No.1019182

病愛桂花

シリアスに挑戦したく思い練習。難しい……。


拙い文章ですが、お読み頂ければ幸甚です。

2020-02-08 14:49:22 投稿 / 全14ページ    総閲覧数:4288   閲覧ユーザー数:3831

 

朝議の時間、玉座の間にて。

 

華琳「痛っ……」

 

事の発端は、華琳のこんな呟きからだった。

 

桂花「か、華琳様!どうなされたのですか!まさかお加減が!?」

 

春蘭「なんだと!大丈夫ですか!?華琳様ぁあっ!!!」

 

我こそが華琳から最も寵愛を受けていると信じて疑わない魏の軍師と武将が、揃いも揃って悲鳴にも似た金切り声をあげた。

 

華琳はそんな二人を片手で制し、もう片方の手ではこめかみを押さえている。沈痛な面持ちで瞑目し――いつもの片頭痛だろうか、かなり辛そうである。

 

華琳「ふぅ……まったく嫌になるわね」

 

一刀「おいおい、本当に大丈夫か。医者に診てもらった方が良いんじゃないか?」

 

不安そうに眉尻を下げた一刀の進言に、華琳の表情が少しだけ和らいだ。

 

華琳「いつもの頭痛よ。そう大袈裟に騒ぐ程のことではないわ」

 

秋蘭「念のため、華佗の捜索を手配しておきましょうか?」

 

華琳「不要よ。そもそも華佗だったら探すよりも待っていた方が早いわ」

 

常日頃、病人を探し大陸中を彷徨っている華佗も、華琳の頭痛の治療のため定期的に魏へとやって来る。何処に居るとも分からぬ者を闇雲に探すより、向こうから来るのを待っていた方が確実なのは確かだろう。

 

しかし、今回に至ってはそう悠長に構えている場合でもなさそうだった。

 

華琳「くっ……ッ!」

 

痛みが酷いらしく、ついには両の手で頭を抱え込む華琳。その苦悶の表情は見ているこちらの頭まで痛くなって来そうな程である。

 

稟「華琳さま……」

 

何か解決策を――と稟が華琳を見詰めつつ考えを巡らせる。

 

風「稟ちゃん稟ちゃん、こんな時に卑猥な妄想で鼻血はどうかと思うのですよ~?」

 

稟「なっ!? ち、違います!」

 

風「え~」

 

冤罪に顔を赤くして否定する稟。風は真意を知ってか知らずかのほほんとしている。

 

季衣「ねぇ、流琉。なんか頭痛いのに効く食べ物ってないの?」

 

流琉「えぇ、そんな無茶だよ……あ、でも、薬膳料理とかなら……う~ん」

 

ちびっこ二人も主人のピンチに頭を悩ませる。

 

一刀「何かないかなぁ」

 

苦しむ華琳と悩める同僚達を見て、一刀も懸命に考えた。

 

こういう時、現代人である一刀が真っ先に思い浮かべる物と言えば、成分の半分が優しさで出来ているという神薬――バファ○ンであるが、あれは天上の物であり、ここにはない。

 

凪「隊長、ここは氣を操って治療を試みるのは如何でしょう?」

 

沙和「お香なんかも気持ちが和らいで良いと思うの!」

 

真桜「いやいや、ここはからくりの出番やて」

 

霞「ほら、あんたら静かにしぃ」

 

秋蘭「御前だぞ」

 

場が騒然となり始めるが、年長組がそれを窘める。

 

華琳「ふぅ……皆ありがとう。さっきも言ったけど、大したことじゃないわ」

 

そう言いつつも、眉間に深い皺を刻み大した表情をしている。彼女の言葉にここまで説得力が無いのも珍しい。

 

一刀「今日は非番だし、色々調べてみるか……」

 

医学書や漢方医、町のお年寄りに民間療法を聞くのも良いかもしれない。現代医学に頼れないのだから、この時代の知識やある物で何とかするしかない。とにかく行動あるのみである。

 

こうして、本日の一刀の予定が決まった。

 

桂花「華琳さま、あなたの桂花が必ずや御救い致します……」

 

春蘭「これは何としてでも華琳様を御救いせねばっ……!!」

 

ボソリ、ボソリと、一刀以外にも並々ならぬ決意で本日の予定を定めた者がいたようだった。

 

パンパン――玉座の上で、華琳が小さく手を叩いた。

 

華琳「さて、仕事に戻るわよ。各々報告をして頂戴」

 

断ち切るような口調でそう宣言した後、やはりどこか機械的にその日の朝議は進められていった。

 

 

朝議が終わると、華琳は秋蘭を伴い直ぐ様自室へと引っ込んだ。今日は執務室ではなく自室にて政務に当たるらしい。

 

朝議の間も皆から華琳への心配は尽きなかったが、場の雰囲気と彼女自身の態度から、あれ以上の言葉を掛けるのは憚られた。しかし、今になってそれらが噴き出し、玉座の間に残された部下達は仕事前の僅かな時間に華琳の頭痛について話し合っていた。

 

風「う~ん、どうやら相当お加減が良ろしくないみたいですね~」

 

間延びした調子だが、むむむ……と悩まし気に声を上げる風。

 

稟「何かお力になれれば良かったのですが、私共は仕事がありますし……いいえ、こんな時だからこそ、完璧な仕事をして華琳様のご負担を軽減しなければ――」

 

稟が拳を握って決意を新たにする。

 

霞「せやなぁ、ウチらにできるのはそれぐらいか。そんじゃ、二人とも仕事行くでー」

 

季衣「えぇー!華琳様が心配だよぅ……」

 

流琉「もう、季衣。今の話聞いてたでしょ?今私達にできるのはお仕事をちゃんとやることだよ」

 

霞が、渋る季衣とそれを論す流琉を連れだって仕事へと出かけて行った。

 

真桜「そういえば、姐さん達は盗賊団退治の遠征やったなー」

 

三人の背中を見送って、真桜が呟く。

 

凪「確か、尻尾を中々掴ませない神出鬼没の盗賊団の討伐任務だな」

 

最近市中を騒がす盗賊団であり、被害状況から、その活動範囲はかなりの広域なものと推察されている。

 

沙和「う~ん、きっと季衣ちゃんも、遠征で華琳さまの側に居られないから余計に不安なんだと思うの」

 

凪「だが、稟さまや流琉さまがおっしゃった通り、今私達にできるのは仕事で成果をあげることだ」

 

真桜「え、成果?」

 

沙和「まっ、真面目に普段通りやるので十分だと思うの!」

 

二人の抗議に凪は真顔で首を振った。

 

凪「駄目だ。というか、普段通りだとお前達真面目にやらないだろ。隊長からも頼まれているし、今日は気合いを入れていくぞ」

 

真桜と沙和を引き摺って玉座の間を出て行く凪。

 

北郷隊は大丈夫なのだろうか……と、残された風と稟は思わず顔を見合わせたが、考えても詮無きことだと思考を打ち切った。

 

風「そう言えば、お兄さんはいずこへ?」

 

稟「確か朝議の後は非番の筈ですが……ふむ、桂花と春蘭さまの姿も見えませんね」

 

風「あの二人も今日はお休みの筈ですよ~」

 

むむ……と、稟の眉間に皺が寄る。

 

稟「………………………最終的に、華琳さまにご迷惑をお掛けしなければ良いが……」

 

その灰色の脳細胞でどこまで先を読んだのか、長考の後になんとも不穏な呟きが漏れ出た。

 

稟「あの三人が一緒に行動するということはまずないとは思いますが……」

 

風「う~ん、こういう時のあの三人の行動原理は同じですからねぇ~」

 

“華琳(様)のために”一刀、桂花、春蘭の三人は、間違いなくそう思って行動を起こしているに違いない。

 

