせていた。
「この難局さえ乗り越えられたらもう怖いものなんてないさ」
「そうでしょうか?」
「何事も自信を持たないと上手くいかないさ」
自信を持つ。
その言葉を百花はしっかりと理解するように頭の中に叩き込んでいく。
「そうだ」
「?」
「これを渡しておくよ」
そう言って一刀が制服のポケットから取り出したのは白いハンカチだった。
「これを預けておくから。戻ってきたら返してくれるかな?」
「はい」
「ちなみに俺のお気に入りのハンカチだから無くさないでくれよ」
「それでは私が無くしてしまう前に戻ってきてください」
「まぁ努力するよ」
答える一刀の表情は笑顔に満ち、それを見て百花も笑顔になった。
百花は渡されたハンカチを大切に両手で包み込み、彼が無事に戻ってくることをそのハンカチに祈った。
百花に気配りをする一方で月と詠とも留守の間のことを一刀は何度も頼んでいた。
もともと一番乗りをした上に百花と真名を交換するほどの仲であるため、一刀としては彼女達に百花を守ってもらうことが一番安心できた。
「あんたも心配性ね」
半分呆れたように言う詠に一刀は苦笑する。
「まぁね。彼女がいなければこれからのこの国は成り立たないし」
「本当にそれだけなの?」
「何が?」
「何がって……まぁいいわ」
意味深に話しながらもため息をつく詠に不思議がる一刀。
そんな二人を見て苦笑する月。
「でも一刀様、大丈夫なのですか?」
月からしても一刀の策は無謀だと思えてならなかった。
「まぁ丁原さんから頼れる護衛を二人もつけてくれたからね。大丈夫じゃない?」
気楽に答える一刀だが、詠からすればとても余裕があるようには見えなかった。
失敗するかもしれないではなく、失敗したらどうするのかと詠は何度も問い詰めたことがあったが、一刀はその度に同じように答えていた。
「まぁ百花様のことはボク達に任せて。一応、宦官の動きも監視させているしあんたが戻ってくるまでは守ってあげるわよ」
「頼むよ」
「一刀様もご無理だけはなさらないでください」
「できるだけそうするよ」
月と詠からそう言われ一刀はこれでとりあえず前面に集中することができた。
「そうだ。あんたに一つ言っておくことがあるの」
「何?」
「元々ここの守備をしていた軍の将軍には気をつけなさい」
「どういうことだよ?」
詠は討伐軍とは名ばかりの混成軍の中で都を長年に渡って守備していた将軍の中に宦官に通じている者がいるかもしれないと指摘してきた。
そして一刀が策を実行に移している時に後ろから襲い掛かってくる可能性があるかもしれないと付け加えた。
「まぁ少なくともそんなことをしても宦官達にとって得になるようなことはないけどね。どうせするなら反乱を鎮圧させた後に残党に見せかけて襲った方が自然にみえるしね」
「もしかして俺ってそんなに目障り?」
「ある意味ね。だから十分に気をつけなさい。どうしてもそこまで手が回らないのなら曹操にでも頼んでみたら?」
だが護衛は恋と霞以外受け付けないといってしまった以上、一刀とすれば自分の発言を覆すことになってしまうが、命に関わることであれば変更する必要もあると判断した。
「まぁそれは頼んでみるよ。でも味方を疑うのはどうも好きになれないな」
「それじゃあ最後まで疑わないままその頸を刎ねられたら?」
「詠ちゃん!」
さすがに言い過ぎだと月は声を強めて注意を促した。
「そんなこと言ったらダメだよ、詠ちゃん」
「た、たとえばの話よ。こいつだってそこまで不注意じゃないはずだし」
慌てる詠は一刀の方を見て、考えていると言いなさいよと訴える視線をぶつけた。
