No.114775

テラス・コード 第八話

早村友裕さん

 ――生きなさい――

 それは、少女に残された唯一の言葉だった。
 太陽を忘れた街で一人生きる少女が、自らに刻まれたコードを知る。

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2009-12-27 17:55:05 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:666   閲覧ユーザー数:652

第八話 岩戸プログラム

 

 

 

 あたしはカグヤの人々全員に待機の指示を出し、幾人かのリーダーを選んでその場を任せると、カノの診るミコトとヨミの元へ向かった。

 入ってすぐのドームより一階分下に降りたところにある研究室で、ミコトとヨミ寝台に寝かされていた。二人とも瞼が固く閉じられており、さらに、放射能を浴びた証の痣が頬に浮かび始めている。

 まだカグヤに来て幾許も経っていないというのに。

 忙しく動き回るカノに声をかける。

 

「ツヌミは?」

 

「ここよりもう一つ下にある制御室に向かいました。今はもう『タカミ』へのアクセスを開始しているはずです」

 

 ツヌミも既に戦いを始めている。

 

「テラス、貴方もそちらの台に上がってください。コードを取り出す準備をします」

 

「はい」

 

 あたしは言われた通り、ミコトの隣の寝台に上がった。

 

「ミコトもヨミも大丈夫なの?」

 

「……実はあまり芳しくありません。開放系第3段階からくる身体へのダメージが大きく、そのせいで破壊コードの活性が高まっています。このままでは一日と持たず、生命維持に必要な細胞まで破壊してしまう」

 

「……!」

 

「事態は一刻を争います」

 

 あたしは唇を噛みしめた。

 カノは周囲に設置された器具を見ながらしきりにメモを取り、部屋を駆け回っている。

 自分の無力さを噛み締めていた。

 

「ねえ、カノ。あたしには何も出来ないのかしら?」

 

 カノやツヌミのように、多くの人を救うための力になりたい。

 どうして自分にはなんの力もないのだろう。命がけで戦う彼らに何かしてあげられる事はないのだろうか。

 

「そう思ってくださるだけで十分ですよ、テラス」

 

「本当に……?」

 

「ええ。貴方は太陽であり、私達の導き手。その存在そのものが人類にとっての希望」

 

 カノはあたしの髪をゆっくりと撫でた。

 

「生きたいと、強く願ってください。それが私達の力になる」

 

 優しい言葉でも、カノは真剣だった。

 寝台に横たわり、黒く滑らかな材質の天井を見上げる。

 少し顔を傾ければ、右に黒髪のミコトが、左には橙の髪を頬にかけたヨミが目を閉じたまま横たえられていた。

 

「気分はどうですか? 苦しかったり、痛かったりする事があったらすぐに言ってください」

 

「大丈夫よ」

 

 放射能の影響が顕在する二人と違い、あたしは驚くほど元気だった。

 むしろ、高揚して体が熱いくらい。

 

「今はまだコードが抑制されていますが、その抑制も100パーセントではありません。影響が現れる前に、必ず言ってくださいね」

 

 あたしが持つのは活性化コード――ミコト、ヨミの破壊コードと対極をなし、破壊された分の細胞を補う力を持つもの。

 そう、あたしは忘れていた。

 あたしに埋め込まれたコードはまだ抑制されていて働かないという事。「岩戸プログラム」と呼ばれるそれは「感情」を契機にして解除されるという事。

 あたしはその感情をまだ持っていなかったのだという事も――

 

 

 

 

 長い、永久とも思える時間が驚くほどゆっくりと回転する。

 寝台の上であたしははやる気持ちを抑えていた。

 まるでその感情に同調するかのように体はどんどんと内側から熱を持っていく。弾け飛びそうに熱い塊があたしのなかに生まれ始めているようだ。

 その熱さに耐えかねて、寝台の上で膝を抱えた。

 

「テラス? どうしました? 大丈夫ですか?」

 

 心配そうなカノの声。

 

「大丈夫。少し、熱いなって」

 

「抑制しきれないコードが放射能に反応して活性化しているのでしょう――もう時間がない」

 

 時間がない。

 もし間に合わなければ、みんな死んでしまう。

 

「大丈夫よ、もし本当に危なくなったらあたしはナミのところに行くから」

 

