あっという間だ。講堂から去る卒業生の列を見送って、その列の中に粛々と収まっている赤い髪を見つけては目で追っている自分に気付く。あの人がこっちを見たらどうしようなんて思っていたけれど、ついぞそんなことはなく卒業生諸君は無事全員が姿を消した。
この学園で見る二度目の卒業式、そして在校生としては最後の卒業式になる。あと一か月もしたら、今度はここに今出て行った卒業生のネクタイと同じ色をした新入生がやってくる。学校ってやつはそうやって新陳代謝していくものだ、そしていつか、ここに八神先輩がいたことも忘れられていく。もうあの踊り場や渡り廊下にも、薄暗い部室棟や校門のどこにも先輩はいない。多分おれも一年かけてゆっくりと忘れていくんだろう、そうであればいい、教室に戻る間クラスメイトと期末テストの話をしながら、おれは努めて晴れやかな笑顔を作る。本当は、笑っているのが少しだけつらかった。
どうやらおれは、あの日おれを追って来なかった先輩のことを相当根に持っているらしい。他人事みたいに言ってしまうのは、このモヤモヤした気持ちが〝根に持っている〟からなのか、それとも別の感情から滲み出てきたものなのかがはっきりしないからだ。
実際、式を終えたあとも周囲に先輩の影はない。教室で明日からの授業についての説明を聞いている間も、廊下にあの人がいるんじゃないかとよからぬ想像をしては膝頭に爪を立てた。ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴っても、やっぱりあの赤色も黄色い声もおれの傍から消えたままだった。
制服を着崩してから出てきた玄関先には、卒業生を見送る在校生の群れがひしめきあっていた。人気のある先輩たちはそれぞれもっと広い場所で追っかけの子たちを集めたり、もしくは喧噪を避けてさっさと下校したりしていて、今ここにいるのはどちらかと言えば普通の生徒たちだけだ。
おれたちもご多分に漏れずその〝普通〟の中にいて、顧問を含めた部活の連中が卒業していく先輩たちを囲んでいた。「追いコンでももらったのに」と笑いながら花束を抱える元部長や、どうやら後輩の部員たちから想いの籠った手紙をもらったらしい女子部の先輩は思わず涙を流している。
「陸上部のこと、頼んだぞ」
「任せてくださいよ、なあ矢吹」
「何でおれに振るんだよ、まあ……おれも頑張ります、インターハイも絶対出て見せますから」
4月早々春休み中から陸上部は春季記録会がある、5月の本選までそんなに時間もないしそれこそ余計なことを考えている暇なんてないんだ。
走ろう。走って、誰よりも速く走って全部ブッちぎってやるんだ。誰も追いかけてなんかこない、おれの後ろにはもう誰もいない。無意識に握り込んでいた拳が震えている、気合十分だな、と肩をたたく元部長は実に晴れやかな顔をして学び舎を去っていった。
「俺らも帰るかあ、矢吹何か予定ある?ないなら飯でも行こうぜ」
「いいけど、今どこもかしこも卒業生だらけじゃないか?」
「あー……そしたら今日はやめとくかあ」
せっかくの半ドンだけど、結局今日の主役はどこまでいっても卒業生ってことだ。飯食って暇だったらウチ来いよ、なんて言われて曖昧な返事を返して帰路につく。帰って昼寝でもすれば少しは気持ちも晴れるだろう、目が覚めたらそこできっぱりと線が引ける気がして鞄を背負い直した。
……その時、物陰から急におれの前に飛び出してくる人影が現れる。メチャクチャびっくりしてしまって「うわあ!?」なんて間抜けな声を出しながら仰け反ると、そんなおれの両肩にがっしりと添えられる両手がある。黒いライダースグローブを嵌めた手は、指先が肩に食い込むくらいに力強くおれを捕まえた。
「ナイスタイミングだぜ真吾!」
「いって……く、草薙先輩!?帰ったんじゃ……あいだだだだだ!!」
