No.127551

太平洋の覇者 2 「日米開戦」

陸奥長門さん

「太平洋の覇者」の続編です。
ようやく日米が開戦します。
でも、艦隊戦はまた書けませんでした。前作が思いつきでかいたので、その辻褄合わせに苦労しました。
楽しんでいただければ幸いです。

2010-03-01 23:36:18 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:2104   閲覧ユーザー数:1939

 轟々と風が吹きすさぶ中,空母「翔鶴」の飛行甲板上で発着機部下士官が大きく合図を送る。

 それを確認した「翔鶴」飛行隊長淵田美津夫少佐は前席の操縦員に向けて「行くぞ」と声をかける。「了解」と操縦員の明瞭な声が飛行帽に装着されたレシーバーより届く。

 咽頭マイクのおかげで,発動機の爆音の中でも意思疎通が滞りなくできる。

 操縦員がスロットルを全開にする。

 石川島播磨重工業製ネ30ターボジェットエンジンが咆哮を発し,機体がやや前のめりになる。その様子を見た発着機部仕官が手元の電鍵を操作する。

 途端に淵田少佐は体を座席に押し付けられる。飛行甲板に据え付けられた空技廠2号2型油圧式カタパルトが動作した為だ。

 空技廠2号2型油圧式カタパルト―――空技廠が開発し,1940年(昭和15年)に制式採用された航空機発艦補助装置は,最大重量8トンの航空機を時速155キロまで加速可能な逸品だった。以後,日本帝国海軍の空母に標準搭載されている。

 淵田少佐を乗せた3式艦上戦闘攻撃機「烈風」は,全備重量6.7トンの機体に緩上昇をかけつつ空を翔ける。

 3式艦上戦闘攻撃機「烈風」―――1000馬力級レシプロ軽戦闘機としては傑作となった三菱零式艦上戦闘機の製作チームが,実用化なったネ30ターボジェットエンジンを2基搭載した噴流式航空機として造りだしたものだ。

 推力2000kgをたたき出すジェットエンジン2基を胴体内に収容した先進的な造形,いかにも速度の出そうな後退角のついた主翼。なめらかな胴体などは,新世代機として十分すぎる性能の高さを伺わせる。

 事実,「烈風」は最高時速960Kmをたたき出し,高度6000メートルまで3分40秒というレシプロ機にはとうてい無理な上昇性能を見せつけた。

 兵装その他も強力だ。機首には索敵/射撃用電探を備え,それを合成樹脂製風帽で覆っている。

 2式1号長銃身20ミリ機関砲を機首に2門,主翼に各2門,合計6門の火力は強力無比だ。

 1式砲のドラム弾装方式からベルト給弾方式に変更,携行弾数が各60発から120発へと増加。砲身を伸ばし初速を改善した結果,低伸性もよくなった。

 また主翼下には99式1号空対空赤外線誘導噴進弾を片翼3発,両翼で6発装備。零式1号空対艦噴進弾1発を胴体下に装備する。

 「烈風」が「戦闘攻撃機」と云われる所以が,この空対艦噴進弾を装備することによる。

 航空機が高性能・大型化するにつれて航空母艦も巨大化を余儀なくされた。ただ,大きな空母を建造しても,そのサイズにはおのずと限界が生じる。3万トンを超える大型空母を何隻も就役させることは,流石の大日本帝国海軍も苦慮した。

 2万トン~3万トンクラスの中型空母の数を揃えるのが予算編成上も精一杯だったのである。

 そこで1機種で多数の任務をこなす複合機の開発が進められるようになった。機体の大型化により搭載数が減少したとしても,航空艦隊全体の攻撃力の確保を図るためである。

 そこで開発されたのが「烈風」だ。

 実は「烈風」には大きく分けて2種類存在する。

 単座の純戦闘機としての「烈風」。俗に「烈風」甲型と呼ばれるものと,複座の戦闘攻撃機仕様の「烈風」乙型である。

 「烈風」甲型は99式1号空対空赤外線誘導噴進弾を片翼6発,計12発搭載可能だ。

 99式1号空対空赤外線誘導噴進弾とは,前型の97式空対空噴進弾に赤外線追尾装置を追加したものだ。

 複雑な装置を追加した事で同じサイズでありながら調達費が増加し,炸薬量も減少している。しかしながら良好な命中率はそれを補って余りあるものだった。炸薬量に関していえば,航空機を撃墜するには十分過ぎる量であり,調達費の高騰は量より質を優先すれば天秤がとれた。(これは逆をいえば現場の絶対数の不足を招く一因ともなりうるが)