風「そういう時は皆考えも行動も短絡的になりますから、行く先々で出会って衝突する可能性も……」

 

稟「ちょっ、やめて下さい!本当にそうなる気がして来たではないですか!」

 

風が示した不吉な想像に、凛が渋い顔で抗議する。これから仕事だというのに、なんだか大きな不安を抱えてしまった。

 

稟「と、とにかく、私共は早く仕事を終わらせるとしましょう」

 

問題が起こる可能性を本気で考慮し始め、稟は踵を返して足早に執務室へと向かう。

 

風「あ、待ってくださいよ稟ちゃ~ん」

 

そう声を掛けつつも、実にゆっくりとした足取りで同僚に続く風。

 

そんな彼女達の頭上には、先行きを暗示するかのような鉛色の曇天が広がっていた。

 

城にある書庫の中。読書台に置かれた蝋燭の炎がやわらかく室内を照らしている。

 

桂花「…………ちょっと」

 

一刀「ん~……?」

 

視線は本に落としたまま、決して友好的でない言葉が飛び交う。

 

桂花「何であんたがここにいるのよ」

 

一刀「頭痛について調べてる」

 

集中しているためか、普段の彼からすれとあまりに素っ気ない態度ではないだろうか。顔も上げず、聞かれたことのみに機械的に答えたというような返事。無意識だろうが、暗にそれ以上話し掛けてくれるなという空気を醸し出している。

 

当然、桂花も敏感にそれを感じ取ったようで――。

 

桂花「な、何よ!その態度はっ!?」

 

ガタっと椅子を鳴らして立ち上がり、シュビッと一刀を指差した。

 

桂花の目尻には微かに煌めく光の粒が浮かび――彼女のことだから、ぞんざいに扱われたことに対する怒りや悔しさから滲み出た物だろうが、傍から見れば、彼氏に冷たくされ拗ねているような光景に見える。

 

人目が無いことが幸いしたが、この状況、王佐の才――荀彧、痛恨の失態ではないだろうか。

 

桂花「だいたい、何であんたが頭痛について調べてるわけ!?まさかそんなことで華琳さまの寵愛を賜ろうとか考えちゃってるわけ?やっぱり頭に精液が詰まってるヤツは浅はかとしか言いようがないわね!というか何で私の近くに居るのよ!近付かないでよ!この全身精液孕ませ無責任男!」

 

顔を真っ赤にしながら、機関銃の如き怒涛の早口で捲し立てた。

 

対し、一刀は目を丸くして桂花を見詰め、次には信じられないことを口走った。

 

一刀「あ、ああ、桂花。お前も頭痛のことを調べに来たのか?奇遇だなぁ」

 

まるでたった今顔を合わせたと言わんばかりの反応である。

 

桂花「あ、あ、あんたっ――あああんたが後からここに来たんでしょうがぁーっ!!」

 

小さな体を震わせながらの大絶叫。「北郷の癖にっ!北郷の癖にぃいっ!」と、今度はっきりと分かる涙目で地団太を踏んでいる。

 

一刀「え!?そ、そうだっけ……?」

 

冒頭での会話も一刀は桂花をぞんざいに扱っていた訳ではなく、調べ物に集中していたため、反射的に生返事をしていただけに過ぎなかったのだ。

 

桂花も一刀の反応からあの会話は会話ではなかったことを悟り、怒りと蔑みの混じったもの凄い目を一刀に向けた。

 

一刀「マ、マジか……」

 

集中していたとはいえ、幾度か情を交わした相手に対しさすがに失礼だと反省する一刀。しかし、次には腑に落ちない疑問点が湧いてきた。

 

一刀「ん?ちょっと待てよ。俺が来た時にはもう桂花は居たんだよな?」

 

桂花「そう言ってるでしょう。今言われたことも忘れたの?バカなんじゃないの?」

 

こいつは毒を吐かないと俺と会話できないのか、と一刀は嘆息しそうになったが、拗れそうなので話を続けることにした。

 

一刀「俺が来た時にも声掛けたのか?俺、もうここに来て本一冊読み終わってるけど……」

 

桂花「はぁ?何で私があんたなんかに声掛けなきゃなんないのよ」

 

つまり、掛けていない。

 

一刀は閃いた。

 

一刀「はは~ん、さては桂花も調べ物に夢中で俺が来たことに気付かなかったんだろ。俺と一緒じゃないか、はははっ」

 

と、余計な一言を加えて高笑い。

 

桂花「んなぁあんですってぇええええーっ!!?」

 

そして、いつもより沸点の低い桂花。得意の強烈な毒やひねた嫌味で返さず、直情的に怒りを露わにしている。

 

己が主人にして想い人のピンチ(頭痛)に、どちらも少々テンションがおかしくなっているのかもしれない。

 

風の想像も現実味を帯びてきたというものだろう。

 

そして、数刻後。

 

桂花「ちょっと、何であんたがいるのよ」

 

一刀「こ、今度は俺の方が先に居たぞ」

 

二人の姿は、都近くの山中にあった。

 

あの後も書庫に籠っていた桂花と、調べ物が終わると直ぐに町へと繰り出していた一刀。結局、二人が辿り着いた答えは似たようなものだったらしい。

 

一刀「俺はさ、漢方屋のお爺さんに痛みに効く漢方を教えてもらったからその材料を探しに来たんだ」

 

桂花「チッ――」

 

探している薬草が同じ物かまでは分からないが、朝から行動が被ってしまっている事実に、桂花は不快感たっぷりの舌打ちをした。

 

一刀「というか桂花こそ、都から近いとはいえこんな山の中で護衛も着けずに危ないだろう?」

 

見たところ桂花は一人、一刀は彼女の不用心さに眉を顰める。

 

桂花「はぁ?なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないのよ、関係ないでしょ」

 

一刀「あのなぁ、桂花は魏の重鎮なんだぞ。何かあったら――」

 

素っ気なく答え、背を向けて歩き出した桂花に続いて不注意を窘めようとする一刀。

 

桂花「ああっもうっ!うっさい!」

 

桂花がくるりと振り向き、一刀に向かって挑むように八重歯も剥き出しにしかめっ面を突き出した。

 

貧乳で性格も悪いが、魏でもトップクラスの美少女の顔が眼と鼻の先に迫り、一刀はドギマギした。

 

一刀「え、あ……け、桂花?」

 

桂花「護衛なら山の入口に十人程待機させてるわよ!――って、きゃあああ!何近付いてるのよ変態!!」

 

自分からめいいっぱい背伸びをしてまで顔を近付けたのだが、桂花は痴漢被害者の如きリアクションで一刀を突き飛ばした。

 

一刀「――っとっと、急に押すなよ、危ないだろ?」

 

桂花渾身の突き飛ばしは、一刀を半歩後ろへよろめかせただけだった。

 

桂花「~~~~っ!!死ねっ!!!」

 

顔を赤くしながら歯噛みした後、辛辣な一言を残し、桂花は一刀に背を向けひとりずんずんと歩き出す。一刀は慌てて追いかけた。

 

一刀「おいおい、だから一人じゃ危ないって!」

 

桂花「うっさい!付いて来るな!」

 

取り付く島もない桂花。先程の捻りの無い暴言と良い、やはり今日はどこか冷静さを欠いているのかもしれない。そして、それは一刀も同じようで――。

 

一刀「待てって!ほら、また蛇が出て来るかもしれないぞ?前だって大変だったじゃないか、オシッ――」

 

桂花「フンッ!!!」

 

一刀のデリカシーを欠いた発言を素早く察知し、桂花は草刈り用に持っていた小刀をブン投げた。

 

一刀「うわっ!!?」

 

条件反射のダッキングで避ける一刀。鞘に入ったままとはいえ、肝を冷やす攻撃である。

 