ものすごい力で食い込む指先に膝が折れる、だけど草薙先輩はそんなのお構いなしで今度はおれの背中をバンと叩いた。矢継ぎ早に襲い来る草薙先輩からのかわいがりに面食らっていたら、視線の先にはますます面食らうような光景が迫りつつあったから絶句してしまった。土煙すら立てて無数の足音が近付いてくる。5人、10人……ざっと20、いや50人はいるんじゃないか!?約2クラス分の女生徒の群れがこちらに向かって驀進してきている。目当ては……言わずもがなだろう。草薙先輩はもう一回おれの背中を叩くと、背後の集団を親指で差しておれに無理難題を吹っかけてきた。
「おいアレ撒いてくれ、俺駐輪場行ってバイク乗って帰っから」
「え!?ちょ、草薙先輩!?」
おれの答えも聞かずに草薙先輩は脱兎の如く逃げ出した。残されたおれは他でもない草薙先輩の頼みを断るわけにもいかなくて、ただそこで仁王立ちをして追っかけ集団を迎え撃つ。撒くことはできなくても時間稼ぎくらいにはなればいい、すう、はあ、と深呼吸してから刮目すると、鬼気迫る表情で各々何かしらのプレゼントを携えた女生徒たちがおれの前で隊列を成して立ち止まっていた。
「ちょっとアンタ、京サマ見てない!?」
隊長格らしい女性との胸には花の飾りが付いている、ってことは彼女も送られる側の卒業生のはずだが、自分のことよりも草薙先輩に会うのに必死らしい。見れば同じような卒業生がちらほらいて、みんな一様に思い詰めてすらいるような顔をしていたから何も言えなくなってしまった。
この人たちだって、最後だから、卒業してしまうから大好きな人に気持ちを伝えようと思ってここまで来たんだろう。それなのにおれは何をやってるんだ、追ってこなかったわけじゃなくて、逃げてたんじゃないか。ずっと、ずっとずっとそうだった。
もう一度深呼吸をして、おれは意を決してある方向を指さした。それは天高く空を突くように高々と示されて、上を向いた彼女たちにいけしゃあしゃあとおれは告げた。
「草薙先輩なら屋上に行きましたよ!!!!」
「屋上……もしかして誰か抜け駆けしてるんじゃないですか!?」
「急ご!行くよみんな!」
拍子抜けするほどあっさりと上手くいった。おれの嘘を鵜吞みにした追っかけ集団は、『隊長』の指示通りに校舎の中へと戻っていく。駐輪場のほうからナナハンの排気音がしたことには、誰一人として気付いていなかった。
辺りはあっという間に静謐に包まれる。屋上に行ってもぬけの殻だったらあの人たちすげー怒るんだろうなあ。最後の最後に気持ちを伝える機会を、おれは奪ったってことになる。それでいいのかどうかはわからないけど、おれは草薙さんの言いつけを守っただけだから、と嫌な言い訳をしてその場を離れた。ふいに、こんなやり取りをいつかあの場所でしたことを思い出した。だけどもうどうでもいいことだ、ここに彼はいない、もういないんだ、どこにも。
「探したぞ」
さっき草薙さんが飛び出してきた物陰から、今度は赤い何かが現れる。不思議と驚きはしなかったし、むこうも驚かせようとしたわけではないだろう。ただ、嘘だと思った、悪い冗談だと思ったんだ。まさか目の前に……八神先輩が現れるだなんて。
「……嘘だろ」
「嘘なものか、俺は何時だって貴様に本気だっただろう」
思わず声に出してしまうと、それを揶揄うような言葉が返ってくる。挑発的な角度の唇に、この間のキスが思い出されてヒリヒリと痛くなる。本気ならどうしてあの日おれを追いかけてこなかったのかと、ずっと逃げていたくせにまるで拗ねている子供みたいなことを考えては頭を振った。そんなの今言ったって仕方ないし、こんな気持ちになるのも今日で終わる。おれは目の奥が痛くなるのを隠すために、とても意地の悪い笑顔を作った。
「先輩も、追っかけられてるんだと思ってました」
「全員とっとと帰した。惚れた相手に告白をするから、邪魔をするなと言ってな」
「告白って、そんなのいつも……」
