稜線の付近に丁度風雨をしのげる程度の窪みを見つけ、そこで冷たい風雨を避けて一息ついていた男は、唐突にその身を貫いた悪寒に身を震わせた。
背骨を引き抜かれでもしたかのように、急激に背筋から力が抜け、総身から冷や汗が噴き出し、顎が壊れたかと思う程に上下の歯がガチガチと耳障りな音を立てる。
座っていたのが幸いだったというべきか、目の前が急激に昏くなり、頭がふらつく。
男は逃げる熱を押しとどめるように自らの体を抱きながら、頭の重さに耐えかねたようにその身を横に倒した。
覚えのある症状としては霍乱(熱中症)に近い……だが、この寧ろ寒冷な山でそれは。
(ご主人様!)
「……う……ぐ」
言葉が音にならず、喉からは苦鳴だけが漏れる。
心臓が不規則に脈打ち、意識が飛びそうになる。
(呼吸を整えて!)
蜥蜴丸の声が、男の意識を何とか繋ぎ留めてくれる、その声に従い、彼は荒く不規則になっていた呼吸を何とか鎮めた。
(次いで、体内に真気を満たし、この地の気と己を切り離す!)
「ああ……」
あまり調息法は得意ではないんだが、そうも言っていられない、いう事を聞かない体を叱咤しつつ、蜥蜴丸に教え込まれた呼吸を始める。
どうしても戦で負ってしまう傷を癒し、毒素を清める、仙術や一部の武術の流派に伝わる調息法。
体内の普段意識しない場所に意識を凝らす。
肺の下、内腑の奥にある筋に力を及ぼす。
普段意識せぬ腹中に神経を働かせ、その辺りに力を加えて行く
腹の皮が背に付く程に、静かに長く、体内の濁った気を余さず吐き出していく。
吐き切ったその空白に、世界の気を取り込む。
そうして、体内に満ちた悪い諸々を希釈し、吐き出し、吸い、希釈していく。
荒々しかった心臓の拍動が、次第に収まる。
(結構です、今なら私を呼べますね)
その声に応え、男はまだ辛い息の下から何とか声を絞り出した。
「頼……む……」
(承知)
その言葉と同時に体の隅々まで彼女の力が満ち、嘘のように悪寒が消え去った。
冷や汗を拭いながら、男は横たえていた身を起こした。
「ありがとうよ蜥蜴丸、助かった……しかし不意打ち気味に来られると、お前さんを呼ぶ余裕すら無いもんだな」
(我が身の未熟ゆえに、申し訳ありません)
「未熟はお互い様、割れ鍋に綴じ蓋って奴だ、気にしなさんな」
憑神の術は、式姫を使役する術の一形態。
いずれ蜥蜴丸が式姫としての本来の力を取り戻していけば話は変わって来るだろうが、現状では、男が術者として意識して己の体を蜥蜴丸に使わせようとしない限り、その力を主に貸し与える事は出来ない。
さりとて、憑神の術を常に維持しようとするのは、異なる魂に体を使わせる男と、蜥蜴丸双方に相応の負担が掛かり続ける。
何か事が起きた時、出来る限り短時間、適宜使うしかない術。
「不意打ちへの対応は今後の課題だな……しかし、一体何が起きやがったんだ」
(何が起きたかは判りかねますが……)
そう呟いて、蜥蜴丸程の式姫が軽くその身を震わせた。
(何と申し上げれば良いのか、あれは瘴気の塊、いえ……濁流)
……困りました、上手く形容する言葉を持ちません。
言葉にし辛い感覚に、蜥蜴丸が頭を振る。
「そうか、いや、濁流という表現は食らった俺には何となく判る、穏やかな川のほとりで休んでたら鉄砲水に巻き込まれた感じだな……つまりこの異様な瘴気は、山の地脈を流れて来たって事か」
それまで清浄の気に満ちていた仙人峠が、今やに黄泉平坂の如き瘴気に満ちた地に変容していた。
(ええ、しかもご主人様は無意識ではありますが、常に式姫の庭へ、あの中央に聳える大樹へと繋がろうとする力をお持ちです、逆に言えば普通の方より地脈の変化に引っ張られやすいとも言えます)
今回はそれが災いしたというべきか、彼は仙人峠の尾根を伝わる龍脈を流れてきた瘴気の濁流を、一瞬で大量に体に取り入れてしまった。
並みの人間ならば、その衝撃で絶命していてもおかしくない程の死の汚れ。
「そういう事か……何事も良いだけの話はねぇもんだな」
式姫の庭に聳える天柱樹と彼の体は一体と言って良い繋がりを有しており、常ならばこれだけ離れた土地でも地脈を通じて彼に力を与え、彼はその力を周囲にいる式姫に分け与える事ができる。