 最も,「烈風」の値段も零戦の4倍以上に達していたが,これも搭載機数の減少とレシプロ機を大きく上回る性能がこの問題をうめてくれた。対レシプロ機との撃墜差―――いわゆるキルレシオは5対1に達し,より少ない数で敵を圧倒する事が可能と上層部は判断した。

 「烈風」乙型は複座の戦闘攻撃機である。前席は操縦士,後席は火器管制/航法担当である。

 「烈風」乙型の装備する零式1号空対艦噴進弾は,無線誘導により,海面高度5m付近を亜音速で突進し,軍艦の舷側に突入する。重量は800kg。炸薬量は250kgである。駆逐艦ならば1発で轟沈可能だ。巡洋艦でも2,3発くらえば艦の保全に危機的状況を生じさせる事ができた。

 そして,ここが肝要なことだが―――対艦噴進弾を発射し終えた「烈風」乙型はそのまま戦闘機として使用する事ができる。つまり戦闘機の不足を補う事ができるのだ。

 複座ゆえに甲型に一歩譲る性能ながらも,原設計が戦闘機であること,ジェットエンジンの搭載により,最大速度が時速900kmとレシプロ機を大きく上回ることなどから,この乙型も重宝された。

 「翔鶴」型空母には,この「烈風」甲型が常用32機,乙型が16機搭載できた。合計で50機にも満たないが,その潜在能力は対レシプロ機で100機以上と評価された。

 

 艦隊上空を緩やかに旋回する「烈風」の機上で,淵田少佐は眼下に広がる光景を見る。

 それは圧巻であった。

 第一機動艦隊を構成する6隻の空母,すなわち「翔鶴」「瑞鶴」「蒼龍」「飛龍」「雲龍」「天城」。それを護る大小の艦艇によって輪形陣を組んでいる。その後方20海里には,打撃艦隊として第1艦隊が縦陣を組んでいるはずだ。

 それは縦横に60海里で布陣され,各空母から艦載機が次々と飛び立っているのが見える。それらは胡麻粒程度の大きさだったが,やがて航空機の形をもち始める。

 艦隊上空で集合を終えた第1次攻撃隊の編成は,

 

・空母「翔鶴」

  烈風甲型 16機

  烈風乙型  8機

・空母「瑞鶴」

  烈風甲型 16機

  烈風乙型  8機

・空母「蒼龍」

  烈風甲型  8機

  烈風乙型 16機

・空母「飛龍」

  烈風甲型  8機

  烈風乙型 16機

・空母「雲龍」

  烈風甲型  8機

  烈風乙型  8機

・空母「天城」

  烈風甲型  8機

  烈風乙型  8機

合計

  烈風甲型 64機

  烈風乙型 64機

 

 128機の「烈風」は楔型陣形を各空母毎の航空隊で組みながら前進を始めた。

 目指すは米機動部隊任務群である。

 

 「翔鶴」艦橋の基部にある中央戦闘指揮所で,艦隊指令長官角田覚冶中将は隣に立つ参謀長へ話しかけた。

「上空の早期警戒/管制機はどうか」

「『晴空』のことでしたら,問題ありません。指定空域にて待機中です。護衛の零戦も定数つけております」

 早期警戒/管制機「晴空」は1940年(昭和15年)に制式採用された4発大型飛行艇である。

 原型となった九八式飛行艇は長大な航続距離とレシプロ戦闘機に匹敵する速度,強武装を誇る傑作飛行艇として誕生した。

 乗員10名という容量の大きさを生かし,積めるだけの電子機器を積み込んだ電子戦機「晴空」として連合艦隊に配備されたのだ。

 その任務は大きく2つに大別でき,1つは 哨戒・早期警戒任務である。対地/対空見張電探の探知距離は上空5000mで400kmに及ぶ。敵機の接近はもとより,敵艦隊の早期発見にも威力を発揮している。