眉間に皺を寄せてから、先輩が言う『惚れた相手』がおれのことだと疑わなかった自分自身に腹が立った。きっと相手がおれでなくても腹が立つんだろうと思ったら何て身勝手なんだって自分が嫌になる。八神先輩は、居た堪れなくなって顔を背けているおれの前にしばらく仁王立ちしていたが、一歩前に出たと思うと半ば無理矢理に両腕を伸ばしておれを捕まえてきた。
「真吾」
「だ、だから、告白って、こういうんじゃないんじゃ、ないですか……っ!?」
「好きだ、真吾、お前が好きだ」
俺の耳元で、震える喉から絞り出すような声がした。何度も聞かされたお決まりの台詞が、今日はやけに胸を抉る。ぎゅ、と先輩の指が俺の背中に食い込んで制服をしわくちゃにしていくのに、おれの腕は手繰るものを選べないまま宙ぶらりんになって、ついぞ先輩の背中に回ることなく垂れ下がった。
何度も繰り返される先輩の『好き』って言葉に嘘はない。本当に本物の『好き』で、おれはそれが嘘や揶揄いや紛い物だと思ってことは一度だってなかった。じゃあ、おれはどうしたかったんだ?良いも悪いも言わずにただ八神先輩の『好き』を弄ぶような真似をして、逃げて真正面から受け止めようとしなかったおれは一体どうしたらよかったんだ?
「答えは、言わなくていい」
先輩はずっとずっとそうだった。おれに『好き』だと伝えることが出来ればいいと、目の前におれがいるのにまるで独りよがりの片想いを二年も続けている。赤い前髪がおれの頬を撫でて、その跡をなぞるように綺麗な指先がおれの輪郭をなぞっていった。
「此処で会えて良かった、達者で暮らせ」
頬を滑り落ちた指先がとうとうおれから離れていく。寂しそうに笑った八神先輩は踵を返して学園から立ち去ってしまうから、おれは遠ざかる背中を見ていられなくて顔を伏せた。
……先輩は、きっともう諦めたのだろう。おれを追いかけても仕方がないと、捕まえたって何かがあるはずもないと諦めてくれたんだ。それならそれでいいじゃないか、もう煩わしいことは何もなくなる、入学早々失った穏やかな学園生活がようやく戻ってくるんだ。おれのことが好きだなんて大真面目にのたまうあの先輩の存在と引き換えに。
「……先輩」
いいのか?本当に、会えなくなるんだぞこれからずっと、卒業しておれの知らない場所に行ってしまうんだぞ、あの人は。
もうこの学園のどこを探したってあの人はいない、教室にやってきてはおれを連れ去ることも校門の前で待ち伏せしていることもない。自分の『好き』だけ押し付けて、おれの答えなんかどうだってよくて、メチャクチャ身勝手におれの前から消えてしまう。
そしておれは……おれは先輩が答えを求めないことに甘えて、自分の中でとっくに出ている結論を先延ばしにしてきた。向き合えたはずの感情から逃げて、言えたはずの言葉をずっとずっと意地を張って飲み込んでいた。
だったら今言えよ、今言わなきゃ全部消えちゃうよ。なあ、先輩、頼むからおれの返事を聞いてから消えてくれよ。
「あの!!八神せんぱ」
顔を上げたときにはもう、そこには誰もいなかった。ぎゅっと握った拳の中で、自分の指先が掌を痛いくらいに抉っている。それがそのまま胸の痛みに変わっていくから、居ても立ってもいられなかったおれは八神先輩が歩いて行った方向目掛けて走り出していた。
先輩は学園内のどこにもいなかった。帰ったのかと思って周辺を走って探したけど見つからない、あんな派手な人どこにいたって見つかるはずなのに。
本当に消えるなんてアリかよ、走ったら汗が止めどなく出てくるから思わずブレザーを脱いで脇に抱えた。
もう、諦めよう、向こうがこっちを諦めたんだからそうすればおあいこだ。初めからこういう運命だったんだおれたちは、こういう、つまんない意地張って全部ダメになる運命だったんだよ。
青空を仰いで大きく溜息を吐く、諦めなくても済んだはずの感情であることもたぶん忘れられると思う。時間はあるんだ、嫌ってほどに。
そう思ってブレザーと鞄を纏めて持ったまま校門のほうへと歩き出すと、玄関辺りで見知ったグループがたむろしているのが見えた。間違いない、八神先輩の取り巻きの女子たちだ。普段なら避けて通る集団に向かっておれはどんどん歩み寄ると、こっちに気付いた彼女たちも怪訝な顔をしておれを見た。
