夜の虫共が跋扈する時間。
月明かりの差し込む長い廊下を、夜更けに踏み鳴らす不届き物の影一つ。
これ幸いとばかりに近寄ってくる飛蚊を寄せ付けぬよう、大股に目的の部屋へと急ぐ。
「葛の葉ー、お邪魔するよ」
返事を待たずに戸を開くと、文机に頬杖をついていた葛の葉がジロリとこちらを睨んだ。
「邪魔しに来たのなら帰って頂戴」
「いきなりそれかよ」
出会い頭の暴言をさらりと受け流し、俺は無遠慮に足を踏み入れた。
彼女の様子を見れば、今まで暇を持て余していた事は一目瞭然である。
機嫌の悪そうな口調とは裏腹に、内心喜んでいる事は容易に想像できた。
悪びれもなく葛の葉の傍に近寄り、
「ほれ」
と櫛を握った片手を差し出した。
ふわりと良い香りが鼻孔をくすぐる。どうやら風呂に入っていたらしい。
「……何?」
「下賜だ」
「別に、お腹は空いてないわよ」
「いやそっちの菓子じゃなくて。ま、冗談はさておき、今日は母の日だから」
「…………」
あれ、もしかして失敗したかな。俺にしては、なかなか気の利いた贈り物だと思うのだが……。
興味がないのか眠いのか、葛の葉は目を細めてそれを眺めている。
いや、目が細いのは普段からだったか。
「そう。せっかくだし、もらっておくわね」
葛の葉の言葉に胸をなでおろす。
「じゃあ、ここに置いとくぞ」
「ちょっと待ちなさい」
そそくさと退出しようとする俺の背に、制止の声がかかる。
夜も遅いから、あまり葛の葉の時間を取らせたくなかったのだが……。
「どうしてこんな時間に持ってきたのよ」
「いや、何度か足を運んだんだけど留守だったし」
その理由は、この芳香が示す通りだろう。
「ふうん。で、私の風呂上りを狙って夜這いしに来たと」
「これはたまたま偶然だって……そんな目で見るな」
葛の葉の冷たい視線に晒され、俺は何故かしたくもない弁明をさせられた。
一体何をしに来たんだろう俺は。
しかし、良い香りのする葛の葉の傍にもう少し居たいという気持ちがあったのも事実。不純な下心ではない。
くだらない応酬が一通り済むと、葛の葉は櫛を手にして俺に突き返してきた。
「はい」
「ん?」
「……渡しただけで帰ろうなんて許さないわよ」
「えっ?……あぁ、あー……わかったよ」
だったら最初からそう言え。
心の中で愚痴りながら、葛の葉の背後へと移動する。
そのまま何も言わず、俺は毛繕いを始めたのだが――。
「何か言ったか?」
「口より手を動かしなさい」
「……へいへい」
ぽつりと、ありがとうと呟くのが聞こえた気がした。
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年に一度の日常。