沸騰した電気ケトルがけたたましい音を立てはじめて、織田は目を覚ました。窓からは冬のうららかな日差しが差し込み、新しい一日のはじまりを祝福しているようだ。
「すがすがしい朝やな」
布団にくるまったまま織田が言うと、
「何言ってんだオダサク。もう昼だよ?」
と呆れたように太宰が答えた。そうかあ、と言いながら織田はそのままもう一度目をつむった。
「ちょっとちょっと、オダサク。いい加減起きなよ。お昼ごはん食べに行こうよ! 俺もうすっごくお腹空いて、オダサクが起きるのずっと待ってたんですけど!」
「んんん。もうちょっと寝かしてえな。昨日買うた饅頭があるやろ? あれ食べとき」
「あんなのご飯にはならないでしょ~? オダサク! 起きて!」
太宰はゆさゆさと織田の体を揺さぶった。
二人は海辺の小さな町の、小さな民宿に泊まっていた。夏には海水浴客で多少賑わうが、閑散とする真冬の今、町で営業している宿はここしかなかった。
夜遅くに予約もなく突然やってきて、滞在期間未定、二食付きで泊めてくれと言うこの客に、宿の主人夫婦は最初良い顔はしなかった。
「そりゃあ、お二人の気持ちはワシもよう分かります」
織田はやわらかい声音で言った。
「ワシも逆の立場やったら蹴りだして、二度と来るなと塩を撒く。せやけどもうこんな時間やし、ここを追い出されたら、ワシら今夜は野宿せなあきません。今日一泊だけでもなんとか泊めてもらえんやろか」
織田は心底困った顔で、切々と訴えた。そうでなくとも、線の細い、薄幸そうな織田は、寒い夜に外へ追い出すにはしのびない頼りなさがあった。その横で捨てられた子犬のように悲しい顔をしている太宰だって、なかなか放っておけない雰囲気がある。宿屋の夫婦は結局、一晩だけという約束で彼らを泊めた。
ところが彼らはその翌日もなんとなく宿に戻ってきてもう一泊、さらにもう一泊と重ねて、気が付いたら当たり前のように宿に居座っているのだった。
見た目と違って、あれは相当図太いな。
夫婦はそう言い合って笑った。二、三日もしてくると、二人の人となりも分かって、夫婦はそう悪い客ではないと思うようになっていた。愛想が良く、あれこれと注文を付けて来ない、手のかからない客だ。金も三日目にとりあえず一週間分先に払ってくれたので、今ではこの客に特に文句もないのだった。
「おはようございます~」
太宰に揺り起こされてから、たっぷり三十分かけて身支度を済ませた織田は、さわやかな笑みを浮かべて階下に降りた。
「まぁ、やっと起きたの。もうお昼よ」
女将は二人を見て、笑いながら言った。
「いやあ、すんません。ええ宿で寝心地がええから、つい寝すぎてしまうわ」
「まぁ、調子のいいこと言って」
女将はまんざらでもなさそうだった。そして「お二人に手紙が来てるわよ」と机の上を指した。机の上には三通の封書が置いてあって、その一番上の封書の宛書を見た瞬間、太宰が叫んだ。
「え、これ春夫先生の字だ!」
その封筒を鷲づかみにするなり、太宰は階段を駆け上がっていった。
「よっぽど待ちかねていた手紙なのねえ」
「待ちかねてたっちゅうか、来るとは思ってなかった手紙ですわ」
えらい騒がしゅうてすんません、と謝りながら、置いて行かれた二通の手紙を手に取って、 織田はふたたび二階へ上がった。
「太宰くん、昼飯はどないしてん。食べに行くんちゃうの」
「そんなことより、春夫先生の手紙が先!」
太宰は真剣な顔で、佐藤春夫からの手紙を開封しているところだった。織田はため息をついて、残り二通の手紙を確認した。
「うわっ。菊池先生、現金書留送って来てくれたで。さすがやな」
織田はうきうきと菊池寛の手紙を開封した。中には数十枚の万札と、手紙が入っていた。織田が菊池の手紙を読んでいると、しばらくして太宰が鼻をすすりはじめた。
「ううっ。春夫先生~」
「どないしてん。何が書いてあったん?」
「なんか微妙にずれてて、腹立つような、でもうれしくなくはないような内容だった」
「はぁ?」
「一緒に志賀に謝ってやるから、気が済んだら帰ってきなさいって。いや、俺は悪くないし志賀に謝る必要はないんだけど。あと、この間館内誌に書いていたやつは良かったから、早く戻って続きを書きなさいって。でもひどいんだよ。最後に、くれぐれも織田に迷惑かけないようにって、まるで俺がダメダメな奴みたいに!」
