男が居た。男は童貞だった。然したる感情もなく生きて来て三十歳になった。彼は日々感動もなく働いていて、流れる歳月と自身の身体の成長をぼんやりと凡庸に眺めていた。彼は、自らを幸せとは思わなかった。人を見ていて、彼らが幸せとも思わなかった。
或る土曜日の三時、彼は午睡を打ち切って忽然と起きた。彼は不愉快だった。彼の男根は苛立たしく勃起していた。然したる訳もなく街に出て、辺りの通りをぶらぶらと歩いた。街並みはどこか閑散としていて、駅の看板や立ち並ぶビルディングの太陽光を受けて白く輝く
アーケードをくぐって不毛な歩みを続けていた時、道端に一人の女を見た。色気のない恰好をした、そこに立っているだけの様な女だった。彼はおもむろに女の元へと歩いた。女の前で止まって、彼女の視線を受け止める。女は
「セックスさせてくれ」
見知らぬ男からのこんな
「いいよ」
女はこう言った。二人は街の片隅にある
何があったのか良く分からない様な日が終わった後、彼の見える世界は変わった。職場での彼はそれまで口数も少なく同僚との会話も少なかった。彼は話し易くなったと言われた。自身でそうと気が付くのはその時だった。親しみやすくなったとも言われた。彼にそうだと云う感覚は無かった。
人々と話をする。人々は自分と関わって喜ぶ。彼自身は、なおも自らを幸せと思わず、彼らを幸せとも思わなかった。人々は自らを幸せと信じていることを読み取ったが、彼は自分の見立てを誰かに話すことはしなかった。内心の
月日が経つ内に、彼は一人の女性と交際する様になった。傍目に美人で心根の良い彼女の
彼は彼女に決してきつく当たったりして失望させる様なことはしなかった。見事な望みに対する返答を生み出し続けた。堂々巡りを繰り広げる内心を誤魔化しながらも自分の女を、将来を考える相手を大切にし、今住まう現実が崩れたりせぬ様に努めた。誰も二人を疑わず、彼女もまた彼を疑った試しがなかった。そこで彼女は言うのである。私たち、幸せよね。彼に一瞬ひらめく人間並みの
二人の間において特に彼女の側が痛く気にしていたのが、未だ肉体関係の無いことだった。大切にされていることは確かなのだが、これを女は古典的な貞操観念とは見做さなかった。何かが彼の心を掴むに至っていない。そう考えて、或る祝日にホテルでの夕食に誘った。……男は一も二もなく応じた。彼の心の内は空っぽで、意識がそれに対して懊悩を続けていた。よくもまあこの夕食で彼は何一つ彼女に対して失望を覚えさせなかったことだろう! 彼自身は何とはなしに恐れを覚えていたのに、それを誰かに感じさせることはついぞ無かった。彼女は安心して、今晩の宿を取ってあることを伝えた。
翌日家に帰った男は熱を出して仕事を休んだ。上の空の感覚の中で思い出せるのは彼女との肉感ばかりで、その肉感はあの日の女の肉感を思い起こさせ、感覚が
熱が収まって、日常に回帰する。やがてはこの女と結婚して家庭を持つ。この感覚に何の価値も彼は見出せなかった。代わりにこの熱を経て、何の為にこの様な苦悶をせねばならぬのだろうか、と云う懐疑が沸き起こった。彼女が原因なのか、と自問すればそれは違うと彼は考えた。彼女でなくとも彼は懊悩し苦悶する立場に置かれることが容易に想像出来たからだった。彼は一度独りになりたいと思ったが、彼女は逆にいつでも二人で居たいと云う態度が明らかだった。そして彼は懊悩していたが、彼女を重荷と思ったことはこれまでにも一切無かったのである。
一日だけ彼はささやかな独りの時間を得た。彼は街を流れる川沿いの路を歩いていた。フェンスにもたれかかり、晴れ渡る青空を見上げた。幸せを感じはしなかったが、この時ばかりは何かにさいなまれる様なあらゆる感覚から無縁でいられた。すぐ傍には公園があった。子供たちが遊んでいる。黄色い声を上げる子供ら。彼はやはり然したる感情を覚えなかった。ただぼんやりと眺めていた。……おもむろに、女が隣りに現れ、フェンスにもたれかかった。その顔には見覚えがあった。彼はこんな偶然もあるのかと驚いた。女はちらと男を見た。かすかに笑って、そしてこう言った。
「私の子供もあそこで遊んでいるよ」
……男は思ったのだ。これは復讐か? それとも一種のユーモアだろうか?
「その子は?」
「あれ。あなたに良く似ているでしょ?」
「俺の子なのか?」
「あなたの他に思い当たる節はないよ」
少しばかりの沈黙が漂った。女はあの時よりも遥かに豊かな表情をしていた。皮肉なことに、男もまたあの時よりも豊かな表情をして居られた。この時彼は動揺一つせずに、世話話をする様な顔をしていた。何一つ不自然などなく。
「俺に責任を取らせるのか?」
「どうでも良いかな」
二人の後ろを車が走り抜けた。……何も、起こらない。何も、変わらない。男は自分の内側にあった何かが氷解する様な感覚を味わった。これからはもう、思い悩まずに済むのだろう。
「一つだけ訊いて良いか」
「なに?」
「お前はあの時、何を思っていたんだ?」
女の表情は少しきょとんとしていた。それを覗き込んで、男は女が少しだけだが確かに老いているのを認めた。それは同時に、己もまた老いていることを確信させるに十分だった。女は言った。
「現実に横たわっているんだな、と。それだけ」
「そうか」
二人の会話は途切れた。昼下がりが夕焼けに変わる頃、女は子供を連れていずこかへと姿を消した。男はそれを見届けて、帰路に就いた。家に着いて迎えに出て来た彼女に対し、虚無ではなく虚心に、ただいまと初めて言えた。
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約三五〇〇字。二〇二〇年五月九日完成、最終更新二〇二三年十月九日