「それはそれで困った話だな、清濁併せ呑むなんて真似が出来ねぇ若造としては、美味しい所だけ頂戴したいもんだが」
(その辺りの力の御し方は、何らかの法術の修行が必要かと)
「修行ね」
人生、何かやりたい事が出来る度に常に修行が付きまとうもんだな。
(残念ながら、そちらの修行に関しては、私ではお力になれません、恐らく鞍馬殿なら何か適切な法をご存じでしょう)
「そうか、帰ったら尋ねてみるとしよう」
しかし、一体この瘴気は何だったんだ。
そう言いながら、窪みから顔を出した男は、眼前の光景に言葉を失った。
彼がここまで登ってきた、比較的開けた山道が炎に包まれていた。
まだ、男が今いる場所までは結構な距離があるが、あの火勢では程なく彼も火に巻かれる事となろう。
どうする……火を突っ切って下山するか、それともこのまま稜線上で待機するか、まだ火に巻かれていない様子の山頂に向かうか。
敵が出るかもとは聞いてたが、山火事の話は聞いてねぇな、と低く呟いてから、男は蜥蜴丸に意識を向けた。
「……どうだ、多少の火傷は覚悟するが、この火の海突っ切って行けるか?」
(自然な火の海なれば、我が力で耐えてみせましょう……ですが)
男の手が蜥蜴丸の束に掛かり、体が低く沈む。
火の海から逃げるというより、臨戦の構えを取った蜥蜴丸に、男は訝し気に声を掛けた。
「どうした?」
(ご主人様、これは自然の火ではありませぬ)
全山燃えるような、と言えば紅葉の美を愛でる言葉にも聞こえようが、これはそうでは無い。
文字通りの炎が、何の前触れも無しに仙人峠を覆い尽くす。
それはさながら、唐国の伝承に見られる、牛魔王の住まいし火炎山の如き様。
麓で待機していたおゆきと仙狸が、自分が眼前にしている光景を信じかねた様子で目を瞬かせた。
「何じゃこれは……山火事?」
さしもの仙狸が、炎に包まれた仙人峠を見上げて呆然と呟く。
それに同調しかかったおゆきだったが、流石に山神の一人である、直ぐにその異様さに気が付いた。
「……いえ、違うわ。 見て、熱で巻き上がる筈の煙や灰が見えないし、炎による空気の揺らぎも無い」
おゆきの言葉に仙狸は心を静めて、もう一度その炎を鋭い目で見上げた。
確かに彼女の言った通りだ、炎の動きも色も真に迫るものだが、熱による空気の揺らぎも赤い炎の間に混じるべき煙も見えず、そして彼女の鋭敏な耳は、これだけの大火に伴うべき、焼けた石が不快に軋り木が爆ぜる音が一切立っていない事を確かめた。
「幻術だというのか……じゃが何故」
幻の果たす役割はいくつかあろうが、突き詰めれば、あれは人を欺き、術者の期待する方向に意識を誘導する為の術。
「山に一切の存在を立ち入らせない為の脅しかしら」
「お主が、妖の進行を止めるために国境を全山凍結させ、人も妖も一切の立ち入りを阻んだように……か?」
仙狸の言葉に、おゆきが微妙に渋い顔で頷く。
「ええ、そう考えるほうが自然じゃない?」
「お主の言う事も尤もだとは思うんじゃがな、あの仙人峠じゃぞ……排除せにゃならん程、誰が好き好んで登るんじゃ、あんな恐ろしい山」
更に、あんな山に登ろうなんぞという他にやる事も無くなったような修験者なら、全山火に包まれておったら、逆に嬉々として不動明王の真言でも唱えながら登りに掛かろうよ。
「……それもそうよね、でも、それじゃ何で」
「さてな、人の立ち入りを阻む用途で無いなら、やはり現在の侵入者に対応する何らかの防備、もしくは攻撃と見るべきじゃろう……だが」
相手は式姫、実際の炎なれば兎も角、幻で阻めるような相手ではないし、そんな事は先方も承知であろう。
解せぬな。
仙狸が納得できぬ様子で首を振る。
この良く分からぬ炎が仙人峠のほぼ全域に及んでいるのは、麓から見上げる彼女たちには良く分かる、使われている力は尋常な代物ではなかろう。
相手が、油断ならぬ知略を巡らせる強敵であるのは間違いない……これだけの力を振るって、大した効果も期待できない事をするとは到底思えない。