「ははは。日ごろの行いのせいやな。まぁでも、ホンマは太宰君がわしに付き合うてくれてるんやから、ちょっと申し訳ないな」
織田がそう言うと、太宰はハッと顔を上げた。
「そんなことないよ! 俺とオダサクは共犯者でしょ? 俺たちは俺たちの自由を奪う横暴な図書館に対して、小さな反逆を企てただけだよ!」
ね? とちょっと心配そうに太宰は織田の顔を見た。
実際、太宰を図書館の外へ連れ出したのは織田の方だった。突然図書館を出ようと言い出した織田に、太宰は何も聞かずに頷いてくれた。この町に着いてからも、織田を問い詰めたりせず、ただいつものように接してくれた。聞きたいことはいっぱいあっただろうに。
「太宰くんは優しいなあ」
「な、なんだよいきなり」
「そんな優しい太宰くんにこの手紙をあげるわ」
「え? 菊池先生の手紙?」
何が書いてあるんだよ、と覗き込んだ太宰に、手紙の端っこを指し示す。
「早く帰っておいで 龍」
菊池とは違う筆跡で、走り書きのように書かれたことばを見た瞬間、太宰は織田から手紙をひったくった。
「こ、これは……! これは、あ、芥川先生のお手紙!!」
「いや、菊池先生の手紙に芥川先生が一言添えただけやで」
「すごい、芥川先生が、貴重なお時間を割いて、俺にお手紙を書いてくださった! 早く帰っておいでって!! 俺に帰ってきてほしいのかな先生は」
「……うん、そうやな」
織田が元気なく答えたので、太宰はハッとした。
「いや、でも俺はまだ帰らないよ。志賀に思い知らせてやらなきゃならないし!」
「別に太宰くんだけ帰ってもええで。わしはもうちょっとゆっくりしていくけど」
「だから帰らないって言ってるでしょ!」
叫ぶ太宰を、はいはい分かったから、と適当になだめて織田は立ち上がった。
「ほないい加減、飯食いに行こか。菊池大先生のおかげで軍資金も増えたし」
「あれ? もう一通手紙来てなかった?」
「ああ」
織田は目をそらして言った。
「あれはええねん。わし宛やし」
「……ふぅん」
太宰はそれ以上何も聞かなかった。
近くの食堂で昼ごはんを食べると、もうすることは何もなかった。この町には海水浴場以外に特に観光地というほどのものもない。腹ごなしに町を少し散策したらまた宿に戻って、何をするでもなく夕食まで時間を持て余すのが常だった。
その日は夕方になると、雲が出はじめ風も強くなってきた。窓枠が風に煽られてガタガタと音を立てる。織田はじっと吹きすさぶ窓の外を眺めていた。
「はぁ」
これからどないしたらええんやろう。それが今の彼の悩みだった。
このまま永遠に逃げ続けるわけにはいかない。いつかは図書館に帰らなくてはならないのだ。その時にはちゃんと、あの人と向き合わなければならない。そう思うと気が重かった。
「太宰くん。ちょっと海見に行こうや」
だしぬけに織田は言った。
「ええ? 今?」
敷きっぱなしの布団の中で芥川の小説を読んでいた太宰は、心底嫌そうな声を出した。
「風も出てきたし、今行かなくてもいいじゃん」
「風に荒れくるう冬の海が見たいねん」
「海なんかいつでも見られるよ。やめときなよ」
「じゃあ、一人で行ってくるわ」
そう言いながら、すっくと立った織田を見て、太宰は慌てた。
「待って待って。分かった俺も行くから」
二人は宿を出て二筋ほど先にある砂浜まで歩いた。塩害にさらされた町並みは、夕暮れに照らされて茶色く光った。砂浜へ続く階段を降りて、二、三歩歩いた時点で、織田は砂に足を取られてよろめいた。
「やばい。靴の中めっちゃ砂だらけなんやけど。歩きにくい」
「当たり前だろ~? だからやめようって言ったのに」
太宰もよたよたしながら、砂の中に足を進めた。
「あそこに座れるところあるやん。あそこまで行こう」
おそらく夏の間は海の家が営業しているのだろう、板張りの床が作られているエリアを見つけて、二人は腰を下ろした。
「めっちゃ寒いやん」
「冬だからね」
太宰は存外平気そうだった。波が飛沫をあげて砂を削っていく。
