話がある、とマイムに言われたのは宮廷に戻ってからだった。
留守中、副将軍たちはよくやってくれた。溜まっている仕事はなかった。礼を言うと、また仲良く二人で喧嘩しながら喜んだ。
それよりもリウヒだ。塞ぎこむようになって、無口になった。
「ごめんなさいね。時間取らせちゃって」
夕餉の後に、マイムはやってきた。思わずシラギが身構えた。この女がそんな殊勝なことを言うなんて。
「酒でも飲むか」
「んー。いらない」
驚きのあまり、用意しようとしていた酒を落としてしまった。ゴンと音がした。
「なにしてんのよ」
勝手に椅子に座ると、考えるように肘を付いている。
「話とは」
茶を運んできた侍女が下がると、シラギは口を開いた。
「寒くなったわね」
「?ああ」
「もうすぐ年も明けるわね」
「?ああ」
それからしばらくどうでもいい世間話をマイムは続けた。この女は一体何を話しに来たのだ。
「…リウヒのことなんだけど」
シラギは顔を上げてマイムを見た。青い瞳と目線が合う。しかし、言いにくそうにマイムは目を逸らせた。
「どうした。らしくないな」
「…あの子、妊娠しているのよ…」
衝撃のあまり、呼吸が止まった。思考が停止してうまく考えることができない。
いつのまにやら自分は立ち上がっていたらしい。
「どこいくの。いいから座りなさいよ」
「いや、しかし…」
「少しは落ち着いて座りなさい。あんたが今、しっかりしなくてどうするの」
きつい口調で同じ事を言われた。この女の恋人に。
崩れるように椅子にかけたシラギに、マイムは再び口を開く。
「リウヒには口止めされたんだけど…。そういう訳にはいかないでしょう。ナカツとあの三人娘は知っているわ。キャラも」
「子の…父親は誰なのだ」
「それは教えてくれなかった。でもあの海賊船に乗っていた男でしょうね」
橙男だ。
リウヒは宮廷に帰ってからも、夜な夜なあの男に部屋に通った。
「ねえ、シラギ」
湯呑を手の中でゆっくり回しながら、マイムが顔を上げた。
「呑気にリウヒの周りをうろついている場合じゃないわ。さっさと想いを打ち明けて、さっさと結婚してしまいなさいよ」
「だが、リウヒは今でもあのチンピラを想っている」
ああ、うっとおしい。
舌打ちしてマイムが立ちあがった。スタスタとシラギの前に来ると、いきなりその胸倉を掴んだ。青い瞳が怖いほど澄んでいる。
「それがどうしたっていうのよ。リウヒとその男はこれから先、一緒になれないのは分かりきっていることでしょう。リウヒは誰が守るの、リウヒの子供は誰が守るの?あんたは一生、ウジウジしながらリウヒの周りをグルグル回っているつもりなの!?」
一気に言うと、そのまま崩れるように抱きついた。華奢な肩が震えている。
「あたしにここまで言わせないでよ…」
「マイム…」
流れる金髪を撫でた。細い髪の毛は儚げで、金の糸のようにシラギの手に絡まった。
「あなたたち二人に、わたしは怒られてばかりだ。カグラにも平手打ちをされたことがある」
マイムは、クスクスと今度は小さく笑いだした。
「あんたって本当に…」
身体を起して、シラギから離れる。
「言いたいことはそれだけよ。健闘を祈るわ」
じゃあね、お休み。
そのままにっこり笑って部屋から出て行った。ふと肩に手をやると、そこは僅かに濡れている。しばらく額に手を当てて考え込んでいた男は、勢いよく腰を上げた。
****
宰相は口を閉ざして、目の前の少女を眺める。
貝のように黙りきってうんともすんとも言わない。
「…ではこれだけは教えてください」
寝台の上でリウヒは俯いて黒猫をなでた。猫は気持ちよさそうにグルグルと喉を鳴らす。
「事と次第によっては…」
「この腹の子を殺すというのか」
俯いたまま、低い声を出した。
「ならば、わたしはイズミと同じだ」
知っていたのか。
思わず宰相は息をのむ。
「なあ、テンガイ」
名を呼ばれて、宰相は次の言葉を待つ。
「王家の血は穢れてはならぬ、とわたしに言ったことがあるな」
「は」
「安心しろ」
