狛犬は走っていた。
自分の好きな場所を走ってくればいい。
おゆきの言葉に導かれるように、狛犬は、自分が好きな場所を、思い出すままに、脚が向くままに駆け巡っていた。
木々が生い茂り、苔むした中に通る庭の小道を駆け抜ける。
自分が拾って来た、不思議な色合いの石を縁石のように並べた所が、石灯籠に灯る明かりの中で、地上の星のようにきらきらと瞬いている。
悪鬼が持ち帰った苗から育った柘植が、艶々とした緑の葉に月明かりを弾きながら、沿道で彼女を見送る。
奥から少し漂う微かな香りは、天女と白兎が山から持ち帰った薬草を育てている、小さな園から漂うそれか。
木々の間からは、夏の甲虫達が鳴く声が、時折きーきーと夜を騒がす。
ここには、狛犬の好きな石や小枝やかぶとむしやダンゴ虫が一杯ッス。
狛犬、ここ好きッス。
小道の先から、綺麗な歌声が聞こえて来る。
庭木が切れ、視界が拓ける。
そこにあるのは、ちょっとした広場、そして、広場の奥に設えられた檜の舞台の上で、月を見上げながら何かを一心に歌う天狗の姿。
「あら、狛犬さんどうしましたの?」
こちらに走り寄ってくる狛犬に気が付いたのか、天狗が歌い止めて狛犬に目を向ける。
「狛犬、好きな場所に突撃してるッス」
最初、狛犬が何を言っているか判らない様子の天狗だったが、ややあって相好を崩した。
「ああ、そういう」
どこか一か所で主を想うなどというのは、狛犬の性ではない。
ならば走り回ってくると良い、そうおゆき辺りにでも言われたのだろう。
確かに彼女らしいといえば、彼女らしい。
「天狗、ご主人様の事何か判ったッスか?」
「……いいえ」
この場所で、折々の季節を皆で過ごし、季節を歌い上げ、踊り、生を喜び、死を悼んだ。
おつのと共に、この舞台で歌う姿を、主は殊の外喜んでくれていた。
今何処に居るか判らぬ主に、私の歌声を届ける。
そう願いながら。
「そうッスか、それじゃ狛犬、まだまだあちこち突撃して来るッス」
「ええ、そうして下さいな」
天狗の声に送られて、狛犬が再び駆けだし……すこし行った先で狛犬の足が急に止まる。
それをいぶかる暇も無く、狛犬が再び天狗の方に駆け戻って来た。
「どうしましたの?」
「狛犬、天狗の歌大好きッスよ!だから、絶対ご主人様に届けるッス!」
それじゃ、天狗も頑張るッスーーー!
駆け出す狛犬の背を見送り、天狗は呼吸を整えてから、再び空を見上げた。
あのくらいひたむきで真っ直ぐな言葉の方が、心には届きやすいのだろう。
最前まで胸を焼いていた焦燥感が、今は少し軽い。
狛犬ほどは純粋にも、真っ直ぐにもなれない我が身なれど……。
「そうですわね、今はただ、この一心を込めて」
澄んだ歌声が、再び夜空に流れ出した。
狛犬は走る。
広場を少し行くと、外から流れを引き込んだ小川に出た。
そのほとりに置かれた縁台の上に一人座し、水音を楽しむように杯を傾ける童子切の姿が見えた。
「おや、狛犬さんですか、どうしましたー?」
「狛犬、この庭の好きな所に突撃してるッス!ここが童子切の好きな場所ッスか?」
狛犬の子供らしい無遠慮さに苦笑しながら、童子切は酒を満たした大杯を掲げて見せた。
「あっはっは、私はまぁ、これさえあればどこでも好きですけどねー」
狛犬さんも一献如何です?