「わしこんなに荒れてる海見るのはじめてかもしれん」
「え~? 言うほど荒れてないでしょう」
「そうなんか」
織田から見ると、白く濁ってはじけ飛ぶ荒波にしか見えなかったが、太宰に言わせるとちょっと風が強いだけの普通の冬の海らしい。
「……ねえ、オダサクは何が嫌になっちゃったの?」
ぽつん、と太宰が言った。耳元で風が逆巻いて、どうと音を立てた。織田は一瞬、風のせいで聞こえなかったことにしようかと思ったが、ここまで何も言わずに付き合ってくれた太宰に、それはあまりにも不誠実だなと考え直した。
「嫌になったっちゅうか、よう分からんようなってしもてん」
織田は考えながら答えた。
「あの図書館、逃げ場ないやろ。なんかあったらすぐ噂になるし。人間関係がこじれるとしんどいと思うねん」
「ものすごく分かるよ~!」
今まさに志賀との関係をこじらせている太宰は、深くうなずいた。
「向こうは、わしとの関係を変えたがってるねんけど、わしは、そうなった時に周りにどう思われるか、その後結局その人との関係があかんようなってしまったらどうなるかって考えたら、どうしたらええんか分からんようなったんや」
太宰はしばらく黙っていた。
「その話は、つまり……え? ちょっと待って? オダサク、もしかして誰かに懸想されてんの?」
「うーん」
「なんでそこで答えを渋るんだよ!! くそっ。どいつだ」
太宰は立ち上がると、織田の周りをうろうろと歩き出した。
「まぁ、誰でもええやん」
「よくないよ! だってオダサクそいつのこと好きなんでしょ!?」
太宰が叫んだので、織田は笑った。
「いやいや、なんでやねん」
「はぁ? なんでやねんはこっちなんですけど! どう考えてもそうとしか受け取れなかったんだけど! 周りの目さえなかったら、そいつと付き合うのはまんざらでもない、そういう話だったでしょ今!」
「えっ!」
織田は衝撃を受けたようだった。
「何にびっくりしてんの」
「考えたこともなかったな。わし、あの人のこと、まんざらでもないんやろか」
「どういうことなの!?」
「いや、だってそういう対象じゃなかったからな。わしにとっては、なんちゅうか雲の上とまでは言わんけど、ちょっと別世界の人って感じやから」
「はー? 俺、そういうの嫌い。なんだよ、別世界の人って。どこぞのしょーせつの神様じゃあるまいし」
そう言われると、織田は苦笑いするしかなかった。
「ごめんな、太宰くん。こんなしょうもないことに巻き込んで」
「いや、しょうもなくはないよ」
太宰は真剣に言った。
「だって、あの図書館は俺らにとって、ほとんど世界のすべてだ。そこでの人間関係は難しいよ。怖くなるのは当たり前だ。でも、オダサクが悩んでいる理由が周りの目だけなら、その、ちょっともったいない気もするな。オダサクがそいつのこと好きなら応援するのもやぶさかではないけど、ただマジで相手によるので誰か教えてくれ」
「えー」
織田は答えを渋った。
「太宰くんはどういう人やったらOK出してくれんの?」
「そりゃお前、穏やかで、優しくて、全然偉そうじゃなくて、オダサクのことちゃんと支えてくれて、俺たちにも優しい人!」
「結構要求多いな」
「はぁ? これは最低限のラインなんですけど。ここから加算点数が入らないと不合格なんですけど」
「でも、まあ、その条件はクリアしてるかも……」
「はぁ!? そんな奴あの図書館にいるかぁ?」
「もう言うてることむちゃくちゃやな、太宰くん」
「相手誰だよ!」
「もうええやん。体冷えてきたし帰ろう」
織田は立ち上がった。
「いや! 教えてくれるまで帰らない!」
「そやけどわし、まじで寒いねんけど……」
タイミングよく織田は咳をした。すると太宰は顔色を変えて「もう! だから海なんて見に行かなくていいって言ったのに!」と言いながら織田を引きずって宿に戻った。
太宰はその後もしつこく織田の相手を聞き出そうとしたが、全て徒労に終わった。織田が風呂から上がると、体が冷えてはいけないと太宰は織田を早々に布団に入れて、さらに足元には湯たんぽまで仕込んで過保護だった。あんなところで咳なんかするんじゃなかったと織田は後悔した。