 もう1つの任務は管制機としての能力だ。この時期(1945年)には,帝国陸海軍機は敵味方識別信号機を搭載し,液状化結晶電子画像標示装置で容易に敵味方が識別できるようになっていた。

 そこで戦闘空域から離れた場所で戦場の動向を俯瞰しつつ,適切な情報を収集し,そのデータを各艦隊司令部へと送る事が出来るようになっていた。

 そして司令部から発せられる命令をほぼリアルタイムで現場へ送る事を可能としたのだ。

 これにより帝国陸海軍の作戦指導は,より適切なものとなった。

 どの戦場でも,情報を制するものが戦いの主導権を握るのだ。

 

「敵機動部隊の現在位置は?」

 角田の問いかけに,情報参謀はすばやく答える。

「我が艦隊より3時の方角,距離300kmです」

「艦隊の規模はどれくらいだろうか」

「『晴空』の電探の結果から,大型艦2隻を中心にした輪形陣が3つと判明しております」

「我が艦隊と同規模か。米国の正規空母の搭載機数はおよそ100機との情報があるから・・・およそ600機か。大戦力だな」

「我が方の艦載機は全てジェット戦闘機です。数では劣りますが,性能差は圧倒的です。よもや遅れをとる事はないでしょう」

「そうだとよいがのう。戦場では何が起こるか分からん。例え技術力で圧倒していようと,何かの拍子でそれが瓦解せぬとも限らん」

「ご心配にはおよびません。なにせ我々は・・・・」

「米国に50年は先を行っている,か」

 50年。

 これは何を意味しているのだろうか。

 それを明かすには,時計の針を100年程巻き戻す必要がある。

 関東地方,現在の茨城県つくば市に筑波山といわれる山がある。

 関東地方へ人間が住み始めた頃より信仰の対象として崇められた歴史ある霊峰で,男山と女山と呼ばれる二つの峰がある。

 その峰の中央付近に古代遺跡が発見されたのが1838年の事であった。

 昌平坂学問所(現在の帝都大学)の学徒であった,坂田在良を中心とした班が発見したもので,最初は小さな祠であったが,それを調査していた坂田らは,それが何かの遺跡の入り口であると推測。発掘作業を進めた。