リウヒは小さな声で言った。ぞっとするような悲しい声だった。
「ならばこの腹の子は純血だ」
****
東宮にリウヒはいなかった。
「小庭園に出ておられます。警備の者もついております故、ご安心を」
寝殿の兵が、緊張した声で報告する。
シラギは東宮の小庭園にでた。数人の兵が遠巻きに見守っている中に、リウヒの後ろ姿が見えた。
寝着で、藍色の髪は結っておらず、静かに風にたなびいている。
あんなに薄着では、腹の子と体にさわるのではないか。
リウヒはティエンランの城下を見下ろしていた。いや、あの方角は城下ではない。海だ。
心もとなさそうなその背中を、抱きしめてやりたくなる。
兵に人払いを命じると、彼らはすぐに引いて行った。
シラギとリウヒの二人だけになった。
小さな後ろ姿は微動だにしない。
ゆっくりと歩を進める。足を踏み出す度に、緊張が高まってきた。戦では経験したことのない恐怖がせり上がってくる。
「陛下」
「シラギ」
振り返ったリウヒの頬には涙の跡が残っていた。
「冷風がお体にさわります、これを」
自分の上着を脱いで、その肩にかけるとリウヒはふわりと笑った。
「暖かいな」
そして自分の上着に抱かれるように、襟を両手で引き寄せた。
「シラギの匂いがする」
安心したような笑顔に、愛おしさがあふれた。
「ありがとう。ところで、どうしたんだ。こんな夜更けに。何かあったのか」
「お願いを聞いていただきたく、参りました」
「予算か?」
クスクス笑うリウヒの手をとり、片膝をついた。
「わたしを、腹のお子の父親にしてください」
リウヒは笑いを引いて、驚きに目を見開いた。
「お子には父親が必要です。一国の王が父なし子を産む訳にはいかない。民は不安に思うでしょう。それに子にとってもよくない。父親と母親がいてしかるべきです。なによりも臣下の中に不満を抱く者も出てくる。それに付け込んで動きだすかもしれない」
一気に言ってシラギは内心舌打ちをした。
違う、こんな事を言いたいのではない。
「…つまり、わたしはあなたをお慕いしている」
「シラギ」
リウヒはゆっくりと微笑んだ。その後ろには巨大な三日月が、空に浮いている。
自分を見下ろす少女の姿は、美しく高貴だった。
「わたしの腹の子は、誰の子か知っているか」
あの橙頭ではないか。
自分を見つめる黒い瞳は涙があふれている。
「兄さまとわたしの子だ」
シラギの顔から血が引いた。地に付けている足と膝から全て抜けていくような錯覚に陥った。喉が痛い。頭が酸素不足で呼吸が苦しい。
「あの船に乗っていた時、兄さまとわたしは体を重ねていた」
リウヒの手が、シラギから離れる。そのまま己の腹に手を当てた。
「兄さまはわたしを求めたし、わたしは…そこから逃げることもできずに流された」
そして、兄は狂ってきだした。自分を暴力で支配しようとした。それにがんじがらめになって、死を決意した時、キジが目を覚ましてくれた。何度も命を救ってくれた、優しい人。
「キジは海に帰って行ったが、わたしの心は今でもあの人にある」
知っている。あのチンピラが宮にいた時、リウヒは毎晩その男の部屋にいった。窓から抜けだして。
「その男とは関係は持たなかったのですか」
シラギの低い声にリウヒは首を振る。
「望みは叶わなかった」
という訳で、と妙に明るい声をだした。
「わたしのこの腹の中には、兄の子が宿っている。この胸の中には、未だに別の男が住んでいる。お前も早く、良い方を…」
「リウヒ!」
シラギが勢いよく立ちあがり、白く細い腕を引っ張った。不意を突かれたリウヒはシラギの腕の中に収まり、そのまま抱き締められた。
「シラギ、やめて。離して」
「離さない」
すべらかな頬に手を添え、自分と目を合わせる。
涙が溜まった黒い瞳は、吸いこまれそうなほど清らかだ。
「わたしはあなたより十五も上だし、年齢も三十三だ。年は離れているし、カグラのように女を喜ばす術も、トモキのような素直さもない…ああ、もう、そうではなくて!」