 それは、ずっと決心していた事だった。

 カノもツヌミも全力を尽くしてくれているけれど、それでも無理だった時は――

 

「それはいけませんよ、テラス。ミコトもそう言ったでしょう?」

 

 似合わぬ強い口調で、街医者はあたしを諭した。

 あたしは返答せず口を噤む。

 隣を見れば、浅黒い肌の大部分を黒い痣に覆われたミコトの姿がある。いつも纏っていた黒いコートはカノが脱がせたようで、大きく開いた首元から痣に覆われた肌が露出していた。

 ところが、ミコトの鎖骨の下辺り、ふいにあたしは違和感を覚えた。

 その疑惑のまま、あたしは手を伸ばす。

 

「テラスっ?」

 

 驚いたカノの声を無視して、あたしはミコトの服を引っ張った。

 肌蹴て現れたミコトの肩から胸にかけて――あたしは、息を呑んだ。

 

「大胆ですねえ。眠っている男性を襲うなんて、年頃の女性がするにはあまり喜ばしい行為ではないですよ、テラス」

 

 後ろからカノがあたしの手を引きはがす。

 けれど、その光景はあたしの目にくっきりと焼き付いていた。

 

「ねえ、カノ。ミコト、一回死にかけたって言ってた。死んだと思ったって――」

 

 こちらに背を向けた街医者は、返答しない。

 

「ミコトの怪我は何? これは、放射能でついた傷じゃないわよね」

 

 あたしの目に飛び込んだのは、すでに治ったとはいえ、当時は致命傷に近い深傷だったと思われる傷痕だった。

 それは肩口から胸にかけて、でも、この感じからするとおそらくもっと先まで続く大きな傷だ。

 振り向いたカノは困惑していた。躊躇しつつも返答しようと試みる。

 

「それは――」

 

「ナミに……殺されかけた時の傷だ」

 

 ところが、それを分断する声があった。

 はっと見ると、金色の瞳がうっすらとこちらを見ている。

 

「ミコト」

 

「ナミの実験体になった時に受けた傷だ。あいつは俺達の事、生き物だなんて思ってねえ。異形と同じくらいにしか思ってねえよ」

 

 思いのほかしっかりとした言葉を紡ぐミコト。

 でも、その金の瞳の焦点は合っていない。どうやら視神経に影響が出始めているらしい。

 

「……ミコトは実験の後、治療される事もなく放置されていました。だから私は彼に治療を施し、次の被験者に決定していたヨミを連れてタカマハラを出ました」

 

「ミコトを、タカマハラに置き去りにしたの?」

 

「ええ、そうです」

 

 カノは悲痛な声で答えた。

 

「二人を連れてタカマハラを出るは出来ませんでした。だから、私は実験前のヨミだけを連れて、ナギの待つ外へ」

 

「だから、俺が今生きているのは偶然だ、って言っただろう?」

 

 胸が――痛い。

 俺がどれだけ、と言葉を詰まらせたのは。

 やっと会えたのに、と声を荒げたのは。

 行かせない、と強く訴えたのは。

 

「だから俺は、お前がナミの元へ行くのは絶対に反対だ」

 

 断言する口調。もう視界は薄れ、痣に覆われた体の感覚だってほとんどないはずなのに。

 ナミの実験で死ぬような傷を負って、治療もなく放置されて、一人タカマハラに置き去りにされて、それでも生きたいと願って――それなのに、いや、だからこそ彼の魂はこんなにも強い。

 

「生きてくれ、テラス。俺、は――」

 

 それでも彼の気力がそこまでで限界だったんだろう。

 ぷつり、と声が途切れた。

 ざっと全身の血の気が引く。

 

「テラス、分かったでしょう。ナミの元へ行くという考えは捨てることです。私からもお願いします」

 

 ミコトの強い思いに触れて、カノの説得を聞いても主張するほど、あたしは馬鹿じゃなかった。

 どうしようもなく熱い気持ちを抱え、寝台の上でただ俯いていた。

 

 

 

 

 

 

 熱い。

 体中の細胞が叫び出しているようにすべてが熱い。

 内側から焼かれる感覚と戦いながら、あたしは寝台に蹲っていた。

 

「大丈夫ですか? テラス」

 