 発掘開始から半年後―――1839年初春,坂田達は大きな扉に突きあたった。

 鈍色のそれは,高さ2m,幅2mほどのもので,厳重に封がされていた。

 驚いた事に,その扉はどのような器具をもってしても傷ひとつつかなかった。当時の製鉄技術が稚拙だったわけではない。その扉の構成物質そのものが異質だったのだ。

 途方に暮れた坂田らであったが,その扉の地面より130センチ程の場所に書かれた文字の解読に成功した。

 そこには「皇なる者により扉は開かれん。皇と称する者よ,汝の手により此の扉,開くであろう。」と刻印されてあった。

 ここで大きな論争が発生する。この文章にある「皇」とは何を指すものか。

 実質の権力をもつ徳川幕府の将軍,徳川家慶か。

 日本国の象徴である天皇家の仁考天皇か。

 幕府側は,「皇」を「王」とし,徳川家を推した。だが,坂田らは「皇」は「天皇」の「皇」であるとし,仁考天皇が適任だとした。

 どちらの側も一歩も引かず,結局両方が立ち会う事となった。

 日本国の遺跡であり,どちらが開けようとも,大勢に影響はないとの折衷案からだ。

 そして1840年初春,大勢の手の者を引き連れた2大勢力は筑波山の麓に集結した。

 まず,徳川家慶が試す事となった。

 皆が固唾をのんで見守る中,家慶はゆっくりと取っ手へと手をかけた。

「・・・・ふむ」

 家慶は首をひねった。いくら力を入れても扉はぴくりとも動かない。

「上様のお力でも開ける事ができませぬか。ならば・・・」

「朕の出番かの」

 仁考天皇はそう言って腰を上げた。

「む」

 仁考天皇は力を込めた。が,これまた扉は微動だにしない。

「どういう事だ」

 人々はざわめき始めた。

「一体,これはどういう事だ」

「我々を愚弄するにも程がある」

 と罵詈雑言が坂田らに降りかかった。中には,「切る」と刀の柄に手をやった者もおり,坂田らは大いに冷や汗をかく事となった。

 と,その時――――あれほど手を尽くしても開けることのかなわなかった扉が,ゆっくりと動きだしたのだ。

 悠久の時を経たにもかかわらず,その扉は音ひとつたてることなく開いてゆく。

 あれ程争っていた者達が唖然として見守る中,その扉は完全に解放された。

 

 その遺跡の中は,薄明かりに照らし出されていた。どのようなからくりであるのか,坂田には分からなかった。壁面全体が淡い光を放っているようだった。

「さて,一体何が出るのやら」

 坂田は呟いた。

 代表者としてこの遺跡への潜入調査を請け負ったのはよいが,坂田に不安が無いかと言えば嘘になる。

 何せ得体の知れない遺跡なのだ。なだらかな勾配のある廊下と思しき道を歩きながら,坂田と加藤弘之,御坂源太郎は自然と無口となった。

 外では未だに幕府だ天皇だと騒いでいるようだが,坂田らの脳裏にはもはやそのような事は些事となっている。

 やがて広間に出た。

 広間と感じたのは,急に視界がひらけたからであった。

 そこは10m四方はあろうかと思われる部屋であった。

 高さ3mはある本棚が3面を覆っている。それらにはぎっしりと本が詰め込まれていた。

「ここは・・・文蔵か?しかしこの量は・・・・少なくみても3千・・・いや5千冊以上はあります」

 加藤が周囲を見渡しながら呆然と言葉を口にする。

「これは書物・・・なのか」

 坂田と御坂が本の羅列に手を伸ばそうとしたその時,異変が起きた。

 部屋の中央に円盤状の物が設置してあったのだ。それがかすかな音をたてた。まるで,蜂が飛び回っているような音だ。

「なにご・・・」

 坂田の声はそこで途切れた。円盤状の物体から光の帯が真上へと伸び,そこに人影らしきものが浮かび上がってきたのだ。それは立体画像装置の一種であるのだが,無論,坂田らにそれが分かるはずもない。

 やがて人影は明瞭な人物像となって結像した。坂田らが唖然として見つめる中,その場に現れた壮年の男が口を開いた。

『私は日本国第129代天皇,紀仁である』

「129代・・・の天皇陛下・・・?」

 坂田は掠れた声をあげた。だが,映像の「彼」は淡々と言葉を続ける。

『願わくは,この映像を心ある者に見て欲しい。これから私が語るのは真実であり,諸君らに続く歴史である』

 映像の主―――その言葉を信じるならば,紀仁天皇―――は,一旦目を閉じ,ゆっくりと息をついた。

『我々は歴史を間違えてしまった。この歴史はもう終わりだ。我々の歴史でいうところの西暦2155年5月21日。人類は滅亡するだろう。しかし人類は再び甦る。それを信じて,このメッセージを残す』

 人類の,滅亡―――?3人は顔を見合わせた。西暦2155年とは,今から300年後の事である。これはもう想像の埒外であった。

『近代日本の幕開けは,西暦1853年のアメリカ合衆国提督ペリーの来航だった。これにより鎖国を続けていた徳川幕府は開国を迫られ,後,西暦1867年に将軍は大政奉還を行い,その国政は天皇へと帰した。そして西暦1868年,元号を明治と改めた日本は大日本帝国として西欧列強が支配する世界へと乗り出したのだ』