一刀「あっ、危ないだろうっ!?」

 

桂花「避けんなっ!!」

 

ほぼ同時に叫ぶ両者。相変わらず、妙なところで息が合っていた。

 

一刀「と、とにかく、一人じゃ危ないから」

 

両手を前に突き出し、猛獣を宥めるかの如くゆっくりと上下させる。

 

桂花は瞬時に利益と不利益を計算し、

 

桂花「ふんっ――」

 

と、顔を背けて歩き出した。その足取りは先程に比べ少しだけゆったりとして見える。

 

一刀は嘆息を一つ、頭を振って、桂花の後に続いた。

 

 

山に入ってから小一時間が経った。

 

二人の薬草採取は順調に進んでいたが、ここに来て天候の方が怪しくなってきた。

 

一刀「まずいな、一雨来るかもしれないぞ」

 

頭上には鉛色の雲が這いつくばっており、空気も湿り気を帯びた独特の臭いを漂わせ始めている。

 

一刀「一度、山の入口まで戻った方が良いんだろうけど……」

 

少し離れたところで薬草を探す桂花を横目に考える。

 

山で雨に見舞われるのは危険だ。土砂崩れや鉄砲水、視界も足元も悪くなるため遭難する危険も高まる。それでなくとも雨に濡れれば否応なしに体力を奪われる。

 

装備も、都から近い山ということもあり、薬草摘みの道具以外は簡単な火起こし道具と護身用の剣くらいしか持っていない。

 

一刀「桂花、一度戻ろう」

 

しゃがみ込んで薬草を探す桂花に声を掛ける。

 

桂花「………」

 

当然の如く、無視。

 

一刀「真面目な話だ、もう戻らないと危ない」

 

神妙な面持ちになってそう続ける。

 

桂花「い・や」

 

対し、桂花は背を向けたまま一言で切り捨てた。

 

一刀「桂花!」

 

珍しく、少し苛立った様子を見せる一刀。桂花もおよそ彼らしからぬ態度に作業を止めて振り返った。

 

一刀「ごめん……。でも、雨も降りそうだし、一度山の入口まで戻らないとダメだ」

 

自分でもらしくないと思ったのか、一刀は少しばつが悪そうに視線をそらす。

 

桂花「ん……」

 

桂花は眉をしかめ、僅かに思案する。

 

一刀の言がもっともであるということは、桂花自身も良く理解している。しかし、桂花の必要としている薬草は残り一種類のみなのだ。

 

桂花は立ち上がると、トコトコと一刀の前までやって来て、上目遣いに彼を睨み付けた。翡翠色の大きな瞳が一刀の顔をじっと見据える。

 

桂花「なら、あんたも探しなさい」

 

表情も口調も有無を言わせない命令調であったが、瞳だけは微かな不安を湛えて揺れていた。

 

一刀「でも……」

 

桂花「あと一つ、見つけるまで、帰らないから」

 

彼女とて、危険を冒してまでやることではないのは分かっている。苦労して集めた薬草も本当に効き目があるかは分からない。しかし、それでも、華琳のために何かしたいと思っての決断だった。

 

だとすれば、こうしている時間も惜しい。

 

「……分かった、早く見つけて山を降りよう」

 

駄目だ、危険だ――そう思いながらも、一刀は頷いた。

 

 

今にも降り出しそうな曇天の下、一刀と桂花は最後の薬草を中々見付けられずにいた。

 

桂花「くぅ~っ、何で見つかんないのよ~っ!」

 

苛立ち交じりの泣き言が漏れる。

 

一刀「残り一種類なんだけどなぁ」

 

溜息交じりに呟きつつ、一度立ち上がる一刀。ずっとしゃがみ込んでいたため、足が痺れ、腰も重たくなっていた。

 

それをほぐすように上体を反らし、ふと空を見上げれば、先程よりも雨雲の色が濃くなっているように見える。

 

一刀「これは結構強く降るかもな」

 

降水量が多くなれば、それだけ災害の危険性も跳ね上がる。

 

その辺りのリスクを考慮し、一度は強く下山を主張した一刀だったが、いざ探し始めると今度はやめることが難しく、今の今まで薬草探しに没頭し、すっかりと引き際を見誤ってしまっていた。

 

桂花「まずいわね……」

 

気が付けば、同じように空を見上げていた桂花が小さくそう呟いた。

 

そして――。

 

ポツ。

 

ポツリ。

 

一刀「うわっ、降って来た!」

 

空から降り注ぐ雫が、乾いた地面の上に瞬く間に斑模様を作って行く。

 

桂花「くっ……ちょっとあんた!何とかしなさいよ!」

 

咄嗟に木の陰に退避した桂花が、一刀に向かって叫んだ。

 

王佐の才と称えられる天才軍師と言えども、この状況では如何ともし難いようだ。

 

一刀「とにかく雨に濡れないところへ……こっちだ!」

 

一刀が桂花の手を引き走り出す。

 

桂花「あっ、なっ、ちょっと!」

 

いきなり手を握られたこと、木の陰から雨の中に引っ張り出されたこと、どこに連れて行く気なのか――突然の一刀の蛮行に、もう何が何やら、桂花はされるがままで言葉を詰まらせた。

 

一刀「そうだ!これ被って!」

 

桂花「はぶっ……!?」

 

今度は突然立ち止まって振り返り、自分が着ていた上着を桂花にかぶせた。

 

一刀「もう少しだ!急ごう!」

 

桂花がもぞもぞと顔を出すのを見届けてから、再び彼女の手を引いて走り出す。

 

一刀「あった!ここだここ!」

 

先程よりも更に山の奥へと進んでしまったが、山の斜面にぽっかりと口を開けた洞窟らしき場所へと避難することができた。

 

桂花「何よ、ここ」

 

一刀「ああ、随分前に季衣や流琉と食材を探しに来た時に見つけたんだ」

 

入口は大きく、高さ、横幅共に五メートル近くは広がっており、声の反響具合から奥行きもそれなりに深そうな洞窟であった。

 

二人はどちらからともなく手近な岩に腰を掛け、洞窟の外の景色を眺めた。

 

雨は、まだ止みそうにない。

 

洞窟に来て、暫し経った頃。

 

雨は幾分か弱まっていたが、まだまだ外に出れるような状況ではない。

 

桂花「ふひゅんッ」

 

一刀「え―――」

 

桂花「なによ……」

 

口を半開きに惚けた顔で見つめて来る一刀を、桂花は半目になって睨んだ。

 

一刀「今の、くしゃみ?」

 

桂花「う、うるさいわね!なんか文句あるわけ!?」

 

変なくしゃみだったという自覚はあるのか、歯も剥き出しに威嚇する姿に、どことなく指摘された悔しさがにじみ出ている気がした。

 

一刀「と、とにかく、なんとか火を起こそう」

 

暖と灯りを取るため、火起こしの準備に取りかかる。

 

一刀は腰に着けていた道具袋から火打石と火口になる油を染み込ませた布を取り出した。

 

一刀「あ~、火は起こせそうだけど燃やす物が無いな」

 

先程より勢いは弱まったとはいえ、外はまだまだ雨が降り続いている。この様子では薪になるような物はそうそう期待できないだろう。

 

仕方なく、一刀は洞窟の中を見回したが、暗くてよく分からない……。

 

すると、桂花が無言で一刀の足元に何かを放った。

 

一刀「え、これって?」

 

桂花「見れば分かるでしょう、薬草籠。さっさと火を起こしなさいよ」

 

どうやら一刀が準備している間に、桂花も桂花で、持って来た薬草籠を解いて薪の準備していたようだ。

 

一刀「あれ、でも籠を解いちゃったら採った薬草はどうするんだ?」

 

あれだけ苦労して集めたのに捨ててしまうのだろうか。一刀が火を起こしながら尋ねた。

 