差し出された酒杯から漂う香りに、狛犬は珍しく顔をしかめた。
「お酒苦手ッス、頭ぐるんぐるんするし、ちょっと酸っぱいッス」
狛犬には美味しくないッス。
「ふふ、それは賢明で健全な味覚をお持ちですねー」
子供や動物は酸味や酒精が苦手、基本それらが毒に類する物なのを、体が良く知っているのだろう。
「でも、狛犬お酒呑んでるご主人様や童子切は大好きッス、何か楽しそうで、見てる狛犬も楽しいッス」
「それはどうも……こういう余禄もありますし?」
そう言いながら、童子切が厨房からせしめて来た小魚の味醂干しを一つ、狛犬に差し出す。
「おつまみ大好きッス!」
頂くッスーという間に、それが口の中に消える。
「甘じょっぱくて美味しいッス!」
「それは何よりでしたー、お水もどうぞー」
お酒も走るのも、水を時々は飲みませんとねー。
くすっと笑った童子切が、狛犬に竹の水筒を差し出す。
ごくごくと竹筒の水を旨そうに飲む狛犬の顔を微笑みながら見ていた童子切が口を開く。
「そういえば、狛犬さんは何故ここに?」
竹筒を童子切に返しながら、狛犬は口を拭ってから、今は暗い水面を指さした。
さらさらと流れる水音、ぱしゃりと時折水を弾くのは、最前まで鳴いていた蛙の音か。
「小川で冷やした西瓜や胡瓜、美味しいッス!またみんなで齧るッス!」
「成程、確かに」
しまった、もろきゅうも貰って来れば良かったですね。
夏場ならではの酒の親友を忘れるとは、この童子切、一生の不覚。
やはり、自分も些かならず冷静さを欠いているのだろうか。
「それじゃ、童子切も頑張るッス、狛犬は、ご主人様を見つけるまで突撃するッスーーーー!」
手を振りながら小川をひとっとびに超えて走り出した狛犬の背を見送りながら、童子切は美酒を口に含んだ。
口を離す時、ほうと酒精交じりの吐息が夜に溶ける。
「酒を頑張って呑む程、無粋な話もありませんが」
狛犬の言葉の意味を、敢えて取り違えて呟きながら視線を落とすと、酒杯に映るは己の顔。
それを、ぐいと煽ると、一人で友の消息を求めて旅をしていたあの頃のような酒の味が微かに胸を灼く。
久しく感じていなかった、胸の空洞を酒が灼く感触。
がんばれ……か。
「さっさと戻ってこないと、私一人でこの美酒、全部呑み尽くしちゃいますよー」
狛犬の足は止まらない。
小川沿いの道を駆けていく。
その途中、修練場でひたすらに得物を振り、稽古を続ける悪鬼と小烏丸の姿が見えた。
「おう、良い所に来たじゃねーか、やっぱコマも暴れるのが一番好きだよな」
「一緒に稽古しますか?」
「ありがとうッス、狛犬も稽古大好きッス、でも狛犬は、もっと色々な所に突撃して来るッス」
その狛犬の顔をじっと見てから、二人は頷いた。
「そっか、それじゃあたしらはここでまだ稽古続けるよ」
小烏丸と悪鬼が手を振って狛犬を……この戦が始まった時から、ずっと一緒に戦って来た戦友の背を見送る。
「よし、あたしらも、もう一勝負行くか」
「ええ」
狛犬、ここでたくさん突撃して、みんなと一緒にいっぱい強くなってきたッス。
初めてご主人様に出会ったあの日に、皆で約束したッス。
今よりもっと、もっと強くなって、今度こそ、ご主人様とこうめさんを守る。
そうやって、戦って来たッス。
あの時より、みんなずっとずーっと強くなったッス。
今度だって……きっと守って見せるッス。
綺麗な水を引き込み、洗い場やいけすを供えた厨から、夜中だというのにかぐわしい匂いが漂い出していた。
それが、狛犬の足を止める。
「美味しい匂いッス?!」
中を覗くと、鈴鹿御前が、ちょうど良かった、味見をしてくれないかと、雉肉とねぎを焼いた物を出してくれた。
ありがとうッス、鈴鹿御前のご飯、いつも美味しくって大好きッス。
ご主人様も、この匂い嗅いだら、絶対戻って来るッス。
「そうね……そう願ってるわ」
少し寂しそうに笑いながら厨の中に戻る、その彼女の目の端が少し赤かったのを狛犬は見逃してはいなかった。
狛犬は再び走りだす。
多分、鈴鹿御前泣いてたッス。
狛犬だって悲しいッス。
ご主人様と日向ぼっこしたり、頭わしゃわしゃして貰えなくなるとか、嫌に決まってるッス。
でも、泣いてちゃだめッス。
野菜畑の中に、狗賓とかやのひめの姿を認め、狛犬が足を止める。
それに気付いた二人が、こちらに近寄ってくる狛犬の方に言葉を掛けた。
明月の中、狛犬の額に光る汗が見える。
「走っているの?」