 カノが何度目か知れない言葉をあたしに向ける。

 声の方向に目を向けて初めてあたしは、自分の視力が低下している事に気付いた。

 ぼんやりとした視界で、街医者があたしの方に向かってくるのを認識するが、どれだけ眼を凝らしても彼の顔がうまく見えない。

 起き上ろうとして、それも適わない事に愕然とした。

 

「視神経に異常が出ていますね。テラス、他に変調は?」

 

 焦る医者の声に、あたしは思わず呻くように呟いていた。

 

「……熱い」

 

 その言葉で医者は何かを察したようだ。

 額にさっと手が触れ、すぐに離れていく。そしてぱたぱた、と歩き回る音が響いた。

 

「もう少しです。もう少し我慢してください。ミコトとヨミのコード処理はすぐに終了します。だから――」

 

 ああ、音も少しずつ遠ざかっていく。

 目の前にかざしたはずの手もぼんやりとしか見えない。起き上がろうとしても、体中に力が入らない。

 まるで眠りに着く直前みたい。

 もうあたし、ダメなのかな。

 

――生きなさい

 

 ナギ、お願い。もう少しだけあたしたちに時間をちょうだい。

 全員が、生き残るための時間を。

 薄れていく意識の中に、カノの声が木霊する。もう何を言っているのかも分からないその声は、一枚フィルターを通したように遠い。

 

「――テラスちゃん」

 

 それなのに、はっきりとあたしに届く声があった。

 最後の力で瞼を押し上げると、目の前にいたのは、カグヤに送られた異形狩りのボスだった。

 

「ウズメ」

 

 かすれた視界に、紫黒の瞳が映る。

 今にも泣きそうな顔をしたウズメは、熱さに耐えて固く握りしめていたあたしの両手を優しく包み込んだ。

 思わずあたしは微笑んでいた。

 

「よかった……無事で」

 

 カグヤに送られてしまったウズメを案じていたのだが、こうして無事に会う事が出来た。

 もうそれだけでも十分だった――彼女の存在があたしをここまで連れてきたと言っても過言ではないのだから。

 燃えるように全身が熱いのに、ウズメに握られた手だけがひんやりと現実味を帯びている。

 それなのに、いくら瞬きをしてもウズメの顔が見えない。

 

「ありがとう、ありがとうね、テラスちゃん」

 

「違うの、ウズメ……違うの」

 

 あたしは一度、何もかもを捨てようとした。

 世界のすべてが疑わしくて、何も信じられなくて、味方なんていないって思いそうになった。

 ウズメはずっと、あたしの事をタカマハラから匿ってくれていたというのに。

 ナギが死んでしまった後も、ずっとあたしの事を気にかけてくれていたというのに。

 毎朝毎朝、あの小さな事務所であたしを迎えてくれていたというのに。

 

「ごめんなさい……」

 

 情けなかった。

 カノもヨミもミコトもツヌミも、ウズメだってずっとあたしを思ってくれていたというのに、こんなにも気づくのが遅かった。

 

「泣かないで、テラスちゃん」

 

 ああ、いつの間にかあたしは泣いてたみたい。

 何だか体の感覚が薄い。

 

「ごめんなさい、ウズメ。あたし、ダメなの。あたし一人じゃ、何の役にも立てないし、人を信じる事も未来を思う事も出来ないの」

 

 思わず、弱音が口をついた。

 それはきっとあたしの中の一番弱い部分。

 

「ナギは生きろって言ったのに、もう死んじゃうかもしれない」

 

 ああ、体が弱ると心も弱ってしまうんだね。

 

「怖いよ、ウズメ……あたしはこのまま消えるのかな……?」

 

 こんなにも弱い言葉を並べたのは初めてかもしれない。

 全身は熱くて弾け飛びそうだし、視界はかすんで、自分の声さえ耳に届かない。

 今度こそもうダメかもしれない。

 そう思った時、あたしはようやく恐怖を知った。

 

「何を言うのよ、テラスちゃん」

 

 すべてが曖昧な世界で、なぜだろう、ウズメの声だけははっきりと耳に届く。

 

「そんな事を言っては駄目よ。ねえ、こんなにもたくさんの人が貴方を望んでいるの。貴方の事が好きで、失くしたくないと思っている」

 

「それはあたしにコードがあるから」

 

「違うわ」

 

 ウズメは優しい声で諭した。

 その声はどこか、梓弓のヒルメに似ていた。

 