「月、大丈夫だよ。俺もその辺りは注意しているから丁原さんの提案を受け入れたんだ。心配してくれてありがとうな」
「あっ……」
手を伸ばして月の頭を撫でると、月は顔を真っ赤にさせ両手を頬に当てて「へぅ~」と恥ずかしそうに声を漏らした。
「あんたね、ボクの月に気安く触らないでよ」
「え、詠ちゃん」
なぜか怒りだす詠とそんな彼女を宥める月。
「いいだろう、別に?」
「良くないわよ。第一、そういうことは百花様にしてあげなさいよ」
「してるけど?」
「……」
冷静に答える一刀に思わず額に手を当てる詠は深いため息をついた。
「そのうち後ろから刺されるわよ?」
「物騒なことを言うなあ」
「あら、それじゃあ現実にしてあげてもいいわよ?」
「……勘弁してください」
百花の拗ねた顔が可愛いと思っている一刀だが、本気で彼女に刺されるのはさすがに笑えない冗談だった。
「で、話は戻るけどもし宦官達が後ろで操っていたらどうするわけ?」
真実であれば国に反旗を翻したとして全員を刑に処さなければならない。
少しでも禍根が残ればそこから新しい反旗の芽が生まれるからだった。
詠に指摘された一刀としては穏便にことを進めたいとは思っていたが、もし張譲達が実力行使に出たらこちらも実力で一掃するしかないのだろうかと戸惑いもあった。
「こういったらあれだけど、あんたの考えていることは甘すぎるわよ」
「そうかな?」
「そうよ。百花様のためにって思いながらも相手には平和的外交で終わらせようと考えていない?」
真っ直ぐに一刀の考えていることを射抜いた詠はさらに続ける。
「血を見ずに終わらせられることができるのならボクだってそうする。でも、相手を見誤っていたらこっちが取り返しのつかない失敗をするのよ」
取り返しのつかない失敗。
最悪、百花が張譲達の手によって討たれる。
そう思っただけで一刀は自分の考えが甘いのかと疑問をぶつけた。
「もし百花様を守りたいなら宦官をこの際、一掃するべきよ。そのためにボク達を呼んだんじゃないの?」
黄巾党の討伐だけではなく張譲達に対して自分達の力を必要としたからこそ百花と一刀は彼女達を呼び寄せた。
特に一刀からすれば張譲達をどうにかしたいという気持ちが強かったため、詠の正確な指摘に言葉がでなかった。
「あ、あの一刀様」
「どうしたんだ、月?」
「私も誰かが傷つくのは嫌です。でも、自分にとって大切な人が傷つくのはもっと嫌です」
「月……」
彼の知っている董卓とは正反対の月の言葉は彼女自身にも向けられているようだった。
「私にとって詠ちゃんや百花様、それに一刀様は大切な人達ですから」
洛陽に来て月はずっと思っていた。
董卓という一人の人ではなく月として一人の少女として百花と一刀は接してくれていた。
百花からは友達として接して欲しいと恐れ多いことを賜ったが、今ではなんとか普通に話せるようにまで関係が深まっていた。
だからこそ月は百花に危害を加える可能性がある相手には非情をもって相対する覚悟はあった。
「そうだよな。月の言うとおりだよな」
一刀も自分にとって大切な人を傷つけられれば感情を理性が抑えるのは不可能だった。
そして改めて思った。
ここは自分がいた世界とは違うのだと。
月と詠に言われて初めて自分だけの考えでは張譲達には勝てないと感じ、同時に彼女達がいるということの意味の大きさを感じていた。
「あんた一人でどうにかならないのならボク達を頼りなさいよ。まぁボクからすれば百花様さえ無事ならばそれでもいいんだけど、あんたがいないと百花様が悲しむから仕方なく手伝ってあげるわよ」
