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Blue-Crystal Vol'08 第一章 ~見放されたものたち~

C97発表のオリジナルファンタジー小説「Blue-Crystal Vol'08 ~Grief of the Desolation Angel~」の第一章を全文公開いたします。

スペースNo:2日目 西4ホール D-16b 「The Egg on Jade」

2019-12-16 22:15:38 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:1396   閲覧ユーザー数:1396

 

 

 <1>

 

 北教区の空に久方ぶりの雪が舞っていた。

 極度の寒冷地であるこの地方の空は本来、厚薄を問わず雪雲に覆われているのが常。

 いつからであろうか。そんな曇った空から太陽が覗く日が増えたのは。降雪の日が減り、路肩に積もった雪が目に見えて少なくなったのは。

 だが、大地の上に立つ人間たちは、そのような些末な空の変化を察することなどなかった。

 みな、眼前の現実と戦うことに必死であったがゆえに。

 ルインベルグの南にあるセルバトの街──その外れに存在する野営地。

『閃光』によって甚大な被害を受けた住民たちによって、自然と出来上がっていった場所。

 住む家を失い、他の街や地域に移り住むほどの伝手や財力を持たぬ者たち。

 街を構成していた秩序や社会構造を破壊され、日増しに悪化していく治安に対応できず、泣く泣く身を寄せざるを得なかった者たち。

 そんな人々が身を寄せ合い、互いに助け合い、細々と暮らしているのがこの野営地である。

 ──だが、ここも決して安全な場所ではなかった。

 野営地には跋扈する魔物に対抗する武力もなければ、身を守る壁もない。ゆえに魔物にとって格好の餌場であったのだ。

 襲撃を受け、一夜にして壊滅した野営地は数多く、それに至らずとも、天幕の外で彷徨う影に怯えて眠れぬ夜を過ごすうち、誰もが疲弊していった。

 この現象はセルバトに限定された話ではない。北教区北部にあるほとんどの街や集落が同様の状況にあったのだ。

「──あんな状態にあったセルバトに、ここまで活気が戻ってくるとはね」

 黒髪の騎士アイリは野営地に流れる穏やかな空気を肌で感じ、感慨深げに呟いた。

 彼女の視線の先には広場があり、遊ぶ子供たちの姿や、そのそばで談笑する大人たちの姿が見受けられた。

 食事の配給が終わり、口腹の欲を満たしたのか彼らはみな、一様に笑顔。

 当然、心からの笑みではない。どこか陰のある笑顔であった。

 誰もが不安を抱えている。大人も子供も、男性も女性も一切を問わず。

 だが、かつてと比べ、僅かでこそあるが心に余裕ができたのも事実。それゆえに彼らは仮初の笑顔の仮面を装うことを可能としていたのだ。

 ゆえにこの野営地に生まれ始めた活気。生命と生活の息吹。

 これを創りだすことができただけでも大きい。そう、アイリは思っていた。

「……本当に凄いわ。私たちだけでは絶対に成し遂げられなかったことなのに」

 自分もかつて、このセルバトの街に身を寄せ、街に闖入した魔物を討伐する代わりに、人々から食料を分け与えてもらって生活していた時期があった。

 それは先のない生活であった。寒冷地にして土地の痩せたセルバトでは人々が有する食料の総量には限りがある。

 その状況下において、如何なる働き・理由があろうとも自分達が存在していることによって、人々から口に糊をする機会、残り回数を、生存することのできる時間を奪っているのだから。

 かつて人々を守る騎士を志していたとは思えぬほどに、惨めな生活であったと言えよう。

 そんなセルバトの街に救いの手が差し伸べられたのは今から数ヶ月ほど前。

 各野営地に与えられたのは、当面の食糧と傭兵たち──魔物の襲撃に対抗するための武力の供給。

 身の安全と食料の確保という、人間が欲する最低限の保障を行ったのだ。

 救いの手の主は、連合軍の主導者エルシェ。アイリたちより『閃光』が発動した理由、そして、以後の人々の窮状を知るや、北教区に活動拠点を置く大商会に協力を取り付けたのだという。

 だが、エルシェは所詮、外国の貴人であり、ラムドの人間ではない。たとえ大国である鷲獅子国の公女であれども、ラムドの商会に何かを命じる権限など持たぬ。

 そんな彼女がどんな手段を用いて彼らの協力に漕ぎつけることができたのかはわからない。当の彼女を質しても笑って誤魔化されるのみ。

 ──結果としてこの支援が功を奏した。

 元来、この北教区はルインベルグの影響により巫女信仰の根強い保守的な風土を持つ地域である。そんな彼らが『魔孔』の消滅──即ち、巫女制度の否定を掲げる諸外国勢力の介入など許すはずもない。

 だが、そんな彼らの拠り所としていたはずのルインベルグより発せられた『閃光』による大破壊。そして、北教区の管理を放棄する宮廷の方針──この二つの大きな衝撃が、彼らの思想を支えていた土台を大きく揺るがした。

 そんななか、絶妙な時機を見計らったかのように差し伸べられた支援。これが決め手となり、北教区にエルシェら連合軍を受け入れさせる土壌を形成したのだった。

 この手法、それを手引きしたと見做された自分達に対し、一部のラムド人からの批判や誹謗中傷の類は絶えることはない。

 しかし、アイリはそのような声の一切合切を無視することを心に決めていた。

 彼女はこの戦いのなかで嫌と言うほど思い知ったのだから。

 安全な場所に身を置いて梃子でも動こうとせず、ただ漫然と正論を並べているだけの人間の言葉に果たして何の価値があろうか?