一瞬そっぽを向いて吐き捨てるように言うと、再びリウヒと目線を合わせた。
「橙男はあなたを置いて海に帰って行った。元王子など構うものか、リウヒの腹の子はわたしの子だ。我が家系は黒髪、黒目が多いが、突然変異だってありえるだろう。あなたの人生は過去も未来も丸ごとわたしのものだ」
まくし立てている内に、何をいっているのか分からなくなってきた。
腕の中の少女は、目を潤ませて自分を見ている。
「リウヒ」
「はい」
「わたしの想いを見くびるな」
そのまま口づけを落とす。小さな唇も応じた。
ゆっくり離すと、リウヒが抱きついてきた。シラギの背に手を回し、少しだけ力を入れる。
シラギの腕も、少女の肩に回った。
「ありがとう、シラギ。お前の気持ちはとても嬉しい」
静かに離れた。
「でも、気持ちが混乱しているから、少し考えさせてくれないか」
「分かりました」
リウヒは微笑むと、シラギの上着を脱いで返した。
「これをありがとう。とても暖かかった」
「召されてください。東宮までお送りします」
「寝台の中までついてくる気か」
「お望みとあらば」
リウヒはクスリと笑い、一人で大丈夫だ、お前も早くお休み。と言い残して去って行った。
園には、シラギが自分の上着を手にしたまま取り残された。羽織ろうとして、ふとそれにリウヒの香が移っていることに気が付いた。
その上着を羽織りながら、今度は銀髪の友人の元へと足を速める。
****
キャラは目下、狂ったように勉強している。リウヒも心配だったが、宮に帰ってしまえば遠く離れた雲の上だ、食堂でマイムやリンたちから状況を聞くしかなかった。それに試験は目前にせまっている。呑気な同室の友人たちもキャラ同様、机にかじり付いていた。
「跪礼のさあ…」
「ねえ、あたしの小筆知らない?」
「なんじゃこりゃ。訳分からん」
「香の種類って多すぎ…誰か調合表持っている人―」
旅から戻ってきたキャラを待ち受けていたのは、ムゲンだった。
「トモキさまからお話しは聞きました。済んでしまったことは仕方ありません。が、試験は必ず合格するように」
もとよりそのつもりだ。気合いを入れて返事をすると、老女は顔をほころばせた。
「二か月間、陛下やリンたちの傍にいて、学ぶことも多かったでしょう。今後のあなたを期待しておりますよ」
「はい!」
そういわれると、俄然張り切ってしまうものだ。鼻息荒く自室に戻ったキャラを今度は友人たちが待ち構えていた。
「トモキさまとはどうなったの!」
「つ…付き合っている…」
ぎゃー!と四人は声を上げた。その過程を詳しく!とさらに迫ってくる中で、スオウが正気に戻ったように三人を叩いた。
「それよりも、試験でしょう」
「そうだ、キャラがいなかった二か月、あたしたち必死で勉強したの」
「やから教えてやれるで」
「その代り、終わったら詳しく話してね」
キャラは涙が出そうになった。持つべきものは友達だなあ。
「ようし!五人で試験に合格するぞ!」
「脱・侍女見習い!」
「目指せ国王付き女官!」
「がんばろー!」
「おうっ!」
部屋の中で少女たちの拳が勢いよく上がった。
****
その日、マイムは仕事上がりに東宮の寝殿を訪ねた。
「気分はどう?」
「ありがとう、今日は大分いい」
この腹の中に命が宿っているなんて不思議な気分だ。そう言って笑った。すでに母の笑顔だとマイムは思う。
視察の旅から帰ったリウヒは、普段通りにふるまうものの、すぐに寝殿に引っ込んだ。国王の懐妊はまだ公表されていない、ナカツも極秘に東宮へ通っている。
「あんたが、母になるなんて信じられないわー。何か、先越されたって感じ」
からかうように言って、寝台の縁に腰を下ろす。結われていない藍色の頭を撫でると、甘えたようにもたれてきた。
「なあ、マイム」
「なあに?」
「もう…どうしていいか分からなくなってきた」
そう言って静かに泣き始めた。
「兄さまの子供なんだ」
マイムの体が一瞬硬直した。まさか、そんな。
あの超無責任馬鹿元王子!