 男はそこで言葉を句切ると,ゆっくりと周囲を見渡した。まるで,そこに誰かが居る事を確信しているかのように。

『日本最大の転機は西暦1945年の太平洋戦争の敗戦だろう。これにより,明治より続いた大日本帝国は転換を迫られた。再び国際社会の一員となった時,日本は西欧の・・・より言うならばアメリカ合衆国の影響を大きく受ける事になる。政治,経済,そして文化までも』

 紀仁天皇はそこで自らの右手を見る。そこに後悔の念を感じたのは,気のせいではないだろう。

『・・・・それはよい面も多々あった。経済の復興,それを支えるかのように発展した技術の数々・・・・。日本は比類無き技術大国として大いに発展した。その間,大きな戦争もなく,世界は何事もなく,人類は繁栄を謳歌できると,誰もが感じていたに違いない。しかし・・・・だた一国,巨大国家として君臨したアメリカ合衆国が暴走を始めるまでは』

 紀仁天皇は歯ぎしりをした。

『・・・時間がない。詳しくはこのカプセルに残した書物を見れば分かるようになっている。もう一度言おう。歴史は繰り返す。我々は失敗したが,諸君らは我々のようにならないで欲しい。必ず良き世界を造ってくれ』

 そこまで言うと,その装置は停止した。突然辺りが暗くなり,再び静寂が訪れた。

 

「歴史は繰り返す・・・・世界は滅亡する・・・・」

 坂田が小さく呟いた。

 質の悪い冗談だと思いたかった。だが,あの紀仁天皇という人物が嘘をついているとは到底思えなかった。

「とにかく,今のが本当だとしても,それを証明せねば誰も信用してくれないだろう。この遺跡に何が収めれれているのか,調査を始めよう」

 坂田はそう言うと,ゆっくりと周囲を見渡した。

「ここに,人類の叡智が詰まっているというのか・・・・」

「班長,奥に別の部屋があります」

 加藤の声が聞こえてきた。坂田と御坂が駆けつけると,そこは更に巨大な空間だった。文蔵の倍はあろうかという部屋には,所狭しと造形物が置いてあった。

「これは一体・・・何かの模型でしょうか」

「そのようだ。それぞれに小さく説明文が付いているぞ」

「なになに・・・・蒸気機関?」

「これは何だろうか?じぇっとえんじん,と書かれているようだが・・・・」

「この黒いげじげじみたいなモノは何だ?・・大規模集積回路?」

「これは・・・恐らく,未来の技術を現しているのだろう。文字や図版では分からない所を具体的に知らせる為に・・・」

「だとすれば,あの文蔵にあった書物を読めば,これと同じ物が作れる,ということでしょうか」

「恐らくな。それにしても凄い数だ・・・ざっと100個はあるぞ」

「とにかく,これを外の連中に知らせねばならんわい。そして早く手をうたなければ・・・」

「人類が絶滅してしまう,のでしょうか」

「そうかもしれない。そうでないかもしれない。しかし,事実として,これらが存在するのも確かだ。・・・上の連中を説得するのは骨が折れそうだがな」

 坂田は宙を仰いだ。これから忙しくなる―――その予感が,確かにあった。

 

 坂田らの説得により,徳川幕府は江戸に全国から学者を集めた研究機関,「大江戸学習院」を設立した。そして筑波山遺跡から収集した書物の検証・研究を行わせた。

 時間はあまり無いと思われた。もし,自分たちの歴史が,過去の歴史の繰り返しであるのなら,あと十年余で日本は開国を迫られる事となる。その時に結ばれる不平等条約の数々を,甘んじて受け入れるつもりはない,と幕府の中枢も思っていた。