 幾許かの瑕疵があろうとも、自分の身を顧みず手を差し伸べてくれる人間こそ優先するべきではないかと。

 エルシェの求めに応じ、『魔孔』の消滅を旗印に掲げた連合軍の中心として立つことを決意した結果、アイリたちは大きな力を得た。

 シーインの街を押さえて『魔孔』関連の資料を手中に収めることに成功し、その研究は劇的な進化を遂げた。

『閃光』によって壊滅的被害を受けた街や集落を復興させ、『聖皇庁』を壊滅させ、大聖堂の暗躍の悉くを封じ、北教区の治安を劇的に回復させた。

 全てが自分たちの選択の結果だと振る舞うつもりはない。

 目の前にある光景は、自分達の決断と努力が結実したものであると考えていた。

 だが、この光景も今だ道半ばの産物である。

 アイリは北の空を一瞥した。

 ルインベルグの上空、拡大を続ける禍々しき暗黒の孔──『魔孔』の姿を。

 その下に存在するルインベルグ大聖堂を。

 故郷を奪い、夢を奪うだけでは飽き足らず、友の母に対する思いを否定し、その名誉と尊厳を踏みにじった偽りの聖者たちの巣窟を。

 これらを消し去らぬ限り、復讐は完成しない。

 だからこそ、ここで満足するわけにはいかない。

 セルバトを復興させ、ルインベルグ攻略の最後の足掛かりとせねばならぬ。

 一切の妥協など許されない。そして、失敗も許されない。

 その事実に向き合うたび、アイリの体は震えた。

 恐怖か、怯えか、はたまた武者震いの類か、それはわからない。

 だが、この震えこそが証明。事態が着実に前へと進んでいるということの証左であった。

 そう。言い換えれば、努力が今も実を結び続けている。ルインベルグ攻略への道筋が順調に舗装されつつある。

 その『実感』が表れている──アイリは時折、我が身を襲う震えを覚えるたび、そう結論付けていた。

 アイリは震える手を拳に変える。

「──絶対に終わらせてみせる」

 呟き、北の空を睨みつけた。

「見ていなさいよ。絶対に吠え面をかかせてやるんだから」

 その時、不意に雪が止んだ。

 まるで彼女の決意に呼応しているかのように。

 

 <2>

 

 復旧が進むセルバトの街、その中央に佇む一際大きな城砦がある。

 かつて、ベルゼの配下としてこのセルバトの領主を務めていたオルクの元居城。

 先の戦いで主を失ったそこは今、新たな役目を与えられていた。

「──野営地への昼食の配給、無事に終了いたしました」

 城砦の一室にて今、そんなやり取りが交わされていた。

 一方は連合軍に属する若い騎士の男。

 そして、これに答えたのがもう一方。現在、この城砦の新たな主。

「ご苦労様。夕刻の軍議まで貴方達も休みなさい」

 長い銀の髪を背に垂らした女──この連合軍の主導者にして、大国鷲獅子国クラウザー家の公女エルシェであった。

「でも、くれぐれも魔物への警戒は怠らないこと。いいわね?」

「仰せのままに」

 一礼ののち、その若い騎士は足早に部屋を去っていく。

 その背中をエルシェは頼もしそうに見つめていた。

「……随分と機嫌が良いのですね」

 彼女の耳に、そのような声が届いた。

 次いで、空となった器に新たな茶が注がれる音が聞こえる。

「──機嫌を良くせずにはいられないわ」

 エルシェは微笑みを浮かべ、それに応えた。

「街の復興も順調。避難している住民たちも身の安全と空腹が満たされて、相応に満足をしているというじゃない。苦労して戦い抜いた甲斐があったというものよ」

 湯気のあがった器を軽く掲げ、礼の仕草を見せる。

「そうは思わないかしら? クオレ」

「もちろん、そう思います」

 茶器を手にしてエルシェの傍らに立つ少女、クオレも笑みを浮かべていた。

「彼らもまた私と同じ、『魔孔』の被害者なのです。そんな彼らの心身が回復していく様は、まるで私の心が癒されている様を体現しているかのよう」

「確かにな」

 また、別の場所から声がした。

 声の主は、エルシェとクオレの正面の席に座する青年。帯剣し、甲冑を身にまとった騎士の男。アイザックであった。

「かつては『魔孔』憎し、大聖堂憎しが過ぎるあまり、日々を焦燥感に駆られていたようであったが、ここ最近はまるで憑き物が落ちたかのような落ち着きぶりだ」

 この城砦内部にある多くの部屋は、エルシェらが公務を行う部屋や会議所、或いは作業員の仮眠所、はたまた作業に使用する道具の保管場所等に利用され、広大な中庭はといえば建物の修繕に必要な資材の仮置き場所へと流用──セルバト復興の前線基地として使用されていた。

 この城砦は最初からセルバトに存在して訳ではなく、再生されたオルクがベルゼの命によって防衛の任についた際に魔物の手によって建築されたものである。

 それゆえ、使うことに抵抗がないと言えば嘘になる。

 だが、その点に目を瞑りさえすれば、敷地の広さや街の中央という立地条件が幸いし、街の方々に人手や資材を供給する拠点としての使い勝手はなかなかに良好。街の復興作業を円滑に進める一助となっていた。

