小さく古風なバスケットケースを携えてやってきたものだから、赤ずきんの真似事でもして喰われに来たのかと笑う。玄関先の彼は顔を真っ赤にして否定しながらその中身を明らかにする。バスケットを覆うギンガムチェックのクロスの下から出てきたのは、香ばしい香りのスコーンだった。
「リリィさんとマネージャーさんが焼いたんです」
聞けばこのバスケットケースもあの番犬の妹から借りたのだと言う。どちらかといえば女より歳も近いし、彼にも妹がいるというから打ち解けるのも早かったのだろう。離れに間借りして暮らす異国の兄妹はそれなりに暢気な生活をしているらしかった。
「たくさん焼いたので、よかったらって持たせてくれました。あ、イチゴジャムとクロテッドクリームもありますよ!」
頼んでもいないものを差し出して、さあ褒めろ、と尻尾を振る駄犬に溜息が出てしまう。ほとほと呆れてはいるが、彼が部屋に立ち入ることを拒む理由にはならなかった。
お邪魔しまあす、と間延びしたおざなりな挨拶でスニーカーを脱ぐ。気配に気付いた猫がベッドの下から這い出してきて、白い靴下の足にじゃれつきながら彼を追った。つーちゃんさんにはおやつを預かってきましたよ、と言ってジャンパーのポケットからいくつか小袋を取り出すと、猫は解りやすく喜んで尻尾を揺らした。
小袋から小皿に移された乾餌を嚙み砕く音がする中で、彼は勝手に茶の支度をし始める。何をそんなに張り切ることがあるのは知らないが、腕捲りをして拳を握ると此方に向かって開始の合図をしてみせた。
「よっし、じゃあオーブン借りますね!」
「いちいち言わんでもいい、勝手に使え」
「わっかりましたあ!」
オーブントースターにアルミホイルを敷いて、並べられるだけのスコーンを並べて軽く温めている。急誂えで買った安物なのでそう大きくなく、彼の手はオーブンのタイマーが切れたベルの音に合わせて中身を入れ替え忙しなく動いた。
今度は茶を淹れるようで、マグカップとティーポットを電気ケトルで沸かした湯で温めている。そういえばあのティーポットも彼が持ち込んだのだったか、女が以前会社の謝恩会か何かで持たされて使っていなかったものだと聞いた。
「八神さん、こないだ執事喫茶でもらった紅茶ってどこに仕舞いましたっけ」
「食器棚の二段目」
「あ!ありました、ありがとうございます!」
紅茶の缶は幾つかある。彼も働いているあのふざけた喫茶店のオーナーが好意で寄越したものだ。一人の時はそんな面倒なことはしないので、専ら彼が此処へ来たときに練習の名目で淹れさせている。もう一つ目の缶が終わりそうになっていた。
「何だか、ここも物が増えてきましたねえ、ちょっと前まで随分殺風景だったのに」
葉を蒸らしながらわざとらしく辺りを見回す。彼の言う通り、決して広くは無い部屋はここ一年で随分と様変わりした。猫の寝床、給餌皿、自動給水機。台所のオーブンにしろティーポットにしろ、彼が使うマグカップだってそうだ。数え上げればキリが無い、それ程までに此方の独り暮らしとは思えない有様になっている。
此方もわざとらしくソファの上で脚を組み替え、溜息と一緒に頭を振る。
「誰ぞがあれが無いだのこれが無いだのといちいち喧しいからだ」
「へへ……すいません」
「その誰ぞが忘れてそれきり置きっぱなしの物もある、其処に積み上がった漫画だとか脱ぎっぱなしのTシャツだとかな」
「ほんとすいません……」
我が物顔で部屋の一角を占拠されては堪ったものではない。彼は謝りつつ頭を掻いてはいるが、実際腹の中ではどう思っているのやらと懐疑的な視線を送る。
しかし、責められるのは彼ばかりではないことも解っていた。彼が何か忘れ物をしていく度に、どうせこの喧しい犬はまた押し掛けて来るのだろうし次こそは持って帰らせようと思ってはみるのだが、いざその〝次〟を迎えると、どうせまた、と先送りにしてしまっている此方も此方だ。
彼が置いていったものや彼の為に誂えたものをわっと突き返してしまったなら、彼が次に此処にくる理由を無くしてしまうのではないだろうかと思っているのも、確かだった。
「でも、つーちゃんさんの新しいおもちゃだってたくさん増えてるの、おれ気付きましたよ」