「すいません」
「えっ……?」
「もしかして、ですけど、八神先輩のこと待ってます?」
「だったら何?」
「おれも……探してるんです、先輩のこと」
彼女たちの視線はとても冷ややかで、どうもおれのことを知っているらしかった。取り巻きに囲まれてるっていうのにおれを見つけてはどこかへ連れて行ったりしたし、下級生の教室に何度も来てるってことくらい先輩のファンなら知ってるだろう。その結果がこの冷たい目であることは当然の報いのように思えた。彼女たちは皆顔を見合わせると、溜息交じりに彼方此方へと視線を向けたり指差したりして答えてくる。
「別に……ウチらも知らんけど」
「多分、ほら、部室棟とかじゃない?」
「わかりました、ありがとうございますっ」
素直に聞き入れ校舎に戻ろうとしたら、突然背中を引っ掴むような大きな声で引き留められた。
「待って!!」
「えっ」
「ごめん、今の嘘!!」
「は!?」
振り返ったら、グループの中のリーダー格っぽい女子がおれに向かって叫んでいた。面食らって立ち止まると、彼女は何かを言い淀んで、やめて、それを二回くらい繰り返した後で意を決したようにおれを見つめると、ぶっきらぼうな右手と人差し指で校門の外を示して見せた。
「いおりんならもう帰ったよ、バスで……乗るなら大通りの3番バス停、だと思う」
背後の女子たちが、何で言うんだ、と言わんばかりの顔をしている。そうか、彼は彼女たちにも別れを告げてから帰ったんだ。こんなときだけ律儀にして、何なんだよと下唇を噛む。おれは今度こそ彼女たちに一礼して指し示されたほうに向かって走った。誰かが、震えた声でおれに言う。
「ねえ、いおりんのことフッたのって、もしかして」
「やめなそういうの、言わんほうがいいって」
「アタシ絶対忘れないから!アンタがいおりんにヒドいことしたの!!」
制止する声も聞かず、その子はおれにヒステリックに叫ぶ。彼に謝ってよ、なんて的外れな声が背中越しに聞こえてきて、以前のおれなら謝って欲しいのはこっちだって思ってたかもしれない。でも今はそんなこと言える立場じゃない、背中に感じる彼女たちの声と視線が、ただ痛かった。
校門を出ると、足が勝手に走り出していた。
とにかく、早く先輩に会っておれの『答え』を言わないとって気ばかりが急いた。大通りまではさほど遠くないはずなのに、いつまで経っても辿り着かないような気がして奥歯を嚙み締める。肩からずり下がる鞄が煩わしくて一度足を止めて肩ひもをリュックみたいにして背負う。昔のギャルみたいだけどこの際見た目なんてどうでもよかった。
「っ、は、はあっ、は……ッ」
握り締めたブレザーはもうしわくちゃで、どれが彼に抱き締められて付いた皺だかわかりゃしない。大通りに続く十字路に突き当たったとき、目の前をバスが通り過ぎるのを見た。は、と大きく息を吸い込んだおれは、足を止めることなく走り続けた。
3番バス停は程なく見えてくる、さっきのバスがまさしくそれだったのだ。バスばかりを目で追っていたおれの視界に、赤色が差し込まれる。あ、と乾く口から声が出た。八神先輩は、まさに今到着したバスに乗り込むところだった。
「八神先輩、せんぱぁい!!」
息も絶え絶えになって叫んだけれど、必死の呼びかけを嘲笑うかのように大型トラックが通っておれの声を掻き消していく。おれの声は八神先輩に届く前に粉々に砕けて散った。先輩は、惨めなおれを一瞥することもなくそのまま四角い箱の中に消えていく。いや、消えてはいない、後部座席に座った先輩は僅かながらにその姿をおれに見せてくれている。見えてるんならもう目を背けちゃダメだ、おれは走り出すバスを追いかけて再び走る速度を上げた。
走りながら、行先表示を見る。路線番号の上には急行の二文字が見えたから絶望の色濃い声が出た。