 こうしてセルバト復興が軌道に乗り、ルインベルグ攻略の足掛かりを得ることに現実味が帯びはじめたことによって、クオレの焦燥感が昇華されたのだろう。

 憂慮の種が一つ解消されたことが、アイザックやエルシェにもまた、一種の安堵をもたらしていた。

 程よく弛緩した空気が、室内を支配する。

「残る問題は──いつ、ルインベルグへ攻撃を仕掛けるか、だな」

 アイザックがぽつりと呟いたその瞬間、エルシェやクオレの顔より笑みは失せ、室内の弛緩した空気は急冷する。

 穏やかな時間に水を差した格好である。だが、二人はそんなアイザックを責めたりはしなかった。

 そう。この問題は、自分達がいずれ直面せねばならぬものであるがゆえに。

「ルインベルグから逃げ出してきた者達によると、大聖堂が有する残り戦力は幹部直属の僧兵部隊が数隊程度とのこと」

「今の戦力を投入して叩き潰すだけならば簡単な規模だけど、それでは意味がないわ。彼らは幹部直属の部隊。『魔孔』と契約を交わしているに決まっているわ」

 ──転生の魔力。

 聖皇庁が攫ってきた女を『魔孔』に住まう悪魔への生贄に捧げ、契約を交わすことによって得ることのできる能力。

 たとえ今の肉体が傷つき、死を迎えたとしてもその魂は天に昇ることなく、また別の生ける肉体へと憑依して、乗っ取ることを可能とするものであった。

 その能力が彼らにある限り、いくら武力でその今の命を奪おうとも意味をなさぬ。

 安全な場所にいる別の肉体に憑依すれば、それは即ち逃亡と同義。最悪、味方の肉体に憑かれれば同士討ちが始まるのは必然。

 闇雲な交戦は、被害を不必要に拡大させるだけの愚行。

 無論、『魔孔』を消滅させることができれば契約は強制的に破棄され、邪悪な魔力によって汚染された魂は肉体もろとも消滅することだろう。

 しかし、当然そのようなことを彼らが許すはずもない。

 密告者の証言によれば、彼らは残る勢力の全てを街の外門と大聖堂へと通ずる道全てに配備し、おのれの命脈たる『魔孔』を死守せんと、その名の通り決死の防衛線を敷いているのだという。

 多少の犠牲を覚悟の上で強行突破し、その勢いに乗じて『魔孔』を破壊するという選択もある。『魔孔』が破壊されれば転生者が消滅するのだから、これ以上の被害者を出さずに済む。言うなれば、これこそが最も確実で、現実的な方法であろう。

 ──だが、一度は避けられぬ。

 自分たちが『魔孔』へと向かう途上で一度は僧兵らを殺めねばならぬ。その際、必ずや仲間や罪のない民の命が失われることとなるのだ。

 エルシェはその決断ができずにいた。

 ロナン侯爵の手引きによって、ルインベルグには今も攫われた女たちが続々と送り込まれ、生贄に捧げられ続けている。

『魔孔』は日増しに拡大し、今や『閃光』発動直前の大きさに迫ろうとしていた。

 時間がないことは重々承知をしていた。

 同時に、自分の決断力のなさに嫌気が差していた。

 ──でも、諦めたくはなかった。

 これ以上の犠牲を出さずして、『魔孔』を消滅させる方法が必ずあるはずだと。

 そして、その可能性──エルシェが賭ける足る理由は確かに存在していた。

 銀の女は、傍らに立つクオレの顔を見遣る。

 そう。その鍵は彼女が握っていた。

 正確には彼女が所有する『白書』へと。

『白書』の著者は百数十年前、妻を巫女にされた元大聖堂の僧侶。『魔孔』封印後、妻を失った怒りと悲しみ──そして後悔ゆえに大聖堂とは袂を分かち、『魔孔』の研究に生涯を捧げた悲劇の賢者。

 だが、『魔孔』の研究をはじめ、これを記録にしたためることは、巫女制度の神秘性を演出するため『魔孔』の仕組みを秘匿としておきたい大聖堂の思想とは相反する行為。その情報が拡散されれば、当然、大聖堂の目をつけられることだろう。

 そうなってしまえば、真にこの情報が必要になる時が来る前に、これらの記録は大聖堂の手によって焼かれてしまう危険性があった。

 そのため、いたずらな情報の拡散を防ぐため、彼が記録の際に施したのは──言わば、内容の『暗号化』であった。

 そして、その『暗号化』に用いたのは『神聖語』と呼ばれる僧侶のみに解読が可能とされる言語。神の言葉に用いられるとされる特殊な言語体系である。

 苦肉の策だったのだろう。

 無論、それを知識のある僧侶が目にすれば全く意味をなさぬ暗号であったのだから。

 だが、それが功を奏した。

 この一見、無意味な暗号化が、大聖堂の僧侶たちにある錯覚を起こさせたのだ。

 僧侶にのみ知ることのできる情報ならば。聖職者のみで独占できる知識ならば、これを統括する大聖堂で管理する事が可能である。

 ──即ち、脅威に値せぬ、と。

 こうして、彼の遺した資料は大聖堂の緩い監視の元で管理されることとなり、やがてそれは長い年月とともに忘れ去られ、その膨大な知識は失われることなく生き延びたのである。

 その暗号化された知識を、クオレは一人で解読を行ったのだ。

 聖職者としては位が低く、神聖語の知識の浅い彼女が寝る間すらも惜しみ、年単位の時間をかけて。

「──あの部分、解読はできそうなの?」

 エルシェは、まるで縋るかのような表情でクオレに尋ねた。

「『魔孔』の契約者に与えられる転生の魔力、その法則性について」

 それは『白書』のなかで唯一、解読できていない項目であった。

 だが、銀の女はそれを希求していた。

『魔孔』と契約を交わした者が死んだとき、肉体を離れた魂はどのようにして、あるいはどこを経て新たな肉体へと憑依していくのか?

 その新たな肉体は、どのようにして決定されるのか──魂自身の意志によるものなのか? あるいは、魔力による強制性が働いているのか?

 そして、肉体の死から、憑依した魂が新たな肉体宿っている魂を食らい、新たな宿主として定着するまでにかかる時間は──果たしてどの程度の日数を要するものなのか?

 軍内より寄せられる転生者の情報のなかで、最も即効性のあるとされるのが次の二例。

 一つは、シーインの街の廃墟にて警備にあたっていた騎士エルザが聖皇庁幹部タイラーに憑依され、『白書』が奪われた事例。

 そしてもう一つは『閃光』発動直前のこと。アイザックによって殺されたベルゼが、リュート騎士隊長の肉体を狙うふりをして、彼の決死の罠を躱し、辺りの死体に憑依した事例。

 そのいずれも、転生者の恣意によって憑依先を決めることができ、かつ極めて即効性が強い事例である。

 ──だが、そのような極端な事例はこの二例のみ。

 以前、聖皇庁の一段と衝突した際、何かの弾みで転生者を殺めてしまった事例がある。

 しかし、その者がすぐさま現世に転生し、復讐に現れるようなことはなかった。その周辺でもしばらくの間は、何者かが憑依されたと思しき異変が発生したという報告もあがってはいない。

 奇妙な点と言えば、かつてダエルダの集落で聖皇庁の構成員を捕えた時もそうだ。

 誰もが、全員獄中で自死するものと考えていた。

 自死による逃亡は、言うなれば転生者の特権とも言うべき窮地からの脱出法であるのだから。

 しかし、実際にそういった行動を取った者は少なく、事情を聴取されたあとも、アルトリア王宮の地下監獄で大人しくしているという。

 タイラーもベルゼも、その他『聖皇庁』の構成員もみな等しく転生の魔力が授かっているのではなかったのか?

