邪なる王を討つ! 優しい父母に育てられ、暖かな人々に囲まれて育ったある男は王の放った軍勢によって村を焼かれ、見知った多くの人々を失って彼をその仇討ちに追い立てた。子供の頃より兄弟の様に暮らした一頭の栗毛馬だけを連れ、彼は旅に出る。世界の各地を奔り、邪なる王を探し、これを斃して仇を取る為に。
彼は走った。奔り、奔り、あちらこちらで仲間や同志を得た。そして彼は、邪なる王が人を寄せ付けぬ孤島に城を築きそこで自らの支配する人々を苦しめ続けていることを知った。各地で邪なる王の僕と戦いこれを討ち、邪なる王の妄動を撥ね退けて来たこの男はしかし、この王の住まう城を攻めあぐねた。海路を渡ろうとすれば王は邪悪の鳥人共に船を沈めさせる。彼と仲間たちとてその為に一度は海原に沈むところだった。
邪なる王は時に空から刺客を差し向ける。しかし一介の人の子に過ぎぬ彼には翼がない。仲間たちも、孤島へ彼らを渡す程に飛ぶことの叶う者などいなかった。噂に聞く発明家を頼り、気球を借りて飛べどあえなく撃ち落され、その為に仲間を喪ってしまいさえした。
幾晩も過ぎた。無力に邪なる王の手先を撥ね退けるだけの日々が。彼は懊悩し、仲間たちの元を離れ外に立った。星空だけが彼を無言で見下ろしている。その風だけが語る静寂に彼は耳を傾けた。ただ、無力に荒ぶ自らを癒す為だけに。
突然のことだった。邪なる王の刺客が不意打ちを仕掛けて来た。彼は自らの懊悩の為に後れを取った。刺客の槍がその脇腹を刺し貫くところへ、割って入った影があった。彼の愛馬は身を挺して主、いやそのはらからを守った。怒りに燃えた彼は刺客を逆襲し討ち取った。しかし彼は戦いの興奮など目もくれず愛馬に駆け寄った。言葉なくとも彼には、己が分身が赤子の頃より背に乗せて駆けた若者を守り抜いたことに満足していたことを見て取った。最後の嘶きと共に風は絶え、辺りをしじまが覆った。若者は涙を流し、一晩ずっとその屍に寄り添っていた。
彼は仲間たちの元に戻った。痛恨事に遭いながらも涙を見せないその姿を人々は心配した。周囲の心配をよそに彼は次なる旅路の先を見出した。海を渡れぬなら地の底を抜け、その城の膝元に辿り着く。人々の憚る地の底へ通じる穴を、彼は抜けるとした。半ば狂っていると彼は周囲に止められたが、聞かなかった。むしろ、自分独りで道を見つける、見つけたら皆に知らせるからと言い、仲間たちに今なお襲い来る邪なる王の軍勢を自分の留守の間頼む、と言付けた。こうされてしまっては誰も反対するとまでは言えぬ。周囲の心配をよそに彼はその穴ぐらへと入っていった。
僅かな灯火は早々に尽きた。光も何もない地中にあって彼は感覚を研ぎ澄ませ、触覚を頼りに地下を進んだ。不気味な静けさ。道も何も分からぬその道をひたすらに進む。折り返すだけの食糧が尽きたのなら戻らねばならぬが、自信を持って引き返すことは難しかった。彼は覚悟を固めて道の先が開けるか、己の死に至るか試すことにした。
誰とも出くわさない真っ暗闇を、ただただ突き進む日が続いた。初めは蝙蝠の鳴き声等はどこかで響いたが、やがてはそれも絶えた。……不意に、視界の先に薄明るい闇を見た。光無き場所に闇が見えるというのもおかしなものだが、彼には確かにそれが闇に見えた。薄い紫がかったそれ。彼は幾許かの期待と緊張を思い抱きながらその闇の元へと歩みを進めた。
視界が開けた。そう理解したのは薄闇が確かに見て取れる色をして辺りを開いていたからだった。そこは一つの回廊だった。一本の整った道があり、その両脇は無限に広がる黒き無が視界の端まで、足元から下もずっと続いていた。道の向こうには祭壇があった。その祭壇には誰かが椅子に座っている様に見えた。彼は吸い寄せられるようにしてその祭壇へと近づいた。
祭壇前には一人の女が座っていた。謎めいた雰囲気を持つ女に彼は話し掛けた。ここはどこなのかと。女は彼を値踏みする様に見た。そして、纏っていた無表情をくしゃっと崩した。彼女の瞳に憐憫の情が浮かんだ。彼女は応えた。ここなるは冥府の浮橋。死者の落ち集うところなりと。