桂花「死ぬほど嫌だし不本意だけど、あんたに持たせることにする」

 

と、本当に心底嫌そうに顔を歪める桂花。

 

一刀「いや、俺、薬草籠持ってないけど……」

 

桂花「そのきっちゃない袋があるじゃない」

 

火打石などを入れていた道具袋とは別の、一刀がたすき掛けにしている大きな巾着袋を指差した。

 

一刀「ええっ、ちょっと待ってくれよ。この中には俺が採った薬草が入ってるんだぞ?」

 

抗議しつつも、一刀は火起こしに成功し、焚火の炎が暗かった洞窟内部を照らし出す。

 

桂花「捨てれば良いじゃない。そもそもあんたの採った薬草なんて華琳様が妊娠しちゃうでしょう」

 

焚火の熱も伝わってきたためか、桂花が少しだけいつもの調子を取り戻す。

 

一刀「あのなぁ……」

 

桂花「どうしてもって言うなら、そっちの小さい袋の方に入れ替えれば?あんたの作ろうとしてる漢方薬だったら薬草の量はそんなに必要ないんだから」

 

最早、どちらに主導権があって然るべきなのか分からなってくる物言いだが、桂花はそう言い切って、今度は一刀の道具袋を指差した。

 

一刀「ああ、なるほど」

 

道具袋は、先程火口用の布を使い果たしたため萎んでおり、加えて、火打石などもポケットに移せば、道具袋を薬草入れとして使うことができそうだった。

 

桂花の指示の下、一刀は採取した薬草を道具袋に詰め替え、桂花は空いた一刀の巾着袋に自分の薬草を詰め込んでいった。

 

 

また少し経って、雨は随分と小降りになっていた。

 

一刀「せっかく服も折角乾いて身体も温まったけど、暗くなる前に何とか下山しないと」

 

薪代わりにした薬草籠もほとんどを燃やしてしまい、後数分もすれば焚火も終わりになるだろう。

 

桂花「行くならあんた一人で行きなさい、私は護衛の兵が探しに来るのを待つから」

 

一刀「いや、でも結構山奥に来ちゃったし、皆ここが分かるか?」

 

そう首を傾げると、桂花が嘲るように言った。

 

桂花「はぁ、あんたって本当に頭の中に精液しか詰まってないのね。ま、華琳様に一番愛されている才能溢れる大陸一の軍師である私はきちんと対策してるけど」

 

なにやら久しぶりの桂花節である。

 

桂花「間接的にあんたまで助けることになるのは痛恨の極みだけど、華琳様に心労をお掛けする訳にもいかないから仕方ないわ。でもあんた、これから一生私の奴隷ね」

 

とんでもない要求だが、一刀もこの程度は慣れた物で、黙って続きを促した。

 

桂花「……ここに来るまでに、色を塗った軽石を落として来てるし、木にも目印をつけてある。大まかな薬草採りの範囲は事前に打ち合わせてあるから捜索もそんなに時間は掛からないでしょ」

 

一瞬不満そうな表情をしたような気がしたが、桂花は澄まし顔ですらすらと答えた。

 

一刀は感心すると同時に、自身を不甲斐無さを恥ずかしく思った。

 

一刀「それは、なんとも、ご迷惑をお掛けします……」

 

恐縮しきりである。

 

桂花はそんな一刀を訝しく思いながらも、「本当よ」と呟いた。

 

本来であれば、桂花の行動は正しく、感心されて然るべき対策の講じようだろう。

 

しかし、今回ばかりは、それが裏目に出てしまうのだが――。

 

 

バチャ、バチャ、バチャ。

 

 

洞窟の外から複数の足音が聞こえた。

 

一刀「足音?」

 

桂花「ふぅ、これでやっと帰れるわ」

 

外を眺めていたため、直ぐに気が付くことができた。

 

桂花「いいこと?これからは平身低頭、日陰者として一生私に尽くし――」

 

桂花による一刀奴隷認定の宣言は最後まで言い切られることはなかった。他の誰でもない、一刀の手によって物理的に止められたのだ。

 

一刀は得意満面の桂花を素早く抱え込み、チロチロと踊っていた残りわずかな焚火を蹴っ飛ばして消火すると、桂花を抱えたまま洞窟の奥へと身を隠した。

 

桂花「な、なにす――」

 

一刀「しっ!」

 

抗議しようとした桂花を強く制する。

 

一刀「……この足音、うちの兵じゃない……」

 

桂花「っ!?」

 

一刀の言葉に、桂花が身を硬くする。

 

複数の足音が近付き、ついに洞窟内へと入って来た。

 

『おい、誰か居るのか?』

 

低い男の声が反響し、一刀も桂花も暗闇で息を潜める。

 

『前にここを使った奴が落として行ったんじゃないか?この軽石――』

 

また別の男の声を聞き、桂花がビクリと肩を跳ねさせた。

 

まだ顔を出して覗き見る訳にはいかないが、『軽石』といえば、桂花が目印に落として来たという『軽石』のことだろう。

 

『まぁ良い、とにかく火だ』

 

『おい、お前らは入る前に薪を探して来い』

 

恐らく、洞窟の外に向けて言ったのだろう。命令の後に複数の足音が遠ざかるのを感じた。

 

『火を起こしたら奥の方も確認しに行くぞ』

 

『おう、誰か居るんだったら目と口を閉ざしてやらんとな』

 

剣呑な雰囲気。とても冗談には聞こえない。

 

『しかし、今回の仕事も上手くやれたようだな』

 

『ああ、撹乱のために虚偽の情報を流して囮まで雇ったからな』

 

『そこから足が付く可能性は?』

 

『その手配は俺だったんだが、浮浪者を何人か介しての指示だから問題ないはずだ』

 

『よし、では取り分の話だが――』

 

状況と男達の会話の内容も相まって、一刀は舌打ちを堪えるのに苦労した。

 

桂花「ちょっと……離して……」

 

一刀の腕の中で身動ぎしながら囁く桂花。一刀は反射的に謝ろうとしたが、桂花の手が口に押し当てられ止められた。

 

桂花は一刀を軽く奥へと押しやると、男達の声を聞き、次には岩の隙間からその様子を覗き見た。

 

桂花「六人……あれ、あいつ……確か、霞達が追ってる盗賊の……?」

 

現在霞が追っている神出鬼没の盗賊団。今朝も季衣と流琉を連れだってその捕縛に向かったはずだ。

 

一刀「――ってことは……さっきの会話からすると……裏を掛かれた……?というか、犯人の目星がついてたのか……?」

 

桂花「……前科者から、何人かね……」

 

その一人がこそに居る、と桂花は歯噛みした。

 

偽名の可能性は高いが、男の名は李梓涵だと言う。

 

表向きは行商人の肩書きを持っているが、過去に詐欺紛いの商売での逮捕歴があり、その後も裏で何らかの犯罪に関与していると睨まれていた人物らしい。

 

一刀「……良く目を付けてたな……」

 

桂花「……奴の周りの金の流れが不自然だったのよ……」

 

警備隊長でもある一刀としては、その辺りのことを詳しく聞きたいところではあるが、今はそんなことよりも生きてこの状況を脱するのが先決である。

 

一刀が岩陰から入口付近でたむろする男達を睨みつつ言った。

 

一刀「……俺が飛び込んで引っかき回す……桂花はその隙に……」

 

逃げろ――と、より一層低く抑えられた声に、決意の程が伝わって来るようだった。

 

桂花は弾かれたように振り返って、反射的に一刀の服を掴んで握り込んだ。

 

桂花「まっ……待ちなさいよ……引っかき回すって、何よ……っ」

 

意味は分かっている。この場においては、一刀の決断が最良であることも桂花は重々承知している。

 