そうか、と思い当った。
シラギの尻をけった夜、当人はカグラの室へ押しかけたらしい。
「何としてでもアナンをここに引きずってこい。鱠切りにしてやる。無理だというのならば、右と左の地位を変わってやる」
いつもからは想像もできない激しさで迫られたと、銀髪の恋人は首をさすりながら言った。
「わたしは、あの船にいる時、王の責任を忘れ、兄に流され、逃げることや生きることを放棄した。その戒めなのかもしれない。好きで堪らない人とは、どうあがいても一緒になれない。さらにシラギがこの子の父になりたいと言った。頭の混乱は収まらない。考えだすと夜も寝られないんだ。でも、考えて早く結論を出さないといけない…。もう、どうしたらいいか、分からなくなってしまった」
一気にいうと、嗚咽を上げた。しゃっくりまでしている。
その藍色の頭をゆっくりと撫でながらマイムは思った。
うらやましいとも、不憫だとも。
なんの責任もない小娘ならば、リウヒはすぐさまここを飛びだして、キジの元へと向かうだろう。しかし、王になると決意したのはリウヒ自身なのだ。子をもうけ次に血を引き継ぐ責がある。
「リウヒ。あなたの中で、結論はもう出ているのでしょう?ただキジが引っかかっているだけで」
嗚咽がやんだ。小さな王は、しゃっくりを繰り返している。
「あのね、燃えるような気持ちだけが恋じゃないのよ。恋い焦がれる想いだけが愛じゃないの。様々にあるのよ。シラギは浮ついた男じゃないわ。ちゃんとリウヒを見てくれているでしょう。その内、あなたもシラギだけを見るようになるわ」
「でも、わたしの想いは置き去りにされたままだ」
「そうね。急性すぎる展開だしね。だけど」
涙に濡れた顔をゆっくりと持ち上げると、黒い瞳は充血して真っ赤だった。
「決断しなきゃいけないのよ。リウヒは民を収め、模範となるべきティエンランの王なのだから」
その時、扉がホトホトとなった。
「陛下、ナカツさまが参りました」
「じゃあ、あたしは行くわ。お大事にね」
リウヒの体を抱きしめると、寝殿を出た。ひんやりと冷たい風が髪をたなびかせる。
マイムは髪を抑えて微笑んだ。
あー。あたしっていい女―。
****
東宮の園は、もう真冬といっていいほど寒かった。
ここでキジと別れたのは、まだ暑さの残る時期だった。季節と時は否応なく過ぎてゆく。
リウヒは小さく嗚咽を漏らした。瞼が腫れても、喉が痛くても涙は止まらない。
ああ、キジに会いたい。
あの節くれたゴツゴツした手で、優しく撫でてほしい。せめて腹の子が、キジの子であればいいのに。何故兄の子なのだ。
シラギを夫君に迎えて、今、腹にいる子を産む。それが最善だと分かっている。分かっているが、分からなくなってくる。
目を閉じると声が聞こえた。愛しくて堪らない男の声が。
「山でもねえ、宮廷でもねえ、海がおれの住処だ」
だったら、わたしを浚ってほしかった。
「お前がおれの人生の中にいてくれてよかった」
そのまま、ずっと一緒にいたかった。
「お前は弱っちい女だからな」
その通りだ。情けないほど弱い。
「リウヒ」
ああ、キジ。
「強くなれよ、リウヒ。そしてこの国を守れ」
風が再び吹いて、頬を優しく撫でられた。まるであの男の指のようだ。
閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
眼下に広がるのはリウヒの愛する美しい国、ティエンランの景色だった。
遠く続く金の原、静寂に響く櫓の音、川底に咲く白い花、山間の閑静な出湯町、唸る灰色の海、民の気さくな明るい声。
しばらく風に吹かれていた。夜の気配が漂ってきたころ、リウヒは小さく鼻を啜って東宮へと戻った。
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ティエンランシリーズ第四巻。
新米女王リウヒと黒将軍シラギが結婚するまでの物語。
「…つまり、わたしはあなたをお慕いしている」
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