女は続けた。汝は多くのものを失って来たが、今ここに至って自らさえ失おうとしている。言われて彼は己の渇きと空腹を理解した。食べるものなどとっくに尽きていたのだ。帰る道すがら彼は飢えの為に倒れ、人知れず朽ちるだけだろう。女は言った。汝を誘う者数多在り、今ここで汝を引き摺り込まんと欲している、と。女は天井を指差した。そこには今まで討ち取って来た彼の敵たちの幻とその手が伸ばされていた。彼らは怨敵を冥府に引き摺り込みたいが為にここまで浮き出て来ていたのだ。わざわざ自ら足を運んでくれるなら、抱き締め、絞め殺し、そのまま諸共墜ちて肉の一欠けも残さないだろう。
女は更に言った。汝を呼ぶ声あり。汝を日の光の下へ連れ戻したき者共。分けても一頭の馬……そう女が言うと、馬の形をした幻が祭壇さいだんより現れ進み出た。何と云うことだ……彼は言葉を失った。この様な形で我が兄弟と再会するなどとは。彼には兄弟の抱擁ではなく邪なる王へ一太刀突き付けることが望みだった。彼は生きてここを脱したいと云う意思が、今更の様にはっきりと思い出された。
女は告げた。吾、汝が友の望みを叶える用意ありと。理由を訊くと、ここで尽きる汝の定めに情けを覚えたこと、この者の強き望みに従いてこの者に新しい命を与え、汝を運ばせんと欲する故にと語る。しかし、と、女は続ける。死とは生の終わり、生とは死出の旅路。新しく生まれる者須らく新しく世に出づる。死はその為にそれまでの生を洗い溶かし、清めるものに他ならぬなり。なれば、汝と汝が友を結ぶ汝が友の記憶もまた、冥府に置いて行く他はなし。……女の言いたいことを男は理解した。それ故に彼はこの幻影を見つめる。それは定かならぬ像を描きながらも揺るがぬ視線を彼に投げ与えていた。
彼は頷いた。幻もまた頷いた。別れは済んだ、と彼は告げた。女は一筋の涙を流し、頷いた。……闇の中に光が満ちた。彼がそう思って思わず目を晦まし、閉じた瞼が落ち着いて来た為に再び眼前を見ると、そこには一頭の白馬が佇んでいた。その背中に美しくしなやかな一対の翼を生やした白馬が。それが望みなりせば、と女は語り、そしてもう何も言わなかった。彼は白馬の顔に触れた。優しく、確かめる様に。その手触り、その形、ああ、確かにそのままに……彼は感無量だった。白馬はくすぐったそうに彼を見た。その視線は見知らぬ者を見た好奇に満ちていた。彼はむしろ喜び、新しい名前と共に、おいで、と白馬に呼び掛けた。白馬は慣れない様子で彼に従った。男はそうして、まだ誰も人を乗せたことのないその背中に跨った。少し驚かれたが、彼は繰り返し白馬を宥め、白馬もまた素直に従った。一度軽く振り返って男を見た。不思議と、他人の気がしない。そんな言葉を彼は思い浮かべた。……男が掛け声を上げた。白馬は嘶きと共に跳んだ。そしてその見事な翼を羽搏かせ、数多の手が伸びる天井へと飛び込んだ。幻影は風の切り裂きと共に悉くが消え散った。天井はなかった。ただ彼方に小さな輝きを示し、そこに帰るべき世界が待っていることを示していた。二人はなおも絡め捕ろうとする幻影を切り裂いて、風の速さの様に空を駆った。そうして奔り抜けて行く姿を、女はじっと見上げていた。
日の下の世界に戻った彼は仲間たちの元に戻り、多くを語らず、ただ今度こそ本懐を果たすべく行くことを告げた。仲間たちは帰還した彼を驚きつつも激励し、その背中の心配を預かることを引き受けた。こうして、邪なる王とそれを隔てる海に一頭の天馬が駆けた。邪なる王の手先が勇んで迎え撃ったが、その速さに悉くが敗れた。城に降り立ち彼は、幾星霜と望んだ宿敵を初めて見た。それは子供の姿をしていた。癇癪を起こした子供の姿を。
世界に平和が齎された。邪なる王の軍勢はその主君を討たれ、最早烏合の衆となり散り散りになるだけだった。王を討った勇者の帰還を人々は待ち侘びたが、彼は姿を現さなかった。仲間の一人が真実を確かめるべく船を出し、王の孤島へ向かおうとした。その時、突然雷雨が訪れ、瞬く間に世界を雨に濡らした。雷雨は忽ちの内に去った。その後に青空が広がり、そこに大きな虹が掛かった。空を見上げた仲間は見た。その虹と共に天馬が彼方より嘶きながら空を駈ける姿を。その背に乗る者の姿を。天馬は虹の頂点に達し、そのまま空の彼方へと走り去って行った。後には、いつまでも虹の橋が海と陸地を繋いでいた。
約三五〇〇字。二〇二三年五月十二日完成、最終更新二〇二三年十月十三日