これまで軍師として、多くの味方の兵を死なせ、それよりも多くの敵の兵を殺す策を講じて来た。命を数として考え、状況を冷徹に判断する事には慣れている筈だった。しかし――。

 

一刀「……薪を探しに奴らが散ってる今しかない……行くぞっ……!!」

 

桂花の返事は待たず、一刀は硬い地面を蹴って躍り出た。

 

 

可能な限りに足音を殺し、洞窟の入口に向かって疾走する。

 

圧倒的に数の多い“敵”に、単身立ち向かわなければならない恐怖はいったい如何程だろう。

 

だが、奇襲と先制――戦いにおけるこの定石が決まらねば、数で劣る一刀には万が一の勝機も無く、注意を引き付けることすら難しい。

 

一刀は意を決し、接敵までの最後の踏切で大きく跳躍――護身用の剣を抜刀と同時にそのまま横薙ぎに振り抜いた。

 

『ぐッ!!――……』

 

『うぎゃっ!!』

 

『なっ、なんだぁあっ!?』

 

『慌てるな!全員離れて剣を抜け!!』

 

一人は完全に背後からの奇襲となり断末魔をあげる間もなく絶命させ、また近くに居た別のもう一人には顔面に深い手傷を負わせることに成功した。

 

これで残り四人。

 

初手で二人減らせたのは幸運だったが、この状況でも比較的冷静な人間がいることは大きな誤算である。

 

思った程の混乱が起きず、一刀の中で焦りと恐怖が膨れ上がる。

 

一刀「うおおぁああああああああっ!!!」

 

もはや奇声とも言える雄叫びを上げ、一刀は前方に駆け抜けながら剣を振り回す。

 

すると、偶然にも抜刀中であった一人の男の剣を弾き飛ばし、何とか洞窟の外へと脱出するに至った。

 

『クソが!ナメた真似しやがって!!』

 

剣を飛ばされた男が激昂し、一人で数歩前に突出して来る。半ば正気を失っているとさえ見える激し振りだが、一刀から打って出れるような好機ではない。そのため、一刀は揺さ振りを掛けることにした。

 

一刀「俺は首都警備隊隊長の北郷一刀だ!お前達は最近この辺りで犯行を重ねている盗賊共だな!!」

 

男達は一転して冷や水を浴びせられたように硬直した。

 

一刀「お前達の特徴は張遼将軍より聞いている!こちらの手の者も近くに待機している!観念するんだな!!」

 

なかなか堂に入った勧告だが、内心は冷や汗ものの状況である。

 

『け、警備隊長ってことは、こいつ天の御遣いって奴じゃないのか……?』

 

『チクショウ!魏王の側近中の側近じゃねぇか!!』

 

『おい!どうする!?』

 

男達が取り乱し、彼らの中で唯一冷静な男に縋るような視線を投げ掛けた。

 

『落ち付け、俺達を知った者が誰であろうとやることは変わらない』

 

一刀「……そう簡単に諦めてくれないよな……」

 

半ば予想していた展開ではあった。犯罪者側に知者がいると厄介なものである。

 

だが、それで一刀はピンと来た。

 

一刀「そうか、お前が梓涵だな?」

 

自信たっぷりに言い放つ。もちろん虚勢に過ぎないが……。

 

『うっ、こ、こいつ!?』

 

『お、おい、名前を……?』 

 

『俺達のことを知ってやがるのか!?』

 

他の賊達の反応に、一刀は内心ほくそ笑み、冷静な男――李梓涵は舌打ちをした。

 

『落ち付けと言っている』

 

梓涵が努めて冷静に仲間を宥める。

 

『で、でもよ、魏の兵が来てるって言うぜ?』

 

『逃げた方が良くないか?』

 

すっかりと及び腰になっている男達に、梓涵が毅然と答えた。

 

『本当に兵が近くにいるのなら、魏の重鎮であるこの男が単身で俺達に切り込む状況を許すはずがない。仮に兵が迫っているのだとしたら早々に口を閉ざしてやらんとならん。この男が一人でいる今が好機だろう。やることはいつもと変わらない。いつも成功している俺達ならできる。そうだろう?』

 

その言葉に、狼狽していた者達の目にも力が戻って来る。

 

一刀「チッ――後悔するぞ!!」

 

吐き捨てるように言って、一刀は脱兎の如く駆け出した。

 

一刀「俺だ!北郷一刀だ!!魏の兵はここに集まれ!!」

 

盗賊達を引き付け、同時に近くに居るかもしれない護衛の兵に知らせるため大声を張り上げる。

 

途中で走りながら背後を確認すると、四人の男達が、あの冷静な梓涵でさえ、一刀を逃がすまいと追って来る。

 

一刀「よしっ――俺は警備隊隊長の北郷だ!魏の兵は直ぐに集まれ!!」

 

対戦を考えれば絶望的な状況であるが、あくまでも第一の目的は洞窟内の桂花を逃がすこと。

 

一刀は桂花の無事を祈りつつ山の斜面を駆け抜けた。

 

外は微かに小雨が振っていた。

 

洞窟内に響いていた一刀と盗賊達の怒号が止んでから数分、桂花は細心の注意を払いつつ這い出る様に洞窟の奥から脱出した。

 

『いでぇ……いでぇよ……ちくしょうぅ……』

 

洞窟の入り口付近には、既に事切れた男と顔面に重傷を負った男だけが転がっており、それ以外の者は見当たらない。

 

状況から見て、一刀は残りの四人全員を引き連れて行ったようだ。

 

桂花「あんのっ……馬鹿っ……!!」

 

整った顔が苛立ちに歪む。

 

一刀の無鉄砲さにも腹が立つ一方で、あの状況では一刀の決断が最善であったことは間違いなかった。

 

しかし、それでも思わずにはいられない。

 

あのまま洞窟の奥で盗賊達をやり過ごしていれば――。

 

姿を現すにしてもせめて交渉に持ち込んでいれば――。

 

どちらも現実的でないのに、らしくもない後悔の念が込み上げる。

 

前者では、薪拾いから戻って来た盗賊の人数が増え、その上に火まで焚かれて捜索されてしまえば身を隠し続けることは難しかった。

 

後者では、魏の厳格な法を前に罪を重ね、死罪か無期労働刑が確定しているような盗賊達が、自分達の有利な状況で説得や交渉に応じたとは到底思えない。話し合いとは、実力で勝り有利な方が提案できる選択肢である。その点を踏まえても、彼らは逃亡か目撃者を消すかの二択しか選ばなかっただろう。

 

故に、一人が囮になってもう一人を逃がし、逃げた方が護衛の兵を呼びに行く――それが現実的かつ最善であった。

 

問題は、囮になる者の危険度の高さである。たった一人で盗賊を引き付けて逃げ続けるか、いざとなれば対峙しなければならない。

 

まさに、今の一刀がそうしているように――。

 

桂花「弱い癖にっ……!」

 

息を殺して周囲に気を配りながらも、思わずか細い声で悪態をつく桂花。

 

こんな時に、こんな時だからこそなのか、普段の一刀が見せていたお人好しな笑顔が脳裏にちらついた。

 

不吉な予感――桂花の中の不安と焦りが鎌首をもたげる。

 

桂花「ああっもうっ……!!」

 

弱気になっている自分が許せなかった。

 

桂花は頭を振って辺りを見まわした。

 

洞窟から脱出できたが、まだまだ予断を許さない状況であることに変わりはない。薪拾いに散っている盗賊達が戻って来る可能性もある。

 

桂花「ふぅ……道は……」

 

軽く息を吐き、それたけで余計な感情を一瞬で抑えつけた。軍師としての彼女が戻って来る。

 

頭の中で、書庫で確認して来た山の地図と、ここに辿り着くまでの景色の記憶から、登山口までの大まかな道筋を割り出す。

 

