夜は暗い。
闇夜に慣れる目を持たぬものたちは、明日の為に瞼を下ろして眠る。
眠ることをよしとしなかったものは、光を求める。闇を恐れて、より明るい場所を求めて。
彼らは光を求める。それがたとえ、自らの身を焦がす炎だとしても。
月 と 蛾
月が出ている。満月だ。幸い雲もさしてなく、今夜はいつもとくらべて明るかった。魔術師の島の塔の上は空に近い。月はひときわ大きく、されど静かに夜闇を照らしている。
空に見えるまるい月。それに嬉しくなって、少女は窓辺から振り返って声をかけた。
「ルックさま」
呼ばれた少年は読んでいた書物から目を離し、顔を上げた。
「なんだい、セラ」
「月が出ています。満月です」
窓辺に立つ少女は、空を指して言った。薄いブロンドが青白い光に照らされている。
「とても、きれいですよ」
表情があまりないセラには珍しく、嬉しそうに笑っている。
「……そう」
気のない返事をして、ルックは再び書物に目を落とす。書かれているのはシンダルの秘法。数年前から調べているが、そもそも文献が少なく解読も難しい。集中していなければならないのだが、彼女に声をかけられてそれはしっかり途切れてしまっていた。
別にセラを責めるつもりはない。
少女が笑うことは微笑ましいことだったが……彼女が何故そんなに喜ぶのか、彼にはよくわからない。
彼は飽くほど月を見ていた。満月だって、周期を知っていれば見れる。それどころか、毎日星を読みその動きを追ってさえいたのだ。
戦争の兆しがあれば星は動き、天魁星にめがけて宿星たちが集う。彼はそれまで二度その様を見てきたし、戦いに参加することさえあった。
戦いの記憶が不意に蘇り、ルックは首を振った。額飾りが揺れて、外し忘れていたのを思い出す。大きな瞳をこちらに向けてくる少女の視線を感じながら、彼はふっと息をついた。読んでいた書物をまとめて、椅子から立ち上がる。書物を読むための灯りだった蝋燭を手に取って、窓辺に近づいた。
「あまり頭を出しすぎると、落っこちるよ」
しゃがみこんで、彼女と同じ目線から月を見上げる。森に囲まれた塔から見える月は、木陰と雲を従えて美しく輝いていた。蝋燭の火で慣れていた目には、さして目に輝くほどのものではなかったけれど。
セラはよく悪戯をした。壷を割ったり、部屋を散らかしたり。その度に彼は彼女を庇っていた。彼女のことを話したのはレックナートだが、連れて来たのはルックだ。責任は、彼にあった。
それに、彼がここに来たときも似たようなことを沢山したのを覚えていた。彼女の気持ちが分からないでもなかったのだ。
そんな彼女だったが、ともに過ごすのは悪くないと思っていた。セラが来るまで彼は暗い夜のなかずっと一人だったからだ。
もちろんレックナートも傍にいなかったわけではない。彼女に連れてこられたばかりの頃、よく一緒に眠ってくれたものだ。
だが、そんなことは幼い子供のうちだけ。
ヒトならざる生まれをし、ヒトならざる成長をする彼でも時が経てばある程度身体は成長する。無論、こころも。いつまでも添い寝をしてもらうわけには行かない。
部屋に蝋燭をひとつともし、一人で過ごす夜はもうなれたけれども。
(……いや)
ルックは立ち上がり、見上げてくる少女の視線を遮断するかのようにその瞼を閉じた。
間違えてはいけない。
彼は彼女の持つ力を知ったが故に、ここに連れて来た。魔術を教えているのも、一緒に暮らしているのも。すべてはあの夢から逃れんが為のこと。あの男の邪魔をせんが為のことなのだ。
その緑の瞳を薄く開く。蝋燭の小さな火と、不思議そうに見上げてきているセラがぼんやりと視界に現れた。
それと、もう一つ。
開け放した窓辺に置いてある蝋燭の火に誘われたのだろうか。一匹の蛾がその周りをばたばたとせわしなく飛び回っている。
セラはルックから視線を外し、迷い込んできた蛾をしばし見つめる。それから再び夜空を照らす満月に目をむけた。
「今日は、明るいのに」
「蝋燭の火のほうが、明るいからね」
呟く少女に、ルックは至極当たり前のことを言った。
月が照らす光など蛾の複眼には認識できない。たとえそれが柔らかで、穏やかに夜空を照らすものであったとしても。
蝋燭の火などという、人間からすれば小さなものこそが彼らにとっては大きな光なのだ。
彼らは知っているのだろうか。彼らが群がる火、求める光は近づき過ぎると自らも燃やす危険なものだということを。
「あ、雲が……」
飛び回る蛾を目で追っていたルックだったが、セラの洩らした声に我に返る。
つられて空を見上げると、夜空の一部かのような黒い雲が青白い月を静かに覆っていく様が見えた。
上空の吹く風の速さはいかほどのものだろう。
右手に宿る『からみついた』紋章の力なら、あるいはあの雲を晴らせることもできたかもしれない。
だけれど、そのために使う力ではないことを彼は知っている。
あれよあれよという間に月は真っ黒な雲に隠され、見えなくなってしまった。傍らのセラは明らかに落胆した顔をしている。
「隠れちゃったね」
全く無関心な声で言うルックに、少女はうつむいて頷いた。
「さあ、もう遅いから。寝るんだ」
セラは素直に頷いて、ルックの伸ばした手に自分の小さな手を乗せる。必死に見せまいとはしているが、本当はまた現れるのを待っていたいのだろう。
あんまり残念そうな顔をしていたものだから、つい、言ってしまった。
「……またすぐに見られるよ。月は、すぐそこにあるんだから」
明日はちょっと欠けているかもしれないが、周期が巡ればまた、綺麗な満月が現れる。
クリスタルバレーの宮殿に閉じ込められていた頃とは違う。見上げれば空が見えるのだから。
「また、見れる……」
つぶやいて、セラは再びコクリと頷く。今度の顔は、少し眠そうなものになっている。
小さく息を吐き、ルックは彼女と共に部屋を出た。寝室で、彼女を寝かしつけねばならない。
彼らがその部屋を後にし、そこには蝋燭とその周りを飛ぶ蛾以外、誰もいなくなる。
僅かに時を置いて、ジジ、と何かが燃える音がした。
窓辺においてあった蝋燭の炎に触れて、蛾が焼けてしまった音だった。
小さな炎は空中で瞬時にその哀れな虫を焼き、無残にも炭となったそれは窓枠にぽとりと落ちる。
そこに、青白い柔らかい光が僅かに差し込んだ。
空には、再び月が現れ始めている。
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幻想水滸伝2の3の間の、ルックとセラのお話