「なんだか喜んでいいのかどうか迷う言い方だな」
「何よ、文句もであるの?」
「いえございません」
面白おかしく再び両手を挙げて降伏する一刀に詠は「始めから素直にそう言いなさいよ」と文句を口にしたが、不思議と嫌味に聞こえなかった。
「一刀様、詠ちゃんはこう言っていますけど一刀様が動きやすいように手配をしてくれているんですよ」
「へぇ~」
「ち、ちょっと月。何変なこと言ってのよ!?」
「だって昨日だって一刀様のために地図を見ながらどうしたら危険が少なくなるか考えていたよね?」
いつも一緒に寝るはずの詠が先に寝ていて欲しいと月にお願いをした後、月も一度は眠ろうとしたが、机の上にかじりついている詠が、
「ここからいけば……それじゃダメ、危険が大きすぎる……」
と一刀の策を完璧に成功させるために一人知恵を絞っていた姿を月にしっかりと見られていた。
話を聞いた一刀がふと詠の方を見ると顔を真っ赤にさせて固まっていた。
「ありがとうな、詠」
感謝の言葉をかけると詠は眼鏡を一度指で押し上げると背を向けた。
「ボ、ボクが記した方法を教えるから帰ってきなさいよ。まぁ失敗したらあんたのせいだから」
「ああ、助かるよ」
「ふんっ」
短く答える詠だが百花のためにも一刀には無事で帰って来てもらわないと困るため、居残り軍師として出来る限りのことで彼を支援しようとしていた。
「月もできる限り百花の傍にいてもらえるかな?」
「それは構いませんが」
「徐栄さんだけだと不安とかそんなんじゃないんだ。ただ」
「ただ?」
不思議そうに一刀を見る月に、一刀は苦笑しながら頭をガリガリと掻いた。
「その友達として夜とか役目の合間とかでいいんだ。話し相手になってほしいんだ」
「話し相手ですか?」
「うん。頼めるかな?」
「そういうことでしたら喜んでお受けいたします」
皇帝と臣下としてではなく対等の友達として夜を一緒に過ごしたりするぐらいなら別に問題はないだろうと一刀は考えていた。
「詠にも頼めるかな?」
「ボクも?はぁ、仕方ないわね。月が受けるならボクが受けないわけにはいかないでしょう?」
そう言いながらも受け入れる詠に一刀も笑みを浮かべた。
「それにしても百花様をそこまで心配するなら本当に娶ったらどうなのよ?」
「へ?」
予想外な攻撃に間抜けな声を上げる一刀。
「どうなのよ?普通にしてはちょっと度が過ぎてない?一緒に寝たり、食事したりって仮にも皇帝陛下なのよ?」
「まぁ確かにそうだよな。でも、なんか二人でいる時はそこまで考えてなかったな」
純粋に百花を支えたいと思っているだけに一刀からすれば別に下心があるわけでもなかった。
ただ、彼女を守りたいという想いだけは本物だった。
その夜。
一日が終わり百花と一刀は灯りを消した部屋の中で背を向けて寝台にいた。
連日の疲れからか一刀は寝台に上るとすぐに眠りについてしまい、百花も眠気に押されて意識を手放そうとした時だった。
「だいじょ……から……」
「一刀?」
急に意識がはっきりしていく百花はゆっくりと身体を起こして眠っている一刀の方を見た。
起きているようには見えず寝言だろうと思い再び横になろうとしたが、また同じように聞こえてきた。
寝返りを打って仰向けになる一刀。
薄暗い中で彼の寝顔を見て百花はそっと手を伸ばした。
(こうして寝ているときの一刀は無防備過ぎて困りますね)
ましては夜でありここは自分の部屋。
誰にも邪魔などされることなどない。
そう思うと自分は何を考えているのだと思い首を横に振った。
(私は一体何を考えているの?)
