当事、大陸陸軍の中佐だったSさんは、満州にある人口2000人ほどの町の、今で言う警察署長のような役割にあったらしい。
大正13年から昭和元年のその時期、まだ抗日闘争の火はそれほど激しくはなく、住民は特に日本に対して反抗的でもなれば、されど全くの従順というわけでもなく、自らの置かれた状況を受け入れながらも したたかに生活していた、とSさんは言う。
その年、昭元年の8月11日の宵の口だったという。
「町の南西でいくつもの鬼火が見える」という訴えが警察署に届けられた。
この科学の発達した時代に、と、Sさんは最初苦笑したという。
それでも、Sさんの赴任先は田舎町であったし、霊魂だのなんだのを大事にする気風が根強く残っていた。
Sさんは常日頃から、そのような風潮を「現代日本人が忘れつつあるもの」と考えており、彼ら大陸人の おおらかな精神性を好いていたので、なんであれ町民が不安になっている以上、それを解消してやるのが自分の勤めだと思いなおした。
Sさんは、若い部下2名と、懇意にしていた町の中国人青年4名を伴って町外れに足を運んだ。
町のはずれまで来ると、なるほど確かに、やや遠方に小さな青い火が5~60も、ほとんど一列に並んで揺らめいている。
自然現象にしては些か妙である。
話を聞いた時点では「燐か何かが燃えているのだろう」と見当をつけていたSさんは、流石に少し驚いたという。
とはいえ、軍人というものは論理的な考えをするもので、この時のSさんも「何らかの珍しい自然現象が起こっているのだろう」と考えた。そして、若干の知的好奇心をそそられた。
とにかく、現場へ行けば光の正体はわかるはずだ。
それが霊魂や化け物の類でないと分かれば、町の人々も安心するだろう。
空は曇り気味で月の光もあまりないため、光源への距離は掴み辛かったものの、1キロとは離れていないようだった。
この時点では、Sさんも随伴者もちょっとした肝試しか夕涼みの散歩くらいに考えていたという。
最初に異常に気付いたのは、最も年長で軍隊での経験も豊富なSさんだった。
訓練によって結構な夜目が利くSさんは、光源まであと3~400メートルほどのところで、青白い炎の群れに「体」がある事に気付いた。
炎の動きを見ているうちに、それが2個一組で動いている事と、そこから下に延びるようにして蠢く「影」がある事、その影の動きがちょうど暗がりを歩く人間の様子と一致している事に、彼は気付いた。
部下と青年たちに懐中電灯を消して足を止めるよう指示し、自らの見たものを説明した直後、青い炎の下で別の光が閃き、乾いた炸裂音が響いた。銃声である。
「伏せろ!」
というSさんの指示より早く、部下は反射的に身を屈めた。一瞬遅れて青年たちがそれに従う。
パン、パン、と次々に銃声が響き、ヒュンヒュンと何かが風を切って飛び交う音がする。
青い炎の方向から銃撃されているのは間違いなかった。
中華民国(当事)内で、日本の大陸統治に反対する勢力が武装してゲリラ活動を行っているらしい、という噂をSさんは思い出したが、国境付近でもないこんな田舎町にそんなものが出没するとは考え難かったし、また、現にこうして攻撃を受けていても、なぜか「敵」がその類のものであるとは思えなかった。
なんであれ、鬼火の正体が「敵」であると分かった以上、これを排除しなくてはならない。まかり間違っても自分たちの町に侵入させるわけにはいかない。
厳しい訓練の賜物か、こんな時でもSさんは状況をある程度把握できた。
敵の銃撃には一定の間隔があり、速射ではない。
また、こちらが光源を切ってしまえば、月明かりも乏しい夜の闇の中では狙いを定めて撃つ事は不可能である。
Sさんは青年たちに言った。
「君たちは町まで逃げて、応援を呼んできてくれ!なに、この暗さじゃぁ 敵も当てずっぽうで撃ってるんだ、当たりゃあせん!
K、H、発砲を許可す!牽制して足止めするぞ!!」
町の青年の中でも肝の据わった連中だけあって、彼らはSさんの言葉を信じて全速で元来た道へ駆け出す。
それと同時に、二名の部下が携行していたライフルで「敵」に向かって牽制射撃を行う。
ライフルを所持していないSさんも、常時身に着けていた拳銃を抜いて応戦した。
ここで違和感に気付くべきだった、とSさんは語る。
闇夜とはいかないまでも、見通しのきかない曇り空の夜である。
「敵」はなぜ、青い光を灯して自分たちの位置を相手に知らせたままなのだろうか?