らしい事してるわね、と苦笑を交わす二人に、狛犬はお日様のような、満面の笑顔を返した。
「そうッス! 狛犬は庭のあちこちに突撃してるッス、二人は畑仕事ッスか?!」
ええ、と呟いて、かやのひめは狗賓の方に手を伸ばした。
心得た様子で、狗賓は笊から胡瓜を取り出し、水筒で洗ってから少し塩をして、主の手にそれを渡す。
「冷えてはいないけど、これ食べて、少しだけ呼吸を整えて行きなさいな」
「頂くッス!」
暫し、カリッ、シャクッという小気味いい咀嚼音をが辺りに立つ。
「ごちそうさまッス、かやのひめが来てから野菜美味しくて、狛犬うれしいッス」
「そう、良かったわね」
言葉は素っ気ないが、彼女の足許や周囲に淡く輝く華の気があふれ出しては夜気の中に溶けて消える。
「はい、お水もどうぞ、狛犬さん」
「ありがとうッス、のどカラカラだったッス!」
狗賓の差し出してくれた水筒の水をごくごくと飲みほして、狛犬は水筒を返した。
「それじゃ、まだ走って来るッスーーー!」
駆け去る狛犬の背に手を振ってから、二人はまた、土と作物を相手に戻った。
荒れ地だった庭を、皆で手入れして来た、その思いや軌跡をなぞるように。
「……ああいう、確かめ方もあるのね」
ぽつりと、かやのひめが手を止めて呟く。
「あの方と戦場を駆け抜けて来た狛犬さんにとっては、そうなのかもしれませんね」
「そうね」
狛犬が風の如く庭中を駆け抜ける。
好きな所しかない場所。
好きな人しかいない場所。
狛犬、止まれないッス……この庭、どこまで行っても狛犬の好きしか詰まって無いッス。
「なるほど、お主らしいの」
濡れ縁の端から掛けられた声に、狛犬の足が止まった。
「虫の音も良いが、やはりこの庭は、どこかでお主らの駆け、騒ぐ音が有って完成するのやもしれぬな」
「仙狸、何してるッスか?」
「見ての通り茶を飲んどる、お主も少し休んでいくと良い」
傍らに置かれた、使い込まれた鉄瓶と茶筅を見て、狛犬は顔をしかめた。
「仙狸のお茶は苦いッス」
率直な狛犬の言葉に、仙狸がククッと笑いながら、小鉢をすいと前に出す。
「心配せぬでも、苦手と知っとる物など勧めやせんよ、お主はこっちじゃ」
白玉団子を冷水で締め、甘蔦を煮詰めて作った蜜を掛けた、素朴な甘味。
「頂くッス!」
どっかと傍らに座した狛犬の様子に目じりを細めながら、仙狸は楊枝に刺した団子を一つ狛犬に差し出した。
「ほれ、口を開けよ」
あーんと大きく開けられた狛犬の口中に団子を放り込む。
「甘くて美味しいッスーーーー」
「そりゃ、何よりじゃ」
自身も、ほのかに甘いそれを口にしてから、仙狸は濃茶に口を付ける。
甘味の後の、この苦みが格別。
「もう一個欲しいッス」
「そうじゃな、走り回ってくれば一個では足りぬよな」
わっちはそれ程必要ない、お主に全部やろう。
小鉢を受け取りながら、狛犬が満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうッス、仙狸のそういう所好きッス!」
「現金な事じゃ」
早速、団子を口に放り込み、幸せそうに笑う狛犬の顔をちらりとみて、仙狸は空に目を転じた。
「お主は、あの調子で庭中を駆け巡って来た、そうなんじゃな」
「そうッス!」
「そうか」
迷いのない狛犬の言葉を聞きながら、仙狸は小さく頷いた。
(彼女はあれじゃな、迷いなく、怖れなく、真っ直ぐに好きだけを追い求め、世界を旅する者か)
小なりとはいえ、この庭という世界を駆け巡って来た彼女。
世界を掻き回し、新たな種を運んで来る、変革を促すつむじ風。
そこまで考えた時、仙狸の頭に一つ思いついた事があった。
「のう、狛犬殿」
「何ッスか?」
口の周りに蜜を付けたままの狛犬の顔を、苦笑しながら手拭で拭いてから、仙狸はすいと指を上げた。
月明かりに茂る葉の輪郭を朧に光らせた木の影。
庭の中央に位置し、この庭の力の源泉たる松の巨木。
「わっちからの頼みじゃが……次はあの木の下に行ってみてくれんか?」
■狛犬
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式姫の庭の二次創作小説になります。
「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。
グランディアなんかもそうですが、乗り物を自前で所有しない、歩きだけの冒険物語が基本好きです、そうやって冒険者は世界を結んでいく。