「急行……ッマジかよくっそ……」
平日昼間だけ走る急行バスは、終点ターミナルのひとつ前にある駅まで停まらない。どこかの信号で追いつければいいけど、そもそも追いついたって降りられなきゃ意味がない。このまま最後まで走るか?迷ってる暇なんかない、もう走るしかないんだ、それが今のおれにできること、おれにしかできないことだ。
「ぬおおおおおおおお!!!!!!」
俺は走った。発車したバスの後部座席に見える彼の赤い髪だけを頼りにしてとにかく走った。フォームもへったくれもない、ペースもメチャクチャで息継ぎすらままならない、ぐちゃぐちゃになりながら硬いアスファルトを蹴り上げてがむしゃらにただ走った。
どこかで彼が振り向いてくれればいいと願う。走るおれを見てくれないかって期待して走って、でも先輩はおれに気付きもしないで行ってしまう。今日に限って信号はずっと青信号のままで、バスはどんどん彼を遠くに連れ去ってしまう。おれはあらん限りの力を込めて名前を叫んだ。
「やがみせんぱああああああい!!!!!!」
振り向け、振り向いて、お願いだから。
おかしいったらないよな、今まで散々逃げておいて虫が良すぎる話だ。もう彼はおれを見てくれないんだろう、それだけのことをおれはやってきたんだ、彼の『好き』に向き合わずに逃げてきたんだから当然の報いだ。そう思って心が折れそうになる度に、どうせ会えなくなるのなら、そうなる前にあの人の背中に言わなきゃならないことがある、と気持ちを奮い立たせて声を張った。
先輩、八神先輩、頼む……もう一度だけでいいから!!
「あ、あれ……?」
少しだけ、バスが近付いたように見えて汗を拭っては目を擦る。間違いない、さっきよりもバスが近い。どうやらようやく信号が赤に変わり、先輩の乗ったバスを足止めしてくれているらしい。好機とばかりに足を踏ん張り地面を蹴り、速度を上げてバスに駆け寄っていく。信号が変わるまであと何秒もない。
「やがみっ、八神先輩、せんぱああああい!!!!」
正直声はガサガサだし息も絶え絶えで、上手く先輩の名前を呼べているかどうかもわからない。だけど呼ぶも走るのも止めるって考えは今のおれの頭には欠片もなかった。
……その時だった。窓の向こうで何かが揺れた、赤い色の長い前髪がさらりと揺れて、綺麗な横顔が何かに気が付いたように後ろを振り返る。やがみせんぱい、と名前を呼ぶと、その人は間違いなくおれを見てくれた。
情けない声が聞こえたんだろうか、想いが通じた、なんて陳腐なことは言いたくない。オカルトは好きだけどこういうのはあり得ないだろって思う。だけど八神先輩はこっちを向いた。喉が切れそうなくらい声を張って自分を呼んでいるおれを見て、そして驚いたように目を丸くした。
「八神先輩!!」
おれの声に呼応するかのように先輩の唇が動いてる、何て言ってるのかはわからない、おれの名前だったらいいのにとガラス越しの先輩に手を伸ばす。
だけども無慈悲にバスは動き出し、再び先輩をどこかへ連れていく。再び離れるおれたちの距離は、これを最後に二度と縮まらない気がして目の奥が痛くなった。
「待って、ちょ、待ってくださいせんぱあい!!!!」
ダメだ、追いつけない。行ってしまう、八神先輩が遠くに、もう会えないくらい遠くに。
何個目かの信号を通り過ぎたバスを、おれはとうとう足を止めて見送ってしまった。あれは奇跡の一瞬だったのだと言わんばかりに足を止めればあっという間に見えなくなった。全くあっけないものだ、吹き出す汗でシャツが張り付いて気持ちが悪くて仕方ない。何より、二年分の後悔が乳酸よりも体を重たくさせていた。
これでもう、本当に終わりだ。良かったよ連絡先とか交換しないでおいてさ。もししてたら消す手間とかあっただろうし、っていうか二年も付き纏われて連絡先すら知らないって、マジで何だったんだよ。