それに、随伴させた二名は、逸材とは言わないが真面目に訓練を詰んだ、それなりに優秀な部下である。
敵の位置がまる分かりならば、たとえ距離感が掴めなくとも せいぜい200メートルの距離の標的ならば、ライフル銃での射撃が一発か二発当っていても良さそうなものだ。
しかし、敵を示す青い炎はユラユラと蠢きながらもその動きを大きく外す事なく、銃声と閃光を放ちながら、徐々に近づいてくる。
敵との距離が100メートルを切った頃だろうか、急に銃撃の数が少なくなった。
夜目の利くSさんには、影の主たちの何人かが、長い棒のようなものを手にしたのが分かった。
「敵は抜刀したぞ!」
銃撃が全く当らないと判断して接近戦に持ち込むつもりなのだろうか。
Sさん達3人に対して、相手は30人弱はいる。まともに戦えば救援が来る前に全滅は必至であった。
「後退しつつ、突入してくる敵をよく狙え!この距離なら当たる!」
そう叫びつつ、Sさんは拳銃を無造作にズボンのベルトに挟むと、サーベルを抜いて敵めがけて走り出した。
「中佐殿!?」
一瞬、度肝を抜かれた部下の叫びを尻目に、敵の先頭をめがけて自ら突っ込んでいく。
剣の間合いに入った。
「どおッ!!」
相手が振り下ろした得物を弾くと、その反発を利用して相手の胸に一太刀を入れる。剣道ではなく「剣術」の有段者であったSさんは、銃を撃つよりも間近に見た相手を斬る方が、より確実に相手を仕留められると判断したのだ。
無論、勝算があったわけではない。
おそらくは数にもの言わす敵にメッタ斬りにされて死ぬだろう、と思った。
それでも、そもそも逃げ出して逃げ切れる状況でもなかった。
ならば、一人でも二人でも数を減らして、後続で駆けつけて来る部下たちに有利な状況を作るべきだ、と、
「そこまで考えてたかどうか、いや、実際咄嗟の事でね。半分自棄(やけ)になってたのかも」と、後年のSさんは語った。
Sさんに斬り付けられた敵が大きく揺らいだ。この時Sさんは初めて、眼前の「敵」がたじろぐのを見た。
自分が生き残れるかどうかはさておき、この瞬間Sさんは「いける!」と思ったそうである。
別方向からの敵が銃剣を構えて突撃してくる。
が、そこで隙を作らないのは流石に剣術の有段者、銃剣の切っ先をかわすと相手の勢いを利用して、更に自らの体重をかけて相手の首にサーベルを叩き込んだ。
相手の首が、パーン!と素っ飛んだという。
Sさんが信じられないものを見たのは、その後だった。
最初に斬った相手は、打ち込みが浅かったのか、ふらつきながらも再びSさんめがけて斬り付けてきた。
それをサーベルで受けておいて、腹に蹴りを入れて相手を蹴倒す。
道場で剣道の試合をしているのではない、本当の戦場での殺し合いである。なりふりに構ってはいられないし、とれる手段は何でも使って、一人でも敵を倒しておかなければ後に続く部下たちに申し訳が立たない。
また別な方向から三人目の相手が向かってきた。この時には、敵の使っている武器がサーベルでも中国刀でもなく、「数打ちの日本刀」である事が、直感としてSさんには分かっていた。
その事に疑問を挟む余裕もなく、3人目と切り結ぶSさんは背後に新手の気配を感じた。
乱戦も計算ずく、タイミングを合わせて背後からの敵と目の前の敵の攻撃を同時にかわすと同士討ち、背後から銃剣突撃してきた敵は、その剣先を3人目にズブリと突き刺してしまったのである。
その、銃剣突撃してきた敵には、首が無かった。
新手だと思っていた後ろの「四人目」は、数秒前にSさんが首を切り飛ばした「二人目」だったのだ。
この時点でようやく、Sさんはその「敵」の異様さに気付いたという。
「敵の出現」という予想外の事態に対応しなければならなかった事と、「外敵から町を守る」という使命感によって、それらの違和感は、感じてはいても頭の片隅に追いやるしかなかったのだろう。
なぜ、こいつらは日本刀を持っているのだろう?
なぜ、こいつらは30年も前の日本軍の軍服を着ているのだろう?
なぜ、こいつらは「鬼の骸骨」のような仮面を付けているのだろう?