真夜中、織田は寝苦しくて目を覚ました。あまりに暑いし、布団が重い。ふと見たら、いつの間にか織田には掛け布団が二枚被せられていた。犯人は一人しかいない。
「どんだけ心配しぃやねん。自分かて、そない丈夫やないくせに」
まだ温かい湯たんぽを太宰の足元に押し込むと、織田は起き上がった。
布団を出ると、すきま風の入る部屋は冷え冷えとしていた。織田は文机の前まで行って読書灯を付けると、そっと今朝受け取った手紙を拡げた。
「織田作之助様」
この特徴的な字を見間違うはずもない。それは室生犀星からの手紙だった。
「君がこの図書館を出て行った理由に、少なからず俺の行動が関係しているだろうと思うと、なんてことをしてしまったのかと後悔しかない。君に伝えた気持ちに嘘偽りはないが、だからこそ君に言うべきではなかった。
君が俺を随分高く評価して、慕ってくれているのは分かっていた。俺は君と同等の友として交わってきたつもりだが、君のほうは必ずしも俺を同格の友と思っていないことも分かっていた。それは君が俺をいつまでも『先生』と呼ぶことからも明らかだったのに、俺は都合よく見ないふりをして、君に思いを伝えてしまった。
本当のことを言うと、俺の思い人が君であることに君が全く気づかないから驚いたんだが、思えば当たり前のことだ。君にとって俺は随分と年上の、『先生』なのだから。それに気づいたとき、あのような状況――密室で二人きりの状況で、目上の者に迫られる怖さというものにやっと思い至って、俺は自分の行動を恥じた。
これは謝って済むような問題ではないが、どうか謝罪させてほしい。そして俺はもう二度と、あのようなことはしないと誓う。俺は、そう簡単に君への愛情を失くすことはできないだろうと思う、しかしこの愛を、崇高なプラトニックなものにするのは不可能ではないと考える。そうすれば少なくとも君に、不利益を与えずに済むだろう。
随分勝手なことを言っているのは分かっているが、これが今俺の取れる、最善の方法だ。この図書館には君が必要だ。もちろん太宰君も。どうか帰ってきてほしい」
読み終わって、織田は正直に言うと、イラっとした。こっちはあれからずっと悩みに悩んできたというのに、あちらは勝手に自己解決して、物分かりのよい大人のまま終わろうとしているのだ。
「なんや、おもろいこと言うやん」
あんな熱烈な詩を書いておいて、プラトニックとは! 詩人の恋は情熱的で、時に官能的で、しかし常に崇高なものらしい。
「せやけどこっちは庶民派なんで」
恋なんぞ、そう崇高なものか。結局それはエゴイスティックな感情だ。ほんまにワシのことが好きなんやったら、これくらいでビビって引くなや。
織田はなぜか悔しくてたまらくなった。こんなことが許されてなるものか。ワシがほんまもんの恋情ってものを、生活に根差したリアルな感情ってものを分からせてやる。
おもむろに、織田はペンを取った。
太宰は、読書灯の光がだんだん目を射してきて目覚めた。カリカリと、万年筆を走らせる音が聞こえてくる。
「え、オダサク?」
光の方を見て太宰は驚いた。文机の前に座って、織田は一心に筆を走らせていた。
「何してんの?」
「原稿書いてんねん」
「ええ!? 今? 明日にしなよ」
「いや、わしいつもこの時間に原稿書いてるし」
「でも、寒いじゃん。風邪引くよ?」
「ふん」
織田は生返事をするばかりで、顔も上げなかった。
太宰はため息をついて立ちあがると、織田の背に掛け布団を羽織らせた。
「もう。あんまり心配かけんなよな」
「うん。……ごめんな」
なぜ急に小説を書きはじめたのかは太宰にはよく分からなかったが、それを邪魔してはいけないということはよく分かっていた。太宰も織田も文士である。書かずにおられぬことがあるなら、書くしかない。太宰はおとなしく、机に向かう織田の後ろ姿をじっと眺めていた。
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前回はさいさんのターンだったので(そうか?)、今回はodくんのターンです。
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