 なぜ、これほどまでに彼らの行動に差が生じる?

 なぜ、死から転生に至るまでの時間に差が生じている?

 ──エルシェは、この差異にこそ付け入る隙があるのではないかと考えていた。

 転生の秘術の下賜は人間と『魔孔』との間に交わされた『契約』の結果である。だが、契約とは交わせば誰もが画一的に恩恵が与えられるというものではない。

 相手に与える利点が多いほど、授かる恩恵もまたこれに比例して変動をするものなのだ。

 即ち、捧げる生贄が多ければ多いほど、契約者が『魔孔』に住まう悪魔にとって興味を惹きやすい性格であればあるほど、授かる魔力が強いものとなるのではないか?

 その仮定が正しければ、全ての現象に合点がゆく。

 大半の末端構成員は、授かる魔力は弱く、転生に相応の時間を要するのだと。

 問題は、果たしてそれがどの程度なのか?

 数時間か? 数日か? はたまた数年か?

 その空白期間にルインベルグを制圧し、『魔孔』を消滅させることができれば、被害の拡大は最小限にすることができるのではないか?

 エルシェはそう期待を寄せている。

 だが、現実は非情。

 彼女が求める情報は、いまだ解読に至っていない。

「かなり高度な暗号化が施されておりまして、恐らくこれを解読するには神聖言語に対する深い知識──少なくとも司祭級の位に就けるほどの深い造詣が必要と思われます。一介の侍祭であった私にはとても……」

「クオレが世話になっていた──ラズリカのラーラ司祭だったっけ? 彼女に相談はしてみたの?」

「相談……できませんでした」

 エルシェの問いに対し、クオレは申し訳なさそうに下を向く。

「いくら、大聖堂や聖皇庁の勢力が衰えたとはいえ、南教区には今もその同調者が多く潜んでいると噂されており、その存在が危険であることには変わりありません。既に教団とは袂を分かった身でありますが、幼少の頃から面倒を見てくれた恩人の身に危険が及ぶようなことはしたくありませんでした」

「……クオレには悪いが」

 その時、長く沈黙を続けてきたアイザックが会話に割り込んだ。

「ラーラ司祭には、俺から正式に依頼をしておいた」

「アイザックさん! どうして?」

 その言葉に驚いたクオレは思わず声を張り上げ、非難めいた視線を向けた。

 しかし、アイザックは目を逸らすことなく、彼女の視線を真正面から受け止める。

「──彼女の意志を尊重した結果さ」

「え……?」

 彼からの返答にクオレは目を瞠った。視線に込められた非難の意志は消え失せ、代わりに浮かんだのは真相を求める思いであった。

「クオレと母親を引き離してしまったこと、ラーラ司祭は長い間、強い負い目を感じていたそうだ。当時は『これもまた聖職者の務め』と思い込むことによって何とか抑え込んではいたそうだが、巫女制度の真相が明らかとなるや、もう耐えられなくなっていたそうだ」

「では……」

「もちろん、危険な仕事であることは再三再四説明をした。こちらから依頼をしていてなんだが、個人的にはあまり勧められないともね」

 アイザックは言った。

「それでも、ラーラ司祭は快諾して下さった。彼女は求めていたんだ──クオレを悲しませてしまったこと。知らなかったとはいえ、あんな非人道的な制度に加担してしまっていたこと。その罪を償うための機会を」

「そんな……」

「……勝手な判断で司祭に依頼をしてしまったこと、クオレには済まないと思っている──だが、彼女の気持ちを、どうか汲んであげてほしい」

 ラーラの覚悟の強さを知り、クオレは押し黙るしかなかった。

 沈痛な沈黙が室内を支配する。

 そんな空気のなか、エルシェが口を開いた。

「……それで、ラーラ司祭からの解読結果はいつ頃、どのような形で届くのかしら?」

「そう時間はかからないと言っていた。解読結果はラーラ司祭自ら持参するとのこと」

「ラズリカからここまで? 危険ではないのかしら?」

「ラズリカ聖堂所属の僧兵団を護衛につけるそうだ。相応の所帯となるが、重要な情報を持参していることを考えれば、護衛は多過ぎて困ることはないと思う。旅程が順調であれば、あと十日ほどでシーインの街に着くはず。明朝、俺はここを発ち、彼女たちを迎えに行こうと考えている」

「そうね」

 エルシェは頷き、彼の提案を承諾した。

「アイリとクオレも連れて行きなさい。この間の追討劇での活躍を見る限り、あなたたちは軍や組織の中よりも、こういった単独行動のほうが力を発揮するみたいだからね」

「そうさせてもらおう」

 そう言うと、アイザックは立ち上がり、旅の準備のため部屋を出ようとする。

「……どうか無事に帰ってきて。ラーラ司祭の情報が無事に届かなければ、この戦いの犠牲者が増えてしまいかねないのだから」

 アイザックは軽く手を挙げ、エルシェの声援に応える。

 そして、彼はクオレを伴い無言で会議室を後にした。

 

 <3>

 