いずれも戦いにおいて考慮すべき要素ではないが、首無しの兵士が動いている事も含めて、それらに気付いた事でSさんは彼らが「この世の者ではない」と一瞬で納得したという。
「K!」
背後で部下の一人が叫んだ。振り返ったSさんが目にしたのは、仰向けになったKさんの胸に敵の銃剣が突き刺される瞬間だった。叫ぶ間もなかったという。
もう一人の部下であるHさんも、敵の刀を必死に銃で防いでいる。
「H!」助けに駆け寄ろうとしたSさんだったが、新たに加わった正真正銘の「四人目の敵」と、起き上がった最初の敵の2人に襲い掛かられてそれを阻まれた。
「足をやれ!撃っても死なんのなら足を殺して動きを止めろ!」
言っておいて、自分でも「無茶振りだな」とSさんは思ったという。
実戦剣術の有段者のSさんならともかく、並みの兵士に「人」の足を切り飛ばす事など出来るものではない。
それでもSさんを気遣ってか、Hさんからは「やってみます!」という返事が返ってきたそうだ。
結局、銃剣を引き抜いて体が自由になった首無しの二人目と三人目、一人目と四人目の4人を相手に、Sさんは立ち回る事になった。
Hさんが相手にしている1人を含めても、足止めできたのは5人である。
Kさんを殺害した1人をはじめ、他の敵達は町のほうへと進んでいってしまった。青白い火の群れが遠ざかっていく。
町にはまだ屈強な陸軍兵士が数十名、部隊長も数名が残っている。
この「敵」がまともな相手であれば、いかに急襲といえど遅れをとる者達ではないのだが、なにぶんこの「敵」は「死なない」。そしてその事を、町にいる部下達は知らない。
「H、踏ん張れ!」Sさんは叫んだ。Hさんからの返事はないが、まだ戦闘音がするところをみると彼も必死に抵抗しているのがわかる。
Sさんも奮闘の末、自分で指示したとおり、まず1人の敵の足を腿からぶった切る事に成功した。
その後、その敵が片足で襲い掛かってきた記憶がないので、この対応は講を奏したのだろう。
というよりも、Sさんにはその後しばらくの記憶がない。とにかくガムシャラに戦い続けて、細かい事は思い出せないのだという。
気が付けば「敵」の姿はどこにもなく、後に残ったのはいくつもの傷を負ったSさんと、Kさん・Hさんの亡骸だけであった。
我に返ったSさんが町の方角を見ると、町からはいくつか火の手があがっている。
「敵襲」は夢ではなかった。
必ず戻るからな、と、部下の亡骸に一声かけて、Sさんは痛む体に鞭打って町へと向かった。
町へ戻った時には、Sさんたちが町を出てから二時間弱が経過していたという。
被害は散々たるものだった。
兵士も含む軍属の死者34名、戦闘に加わった者のほぼ全員が負傷した。
民間人の被害は、最終的に死者114名にものぼった。
話によると、Sさんからの救援の報せを受けて、取り急ぎ集められる十数名ほどで町を出た直後に、あの「敵」と鉢合わせしたらしい。
数的には互角であったが、相手が「普通ではない」と気付く頃には半数がやられていたという。
平穏な田舎町の事、住民は普段から「敵襲」に備えた避難訓練などしていない。
住民が逃げ始めたのは、守備隊を突破した敵兵が軍属といわず中国人住民といわず、見境無しに攻撃し始めてからだった。
町に残った兵士は唐突に現れた敵に手持ちのピストルやサーベルで応戦するしかなく、旧式とはいえライフル銃を持った敵に対して圧倒的に不利であった。
住民を避難させつつ応戦するが、まさか敵が「死なない」などとは思いもよらず、悪戦苦闘の末多くの仲間や住民が犠牲になった後、「敵」はやはり忽然と姿を消したという。
だれにも、何がなんだかさっぱりわからなかった。ただ被害だけが現実として目の前にあった。
Sさんは上への報告に窮したという。
なるべく事実として確認できる事だけを報告書にまとめようとしたのだが、どう書いても「陸軍兵士数十名が駐屯するところに旧式装備のゲリラ20名が襲撃してきて、自軍の半数と住民100名以上が犠牲になる」という結果の説明にはならなかった。
結局、上層部から調査団を招いて現場を見てもらったのだが、彼らにしても納得のいく結論を導き出す事はできなかったらしく、この事件は「捜査継続」のまま有耶無耶にされてしまったらしい(記録に残っているかどうかも不明との事)。
なんであれSさんは責任をとらされて解任、あげく精神に異常ありとして軍を辞めざるを得なくなってしまう。