だくだくと流れてくる汗のせいか、それともこないだ泣き過ぎたせいか、泣きたいくらい情けないのに涙が全然出てこない。泣いてスッキリしたら忘れるだろうなんて、そんな甘いことさせてくれないんだなって乾いた笑いが出た。
しゃがみこんで一歩も動けない、でももう、帰らないと。そう思って立ち上がったところへ、聞き覚えのある排気音が近づいてきて目の前で止まった。大きなバイクに跨った人は。メットのバイザーを開けて訝る目でもっておれを睨んでいた。
「何やってんだお前、何かの修行か?」
「草薙先輩……?えっ、どうしてここに……」
既に帰宅したと思っていた草薙先輩が、愛車に跨り路側帯でおれを見ている。弟子が汗だくでしゃがみこんでいたらそりゃあ心配するだろう、だけど今のこんな情けないおれを見て欲しくなくて、おれは慌てて立ち上がり頭を下げるとそのままUターンしようとした。
「何でもないです、あの、失礼します!」
「乗れよ」
「はい!……えっ、えっ今何て言いました!?」
「いいから乗れって、アレだろ、八神のバス追ってんだろ」
何で知ってるんですか、と呆気に取られた顔で言う前に、草薙先輩は目元をくしゃっとして「お前見てりゃわかるわ」なんて言って笑う。わ、わかる、わかるんですか。そういえばさっきの女子たちも八神さんが告白したのがおれだってすぐに気付いてた……もしかして、隠したってしょうがない感じだったんだろうか。だとしたらますます惨めだ、おれだけが本当にどうしようもない意地張ってたってことじゃないか。
「ま、アイツ追っ掛けて何がしたいのかまでは聞かねーし知ったこっちゃねーけどさ、言いたいこと言わねーと後悔すんのはお前だぜ」
差し出されたヘルメットを受け取って、おれは頷く。ここまで来たらもうどこまでだって追っかけていくしかない。追いかけてこなかった先輩のことを恨むなら、その分自分から追いかけてやるくらいじゃなきゃダメだったんだ。
まだ取り返せる、まだ届く、まだ追いつける。まるでトラックの上でクラウチングスタートの体勢を取っているときの気持ちだ、見えなくなったなら、見えるところまでまた走るだけだ。
「しっかり捕まっとけよ」
シワシワのブレザーに袖を通して草薙先輩の腰にしがみ付いたおれがメットの頭でこくんと頷くと、草薙さんはフルスロットルでバイクを発進させる。バイクは風を切ってすいすいと進み、八神先輩の乗ったバスはあっという間におれたちの目の前に姿を現した。
後部座席には相変わらず赤い頭がひとつあって、再び振り返った八神さんは追ってくるバイクを訝しい顔をして睨んだけれど、後ろに乗っているのが俺だと気付くと安堵したように目元を緩めて今度は間違いなく「しんご」っておれの名前の形に唇が動いた。呼んでっぞ、と草薙先輩が言った気がするけど、おれがそう思っただけかもしれないから黙っていた。
……
…………
先回りした駅前のロータリーで、アイドリングしたバイクに跨ったままバスを待ち伏せする。ホント、さっきから逆のことばっかりしてるな、待ち伏せだって何だっておれが八神先輩にされたことを今は全部おれがやってるんだ。先輩は、どう思うだろう。不安になって伏し目がちになるおれを草薙先輩は頭を小突いて励ましてくれた。
そうこうしてるうちにバスがやってきた。待ち伏せした場所からそう離れていないバス停で三分の二ほどの乗客を吐き出した急行バスは、そのまま終点に向けて走り去っていく。人並みに紛れようもない深紅の髪を揺らした彼を見つけたから、急いでヘルメットを脱いでタンデムシートを降りた。同じタイミングでおれを見つけたらしい八神先輩は小走りに駆け寄ってこようとしたけれど、おれがまだ草薙先輩と一緒にいるとわかると取り繕うようにゆったりと大股で歩いてきた。
「……京、どうした、俺との決着を付けに来たのか?」
「そう思うんなら勝手に言ってろ、俺はそのつもりねーから」
目の前にやってきた八神先輩は、俺と同じで気まずいのかまず草薙先輩に声を掛けてきた。面倒くさいと切って捨てた草薙先輩は、これ以上は付き合えないと溜息を吐いた後でおれの肩をぽんと叩いてくれた。