誰もいないはずなのに部屋の中を見る百花。
毎日のように一緒に眠っているはずなのに妙に意識をしてしまう。
冷静になろうと一刀を起こさないように寝台から降りて椅子に座った。
そして机の上にある装飾を施された箱に手を伸ばして中からあの白いハンカチを取り出した。
(これがある限り、一刀は私のところに帰ってきてくれる)
その約束の証としてハンカチを渡された。
彼の所有物を自分が預かるというだけでも彼女にとって嬉しいことだった。
(私も何か渡した方がいいかもしれませんね)
そうすることでお互いが無事に再会できて預かっていた物を戻していく。
たったそれだけのことなのに百花は嬉しくなる。
(でも何がいいのでしょう)
邪魔にならない小物を適当に思い浮かべていくが、最良の物がなかなか思いつかなかった。
「んっ……」
悩んでいると一刀がまた寝返りを打っていく。
今、どんな夢を見ているのだろうか。
その中に自分は入ることを許されているのだろうか。
いろんなことが頭の中から溢れていく。
ハンカチを箱の中へ大切にしまいこむと、百花は一刀の横に行き膝をついて彼の寝顔を間近で見た。
「もう食べられないよ……ムニャムニャ~」
今度は何かを食べているのだろう。
何時まで見ても飽きることのない寝顔に百花は自然と笑顔になっていく。
(そういえば、最近の食事も何だか美味しく感じますね)
毒見のために料理が冷えているのはいつものことだが、一刀とたまに月と詠を呼んで食べた時などその冷たくなって美味しく感じられなかった物が不思議と美味しく感じていた。
会話も弾み気づけば自分でも驚くほど食べていたこともあった。
「今度、俺が何か作ってあげるよ」
そう約束してくれたことがあった。
今はやることが多すぎてそこまでする余裕がなかったが、今回の一件が終わったら一度催促してみようかと思っていた。
「それに外にも連れて行ってくれる約束もありますね」
二人で一頭の馬に乗って未だ見たことのない世界をこの目で見てみたい。
一刀と二人で新しい何かを見つけたい。
思えば思うほど楽しいことばかりだった。
「私ばかり楽しんでも仕方ないですね」
そんな楽しい未来図も目の前で眠っている男がいなければ何の価値も持たないものだった。
「私は一刀が望むような皇帝になれるでしょうか?」
「なれるよ」
「えっ!?」
眠っているはずの一刀が正確に受け答えをしてきた。
「お、起きていたのですか?」
「……」
「一刀?」
一刀の頬に手を触れさせて確認すると眠っていた。
偶然、夢の中と現実の世界が重なっただけだった。
「驚かさないでください」
早まった胸の鼓動が落ち着くまで手を胸に当てていた百花は寒さを覚えたのか寝台の上に上がり横になろうとした。
と、一刀の方を見てあることを思いついた。
ゆっくりと遠慮しながら一刀に擦り寄っていき、彼の腕に寄り添うようにして触れていく。
正式に婚儀が成立したわけでもなく、公の前では皇帝と天の御遣いであり一緒に寝ることは百花の我侭だった。
(温かい)
一人よりも二人で眠れる喜び。
毎日のように眠っていても決して飽きることもない百花のささやかな幸せだった。
(この温もりをしばらく感じられないのですね)
一刀自身が決めたことだとはいえ、はやり寂しさを感じずにはいられなかった。
それをしっかりと覚えておくためにもう少し密着しても許されるだろうと思い、身体を動かしていく。
だが加減というものはどんなことにでも平等に存在しており、それを超えるとさすがの一刀も眠りを覚ました。
「な、なに?」
一刀からすれば柔らかな感触と温もりに意識がはっきりしていき、横を振り向くとまさに目の前に百花の顔があった。
固まる二人。
辛うじて灯りがないためお互いの顔を正確に見ることはなかったが、それでも吐息が二人をより近くに感じさせていた。
「一刀」
「な、なに?」
昼間、詠が余計なことを言ったために妙に百花を意識する一刀だが、自分から突き放そうとはしなかった。
「そ、その」
「う、うん」
煩悩退散と心の中で唱える一刀だが、いつまで理性が耐えられるだろうかと心配になってきた。
「い、いえ。なんでもありません。おやすみなさい」
一刀の限界が来る前に百花は彼から離れて背を向けて無理やり眠りについた。