 荒い呼吸音が聴覚を支配する。

 肩や腹が内側より揺さぶられているような錯覚を覚えるほどに、心臓は強く早い鼓動を続けている。

 眼前に広がるのは一面の緑。視界を覆い隠さんばかりに高く、草が青々と生い茂った。

 必死に掻き分けながら先へと進む。時折、首より下げられた聖印の鎖が引っ掛かっては、そのたびに持ち主たる中年の尼僧の表情が引きつった。

 中年の尼僧──ラーラは必死に走っていた。 彼女の背後より数名と思しき男の怒声が響き渡る。声がするたび、ラーラは恐怖を覚え、悲鳴をあげる身体に鞭を打ち、更に足を速める。

 絶え間なく汗が滴り落ちる。ラーラは駆けながら、右手の甲で額に浮かぶそれを拭う。

 ──痛みが走る。拭った手の甲が鮮やかな赤色に染まる。

 彼女は傷を負っていた。

 真一文字に裂かれた額は絶えず血を流し続け、今や顔中を染めるほどにまで広がっていた。

 そして、首から下はといえば、身に纏う僧衣もまた、血の赤へと染め上げられていた。

 その赤は生乾きとなって、今や黒く変色をしかけている。

 そう。僧衣の血は自分が今流しているそれ由来ではなく、もっと以前に、大量に浴びせられたものであったのだ。

 返り血であった。自分を守って命を落とした仲間たちの。

 そして今、彼女を追っている者こそ、その兇徒。

 確認したわけではないが、素性については目星がついていた。

 大聖堂の手駒たる『聖皇庁』なき今、彼らに利する行動を取るような人間など限られよう。

 そういった組織に属してこなかった、巫女制度の賛同者。

 即ち、在野の同調者である。

 奴らの狙いは自分。いや、正確には自分が隠し持っている一通の書物。

『白書』に記され、煩雑に暗号化されたがゆえに長く秘匿とされてきた『魔孔』との契約における、付与される転生の能力との個人差と、その法則性について──その解読の結果であった。

 それは『魔孔』の信奉者の狂いし信仰心の根幹に存在するものの解明を意味している。無論、聖職者でもない、一切の組織に属さぬ在野の人間ごときが転生の魔力の恩恵に与れるはずなどない。

 だが、彼らにそれを理解できるほどの冷静さは持ちあわせていなかった。

 そうなるよう、仕向けた人間がいるがゆえに。

 その人間とは、強力な武力を背景とした諸外国勢力を背後にした現王家によって、今や議会の片隅へと強引に追いやられた保守派勢力。彼らは目ざとく、野にいる過激な同調者を見つけては言葉巧みに誘導する。