また、薪探しの盗賊達にも注意が必要である。外は雨が降っており、薪になる物を求めるならば何処を探すか……。

 

桂花「よし……」

 

考えをまとめると、桂花は身を低くして藪の中に飛び込んだ。

 

四人の男を引き連れ山中を逃げ回る一刀。

 

焚火で乾かした服は濡れ、一度温まった肌も冷え始めている。しかし、長時間走り続けているため、身体の芯や節々だけは異様な熱を帯びていた。

 

一刀「はぁ!はぁ!はぁ!」

 

顎が上がり、荒い呼吸を繰り返す。走り回るのにも限界が近い。一刀は足場に気を配りながら、一瞬だけ振り返って背後を確認した。

 

『はっ!あ゙ぁはっ!はぁっ!』

 

『はぁっ!はぁっはぁっ!』

 

盗賊達が、やはり酸欠に喘ぎながらも必死の形相で追って来ていた。

 

当初見せていた四対一という数の利を活かした一刀の退路を塞いでくるような連携も無く、今や個人の力量に寄って盗賊達の間でも差が開いて来ている。

 

それを確認し、一刀は覚悟を決めた。仕掛けるならば今、そして、こちらからでなければならない。

 

一刀は僅かに減速し、走りながらも呼吸を整え始める。

 

先頭を走っていた盗賊の一人は、一刀の背中が近付いたことに気付き、残り少ない体力をつぎ込んで強制的に重い足を加速させた。

 

背後から敵が迫るのを感じ、一刀の中で恐怖が爆発的に膨らむ。

 

万が一にも掴まれたり、体当たりを受けて地面に転がされてはなすすべはない。その前にこちらから――。

 

一刀「はぁ!はぁ!はぁっ――疾ッ!!!」

 

一刀はタイミングを計り、地面を踏み付けるように足を止めた。

 

急激な“動”から“静”の切り替えに、ここまで酷使して来た腿が悲鳴を上げる。だが、それでも何とか倒れ込まぬよう踏ん張って、そのまま振り向き様に剣を抜き放つ。後ろを一切確認しないめくら切り。一刀は辛うじて体制を崩すことなく剣を振り抜くことに成功した。

 

ズバッ!

 

剣先から伝わる痺れるような振動。

 

『うぐわぁあああっ!!?』

 

一刀の背後に迫っていた盗賊の一人から絶望的な悲鳴が上がる。

 

盗賊は予期せぬ凶刃の一線に仰天し、酷使していた足はもつれ、体制を崩して足場の悪い斜面を転がり落ちて行った。

 

一刀は正眼に構え残りの盗賊を迎え撃つ。

 

一刀「はぁ!はぁ!はぁ!ふぅー……!」

 

息を整えながらも剣の切っ先を確認すると――血が付いていない。

 

振り向き様の一撃は確かに何かを切った手応えを感じたが、もしかすると服を切っただけだったのかもしれない。

 

『奴はっ……はぁ!はぁ!大丈夫、か?はぁ!はぁ!』

 

『ぐっ、はぁはぁ!俺が、はぁはぁ!見に――』

 

『はぁはぁ!くそっ、はぁはぁっ!』

 

追い付いて来た残りの盗賊三人が息も絶え絶えに抜刀。冷静な男――梓涵は、一刀の反撃によって斜面を転がり落ちて行った仲間の様子を見に離れる。

 

これで、一対二。

 

陽が傾き、辺りも薄暗くなってきた。

 

色を失いつつある風景の中に赤い鮮血が飛ぶ。

 

一刀「ぐぁっ……!」

 

肩口を切られ、苦悶の表情と唸りを上げる一刀。新たな傷から出た血液が、濡れた服に滲んで広がって行く。

 

対峙する盗賊二人も無数の切り傷を負っているが、一刀はそれ以上に傷と血に塗れている。

 

『はぁはぁ!くそっ!』

 

『はぁ、ふぅ……しぶてぇ、野郎だっ……!』

 

一刀はここまで付かず離れず、時には逃げながらも有利な位置取りを確保しつつ盗賊と交戦して来たが、やはり数の差は覆し難かった。

 

一刀「くっ……せぇぁあああっ!!」

 

気合十分の掛け声と共に繰り出したのは、相手の小手先を狙った素早い突き。

 

『うおっ!!?』

 

盗賊はすんでのところで躱したが、そのために大きく跳躍し後退。

 

一刀は数歩後ろに下がって逃げる素振りを見せつつ、また有利な位置取りを確保する。

 

『くそが!こいつまた!!』

 

もう一人の盗賊が、その一刀の動きを見て苛立ちを露わにする。

 

逃げる素振りを見せつつ有利な位置を確保する、時には本当に逃げる、そう見せ掛けて反撃する――地味で単純なフェイントだが、相手も疲れていることもあり、ここまでは有効に作用し一刀を生き長らえさせていた。

 

だが――。

 

『そっちから行け!俺は逆から行く!』

 

『おう!くらえやぁああ!!』

 

やはり手数の差だけは埋めようがない。

 

一刀「ッぎ!!?――っぐうぅっ……ぉおおおっ!!!」

 

同時に斬り掛かられ、一人の斬撃は剣で弾いたが、もう一人の剣先が一刀の脇腹を捉えた。

 

吐き気さえ催す激痛に、一刀は奥歯を噛み砕かんばかりに食い縛って耐え忍び、無理矢理剣を振るって相手の追撃のタイミングを潰す。

 

二撃目の体制に入っていた盗賊は、その思わぬ反撃に驚き、振り被っていた剣を取り落とし背中から後ろに倒れ込んだ。

 

『馬鹿!早く立て!!』

 

仲間の盗賊が叫ぶ。

 

一刀「っ――うぉおおおおおっ!!」

 

突然降って湧いた千載一遇のチャンスに、一刀が雄叫びと共に剣を振り下ろした。

 

薄暗い景色の中に重い金属音と火花が散る。

 

『ふぅ……間一髪だな』

 

振り下ろした一刀の刃は、倒れた盗賊の頭上――寸でのところで止められていた。

 

『お、おお!戻ったか!』

 

『た、助かったぜ……』

 

一刀と死闘を繰り広げていた二人の盗賊が安堵のため息を漏らす。

 

一刀は自らの渾身の一撃を止めた相手を認識し、その表情をより一層険しくさせた。

 

『はっ!』

 

――ガギン!

 

金属音と共に一刀の剣が跳ね返される。

 

一刀の一撃を止めたのは、斜面を転がり落ちた仲間の救助に向かっていたあの梓涵であった。

 

いずれ追い付いて来るとは思っていたが、想定よりも早過く、タイミング的にも最悪である。

 

『お、おお!助かったぞ!』

 

『良いからさっさと立て、それとお前達は傷の手当てをしろ』

 

梓涵が油断なく一刀を睨み付けたまま仲間に指示を飛ばす。

 

『一人でこいつをやる気かよ!?』

 

『手当ったって、俺らは何も持ってないぞ?』

 

その言葉を受け、一刀と対峙する梓涵は不敵な笑みを浮かべた。

 

『安心しろ、ちゃんと援軍を連れて来た……おい!』

 

――ガサガサ!