「じゃあな、まあ精々やれよ」
去っていくバイクをふたりで見送って……そう、ふたりだけが残された。あんなにも会って言わなくちゃって必死になっていたのに、いざ目の前に先輩がいるってなるとどうしても言葉が出てこなくなってしまった。おれ、いつまでこんなこと続けるんだろう。言うって決めたのに、決めたなら言わないと。
だけど、まず口から出たのは照れ隠しに自嘲する捻くれた言葉だった。
「おれ、バカみたいですよね、ははっ、幾ら陸上部だってバスになんか追いつけるわけ」
「真吾」
この期に及んでどうしようもないおれを抱き締めたのは、やっぱり八神先輩のほうからだった。ぎゅっとおれを捕まえる両腕と受け止めてくれる胸や擦り寄る頬、ようやく素直にその温かさを受け入れることができた気がする。
「おれ、めっちゃ汗かいたから……」
「構うものか」
強くおれを捕まえて離さない両腕、頬を掠める髪や吐息、そういうものを全部全部絶対に手放したくなくて、おれはとうとう彼の背中に両腕を回して思い切り引き寄せた。くっついたおれたちのふたつの鼓動が重なっていく、嬉しいのに切なくて、きゅっとなる胸から絞り出すみたいにしておれは彼に告げる。
「……好き」
この二文字をただ好きな人に伝えるのに、本当に遠回りをしてしまった。そもそも最初から好きだった訳じゃないだろうけど……それでも、今はこの人のことが好きなのだと間違いなく言える。だけどまだほんの少し照れくさくて、おれは先輩の肩口に唇を埋めたままで言葉を続けた。
「好き、みたいです。おれ、八神先輩のこと」
「そうか」
「この気持ちは、きっとそうだと思います、まだ、よくわかんないけど」
「なら、解るまで共に過ごせばいい……解ったなら、その時はずっと傍に居て欲しい」
優しい言葉に堰き止められていた涙が一気に溢れ出してくる。この人のせいで泣いたことはたくさんあって、だけど今はこの人のおかげで泣けることが幸せな気すらしてくる。おれは何度も呼吸を整えて、それから思い切り彼を抱き締めて二年分の想いの丈を告げた。
「先輩、好きです」
「俺も好きだ、真吾」
ああ、やっと言えた、八神先輩のことが好きだって言えたんだ。嬉しい……そうか、おれ今嬉しいんだな。好きな人に好きだって言うのって嬉しいんだ。
「これからも、何回だって言ってやる、好きだ真吾、お前のことが」
もう何回聞いたかわからない八神先輩の『好き』は、そのままキスになっておれに降ってくる。
あの日とは、いや今までとは全然違うキスの温もりが全身に伝わってくる。きっと八神先輩は今までだってずっとこんなあったかいキスをおれにしてくれていたんだろう。キスが苦かったのは、受け入れられずにひとり拒んでいたおれのせいだ。だって今は、こんなにも甘い。
好き、を言えたおれの唇は、もうその言葉を彼に伝えることを躊躇したりしないだろう。そりゃあ照れたり恥ずかしかったりはするけど、きっと真正面から彼の『好き』に『好き』って返事ができると思う。
「好きです、大好きです先輩」
そのままおれたちは、もう絶対に離れたりなんかしないって固く抱き締めあったままで互いの『好き』を確かめ合っていたんだ――……
……ひゅう、と誰かの口笛の声で我に返る。
「ん……えっ、あ、ああああああ!?!!?!」
そうだった、ここは駅前のロータリーで、当然人目もあるしおれの相手はこの悪目立ちする先輩だし、いつの間にかおれたちふたりの周りには距離を取りつつ黒山の人だかりが出来ていた。
とんでもないことをしてしまったという恥ずかしさで顔が熱いし、全身からは変な汗が噴き出している。だけど八神先輩は全然おれを離してくれないし、何なら周りの人々に見せつけるように俺の頬へキスをすると悪戯っぽく笑った。
「よし、このまま式でも挙げてしまうか」
「何言ってるんですか!?」
遠回りしてようやく叶ったおれの告白は、果たしてこれでよかったんだろうか……?