ある意味でお預けされた一刀だったが、ようやく理性が立て直され、背を向けている百花に「おやすみ」と声をかけて再び眠りについた。
数日後。
全ての準備が整った討伐軍の主だった諸将は玉座の間に集まっていた。
その頃、百花は私室で今日のための衣装に着替えて一刀と徐栄の前に現れた。
「お待たせしました」
部屋から出てきた百花を見た一刀と徐栄は言葉を失った。
いつもとは違って煌びやかでどこか美しさを感じさせる衣服を身に着け、皇帝としての威厳に満ちたその姿は一刀がこれまで見た中で最も『皇帝らしく』見えた。
「あ、あの、二人ともどうかしたのですか?」
言葉もなくただ自分の方を見ている二人に不審に思った百花。
それに対して二人は慌てて首を横に振った。
「な、なんでもないよ。ね、ねぇ徐栄さん」
「は、は、はい。まったくもって問題はありません!」
何が問題なのか百花にはわからなかったが、そこを突っ込むようなことはしなかった。
「これからみなが戦に赴くというのに私がそれをしっかりと見送らなければなりませんから」
集まった諸侯の思惑はともかく、百花にとってまだ自分にはそれだけの価値があるのならそれを十分に応える義務があった。
「私は漢の皇帝ですから」
傀儡でもお飾りでもない、唯一人の漢の皇帝として百花はこれから成すべきことを見つけようとしていた。
「そうだな」
一刀も彼女の言葉に大きく頷いた。
まだまだ皇帝としては足りないものはあるが、それは自分達で補っていけばいい。
そうすることでこの国は豊かさを取り戻し、百花も皇帝として百年先までのことを考えることができる。
そのための天の御遣いであればどんな困難が襲ってこようとも何も恐れるものはなかった。
「それと張譲達のこともこの際、はっきりとさせます」
傀儡として操っていた張譲達とも正面から対決をすることを強調した百花。
「私のせいでこの国が苦しんでいるのであればその責任をとる必要があります。張譲達だけに責任を負わすのではなく私自身もその責任を負う覚悟です」
「百花……」
「それでも私と一緒にいてもらえるのならいてもらえますか?」
彼女なりに考えて苦しんだ。
それを一刀と徐栄はその身で感じていた。
「もちろんだよ。俺はどこまでも君と一緒にいる。そして君のつくる新しい国を一緒につくりたい」
「私もです。劉協様を精一杯、お守り申し上げます」
「ありがとうございます、二人とも」
百花は微笑み、そして軽く頭を下げた。
そんな姿を見て一刀はこれが彼女の魅力的なところなのだろうと思った。
必要とあれば誰にでも頭を下げる。
本来、そのようなことをしては臣下に舐められたり、皇帝としての権威が失墜してしまうためしてはならないことだが、百花にとってはそれこそが些細なことでしかなかった。
それを理解している一刀はともかく、皇帝に頭を下げられた徐栄にとっては恐縮のかぎりであり、これ以上ないほど恭しく百花に対して膝をついて礼をとった。
「徐栄、それは少しやりすぎです」
「えっ、そ、そうでしょうか」
顔を真っ赤にさせながら答える徐栄に百花だけではなく一刀も笑いをかみ締めていた。
それがまた徐栄を赤くさせていたが、当の本人も次第に照れくさそうに笑顔を浮かべていった。
玉座の間に入ると物々しい雰囲気が漂っていた。
百花が玉座に座るとそれはさらに増していくように一刀は感じた。
目の前に広がっている異様な光景、誰もがこれから始まるであろう戦に向かって真剣さが感じられていた。
「出陣の前にみなに申したいことがあります」
そう言って百花は話を始めた。
「先日も申しましたが此度のこと、私の不徳の致すところでありみなにも迷惑をかけました。その責任を取れというのであれば責任をとるつもりです」
曹操達と初めて会った時と同じように百花は自分の責任を回避することはしなかった。
さらに今の彼女はこれから戦に赴く者達に対して自分の果たすべき義務をしっかりと見つけていた。
「もし此度のことで私に皇帝としての資質がなければ遠慮などいりません。私に代わって新しい国を建て、この国に生きる全ての者に安寧を齎していただきたいのです」
実力があると思うのであればその者に帝位を譲る。
それ以外に聞こえた者はこの場にはいなかった。