 ──巫女制度を守り抜き、大聖堂の窮地を救った英雄となれば、その見返りとして転生の魔力が授けられるであろう、と。

 見え透いた詐術であった。知恵ある者ならば、瞬時に嘘と見抜けるほどに。

 だが、多くの者がそれに騙された。

 諸外国勢力の介入によって、ラムド国の根幹を支えていたと信じてきた制度を捨てるよう強要され、無理矢理にまとめ上げられた宮廷。

『閃光』の発動を発端とした、急激に不安定となった社会。

 日増しに低迷していく国威。ラムド人としての誇りの喪失。

 貴人たちは、そんな者達の心の隙間を埋めるかの如く囁いたのだ。

 憎悪の対象とすべきは、全ての発端となった諸外国勢力・連合軍であると。

 そこで頭角を現し『英雄』と称されつつあるラムド人──いわば、国を売った裏切り者がいるのだと。

 そして、それに少なからず与さんとする者たちがいるのだと。

 ──さすれば、簡単に作り上げることができる。

 十数名の護衛を抱えた一団を追討する程度の武力ならば。

「襲われることは覚悟をしておりましたが……さすがに、これほどの数を用意してくるとは思いませんでした」

 ラーラがぼやく。

 背後より投げかけられる罵声、その内容は聞くに堪えぬほどに攻撃的にして差別的、まさに下劣な内容ばかり。

 これが知能と社会性を備えた人間という種族が発する言葉なのか。尼僧はそう毒づかずにはいられなかった。

 懐に隠した一冊の書物に手を当てる。

 こんな連中にやられるわけにはいかない。

 自分の体など、どうなっても構わない。

 クオレに──これを渡すまでは。

 あの時、巫女となるために旅立つ母親との別れの場。

 泣きじゃくり、立ち去ろうとする母を止めるため、縋ろうとする貴女を必死に抑えたのは私なのだ。

 貴女は決して私を許してはくれないでしょう。

 あれから十四年。私はずっと罪の意識に苛まれ続けていた。罪を償うためならば何でもする覚悟であり続けた。

 今、その機会がようやと与えられたのだ。

 死ぬわけにはいかない。クオレに許されるまでは──

 その執念が、彼女に限界を超えた力を与えていた。

 だが、それだけであった。

 いくら限界を超えた力があろうとも、この追手を撒き、広大な草原を抜けてシーインの街にまで辿り着くことなど不可能。

 生存への執念に燃えながらも、反面ラーラは絶望感を抱いていた。

 そんな矛盾を抱えた心が影響を及ぼしたのだろうか。或いは限界を超えた力に肉体がついていかなかったのだろうか。彼女の態勢が不意に大きく揺らぎ、転倒する。

「──!」

 彼女の不運はそれだけはなかった。

 後方からのみ聞こえていたはずの草を掻き分ける音が、今度は横──右側からも聞こえてきたのだった。

「まさか、撒いたはずの連中が合流してきた──?」

 地面に手をつき、立ち上がろうとする。

 だが、今までの無理が祟ったのか、その瞬間、急な眩暈と足の痙攣に襲われ、再び彼女は転倒。地面へと突っ伏す。

「……手こずらせやがて」

 背後から声が聞こえ、ラーラは青褪めた。

 草を掻き分け、追手が姿を現した。

「この背教者め、覚悟しやがれ」

「背教者はどちらですか!」

 ラーラは態勢を変え、襲撃者に向き直る。

 襲撃者とは、平凡な──街中のどこにでもいるような青年だった。

 だが、その顔はまるで狂気に侵されたかのように醜い笑みが浮かんでいた。

 目は見開かれ、まるで嘲るかのような視線をラーラへと向ける。

 そして、その首には──『聖皇庁』の象徴を模した飾りが下げられていた。

 ラーラの想定通り、彼は大聖堂の同調者であったのだ。

「こんな人道に反した大聖堂のやりかたを、いつまで支持しているのですか! 恥を知りなさい!」

「うるせぇ! 黙りやがれ!」

「黙りません!」

 ラーラは怒りの声を上げる。

 逃亡の手段が断たれた今、これが彼女のできる最大限の抵抗であった。

「何の罪もない人を犠牲にして、一部の人間が魔物と契約して利益を得る──そんなこと、神が望まれていると思っているのですか!」

「『魔孔』が現れても、巫女様がいてくれたおかげで、この国は長い間うまくやってきたんじゃないか。もし、神がそれを望まれていないというのならば、遥か昔に天罰とやらが下って頓挫していただろうさ。だが、今もそれがまかり通っているということは……」

 右手に握られた地に濡れた鉈が、振り上げられた。

 陽光に反し、刃がぬらりと光る。

「……これは神が認めてくれた方法だってことじゃないのか!」

 そして、凶手は振り下ろされた。

 ラーラの頭を目掛けて──

「──!」

 ラーラは思わず目を瞑った。

 ただ、クオレに対する謝罪の言葉と、おのれに対する不甲斐なさを呪う言葉を、頭の中で繰り返して。

 数瞬の後、ラーラの視界が紅く染まった。

 地面や衣服に、鮮血と思しき液体が飛沫いた。

 今、頭を叩き割られたのだろうか?

 痛みはなかった。それだけが救いであった。

 ただ、悔しかった。死を迎えた私は、この懐の書物を──解明された『魔孔』の情報を奪われてしまうのだから。

 そうすれば、北で展開しているはずの連合軍はルインベルグを攻撃する時機を見失う。

 闇雲に攻撃をして多くの犠牲を払うこととなるのか、手をこまねいているうちに二撃目の『閃光』の準備が完成してしまうこととなるだろう。

 クオレも、その仲間たちもきっと無事では済むまい。

 それだけが本当に──悔しかった。

 もうどうしようもなかった。致命傷を負った自分は、もう死の眠りが訪れる瞬間を待つだけの身であるのだから。

 だが、いくら待てども、その瞬間は訪れぬ。

 全身を濡らす血の温もりが、おのれの命がこの現身の中に存在していることを体感させていた。

 数秒待てども、十数秒待てども、それに一切の変化はない。

 恐る恐る、ラーラは目を開く。そして、見た。

 鉈は振り下ろされることなく、ラーラの頭上で静止したままであった。

 次に彼女が視界に認めたのは、鉈を振り上げた姿勢のまま死んでいる男の姿であった。首を剣によって横から刺し貫かれ、切っ先が露わとなった首の逆側より大量の血を噴き出して。

 いったい、誰が──

 そんな疑問が彼女の脳裏をよぎる。

 疑問に対する答えは、刺し貫かれた剣の主へと視線を向けたことによって示された。

 ラーラの命を救った者とは、右手に剣を握る一人の若者。長い黒髪を靡かせた、女騎士の姿であった。

 

 

「──間に合って良かったわ」

 女騎士は肩で息をしながら言った。

「もうすぐシーインに着くと思っていたところに、こんな騒ぎが起こっているんだもの。馬から降りて近づいてみれば、聞いたことのある叫び声がしたものだから驚いちゃったじゃない」

「アイリ……さん?」

 名を呼ばれたことにより、ラーラの無事を確認したのだろう。

 アイリは微笑んだ。

「今、アイザックとクオレが他の連中を片付けているところよ」

「クオレが?」

 驚き、目を瞠るラーラにアイリは頷いて見せる。

「ええ。クオレは本当に強くなったわ。連合軍の人たちも『成長の度合いだけを見れば私やアイザック以上』と密かに褒め称えているほどにね」

「あの子には、戦いとは無縁の人生を送ってほしかったのに……」

「仕方ないわ。今は剣の時代なのだもの」

 暗く沈む司祭に、アイリは優しく慰めの言葉をかける。

「強くなければ、自分の意見を通すことは許されない。こんな世の中だからこそ、クオレは強くなることを選んだのよ。大聖堂に対する怒りを、強くなるための原動力に変えてね」

「クオレ……」

「それにね」アイリはラーラの手を取り、立ち上がらせる。

「クオレは最初から貴女のことを恨んではいないわ。むしろ感謝をしているはずよ」

「──え?」ラーラは驚き、目を見開いた。

「ですが、私は彼女から母親を……」

「それは違うわ」

 そう言い、女騎士は片目を瞑って見せる。

「あの子は、貴女に危険が及ぶことを懸念して『白書』の解読を依頼することに最後まで反対をしていたのよ。そんなこと、恨んでいる人間に対して抱く感情とは思えないのだけどね」

 

 ──シーインの街。

 ラムド北教区の街や集落の治安維持に派遣している防衛隊に対する指令を行っている、言うなれば連合軍の一大拠点である。

 その宿場街。今も様々な国に属する騎士や軍人が行き交い、一時の癒しを得ている界隈のうちの一軒。

 鷲獅子国騎士団が借り受けている宿屋。かつてはエルシェやアイザックらが身を置いていた場所。

 そこの一室にラーラは保護されていた。

 彼女は寝台に横たわり、額に負った傷の手当てを受けていた。

「替えの僧衣を用意するべきだったのですが、今の我々には貴国の教団の衣服を手に入れることが叶わず。それでどうか御容赦ください」

「いえ。これで十分でございます」

 今の彼女の装いは、普段の僧衣ではなく、見慣れぬ意匠の寝間着に変えられていた。

 鷲獅子国の貴族の間で使用されている寝間着であるという。通気性の良い上質な生地で作られたそれは肌触りが良いだけでなく、軽くて動きやすい。

 見た目こそやや質素であったが、非常に実用性の優れた代物であった。

「戦いが終わり貴女の身の安全が保障されるまで、その御身を保護せよ、とエルシェ公女の御言葉です。どうかここを第二の我が家と思って、ご自由にお過ごしくださいね。また、外出をご希望される時は念のため護衛の者が同行いたしますので、その際は必ず我々に一声おかけください」