「みんな、あなただから好きなのよ? いつも一生懸命で、たまに傷ついて立ち止まって、それでもちゃんと立ち直ってまた自分の足で歩いていく強さを持ってるの」

 

「そんな事……ない。あたしは……弱くて、何にも出来ない」

 

 弱音が止まらない。

 それなのに、ウズメはゆっくりと、でもきっぱりと言い切った。

 

「テラスちゃんは強いわ」

 

 その言葉はあたしの胸の奥深くまで入り込んできた。

 

「だって、私の大事な娘なのよ? 私と、ナギが一生懸命育てたの」

 

 柔らかくて温かいウズメの胸に顔をうずめ、あたしは一雫、涙を流した。

 熱い体が何かを訴えている。

 

「お願いよ、テラスちゃん――生きて」

 

 

 

――生きなさい

 

 

 

 ああ、そうか。

 ナギのあの言葉は、命令なんかじゃなかった。

 あれはナギの願い。

 あたしに、生きて欲しいとずっと訴えかけていたんだ。

 

「あたしは――」

 

 放射能の影響と涙でほとんど見えなくなった視界。

 聴力もほとんどない。

 でも、ウズメの手だけは、暖かかった。

 

「まだ、生きたい。生きていたい――」

 

 心の底から願った。

 ずっと、ただ生きることに必死だった。それを当たり前だと思っていた。

 でも、人の優しさに触れて、あたしは――生きたい、と、願う心を手に入れた。

 

 

 それこそが抑制を解く唯一の感情。

 自ら「生きたい」と願う事こそ、太陽を取り戻す為に必要な感情。

 育て親のナギが、ずっとあたしに教えて入れていた事。

 

 目の前が真っ白になる。

 ずっとあたしのコードと記憶を抑制していたプログラムが解(ほど)けていく。

 抑制されていたすべての細胞が歓喜を叫び、全身を覆っていく。不思議なほどに満たされた感情があたしの中を支配している。

 その高揚感に飲み込まれるようにあたしはそのままウズメの腕の中で気を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 まるでぬるま湯に浸かっているようだ――心地よい何かに包まれて、あたしは眠っていた。

 ゆっくりと解放されていく記憶と、コードの活性を感じながら、深い意識の底を漂っていく。

 死ぬ間際、ナギが封印した記憶は、解除呪文(アンチ・コード)を経てあたしの元へと帰ってきたのだ。ナギが残した情報と共に。

 

 あたしの名はアマテラス。

 始祖の一人であるイザナギの遺伝子を掛け合わせ、作られたハイブリッド。

 生まれすぐ受精卵の状態で太陽への道標となるコードを刻まれたちっぽけな命。

 

――ナギ

 

 とてつもなく泣きたい。

 だって、ずっと育ててくれたナギは、本当に、本当のあたしの父親だったから。

 命を賭してあたしをタカマハラから連れ出して、街で匿ってくれた。唯一の家族として、あたしに安息を与えてくれた。

 

 幼い頃の記憶も徐々に戻り始めていた。

 ミコトもヨミも、想像出来ないほどに愛らしい姿であたしと共に在ったのだ。あのガラスチューブを出てから、ナギがあたしを連れてタカマハラを出るまで、あたしたち3人はずっと一緒だったのだ。

 研究者たちに施される学習プログラムも、自分の身を守るための訓練も、タカマハラの歴史を学ぶ時も。

 朝起きてから寝るまで、あたしたちは約3年間、ずっと一緒に育てられたんだ……隔離された世界で。

 

――ごめんね

 

 忘れていてごめんなさい。

 あんなにも大切な時間を、多くの時間を共に過ごしたのに、知らない、なんて言ってごめんなさい。

 

 謝りたい。

 

 ミコトに。ヨミに。

 

 ごめんねって。

 

 あんなに一緒にいたのに、全部忘れててごめんねって。

 辛い時も寂しい時も、二人が一緒にいてくれたのに。

 あたしは二人の辛い時に何もしてあげられなかった。

 何も知らず、街でナギと二人、暮らしていた。

 ヨミが厳しい戦闘訓練を受けている時も、ミコトが死ぬような怪我を負っていた時も。

 

 ごめんなさい。

 

 ごめんなさい――ごめんなさい

 

 