まあ、よかったんだろう。ふと目が合うと、彼はまたおれと唇を重ねて「好きだ」と言って笑ってくれた。
***
四月になって、おれは無事に三年生になった。
高校生活最後の年は一学期早々から忙しい、陸上部にも将来有望そうな一年がたくさん入ってくれたし何よりだ。
部活を終えて帰ろうとしたら、校門の方からきゃあ、と黄色い声が上がる。瞬時に嫌な予感を察知したおれは、隣を歩く部長に「悪い、先帰るわ」と言って走り出した。新学期早々勘弁してくれよ……と頭を抱えて、おれは校門の前で女子たちに囲まれている〝彼氏〟を見遣った。
「キャーッ!いおりん久しぶり~!」
「何しに来たの~?ねえ遊びいこ~?」
在校生の取り巻きやミーハー気分の新入生たちの人だかりにつかつかと大股で近付いたおれは、その中心に陣取る彼の手をさっと掴んで引き寄せる。
「先輩、行きますよ」
「……ああ」
そのまま彼女たちの前から彼を攫っていく。名残惜しそうに手を振る女子たちのことを申し訳なく思わないわけではないけど、そもそも迂闊に学校に来るこの人が悪いと思う。おれは掴んだ彼の手に徐々に手指を絡ませたなら、先刻の振る舞いを反省させるべく眉間に皺を寄せた。
「も~……絶対こうなるんだから、迎えに来なくてもいいって言ったじゃないですかあ」
「喧しい」
卒業しても尚、この人の人気は相変わらずだ。活動再開したバンドもレコード会社から複数のオファーを受けてるぽくて、人気は更に加熱の一方だ。
おれだって、そんな人の〝彼氏〟をやっているというのは何とも現実感がない。だけど今、おれたちはこうやって手を繋いで帰っている。あの時彼を追いかけて告げた言葉は、ずっと消えずにこうして俺たちを繋いでくれているんだ。
ふと、彼がおれの手を引っ張って、もたれ掛かる俺の耳元でそっと囁いた。
「早くお前に会いたかったんだ」
「ま、まあ……先輩のそういうトコ、嫌いじゃないですけど」
かあっと熱くなる耳や頬を隠そうとしてそっぽを向いても、彼には全部わかってしまう。何がそんなに楽しいのか、くつくつと笑っては繋いだ手の中に人差し指を潜り込ませて擽ってきた。
「どうせなら、もっと別の言葉で言わないか」
「何ですか、それ」
「嫌いではないのなら、もっと他の言い方で」
意地悪な人だ、付き合ってもこういうところは直らないんだからなあって溜息を吐いたあとで、おれは彼の耳に唇を寄せる。
「おれ、先輩のこと」
……――大好きです。
耳打ちした言葉への返事は、軽やかな春風みたいなキスだった。
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G学庵真、一応話の大きな流れとしてはここで完結です。またちょこちょこ何か書くかもしれませんが……。