 鷲獅子国の若い女騎士が慣れた手つきで傷の治療を施していく。

「そろそろ、アイザック様たちが例の書物について、ご解説を求めたいと言っておりますが如何いたしましょう? 軽くひと眠りしてからにいたしますか?」

「いえ、大丈夫です」ラーラは礼の言葉を述べる。「すぐにでも取り掛かりましょう。私はそのためにここに来たのですから」

「わかりました」

 そう言うと、その女騎士は立ち上がり、一礼する。

「では、すぐに呼んでまいりますゆえ、失礼をいたします」

「ええ。よろしくお願いします」

 足早に部屋より立ち去る騎士の背を見届けたラーラは、額へ丁重に撒かれた布に軽く触れる。

 やや熱っぽさは残るものの、既に痛みや腫れが引きはじめている。

 錬金術によって痛み止めの成分が配合された、鷲獅子国特製の傷薬であるという。

 その効果の高さにラーラは心から驚嘆した。世の中に、これほどに優れた薬の類が存在していることなど想像だにしていなかった。

 それだけ、かの国が高度な文明、高い技術力を持っているのだという証左。

 そして、それを支えているのは、まさに高度な教育制度の賜物だという。聞けば驚くことに、鷲獅子国では国民すべてに幼少期より数年の間、教育を受ける権利を認め、各地に様々な教育機関を設置するといった環境を整備しているのだという。

 これこそがまさに大国が大国たる所以。そう、尼僧は納得せざるを得なかった。

 技術とは日々の生活を便利にするために存在する。それは、様々な不便や困難、脅威に晒されることによって成長が促されると言っても過言ではない。

 それと比べ、このラムド国というものが如何に矮小なことか。『魔孔』という脅威に隣り合わせであったにも関わらず、長きにわたって巫女制度に甘え切り、それ以外の方法で自分の身を守る方法を構築することをしてこなかった。

 ラムド国は怠り続けていたのだ。

 アイザックらが祖国であるはずのラムド国を見限った理由──その一端を垣間見たような、そんな気がしていた。

 腑に落ちながらも、どこか心寂しさを抱く、そんな複雑な思いを抱いたその時、ラーラの部屋の扉を叩く音が聞こえた。

 聞き慣れたノックの音。ラズリカの聖堂で共に過ごした時代と何一つ変わらぬ、強さと音の間隔。

 そして、音のした場所の高さ。

「ええ。どうぞお入りなさい──クオレ」

 ラーラはそう言い、扉の外に立つ者に入室を促した。

 

「──エルシェ殿下の仮定通り、『魔孔』との契約による恩恵──転生の魔力の強度は生贄に捧げた巫女の数に比例するものだということが判明しました」

 アイザックら三人を部屋に出迎えたラーラは、このような言葉をもって解読の結果を伝え始めた。

「つまり、どういうことですか?」クオレが問うた。「一人や二人、生贄に捧げた程度では、転生は現実的ではないということですか?」

「ええ」尼僧は首肯した。

「解読した資料によりますと、『魔孔』との契約──即ち、転生の魔力の付与は一人を生贄に捧げた時点で契約が成立します。『魔孔』に住まう悪魔によって、契約者にはあの黒い聖書が与えられ、そこに『魂の核』を焼き付けるのだと」

「魂の核──とは要領を得ない表現だな」

 アイザックは首を傾げる。

「そもそも、魂とは何なのか理解をしていないからなのだが」

「魂とは、命を現世に留めるための器たる肉体に命を与えるもの」

 そのとき、ぽつりとクオレが言った。

 それは教典に記されている一節。

 人間の肉体は、生命は神が与えし命を現世に留める為に親が創造した聖なる衣であると位置付けられており、聖職者はそれを尊ぶ。

 彼らが、戦いにおいて刀剣類ではなく戦鎚といった鈍器を使用するのはこれに起因する。故意に傷つけ、流血を促しかねぬとして、武器としての刃物の携帯を禁じている根拠となっている。

 続いてクオレは言った。

「魂の核とは、その生命力の根源。わかりやすく言えば生物が原理的に持ちうる本能──『生への執着』を司っております」

「生への執着……」

「はい。人は死を迎えるとき、魂がそれを受け入れることができなければ、核は現世へと留まり、やがて亡霊、悪霊へと化してしまいます。戦場跡や過去に虐殺や疫病が起こった集落跡で悪霊の類が数多く見受けられるのも、この性質が原因なのです。逆に死を受け入れることができていれば、その魂は現世への未練を断ち切り、核ごと天へと昇り神の御許へ旅立つとされています」

「そう簡単に人が自分の死を受け入れられるものなのかしら?」

 アイリは疑問を呈する。

「どんなに満ち足りた人生を送った人でも、そういう人は稀だと思うのだけど」

「その通りです」

 その疑問にラーラが答えを与えた。

「その多くの死者が抱える未練を断ち切るのが僧侶の役目なのです。慰霊の祈り、聖句、鎮魂歌──葬儀に関連するありとあらゆる様式とは即ち、その場に神の御力を降ろす儀式に則ってつくられたもの。我々僧侶は、その御力をもって死せる魂を慰撫し、核ごと天へと昇らせる手助けをしているのです。現世に縛られ、負の力に汚染されないように。そして、その悪霊が小さな『魔孔』を召喚して周辺の環境を悪化させるようなことをさせないように」