 もう、一人で無茶するなんて言わないから。あたし一人が犠牲になんて言わないから。

 だってミコトもヨミもずっとあたしの代わりに犠牲になっていたんだから。

 

 

 きっと、その苦しみを知っている彼らだから、あたしをナミの元へは行かせやしなかったんだ――

 

 

 

 

 

――生きなさい

 

 

 はっと目が覚めた。

 最初に見たのは、強い意志を持って輝く金色の瞳。

 

「……ミコト」

 

 まるで泣きそうな顔をした彼は、呆然とあたしを見つめた後、目を細め、そして――

 

「生きてる」

 

 かすれた声で小さくそう呟き、あたしの肩の辺りに顔を埋めた。

 ほんの少し驚いたものの、頬にかかる黒髪をゆっくりと撫でる。

 

「ありがとう――ミコト」

 

 生きていたいと思えたのは、きっとミコトのお陰だから。

 小さく震える彼の肩にそっと手を置き、あたしも目を閉じた。

 触れたところから伝わる体温が、生きている事を実感させる。ほんの少しだけ倦怠感を残す身体が自分のものである事を知らせてくれる。

 

「ごめんね、ミコト……ごめんね」

 

 とっても悲しかったと思う。

 とっても寂しかったと思う。

 だって今、自分の存在がミコトやヨミの中から消えたらと思うと、それだけで胸がぎゅうっと絞られるような感覚に陥るんだから。

 

「……どうやら、間に合ったようですね。プログラムの解除とコード挿入」

 

 カノが部屋の隅で大きく息をついた。

 

「プログラム……岩戸プログラムは解除されたのか……?」

 

 呻くように、ミコトの声が漏れた。

 

「ええ、そのはずです。プログラム解除のコードはテラス自身が強く『生きたい』と願う事。生きなさいと言われるのではなく、ただ生きるのでもなく、テラス自身が自覚を持って、自分の事を考えて、心の底から願った時、プログラムが解除されるように設定してあったのですから」

 

「そ……か」

 

 ミコトの震えが止まった。

 肩の辺りで、ミコトがゆっくりと顔を上げた。

 とても近くにある金の瞳はやっぱり強い光に満ちていて、それから、あたしによみがえった記憶の中の幼い顔と一瞬だけダブって。

 そしてそれは、彼の成長をあたしの中にはっきりと自覚させた。

 スサノオ。

 そう呼ばれていた幼い少年は、真っ直ぐな瞳を持つ青年に成長してあたしの前に現れた。

 そうして彼は見た事もないような満面の笑みであたしに笑いかけて。

 当時と同じように、でも記憶にあるよりずっと落ちついた声であたしの名を呼んだ。

 

「お帰り――テラス」

 

 もうだめ、反則だよ。

 そんな顔で笑わないでよ。

 卑怯だよ。

 きっとあたしの顔は今、真っ赤だ。

 もう、認めざるを得ないんだろうか。

 

「……ただいま」

 

 あたしの何もかもを見透かしたような言動の癖は小さい時から治ってない。

 少しばかり単純で、でも根っこが真っ直ぐなのも全然変わってない。

 でも、あの時はまだ子供だったのに――

 

「会いたかった」

 

 そう言った彼は、まぎれもなく、あたしの一番嫌いな、そして、最も接近を赦しちゃいけない「男」だった。それも、同じように遺伝子にコードを刻まれた「弟」。

 それなのに。

 嬉しくて、仕方がない。彼がここにいる事が。あたしと一緒に戦ってくれる事が。

 

「ねえ、ミコト」

 

 こつり、と額を当てるのは、あたしたち3人のおまじない。再会したヨミが最初、あたしにそうしたように。

 辛い事があったら、お互いにこうして悲しみを共有し、みんなで全部乗り越えてきたんだった。

 懐かしいこのおまじないも、あたしがヨミやミコトといた証。

 

「ごめんね――忘れてて、ごめんね」

 

 もう、忘れたりしないから。

 

 

 

 

 

 

 間近にミコトの気配を感じながら、何度ごめんね、と呟いただろう。

 あたしをプログラム解放の余韻から現実に引き戻したのは、銀色の瞳を持つ、出来のいいあたしの弟だった。

 

「そこ、何いちゃついてるの?」

 

 怒りをはらんだ声と共に、ふっとミコトの気配が遠ざかる。

 起き上ったあたしが見たのは、狭いスペースで取っ組み合う弟たちの姿だった。

 