 膨大な量の書物―――歴史・政治・経済・科学の書籍を細かく検証し,分類するだけであっという間に10年が過ぎた。

 特に歴史の分野は重要視され,これから何が起こるのか,そしてその結果が後の歴史にどのような影響を与えるのかが,子細に調査・研究された。

 その結果から,徳川幕府は倒れるものと早々に認識され,西欧列強と足並みを同じくする為には,挙国一致体制を確立することが肝要であるとの結論も導き出された。

 そこで,幕府は各藩の大名や重鎮を江戸へと呼び寄せ,幾度となく会合を開いた。倒幕後を見据えた内容は,密かに倒幕を考えていた各藩主達を驚かせたが,新政府樹立の明確な指針を示されれば,それに従う他ないと同意を示した。更に,歴史上重要な役割を果たした人物達を積極的に政治機構に登用し,新政府発足の原動力とした。

 さらに問題とされたのは科学技術の立ち後れだ。日本にも無論,誇るべき技術はあるが,西欧列強とでは工業技術分野では格段の差があった。特に長らく平穏な時代が続いた日本では,武器―――特に大砲に代表される重砲火器の遅れは明白だった。もし,西欧列強と戦争,という話になれば,その圧倒的な火力の差で打ち負かされてしまうだろう。

 重化学工業の産業基盤の確立を最優先とする政策が打ち出されたのは当然だといえた。

 

 そして遂に西暦1853年,ペリー提督率いる艦隊が横須賀の浦賀へ来航した。

 大統領の親書を携えて意気軒昂としてやって来たペリー提督を,幕府は表向き快く迎え入れた。

 ここで下手にアメリカの逆鱗に触れれば,日本という国そのものに危機が訪れる事を熟知していたからだ。それに,アメリカと雌雄を決するのは,今ではない。

 結果,日本は開国し,歴史のとおり徳川幕府は大政奉還を行い,明治政府が誕生した。

 

 それから日本は大日本帝国と称し,新たな歴史を刻むべく動きだしたのであった。

 

 筑波山遺跡の調査は,昌平坂学問所が東京帝国大学と名を変えた後も続き,帝国の基盤作りに尽力した。

 

 まずすべきは各種インフラの整備だった。

 道路,鉄道,電気,上下水道,電信電話は優先的に整備されることとなり,1877年の帝国議会でも「今後50年ノ内デ帝国全土ヲ整備サレルモノノコト」と採択された。

 また軍の近代化と軍備の増強が図られた。

 特に,この後に予想される隣の大国「清」との戦争に間に合わせる為に,急ピッチで整備が進められた。陸軍の増強と近代化。海軍は清国が配備「するであろう」戦艦,「定遠」「鎮遠」に対抗する為,初の国産大型軍艦として「富士」と「八島」の起工に踏み切った。本来の歴史ではイギリスへ発注されていたこの2艦を純国産の戦艦として建造することとしたのだ。

 それは,筑波山遺跡の解読と研究の成果を確かめる為であり,大日本帝国の国力を内外へ知らしめる為であった。

 結果,この2艦は日清戦争(明治二十七八年戦役)に間に合い,その威力を遺憾なく発揮,戦争を勝利へと導いた。

 続く日露戦争も勝利に終わった。

 この頃から陸海軍共通の航空技術本部が設置されている。

 その目的は陸海軍が共通で航空機を開発する事により,限られた資源(文字通りの資源と人的資源)を有効に活用する為である。部品の共有化と規格の統一により,来るべき総力戦に備える意図が伺える。

 これは副次的な効果ももたらした。三菱重工業や中島飛行機,川崎重工業といった大規模工場は元より,小さな町工場まで統一された規格の物を作る事により,生産性の向上と,汎用性の向上により,「どの工場」でも「一定以上の品質」の製品が生産できるようになったのだ。

 これにより,国民総生産が右肩上がりに向上してゆくこととなる。

 海軍にも動きが見られた。それは常設の艦隊に追加する形として,海上護衛総隊が設立された事だ。

 これは主に戦史を研究して得られた結果で,太平洋戦争中に米潜水艦隊や航空隊により,海上輸送船舶が甚大な被害を被り,海上輸送路が壊滅,日本の戦争経済が破綻した事をうけている。