 

いつの間に回り込んだのか、一刀を取り囲むように、梓涵達と似たような格好の者達が現れた。

 

それは、洞窟の前で梓涵達に薪拾いを命じられていた者たちだった。

 

最悪の展開に、一刀は密かに歯を噛み鳴らした。

 

「……唯一の救いは、これで敵の殆どは引き付けられたことか……」

 

一刀が皮肉気に口の端を吊り上げる。

 

『へっ、コイツ笑ってやがる』

 

『良い度胸だぜ』

 

そうして、殺気を放つ刃が一刀に襲い掛かった。

 

一刀は斜面の巨木に背を付け、五人の盗賊と対峙していた。

 

『オラァ!!』

 

正面の盗賊が、所々錆の浮いた野太い清流刀を叩き付けるように一刀に振り下ろす。

 

一刀「くっ……!!」

 

剣を担ぐようにして斜めに構え、重い一撃を滑らせることで辛うじて捌く一刀。

 

しかし、一つの刃を防げば、残りの四つの刃に切り刻まれる。

 

一刀「ぐぁっ……!!」

 

腿と腕を刺され、僅かに腰が落ちたが、何とか踏み止まって剣を振り回す。

 

腕だけで振られた腰の入っていない脆い剣筋。

 

最早、反撃とは言えず、追撃を防ぐための虚勢に過ぎない。

 

一刀を取り囲む五人の盗賊達もそれを承知しているようで、あえて急所を外していたぶっているように見える。

 

『天の御遣いとやらも形無しだな』

 

『お前ら!仲間の仇だぞ!やれやれ!』

 

『これで酒でもあれば最高なんだがなぁ』

 

梓涵含む残った幹部三人も、傷の手当てをしつつ今や高みの見物を決め込んでいる。

 

怪我、疲労、人数の違い、勝敗は誰の目から見ても明らかだった。

 

しかし、それでも一刀は諦めない。

 

極限状態の一刀の脳裏には仲間達の声が響いている。

 

――お前は非力だ!だからもっと敵をひきつけろ!

 

――殺られる前に殺る、これが鉄則やで!

 

――良いか北郷、戦うと決めたなら躊躇はしないことだ。

 

十分過ぎる程に引き付けている。もう三人も殺った。躊躇している余裕なんてない。

 

一度でも倒れれば止めを刺されて終わるだろう。だから、どれだけ刺され切られようとも倒れる訳にはいかなかった。

 

血に濡れた剣の柄を握り直す。抜け殻となりつつある身体に力を込めると傷口から新たな血が噴き出るのを感じた。

 

限界が近い。

 

自分の死が、直ぐ目の前に迫っている。

 

通常ならば絶望や諦観を覚えてしかるべき場面だが、一刀の脳裏にあるのは、ただ一つの気掛かりのみ。

 

「……け、い……ふぁ……」

 

血濡れの唇から、ひゅぅ、ひゅぅ、と掠れた呼吸音に交じり、随分と前に別れた少女の名前が紡がれる。

 

桂花は無事に魏の兵に出会えただろうか?

 

一刀は迫りくる五つの凶刃を前に、桂花の無事を祈った――。

 

 

桂花が護衛に連れて来た魏の兵と出会った頃には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。

 

「たった今、北郷一刀が盗賊団を引き付けてるわ!兵の内、二人はこの事を城に知らせに帰りなさい!他の者は北郷を追うわよ!」

 

馬に跨りながら指示を出す桂花。

 

指示を受けた兵は、桂花も城に戻るか少し休憩することを勧めたが、彼女は聞き入れなかった。

 

もはや服は泥だらけで両膝には痛々しい擦り傷が血を滲ませており、誰の目からも疲労の限界で、桂花自身にもその自覚はあった。

 

しかし、耐えがたい不安が、焦燥が、今の桂花を突き動かす。

 

「ああもうっ、あんな奴のために……っ」

 

悪態をつく唇が何かを耐えるように噛まれ、瞳の端には熱い潤みさえ溜まっている。

 

桂花は悲痛な表情を取り繕うこともしないまま馬の手綱を打ち付けた。

 

山道。

 

薬草採取をした場所。

 

洞窟。

 

一刀が走り去った斜面。

 

馬を駆り、時には徒歩で、連れて来た少ない兵を使って、桂花は効率的に的を絞って行く。

 

そして、遂に見付けた。

 

本来、純白に煌めく筈の天の衣を血泥で赤黒く染め、大きな樹木の根本で力無く首を垂れるその姿を――。

 

桂花「な、にっ……やってん、のよ……っ?」

 

掠れた声は、酷く弱々しく頼りなく、震えている。

 

鼻奥がつんとして、次には視界が大きく揺らいだ。

 

ぽろぽろと雫を溢す両眼を見開いた桂花の前には、余りにも普段とかけ離れた彼の凄惨な姿。

 

桂花「あ、あんたに、何かあったら……じ、じひっ、慈悲深い、華琳様が、悲しむかもしれないでしょ……?」

 

うわ言のように漏らし、ふらふらと覚束ない足取りで一刀に近付く桂花。

 

周りの兵は怒声を上げながら駆けずり回り、一刀の手当をするべくその準備を始めている。

 

桂花「ほ、北郷……?」

 

一刀の前に両膝を突いた桂花が、彼に向かってその手を伸ばす。

 

冷たくなった互いの手が触れ合うと、一刀の方の腕が力無く垂れ、手が濡れた地面の上に滑り落ちた。

 

すると、その反動で、血塗れの彼の懐から、何かが転がった。

 

落ちた物を拾い上げて確認すると、桂花の両目からは熱い雫が止めど無く溢れ始めた。

 

桂花「なっ、なに、よっ、これ……っ!」

 

それは、桂花が集めた薬草を入れた巾着袋だった。

 

桂花「こ、こんなっ……こんなのっ、後生大事に持ってっ……ばっ、ばっっがじゃないの……っ!!?」

 

怒りや悲しみ、名状し難い感情の濁流が押し寄せて、桂花の心身を震わせる。

 

止めどない涙に視界が歪み、喉の奥も胸の奥も、締め付けられたように痛くて苦しい。

 

桂花「あ、あんだがっ……っ、あんたがぞんなんじゃっ、なんにも……っ、なんにも意味ないじゃないっ!!」

 

一刀は血塗れになりながらも、薬草の袋を抱えて離さなかった。

 

その行動がどんな心境で行われたことなのか、彼を知る桂花には痛いほど良く分かってしまう。

 

一刀は華琳のためだけでなく、桂花が華琳のために集めた物だったからこそ、最後までそれを離さなかったのだ。

 

桂花「っ……ばが、あほぉ、っ、おだんごなうぅっ……っ!」

 

軍師であり、男嫌いである桂花を以ってしても、溢れだす感情を制することは難しい。

 

桂花は手当をされる一刀の横で、いつまでも彼の名前を呟き続けた。

 

凶報を受けた魏の動きは迅速だった。

 

静養中の華琳の代行で、秋蘭がその時点で集められる魏の重鎮と兵を総動員し、一刀と桂花の救出に動いた。

 

そうして、初動から約半刻程――。

 

血塗れの一刀と、彼を必死で介抱する桂花と、二人を守る魏の兵数人に、魏軍は追い付いた。

 

一刀と桂花はそのまま城の病室へと速やかに運ばれ、城の常駐医と都中から集められた医者達による治療が行われた。

 

桂花の方は怪我は比較的軽症だったが、極度の疲労と緊張の糸が切れたことにより、数日間は起き上がることができなかった。

 

その間、寝ている時はうわ言で一刀を呼び続け、起きている時は部下や侍女に一刀のことを尋ね続けた。それはもう、それこそ、病的とも思える程に――。

 

当の一刀の方はというと、医者達の懸命なる治療もあって一命は取り留めたものの、未だに意識を取り戻すには至っていない。

 

そして、それら全ての知らせを受けた華琳は、悪鬼の形相となった。

 

魏の重鎮を集めた玉座の間にて、底冷えするような声で魏の全軍での山狩りと魏の民全てを動員しての華佗の捜索を命じた。

 

華琳「魏の全軍を以って、この件に関わった盗賊全員を生け捕りにせよ……殺すことは許さん……私が、この手で、処断する――」

 

凶報と頭痛の影響で顔は青白く、しかし目だけは赤く血走りギラギラとして尋常ならざる迫力を宿している。

 