「もう……」

 

 大きく、ため息をひとつ。

 どうしてこうなるのかな――昔から、そうだった。小さな事でこの二人はよく喧嘩していた気がする。

 それでも、これで一つクリアした。

 大きな音を立てながら取っ組み合う二人を無視して、二人の乱闘を避けてウズメと二人壁際に並ぶカノに微笑みかけた。

 

「ありがとう、カノ――これで一つ目の課題はクリア出来たのよね?」

 

「ええ、そうです」

 

 とても優しい街医者は、疲労の色を見せながらも、あたしにむかってにっこりと笑った。

 

「ですが、処置が万全ではないので、完全にあなたの細胞にコードが取り込まれたわけではありません。おそらくしばらくすればまた放射能汚染が広がってくるはずです」

 

「分かってるわ。その間にあたしたちは脱出する……ツヌミは?」

 

「ここの階下、メインルームでメインコンピュータータカミへのアクセスを今も行っているはずですよ」

 

「じゃあ、あたしたちは今すぐそっちに向かうわ。カノ、ウズメ、カグヤの人たちをお願い」

 

 あとは、全員でここを脱出するだけ。

 もちろんその先には、ナミを改心させるというとてつもない大仕事が残っているのだが。

 

「行くわよ、ミコト、ヨミ! いつまでそうしてるの!」

 

 組み合って転がった二人を怒鳴りつけると、ミコトとヨミはしぶしぶと言った風体で相手の服から手を放した。とはいえ、二人は睨み合ったままなのだが。

 あたしはもう一度だけ、すっかり癖になってしまったため息をついた。

 

 

 

 

 ツヌミの元へ向かう階段を、あたしはヨミ、ミコトと共に駆け降りていった。

 

「ごめんね~、テラス。開放系くらいでへばったりして」

 

「反動は仕方ないわ。でも、次からは辛かったらちゃんと言いなさい。そうしないとフォローにまわれない。だから……」

 

 とん、と最後の何段かを飛び降りて、あたしはくるりと振り返り、ヨミを見据えた。

 

「無理しないで。これは、命令よ」

 

 ヨミやミコトが傷ついたり、辛い目に遭ったりしているところを見たくないから。一度ツヌミにしたように、あたしは二人に命令を下した。

 こんなのは卑怯だ、という自分の声がかすかに脳裏をよぎる。ヨミがあたしの言葉に逆らうはずはない事が分かっていて、あたしの願望を押しつけた。

 ところが、ヨミは気にした様子もなく、それどころかあたしに一瞬の逃げる隙も与えず抱きついてきた。

 

「――?!」

 

 思わず硬直。

 

「ありがと、テラス。僕の事、心配してくれたんだよね?」

 

 心配してない、と叫びたいところだったが、心配したのは本当。

 でもこの抱きつき癖だけは直した方がいいだろう。

 ああ、背後から殺気が刺さる。感情変化のわかりやすいもう一人の弟があたしを引きはがすのは時間の問題だろう。

 

「大丈夫だよ、僕は強いから。君を守ってあげる。たとえ君が僕じゃなくて――」

 

 ヨミは小さな、小さな声で呟いた。

 

「ミコトを選んだとしても」

 

 囁かれた言葉に、はっとする。

 悲しそうに微笑んだ銀色の瞳の少年は、すべて分かっているかのように自らあたしを解放した。

 幼い時を共に過ごした彼はきっと、ずっと知っていた。

 

「ツクヨミ」

 

 小さい頃、少女と見紛うほどに愛らしい姿をしていた少年は、いつしか成長し、厳しくも優しい銀の瞳を持つ青年となった。

 何か言おうとしたあたしの唇にそっと人差し指をあてて、銀色の瞳が微笑う。

 ああ、どうしてだろう。

 どうして忘れていたんだろう。この人は、ずっとあたしを見守っていてくれたのに――

 呆然となるあたしの背を、両側から二人がぽん、と押す。

 前へ、進めと。

 

「離れろヨミ」

 

「うるさいよ、ミコト。君が僕に命令する権利はないはずだけど……いいよ、無視して。行こう、テラス」

 

「行くぞ」

 