一刀もその言葉には驚きを隠すことに失敗してしまい、彼女の方を振り向いた。
そこにはすでに顔を上げて何かを決意したような表情の百花がいた。
「今の私に協力する価値もなければそれでも構いません。でも、そのために民を苦しめるようなことをしてでも帝位を望むのであれば私は彼らの為に戦います」
皇帝自らが剣を持って戦う。
自分のためでも漢王朝のためでもなく、ただこの国に生きる民のために戦おうとするその姿勢に曹操や丁原といった者達は笑みを浮かべていた。
「ようやくってとこかしら?」
「さぁどうだろうかの。少なくとも先日よりもさらに成長なさっているようには見える」
彼女達にとって自分達が仕えるのに値すると思えばいくらでも臣下の礼をとるつもりでいた。
天の御遣いにご執心なだけであれば漢王朝など滅んでしまえばいい。
そしてそれをするのは自分達かもしれない。
そう思っているだけに、今の百花の態度には面白みを感じていた。
「董卓」
「はい」
そんな中で百花は諸侯の中に混じっている月に声をかけた。
恭しく前に出て膝をつき、礼をとる月。
「勅命です。董卓軍にこの都の守備を一任します。黄巾党に賛同する者、または協力者を探し出し拘束するように」
「謹んでお受けいたします」
元々、都にいた軍勢を一刀が戦場に連れて行くことでその代わりに月達を守備に回す。
一刀の考えに百花は自分なりの考えを加えて正式に任命をした。
当然、今まで都の守備とはいっても地方に比べれば楽な官職にあった将軍達は不満だったが、勅命である以上、従わなければならなかった。
「それと董卓には私の補佐とし、その権限を与えます」
さらなるどよめきが起こった。
補佐としての権限を与えるということは実質、宰相級の扱いとも取られかねなかった。
(面白いことをするわね)
曹操からすればそれは別の火種を産むことになるだろうと思ったが、あえて何も言わなかった。
「つまり政に関しては董卓を、軍事に関しては天の御遣い様を改めてここで任命します」
それは張譲達と完全に決別することだった。
政治と軍事の中心に百花が信頼している二人を置いたことで完全に張譲達宦官を排する行動に出たのだと諸侯の後ろにいた詠が一番に気づいた。
同時に、幾人かの将軍が動揺している姿を見つけた。
「それでは天の御遣い様」
凛とした声で一刀を呼ぶ。
それに応えるように一刀も自分のいる場所から百花の前に行くと、そこで膝をついて礼をとった。
その姿は他の者達からすれば天が皇帝に従うというふうに見えた。
「これを御遣い様に受け取っていただきます」
そう言って控えていた徐栄が両手で支えるように一本の宝剣を持ってきて、それを百花が手にした。
「これは七星の剣です。天と地の間にある星がある限り万事上手くいくことでしょう」
その言葉の意味を正確に理解できた者はおそらく皆無だった。
天は一刀を指し地は百花自身を指しておりその二人を星、つまり七星の剣が守る。
百花はその剣を与えることで彼を守り、また彼もその剣をもってして彼女を守る。
「謹んでお受けします」
臣下のごとく丁重に受け取る一刀。
「この国の民のためにそのお力をお貸しください」
「この剣に誓って劉協陛下と共に力を尽くします」
真面目に答える一刀が顔を上げると百花は柔らかな表情になっていた。
「みなも御遣い様に協力するようお願いします」
「ははっ」
曹操、丁原が真っ先に礼をとるとそれに続くように他の者達も礼をとっていく。
これが本当に衰退し滅亡へと進んでいる国の皇帝なのだろうか。
天の御遣いを得たことにより復活を果たそうとしているように思えた。
「御遣い様、私はここで私のすべきことをします」
ゆっくりとそして力がこもった声で話す百花。
「だから御遣い様は御遣い様のすべきことを遠慮なくしてきてください。そして」
そこで一度言葉を切って百花はほんの少しの間だけ、一刀と視線を交わした。
言葉のない会話。
一刀は何も言わずにそれに応える。
隣にいる月はそんな二人に驚きながらも、二人が自分達が思っている以上にお互いを必要としており、信じきっていることが羨ましくもあった。
「董卓」
「は、はい」
いきなり声をかけられた月は慌てて礼を取り直した。
「これからも宜しくお願いしますね」
これから……。