何かあるのだ、この熱も音もない幻の炎には、下から見ているだけでは分からぬ何かが。
「……おゆき殿、いずれにせよ看過は出来ぬ、どうやら軍師殿の言う『あまり考えたくない状況』のようじゃ、わっちらも動くぞ」
仙狸の言葉におゆきも無言で頷き、二人は何処へとも無く駆け出した。
「火攻めか!」
さしも豪胆な紅葉御前も、自らの周囲をいきなり包んだ炎に、一瞬気を呑まれる。
逃げ道の少ない狭い道に、油でも流されて火計でも仕掛けられたか。
ふっと浮かんだそんな考えを、彼女の感覚が即座に否定した。
「熱くねぇ……」
これだけの炎が身に迫るというのに、熱風が来ない、寧ろ紅葉御前の背筋すら凍らせるかの如き冷ややかな気が周囲を包む。
その不自然さが、紅葉御前の頭をすっと冷やす。
これは自然な炎では無い、この燃える物など殆ど存在しない荒涼とした岩肌しか持たない場所では、例え油を流したとしても、これだけの炎が瞬時に立つなどありえない。
そして彼女を取り巻くように周囲に迫る炎の動きの不自然さ。
それは、尋常な炎では無かった。
煙なく、音なく、匂いも無く、熱も無い。
異常な炎、だが実のところ、山の民たる彼女は、山中でそんな自然ならざる炎を目にする事はままあった。
天狗の提灯などと呼ばれる、山中で彷徨う杣人や里人らを天狗が里まで導いてやるために木々の枝先に呪の灯火。
妖となりし狐が青白く灯す狐火。
死した獣の肉体が腐敗し、立ち上る瘴気が微かに燃やす燐光。
荒れた雷雨の日、闇夜に蓑笠を光らせる蓑火。
(だけど、こいつはそのどれでも無い)
今自分に迫るこれは、それらの不思議の炎とすら一線を画する代物。
ただ、この炎は虚ろな光を炎のようにゆらゆらと漂わせるだけではない、まるで、自然の炎が燃え広がる様を不格好に真似たかのように、ゆっくりと動き拡がっている。
自然の炎は風や燃える物を伝い拡がっていく、だが、これは違う。
じわりじわりと、その炎が自身に迫ってくる気配を強く感じる。
この炎が求める物は。
忌々し気に、紅葉御前は低く唸ると、周囲を見渡した。
僅かに地を彩っていた草、強風に負けぬように低く地を這っていたそれが、この炎に包まれたと見るや、徐々に萎み枯れ果てていく。
「……こいつぁ、まさか」
この炎は、命を……その熱を逆に奪うのか。
そして今、この命の気乏しき山に有って、最大のそれを求め、幾重にも重なり、大火の如くなりながらひしひしと迫ってくる。
式姫の命と力、世界でも最上のそれを求め、ひしひし、ひたひたと。
「冗談じゃない、こんな辛気臭い山火事に巻かれて死ぬのは真っ平だよ」
紅葉御前は油断なく目を配りながら、蝦蟇と共に地に落ちていった大戦斧の代わりに、腰に下げていた手斧を構えた。
手斧と言っても、どちらかと言えば、武器というより山歩きで枝を払ったり、薪を割ったりといった、山歩きや日常の用に供するための道具でしかない。
牽制を兼ねて、彼女は一歩踏み込みつつ、手近な炎をその手斧で薙ぎ払った。
だが、それらは手斧の巻き起こした風に少し煽られたかのように、少しその炎を小さくしつつ下がっただけで、再び彼女を包囲するように動き出した。
「大して効きゃしないか……だが」
斧で切り付けた時のそれとは違うが、僅かな手ごたえはあった。
鉄の刃のそれではない、彼女たちが戦の折にほぼ無意識に使う気の力。
恐らくだが、紅葉御前に内在する生者の気はこいつに対抗しうる力となるのだろう。
そして、それは、この炎のような代物が、彼女を包囲しつつも、最後の一線を越えてこられない現状も説明してくれる。
とはいえ、斧で一発ぶっ叩いても蹴散らせない相手となると、彼女としては最前のガマの相手より余程に骨が折れる相手。
はぁ、とらしくないため息を一つ吐いて、彼女は小さく独り言ちた。
「どうにも参ったねこりゃ、ごめんなさいするのは性に合わないんだけどねぇ」
■蜥蜴丸
憑依はゲーム中に実際に存在してました、式姫に式姫憑依させると防御特性やステータスの何割かを追加出来るという、結構楽しいシステムでした
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