 そうだ。今この瞬間にも、カグヤの人たちは危険にさらされているのだ。

 立ち止まってる暇なんてない。

 強い気持ちで目の前のドアを開いた。

 ところが、あたしたちの目に飛び込んできたのは、艶やかな黒髪を床に投げ出して倒れ伏す、ツヌミの姿だった。

 

「ツヌミ!」

 

 思わず駆け寄ろうとしたあたしは、身の危険を感じて足を止める。

 ざわりと背筋を何かが駆け抜ける。

 周囲は、光を忘れた漆黒の壁。その中で、ちかちかと幾つもの光が瞬いている。

 きっと高い場所から、例えばタカマハラタワーの最上部から街を見下ろすとこんな景色が見えるだろう。自分の足元の地面がなくなってしまったように感じてしまうような不思議な空間だった。

 天井の形も分からない。床も安定しない……いえ、これはあたしの方が揺らいでいるの?

 

「それ以上この場所に踏み込まないでください」

 

 厳しいツヌミの声が飛んだ。

 ゆっくりと、力ない腕に力を込めながら体を起こすツヌミ。

 

「ここにはまだ、彼がいます」

 

 情報意識体となった始祖の一人、タカミムスビ。

 あたしはごくりと唾を飲み込む。

 

「大丈夫、彼のプログラムはずいぶんと破壊しました。あと少し、あとほんの少しあれば通路を開く事が出来ます。そうすれば貴方たち3人だけでもここから脱出する事が出来る」

 

 そう言ってツヌミはリストバンドから幾本ものコードを伸ばし、周囲を彩る漆黒の壁に突き刺した。

 

「……先になんとか中枢部への通路を開きます。そこには、始祖がいるはずです」

 

 暗闇に、幾度も閃光が走る。

 ツヌミが、メインコンピューターのタカミと――始祖タカミムスビと闘っている。

 

「ナギは死に、タカミはここに。残りはナミのクローン体、ムスヒの『幻影』、そしてミナカヌシの『頭脳』」

 

 背を向けたツヌミの表情は分からない。

 でも、紡いだ声はとても苦しそうだった。

 

「もう少し……あと少しで本体に……」

 

 ぱりり、とツヌミの周囲を爆ぜる閃光が取り巻く。

 でも、あたしには何も出来やしない。

 見ていることしか出来ない。

 なんて悔しい。

 

「……ミコト、ヨミ、テラス。3分の間に、ここよりさらに下層にある扉に向かってください。貴方達が到着するまでに……開いて見せますから」

 

 震えてはいたが、強い言葉だった。

 迷いのないツヌミの姿がそこにはあった。

 

「分かった、急いでそっちに向かう……頼んだよ、ツヌミ」

 

 ヨミはそう言ってあたしの手を取る。

 ミコトは何か言いかけたが、ぐっと口を噤んだ。

 あたしにだって言いたいことはたくさんある。

 でも、ここにいたってあたしは何の役にも立てないんだ。

 

「行きましょう」

 

 そう言って背を向けた時、ツヌミのうめき声が聞こえた。

 思わず振り返る。

 漆黒の中にツヌミの髪が靡く。風もないのに、靡いた。

 大きく仰け反ったツヌミの中を電流が駆け抜けたのが見えた。

 リストバンドからのびたコードがまるで彼の両腕を束縛するかのようにぴぃんと張られ、それに引っ張られたツヌミは磔にされた罪人のような姿でその場に立ち尽くした。

 

「ツヌミ!」

 

 何も考える時間などなかった。

 思うより先に足が動いていた。

 力の抜けた彼の体が、光ない床に崩れ落ちる前に。

 あたしはその下に滑り込んだ。

 ツヌミの体を受け止めたその瞬間、あたしの全身を開放系第2段階の雷が貫いたような衝撃が襲う。

 

「きゃああっ……!」

 

 思わず迸る悲鳴。

 が、唇をぐっと噛みしめる。

 

「ヨミ! ミコト!」

 

 飛びそうな意識に逆らいながら叫ぶ。

 

「お願い、コードを切断して!」

 

 ほとんど悲鳴のようなあたしの声に、二人が即座に反応する。

 

「トツカ!」

 

「ハクマユミ!」

 

 まるで目の前で幾千幾万の電飾が一斉にフラッシュしたかのような感覚の後、ふいに電撃の痛みから解放された。

 

 


 
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