「貴様のように嵩張るものを欲しがる訳ではないからな」
カップに紅茶を注ぐ水音と一緒に得意げに言う彼の声は、さっきまで申し訳ないなどと口にしていたことなどすっかり忘れているようだ。
餌を食べ終えた猫が膝の上へやってくる。掌の下へ頭を捻じ込んでは撫でろとせがむので、仕方無く撫でればくるくる喉を鳴らして体を丸めた。そんな様子を見た彼は、皿やら茶やらを運びながら、平和ですねえ、と呑気に微笑んだ。
「お待たせしましたっ」
最後に小皿へ開けたジャムとクロテッドクリームを供した彼がソファの隣に座る。何を遠慮しているのやら、彼をちらりと見た猫が欠伸のあとで寝床の方へ向かったので、彼は頬を掻いて照れ笑いする。猫に気を遣われているようでは全く面目無いと思わないのだろうか、と思えど、尻を浮かせた彼が少し近付いて膝頭が触れ合うのを見たら何も言う気は無くなった。
「いただきますっ」
わざわざ合掌して頭を下げてから、彼はまずカップに手を掛ける。それに倣って此方も彼の淹れた茶を啜った。香りも味も良い、最初教えてやった時は渋くて苦くてどうしようもない紅茶を淹れていた子供とは思えない。
「……上達したな」
「そりゃあもう、おれだってあそこでバイト始めてもう4か月っすから」
目を細め歯を見せて笑う顔に、釣られて笑みを零してしまう。それを誤魔化したくて、皿の上のスコーンを手に取って何も付けずに一口齧った。
さく、と外側が音を立てて、中はふわりと軽やかだ。もう少しずっしりとしたものを想像していたのだがこれはこれで口当たりが良い。ふむ、と咀嚼していたら、此方の様子を窺っていた彼もスコーンを手に取り大きな口で齧り付く。
「うまっ!すっげえ美味しくないすか!?」
「言わんでも解る、今俺が食ったのを見ていただろう貴様」
「それはそうですけど、美味しいものは美味しいって言った方がもっと美味しい気がして」
締まらない顔で笑い、まくまくと小動物のようにスコーンを頬張る。口の中をいっぱいにしているのが可笑しくて、唇の先にジャムとクリームをたっぷり乗せたものを差し出してみると、ちょっと待って、と手だけで合図をして慌てて飲み込んで紅茶を一口飲んでから此方の指先まで屠る勢いでそれに齧り付いた。
「美味いか」
「ふぁい」
本当に幸せそうに、ジャムの甘さに瞬きをして震える睫毛の先まで幸福で満ちていると言いたげに。この部屋の中の全てのものに意味があるように隣で笑う彼が、煩わしくも愛おしいと思う。彼の口元に残る赤い甘さを、此方の口を指差して教えてやる。
「ここ」
「へ?」
なかなか要領を得ず自らに飾られたジャムに気付かないでいるから、とうとう此方から手が出てしまった。
「……わざとか?」
そんなに器用な人間では無いことくらいは知っている。どうでもいいことには聡いくせに口の端のジャムにすら気付かないのが彼の善さかもしれなかった。
彼の頬に手を遣り顔を近付けて、スコーンの食べかすと苺のジャムでデコレーションされた唇をべろりと舐めてやる。それから啄むように何度か口付けをしたら彼の手から齧りかけのスコーンが落ちそうになるからそっと支えてやった。
「あ、ありがとう、ございます……」
キスの後で、そう言ってしまってから一体何についての礼なのかと思い直したのだろう。一気に赤くなった顔を俯いて隠そうとするから、もう一度面を上げさせてそっと口付けた。
「後でまたくれてやる」
囁いた言葉のせいか、彼の顔はいよいよ耳の先まで熱くなる。咄嗟に持ち上げたマグカップの紅茶を啜るでもなく口元を隠して、その中に吐露するように彼は言った。
「おれの中には、どんどん八神さんが増えてってる気がします」
「結構なことだ」
この部屋には、多分これから先も彼の物が増えていくのだろう。狭くもなるし煩わしくもあるが、彼の中にも此方が居るのであればおあいこだ。
皿の上で、スコーンが最後の一つになる。彼は躊躇わずにそれを手にして半分に割ると、大きな方を此方に差し出してくれた。
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G庵真。ふたりでスコーンを食べるだけの話。