 資源の大半を輸入に頼る島国日本の生命線たる海上輸送路の保全は何をおいても優先されるべきものだった。

 西暦1938年。盧溝橋事件が発生,日中は戦争状態となった。

 政府内部では,これも想定の内だった。それを回避出来なかった理由は,大陸における権益の拡大路線を変更出来なかった事,やはり歴史の修正は難しいという認識があったからだ。

 米内光政海軍大臣は「この戦争が太平洋戦争の引き金となる」と危惧,陸軍側を批判した。

 陸軍大臣板垣征四郎も「この度の事変については,関東軍の暴走であり,まことに遺憾である」と述べ,紛争終結へ向けた努力をする事を確約した。

 だが戦火は拡大し,もはや日本一国では収集がつかない状態となっていった。

 西暦1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻すると,第二次世界大戦が勃発した。

 それを聞いた米内は,「歴史は繰り返す・・・」と呟いたという。

 日米関係は悪化の一途を辿り,一般市民の間ですらも,日米開戦は間近ではないかと囁かれるようになっていた。

 やがて西暦1941年11月26日,最後通牒ともいうべき,ハルノートが日本へ突きつけられた。

 その内容は要約すると,

 

1.アメリカと日本は、英中日蘭蘇泰米間の包括的な不可侵条約を提案する

2.日本の仏印(フランス領インドシナ)からの[即時]撤兵

3.日本の中国からの[即時]撤兵

4.日米が(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中国国民党政府以外のいかなる政府を認めない

5.日本の中国大陸における海外租界と関連権益を含む治外法権の放棄について諸国の同意を得るための両国の努力

6.通商条約再締結のための交渉の開始

7.アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除

8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立

9.第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄

10.本協定内容の両国による推進

 

 の10箇条による。

 これは予想出来た事とはいえ,やはり日本にとっては承伏し難いものだった。

 しかし,日本はまだ戦争準備が整っていなかった。特に成長著しい電子兵器については,ようやく実証試験が完了し,量産体制へと移行の途中であった。海軍にあっては,ようやく天照級戦艦2隻が就役したばかりで,建造中の3,4番艦の戦力化が急がれていた最中であった。

 それに,戦争はしないに越したことはない。いかに未来技術を導入したといっても、依然アメリカとの国力の差は埋めがたく、総力戦ともなれば劣勢を強いられるのは目に見えていたからである。

 日清・日露そして第一次世界大戦を経験した大日本帝国は、近代戦とは総力戦だという事実を知っており、総力戦を戦うには時期尚早だとの認識はあった。

 時の内閣もそれを十分承知しており、日米開戦を何としてでも回避しようと試みた。

 その結果、ハルノートに記された条件の内、飲めるものは飲む事とした。

 まずは中国からの撤兵を実施した。

 それまで汪兆銘政権を支持していた大日本帝国は、一転して蒋介石を首班とする中国国民党政権を中国に於ける唯一の政権と認め、停戦交渉を行った。

 蒋介石はこの条件をのみ、日中和平条約が締結された。これを受けて陸軍は内地へと引き上げた。この兵力は後の太平洋戦争へと転用されるのだから、皮肉としか言えない結果である。

 この措置により気をよくしたアメリカは、ハルノートの一部を修正、戦争は回避され、微量ながらも日米間の交易も再開された。しかし、依然アメリカが日本の生命線を握っている事に変わりはなく、アメリカに対する不満はつもった。

 政府は国民に対して「臥薪嘗胆」を説き、今はまだ最終的解決をとるべきではないとした。

 

 大日本帝国が戦争を回避し、その国力を蓄えている頃、アメリカ合衆国もまた、大陸への権益拡大の野心を捨て去っていなかった。

 英国を中心とするヨーロッパ諸国と大日本帝国は依然として大陸の租借地を持っており、これがアメリカ資本の流入を阻んでいた。

 そのことに業を煮やしていたアメリカの資本家達は、事あるごとに政府へと圧力をかけていた。ヨーロッパ諸国はドイツを含む枢軸軍との戦いに全力を注ぎ、大陸については構っていられない状況だった。そうなると唯一の障害となるのは、大日本帝国である。

 