今の彼女にあるのは、厳格な王としての鮮烈な恐ろしさではなく、まるで冥界から這い出た幽鬼の如く不気味で背筋が凍り付いてしまうような恐ろしさがあった。

 

常人ならば、卒倒していたことだろう。

 

しかし、今この場に居る者達は、誰一人として恐怖を感じていなかった。

 

稟「私は魏の全土……いえ、大陸全土に華佗捜索の触れを出します。風、貴方は――」

 

風「兵を使った決め打ちでの華佗の捜索ですね。ここに来る前に既に手配しておきました」

 

ここにいる全員が、華琳と同じ熱量の怒りに支配されているのだから。

 

春蘭「賊を捕らえる。邪魔する者は全て殺す。行くぞ季衣」

 

言葉の端々に歪な殺気と怨念を漂わせ、感情の抜け落ちた能面のような表情で踵を返す春蘭。

 

季衣「兄ちゃんにケガさせた奴ら……絶対に許さない……ブチ殺してやる――っ!!」

 

業火の如く燃え盛る憎悪を溢れさせ後に続く季衣。

 

流琉「季衣。そんなに簡単に死なせてあげたらダメだよ? まずは華琳様の、私達の足元に転がさなくちゃ――」

 

光の無い瞳で冷酷に微笑む流琉。

 

霞「流琉の言う通りや。簡単に頸刎ねて終わりにしてやるような話やないで」

 

その両眼に何か狂信的なまでの光を宿す霞。

 

秋蘭「城には私が詰めていよう。各自、報告を怠るな。私も、賊の姿を見るのを楽しみにしていよう」

 

歯を剥き出しに、裂けるような笑みを浮かべる秋蘭。

 

凪「隊長と桂花様の護衛は我々にお任せ下さい」

 

沙和「隊長達を守るの!」

 

真桜「ここは任せてや」

 

仄暗い瞳を見開きながら、異常なまでにいつもの顔、いつもの声色で、そう宣言する三羽鳥。

 

誰も彼もが尋常ならざる様相を呈している。

 

果たして、この歴史に名を刻む程の英雄達の怒りを買った者の末路は如何程なのか。

 

それは、推して知るべきものなのだろう――。

 

城内にある病室は、天の御遣いたる北郷一刀の提案により、白色や薄桃色を基調とした優しい色合いで統一された内装をしていた。

 

制作にあたっては、華佗や風水師などからも“人体に良い影響を与える”とのお墨付きをもらった拘りの一室である。

 

現在、その病室には病人たる少年とそれに付き添う少女――二人の姿があった。

 

桂花「ふん、自分で意匠した病室に自分で入ってたら世話ないわね」

 

桂花は寝台横の丸椅子に腰掛け、桃の皮を剥きながらそう言った。

 

――仕方ないだろう?結構重傷だったんだから。

 

桂花「弱い癖に格好付けるからそういうことになるのよ。アンタが悪い!」

 

――ったく、はいはい。

 

桂花「……でも、ほんの少しだけど、アンタの無茶のおかげで私も助かったところもあるし……」

 

その頬や耳まで朱く染め上げながら、なんとも不服そうな表情で目線を反らす桂花。

 

桂花「だ、だからっ、これは特別だから!仕方なくだから!借りを作りたくないだけだから!」

 

いきなり顔を上げてそう捲し立てると、剥いて切った桃の一切れを楊枝で刺し、それを自分の口に運び含んだ。

 

狭い口内で、桃の果肉をむぐむぐと十分に咀嚼する。

 

そして、桂花はそのまま一刀に近付くと、まるで壊れ物でも扱うように彼の両頬に手を添えて、そっと口付けを落とした。

 

桂花「んっ……ん……」

 

鼻に掛かった甘い吐息が漏れる。

 

少しずつ、少しずつ――両手で一刀の頭を支え、少し顔を上げた状態で、仰向けの彼が咽ないように、桂花は咀嚼した桃をゆっくりと口移しで流し込んで行く。

 

蕩けるような甘美な時間。桂花はその行為に陶酔し自身の思考に霞が掛かって行くのを自覚する。これではまともな思考など出来よう筈もない。それは軍師としてはあるまじきことだろうが、今はそんな瑣末なことはどうでも良かった。

 

桂花は口内の桃水が半分程無くなったところで一度流し込むのを止め一刀の様子を見る。

 

すると、寝台の上で身動ぎもしない一刀の喉が、まるで桂花の行為に答えるようにコクリ……と微かに動くのを認め、桂花の胸中は喜色で溢れかえった。

 

口付けをしたままの状態で一刀の息遣いを十分に確認してから、桂花は残りの桃水の口移しを再開する。

 

「ん……んん……」

 

頬や耳を上気させ、艶めかしい息遣いを響かせながら、桂花は思う。

 

私だって本当は嫌なんだけど、不本意ながらこいつには助けられちゃったし、仕方ない。それにこいつが、一刀が、私じゃなくちゃ嫌だっていうし――。

 

桂花は口移しを続けながら、密かに瞼を上げて一刀を覗き見る。

 

――あー、申し訳ないけど、もっとおかわりが欲しいかな?

 

目を閉じて身動ぎ一つしない一刀が、口移しをされながらそう“言った”。

 

桂花「ん、ちゅ――し、仕方ないわね、この変態……」

 

悪態をつく唇が喜悦に波打ち、肌は熱を帯びて上気して、目元は至福に蕩けて甘やかな表情を晒す桂花。

 

しかし、流れた髪の隙間から覗く翡翠の双眼は、光の届かぬ奈落の底のようにどこまでも深い色を見せながら、動かぬ一刀を捕らえて離さない。

 

それは尋常ではなく、狂気すら感じさせる瞳だった。

 

そんな桂花と一刀の――いや、桂花の秘め事を病室の入り口から眺める者が二人。

 

華琳「……で、一刀の容体は?」

 

その問いに、隣にいた稟が静かに首を振る。

 

稟「御覧の通りです。傷は癒えましたが、意識を取り戻しません。華佗による治療は続いていますが……」

 

芳しくない状況に稟が言い淀む。

 

華琳「一刀は目覚めない……でも、桂花には一刀の声が聞こえているのね」

 

愁いを帯びた表情で視線を向けた先には、意識を取り戻さない寝たきりの一刀と会話しながら、甲斐甲斐しく世話をする桂花の姿。

 

華琳「桂花はもう――いいえ、何でもないわ」

 

稟「華琳様……」

 

華琳「華佗には治療を続けさせなさい。一刀の意識が戻るまで他に行くことを許さないわ」

 

その言に、稟は僅かに俯き沈痛そうに瞑目した。

 

大陸全土で名医として名を馳せる華佗を縛り付けることは、政治的にも外交的にもかなりのリスクを伴う。

 

まったくもって、普段の知性的な華琳らしからぬ強権の行使といえよう。

 

また、らしからぬと言えば、華佗確保と同時に命じた盗賊捕獲の顛末。

 

一刀を害した盗賊団は、華琳が命を下してから一週間以内に全員が生け捕りとなった。

 

魏の法に照らし合わせれば即刻斬首の重罪だったが、華琳は私財を使ってまで盗賊達を生き長らえさせ死ぬことを許さなかった。

 

効率と実利を重んずる厳格なる王が、私的な感情を多分に含んだこの二つの強権に、彼女の憎悪と憤激の程が見て取れる。

 

稟「御意に――」

 

深く淀んでしまった己が主の瞳の奥底にもまた、常軌を逸した情動のうねりを幻視し、稟は微かに背筋を震わせる。

 

そして、稟はそう遠くないであろう先を見据えて思いを馳せた。

 

ああ、次はいったい誰が壊れてしまうだろうか……もしかすると、私が――。

 

 

おわり

 

 
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