「おかげで日中戦争や太平洋戦争に巻き込まれなくて済んだ」との事だが、それも後になってからの話で、当時は「なぜ部下達や住民の人達が死ななければならなかったのか」も分からず、軍から追い出されては仇も討てないと、失意のどん底だったらしい。
失意の底にありながらも諦めきれなかったSさんは、日本本土に引き揚げるまでの数週間、自分が体験したこの不思議な事件についてアレコレ調べたと言う。それまで眼中になかった中国の呪術者などにも意見を聞きに行ったそうだ。
そうしてSさんは、「あれは日清戦争で死んだ日本の兵士の怨念だったのではないか」と思うようになった。特に確信があるとかではなく、「なんとなく辻褄を合わせたら、そう考えるようになってたんですね」という事らしいが。
「中国にも、死んだ人間の無念が悪霊になる、という考えはあるんですね。
戦争に従軍する人間っていうのは、死のうと思って兵隊になる人はいないんですよ。
誰でも最初は、手柄を立てて英雄になりたい、軍隊で出世して故郷に錦を飾りたい、とか思ってるわけです。
でもね、日清戦争っていうのは、近代日本が最初に大きな外国と戦った初めての戦争なわけで、実際には色々と難だの不備だのがあったと思うんです。日本国内では戦果ばかり華々しく宣伝されてましたけどね。人も大勢、亡くなりましたし。
それでね、結果的に日本は戦争に勝ったけれど、戦争の途中で死んだ人は、それを知らないわけですから。
”勝って手柄を立てるつもりが、負けて敵に殺された、悔しい"だけになっちゃう。
それだけなら、たとえ幽霊になっても"敵に、中国人に祟ってやる"ってなるんでしょうけど、彼らは異国の地で死んでるわけでね。
本当かどうかわからないけど、日清戦争では死者が多すぎて、全員の遺骨を日本に持って帰れなかったらしいんです。中国にそのまま葬っちゃった。
日本のために戦って死んだのに、日本の土になる事すら叶わなかったんですよ、そういう人達は。
そうなると憎いのは中国人だけじゃなくなっちゃうんですね。
”お国のために命まで捧げたのに、死んでも日本に帰しても もらえないのか”って。軍隊も憎しみの対象になっちゃうわけですよ。
そうして、”敵だった中国も憎い、味方だった日本も憎い”ってなっちゃった怨念が、場所が中国ですから、中国式の悪霊になっちゃう。
日本みたく、誰かの枕元に立って”恨めしや~”では終わらない何かになっちゃったんだと、私は思うんです。
中国には、死体が動く話とかもたくさんありますから。
日本人の怨念が中国の風土と混ざり合って、私達が考える幽霊なんかとは違う、何か別な”おそろしいもの”になっちゃったんじゃないかと。それがあの時の敵兵なんじゃないかと。
まあ、全部私の素人考えなんですけど」
そう言って一瞬苦笑したSさんは、どこか気まずそうな表情に戻った後、こう付け加えた。
「戦後はね、日本は中国の人達にすごく嫌われたでしょう。”日本鬼子”とか言われてね。この”鬼子”っていうのは、日本の”おに”とか”おにご”の事じゃなくて、向こうの言葉で”おばけ”みたいな意味でね。
まあ、それは仕方無いですよ。大陸で酷い事をやっていたのは、事実ですからね。私も戦友から、色々と聞かされてますし。
だから、私は軍隊を擁護するつもりは無いんですけど、そうやって”日本軍”がやったっていう蛮行のね、もしかしたら何件かは、”あいつら”の仕業なんじゃないか、本物の”化け物”が やったんじゃないか、って、ちょっと思うんですね。
あるいは、自力で戦う事のできなくなった”あいつら”が日本の軍人に取り憑いて、敵も味方もメチャクチャになるような狂った判断をさせた、とか、
”ひとでなし”になりかかってた日本の軍人たちを、本当に”人間でない何か”に変えてしまったんじゃないか、ってね。
どちらにせよ、私には”あいつら”があのまま消えちゃったとは思えないんです。」
<日本鬼子>了
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2020年作。
中国で、主に日中戦争での日本軍の蛮行を忌み嫌うものとして使われる言葉「日本鬼子(りーべんぐいず)」
「軍隊」と言う巨大な暴力の流れに呑まれ、なおかつ劣勢に立たされた極限状態の中で、人間性を保っている事の出来なくなった日本兵達の、その伝え語られる有様は「鬼」と形容されるも致し方ないものであったようです。
そんな「日本鬼子」が本当に「人外」であったなら、という着想で一編綴ってみました。
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