平成五年十月二十五日。月曜日の朝のことだ。
この日は地域の行事を手伝うことになっていた。
家を出て、集合場所に向かう。
軽トラが止まっていた。割烹着をつけた婦人会やPTAの人たちがすでに準備を始めていた。約束の時間より三十分早い。待ちきれなかったのか、田舎の人特有の「集合時間の十五分前に集まるべきだからその十五分前には集合していなければいけない」なのかわからないが、おそらく両方なのだろう。
軽トラの荷台から段ボールを降ろしている。
中身は日の丸の小旗だ。
ただ、時間が早すぎて子どもたちがまだ来ていない。
自分たちの時間感覚がおかしいのを棚に上げて、「まだ来よらんのか」と誰かが言った。
本日、この過疎の田舎町でけっこう大きなイベントが行われる。
第四十八回国民体育大会……香川・徳島両県で開催されている東四国国体だ。
と言っても、競技が開催されるわけではない。
昨日、徳島県の鳴門市総合運動公園で行われた総合開会式に、天皇陛下がご臨場なされた。
……敬語はどうも苦手だ。
陛下は本日、徳島県での競技を視察なされた後、香川県に入ることになっている。
そのルートになっているのが、この田舎の峠道だ。
香川と徳島を結ぶ高速道路はまだ建設工事中で、観戦される競技会場の関係でこの山の道を選ばれたのだろう。
年寄りによると、天皇の来県は昭和四十二年以来なのだという。平成の新しい天皇は皇太子時代に一度植樹祭で来県されているとのことで、テレビではこの時の様子を繰り返し紹介していた。
防災無線は何日も前から「みなさん沿道でお出迎えいたしましょう」と報せている。
町議のじいさんたちが特にハッスルしていた。過疎の田舎町とはいえお出迎えに人がいないのでは不敬に値する……というやつだ。
そういう真面目なハッスルとは別に、テレビで見るような有名人がこの町を、というミーハーな人たちも多かった。
余らせるだろう絶対、という数の日の丸の小旗が作られたが、足りるかどうかわからないらしい。
天皇陛下が道を通られる。
そう言うとなんなんだという感じがするが、この町にとっては国体のどんな競技よりも盛り上がる、一大イベントだろう。選手には申し訳ないけれど。
三々五々、人が集まってくる。
このあたりは歩道のない田舎の峠道だから、人が集まるだけで危ない。
特に子どもたちが興奮して車道に飛び出さないように、「もうちょっと後ろによれるかな?」と声をかける。
……子どもたちよりも大人の方が聞き分けが悪いかもしれない。
まだだいぶ時間があるにもかかわらず、小旗をもった人たちが整列を終えて「バンザイ」の予行練習をし始めた。
その時だった。
誰かが、
「あれはいかんぞ」
と言った。
元町議の方だ。
「どしたんぞ、なんがでっきょんや」と、周りの年寄りが声をかけている。
現職の町議……つまり彼らから見て「若造」……が「おい、おい」と呼ばれた。スーツ姿のおじいさんがぱたぱたと駆けていく。
トラブルだろうか。
沿道に集まっている人たちは気がついていない。
自動車が通る度に「あぶないよ。気をつけて気をつけて」と声をかけながら、横目で様子をうかがっていると、現職町議が「おおい、おおい」と手を振り出した。彼の会社の部下たちが駆けていく。町議からなにか命令されたのだろう、若手の社員が走って行った。
「……なにかありました?」
社員のひとりに話しかけてみる。
「高所作業車がいるんやと」
「なんでまた」
社員は心底面倒くさそうな顔のまま、「あれ、あれ」と指さした。
道路の上にある道路標識。
『首切峠』
と書かれている。
首切峠の名前の由来は、戦国時代、近くにある造田城が土佐の長宗我部元親に攻められ落城、城兵ことごとく討ち死にし、首が晒されたため……というのが一般的だ。確か、角川日本地名大辞典にはそう書かれている。
実は、他にも説がある。
江戸時代に殿様の行列が峠に差し掛かったとき、年貢減免の直訴があった。殿様は直訴を受け入れる代わりにその場で手討ちにし首を晒した……というもの。
やはり江戸時代に僧が通りかかったところ、山賊に襲われたが返り討ちにして首を晒した……というはなしもある。
どれが本当なのかいまいちわからないが、戦国時代の説が本当だろう、ということになっている。
由来は定かではないが、名前がおどろおどろしいからか、心霊スポットとして知られている。
……正直なところ、名前がおどろおどろしいスポットだろうと思っている。
お化けが出てくるのなら、どれが本当の由来なのか聞いてみてほしい。
高所作業車はすぐにやって来た。
どこから持ってきたのだろう、大きな白い布をかぶせている。
……いいのだろうか。
子どもたちは盛り上がっている。
「これから天皇陛下が通られるのに「首切峠」はまずかろう」
そう言われれば、確かにまずい……気がする。どうなのだろう。
作業が終わり、車が邪魔にならない場所に移動して、布が風で飛んで行ってしまわないかやきもきしているうちに、先導の白バイが現れた。
練習通りの「バンザイ!」が始まる。
日の丸の小旗がばさばさばさと音をたてた。
*
あっというまの出来事だった。
集まった人たちはそれぞれ満足な表情を浮かべて帰って行く。
再び高所作業車がやって来て、布を回収していった。
首切峠。
平成の世になって、しかももうすぐ二十一世紀だというのに、まだ忌み言葉が機能していることがわかって、けっこう興奮している。
それと同時に、ちょっとだけ「怖い」とも思ってた。
なんだかよくわからない。
それはそうと、陛下は沿道の人たちに手を振っておられたので、布のことはお気づきになっていないと思う。
おしまい
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ほぼほぼノンフィクションです。