 ホワイトハウスの大統領執務室で,ハリー=トルーマン大統領は,居並ぶ閣僚達を前に大きく息を吐いた。

「さて・・・・日本に対する対応だが,私は日本との戦争を考えているが,それが可能かね」

 その言葉を受けて,海軍作戦部長兼太平洋艦隊司令長官アーネスト=キング大将は口を開く。

「海軍に関して言えば,戦争遂行に問題はありません。日本のアマテラス級戦艦に対抗する為に建造したモンタナ級戦艦の内,『モンタナ』『オハイオ』をハワイ真珠湾港に回航し,太平洋艦隊へ配備ずみであります」

「アマテラス級といえば,4隻が就役しているとの情報があったが・・・2隻で対抗できるのかね?」

 大統領の問い掛けに,キング大将は笑みを浮かべた。

「モンタナ級の3,4番艦である,『メイン』と『ニューハンプシャー』は現在完熟訓練中です。近日中に,これらも太平洋艦隊へ編入されます。また5番艦である『ルイジアナ』も近日中に竣工予定であります。この5隻をもって,日本のアマテラス級へと対抗します」

 大統領は頷いた。

「問題は日本との開戦理由ですが・・・」

 そう口を挟んだのは,国務長官ジェームズ=バーンズであった。

「正当な理由がなければ,我が合衆国が悪役になる・・・と貴官は言いたいようだな。それは私も危惧しているよ。かと言ってウォール街の老人達の意向に反するのも問題だ。下世話な言い方だが,私の政治生命にも関わってくる」

 トルーマンはそう言うと,椅子に身をゆだねた。

「・・・やはり大西洋憲章を有効利用させてもらおうか」

 大西洋憲章とは,1942年に,ときの大統領フランクリン=D=ルーズヴェルトと,イギリス首相ウィンストン=チャーチルとの間に交わされた憲章だ。それは8項目からなり,

 

1.合衆国と英国の領土拡大意図の否定

2.領土変更における関係国の人民の意思の尊重

3.政府形態を選択する人民の権利

4.自由貿易の拡大

5.経済協力の発展

6.恐怖と缺乏からの自由の必要性

7.航海の自由の必要性

8.一般的安全保障のための仕組みの必要性

 

 である。

「このうち,第3項を使う。つまり・・・」

 バーンズが後を引き取った。

「日本が領有する台湾及び朝鮮の独立を迫る,ということですね」

「そうだ。そもそも台湾と朝鮮は元をただせば独立国家だったのだから,これは当然の要求となる」

「しかし,日本はそれによって大陸への足がかりを失うことになり・・・」

「当然,日本はこれを拒否するだろうな」

 大統領は悪童のような笑みを浮かべた。

「そうならば,しめたものだ。これを利用し,我が合衆国は圧制者からの解放を旗印に日本へ宣戦布告する。いや,事によれば日本の方から宣戦布告をしてくるかもしれない。そうなれば好都合というものだ」

 バーンズは頷いた。

「我々はあくまで正義の為に戦う。分かりやすい図式ですな。ならば早速,その旨をまとめた公文書を作成し,日本へ通牒しましょう」

「頼むぞ。皆,異議はないな」

 海軍長官ジョージ=バンクロフトは大きく頷いた。

「異議はありません。海軍は全力をもって日本を叩きのめしましょう」

 陸軍長官ロバート=ポーター=パターソン大将も

「陸軍としても異存はありません」

 と言った。

「よろしく頼む」

 こうして,合衆国は対日戦争の準備を開始した。

 

 その文章が日本側へ通知されたのは,1945年8月10日のことだった。

 その条文を見た外務大臣,重光葵の顔面は怒りと絶望に蒼白となった。

 すぐに帝国議会が開催され,その条文についての討議が行われた。

 当然の事だが,議会は紛糾した。

 穏健派の山本五十六海軍大臣も「もはや対米開戦もやむおえまい」と瞑目したという。

 

 こうして西暦1945年8月16日,日本はアメリカ合衆国へ対して宣戦を布告した。

 

(つづく)


 
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