それを意味するものはどういうものか月にはわからなかった。
わからなかったが、少なくとも自分を必要としている百花の期待を裏切るわけにはいかなかった。
「もちろんでございます」
一刀以外に信頼している月に百花は頷いてみせる。
「みなも此度の戦、宜しく頼みます」
天をも従わせる皇帝に曹操や丁原といった参内した諸侯達は奇妙な高揚感に包まれていた。
そんな中で幾人かの将軍が人知れずその場から去るはずだったが、もちろん完璧にはいかなかった。
詠によってしっかりとその行動は見られていたが、彼女はあえて無視して一刀と並んで立っていく親友の姿に笑みを浮かべていた。
そしていよいよ討伐軍が出陣した。
十文字を中心に曹や丁、そして袁などといった数多くの軍旗が風に靡きながら出陣していく。
もっともその中には一刀の姿はなかった。
「それじゃあ行ってくるよ」
準備を整えた一刀は恋や霞と共に馬に乗っていた。
彼らは曹操達主力とは別行動をして直接、黄巾党の本隊に紛れようとしていた。
「どうか無事に帰ってきてください」
彼らを見送る百花、月、詠、徐栄。
「もちろんだよ。戻ってきたら美味い炒飯作ってあげるから」
「楽しみにしています」
「月、詠。頼むよ」
一刀の不在の間、百花を守る責任を負うことに何の異存もない月達。
「はい。百花様をしっかりお守りいたします」
「だからあんたもしっかり百花様のために働いてきなさいよ」
「ああ。徐栄さん、何かと大変だろうけどよろしくね」
「お任せください。この徐栄、命に代えましても劉協様をお守りいたします」
彼女達がいれば大丈夫。
そう言い聞かせる一刀。
「ほな、ウチらもいこうか」
出発を促す霞に一刀は短く「そうだな」と答えた。
「行ってくるよ」
「はい」
名残惜しくも一刀は恋と霞を連れて馬を動かしていく。
その後姿を見送る百花。
それも我慢できなり形振り構わず走り出そうとするのを詠が素早く止めた。
「詠、離して下さい」
「百花様、ここで声をかけたらアイツが不安になります」
今ここで追いかけでもしたら一刀はおそらく彼女のことを心配してしまう。
そして策を実行中に百花のことを思い出して油断を生むようなことがあればそれこそ命を危険に晒してしまう
それぐらいは百花もわかっていた。
わかっていても今まで一緒にいた一刀が初めて自分の近くからいなくなると感じると、抑えられていた不安が爆発寸前だった。
「大丈夫です、百花様。一刀様ならきっと百花様の元に戻ってこられます」
「月……」
「だから帰ってくることを信じて待ちましょう。」
そっと手を伸ばして不安に包み込まれている百花の手を握った。
心優しくも確かな強さを秘めている月に百花も頷くしかなかった。
「月や詠は強いですね」
「一刀様は天の御遣い様です。天の知識もありますしそれに呂布さんや張遼さんがいるから大丈夫だと信じていますから」
丁原から二人の実力ならば十分に一刀を守り通せると聞いているため、月はそれを信じていた。
いや信じるほかなかった。
「そうですね。月の言うとおりです。私が信じてあげなければダメなのに私は自分のことしか考えていませんでした」
「でも、大切な人を心配するのは誰にでも同じだと思います」
「同じですか」
皇帝だろうが民だろうが大切な人を心配するのに身分など関係ない。
無事に自分のもとに帰って来てくれたら、離れていた分、彼に甘えてもいいだろうと百花は思った。
だが、そんな彼女達を遠くから憎悪に満ちた視線で見ている者がいることなど気づきもしなかった。
(あとがき)
遅くなりましたが第四話です。
そして今回でとりあえず百花は一休みとなり、一刀、恋、霞がメインになります。
あと華琳達もそれなりに出てきます。
次回の第五話の前に一本、番外でも入れればと思います。
というわけで次回もよろしくお願いします。
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黄巾編第四話です。
今回は一刀達の出陣までのお話です。(というよりか前回の延長戦?)
次回より官軍と黄巾党の激突、そして一刀の策。
百花はちょっとの間、お休みになると思います。
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