「……あれにはそういう意味があったのか」

 アイザックは得心した。

『魔孔』によって数多の死がもたらされているこのラムド国において、葬儀もまた日常的に行われているものであった。にも関わらず、長くその意味を知らずにいた。

 おのれの無知を彼は恥じる。

「無論、『核』は誰もが持っているものであり、その根源たる『生への執着』というものも決して悪いものではありません。アイザック様たちが戦いのなかで生存を強く意識し、その結果こうして生き残っているのも、その魂が健全な形で機能している所以。ですが、それはアイザック様たちが健全な肉体に魂を宿しているがゆえ。オルク卿の愛情によって育まれながら騎士としての教育を受け、これまでの旅によって各々が貫こうとしている正義を見出しているがため。そして、それは──」

 そう言うと、ラーラは自分のこめかみを指差した。

「──全てが『脳』に蓄積された知識や記憶、経験から導き出されたものだからです」

 脳とは即ち、人の肉体を構成している部位の一つ。

 即ち、肉体がなければ魂の核が司るものを正しく発揮することはできない──そう、彼女は語る。

「肉体より離れ、脳が持つ思考を失った魂は何の指標も方向性も持ちません。志向性のない執着を正しく表現をするのならば『妄執』に等しい。それゆえ、負の力を司る『魔孔』の持つ魔力との親和性が極めて高いのです。転生の魔力を付与するにあたり、悪魔によって与えられる黒い聖書に『魂の核』を封じ込めるのは、まさに理に適ったものと言えるでしょう」

「それで、聖書に『魂の核』を封じ込めると、どうなるというの?」

「解読された資料によりますと、聖書は封じられた核の力を肥大させるという機能を持つのだそうです。他者に憑依し、その肉体を乗っ取って転生をするのも、聖書を破壊しようとするものに危害を加えるのも、その根は同じ──生存に対する『妄執』を極限にまで肥大化させたがゆえ」

 ラーラは続けた。

「こうした魂には、本来、元の肉体にある脳に置き去りにされているはずの、生前の記憶や知識が付加されているのだそうです。恐らく、悪魔と契約したという事実を忘れさせないためであろう、と。そして──」

「そして?」

「新たな生贄を捧げさせるため、とも記されております」

「『閃光』を発動するとき、ベルゼが言っていたわね」

 アイリは頷いた。

「一度転生をしたら、その後にもう一度生贄を捧げない限り、転生の魔力が付加されない契約なのだとか」

「悪魔も確実に餌を供給してくれる人間はできるだけ確保しておきたいのだろう。世界的に魔物との共生関係や契約を厳しく禁じている今ならば尚更」

「そう思うと、悪魔も随分と俗っぽいこと考えるものなのね。下手な人間よりも単純でわかりやすいわ」

「違いない」

 アイザックも相棒に同意する。

「だが、それは人間が得意とするような権謀術数の類を使わなくとも、いとも簡単に人間を篭絡し、堕落させることができるほどの力を持っているともいえる。この戦いに悪魔の直接的介入はない。その力の一端が一部の人間にもたらされたことによって、これだけラムド国が混乱に陥っている──その事実からは目を逸らしてはいけない」

「そうね」と、アイリ。

「それでは、今からその強大な悪魔が大聖堂の連中と交わした契約の仕組みについて、教えて頂きましょうか」

「──わかりました」

 ラーラは恭しく頷いた。

 そして、意を決するかのように数瞬だけ間を置き、そしてゆっくりとした口調で語り始めた。

「エルシェ殿下の仮定した通り、彼らは捧げた生贄の数に応じて、より強い魔力を授かるよう契約を交わしていたようです」

「魔力が強くなると、どのような恩恵があるのでしょう?」

「大別すると三つ。一つは死者の蘇生といった様々な邪法の行使です」

「それは俺たちも目の当たりにしたことさ。『閃光』発動の直前にね」

 アイザックが忌々し気に言った。

「ベルゼが一時的な転生先とさせることが可能なほど、術の精度──死体の再生力は高いみたいだった」

「──ですが、これは相当数の生贄を捧げぬ限り、滅多に授かることはありません。大聖堂内でも『聖皇庁』の長であるベルゼや、彼を蘇生させたタイラー高司祭など、幹部のなかでもごく限られた人物のみと思われます」

「その力は今後の戦いにおいて、さほど重要な能力ではなさそうね」

 アイリは冷静な表情で意見を述べる。

「あの時でさえ、蘇生は一人づつだったはず。でも、今度は大規模な軍勢をもってしての戦いよ。一度の攻撃で数十の命が散るような状況下で、悠長に蘇生術の行使なんて非効率極まりないこと、あのベルゼがやるとは思えないわ」

「そうですね」と、クオレも彼女に同意する。

「ラーラ様。二つ目の恩恵についてご説明ください」

「ええ。二つ目は──」

 そう言うと、尼僧は軽く天を仰ぎ、そして語りだした。

 まるで、刻み込んだ記憶を呼び起こし、暗唱をするかのように。

「次に転生する先の肉体に関する決定権です。生贄が少ないうちは、契約を交わした悪魔が転生先を決めるそうです」

「悪魔が勝手に?」

 アイザックは怪訝めいた表情を浮かべた。

「つまり、転生先は悪魔の気紛れで決定されると?」

「はい。大半の人たちは、その気紛れに翻弄されて自滅の道を辿るのだそうです。頑丈な人間の若者に転生するのは極めて稀なことだそうで、生前とは逆の性別、或いは老衰を間近に控えた老人や奇形のある体へ転生させられることもあるそうです。しかし、それでも人間に転生されるだけまだ幸せなほうで、大半は魔物や動物、地中に住まう虫の類に転生させられるのだそうです」

「……契約者のふるい分けか」

「ええ」ラーラは頷いた。「酷い話ですが」

「どういうこと?」

 相棒の発言の意図が掴めず、思わずアイリは声を上げた。

 それを受け、アイザックは答える。

「一人や二人程度の生贄で止めてしまう程度の契約者ならば、まだ良心が残っている可能性もある。何らかの理由でその良心が揺り動かされて契約の事実が露呈されれば、騎士団や、国家に雇われた悪魔殺しの英雄が出動することとなるだろう。悪魔の立場から見れば、僅かな餌を掴まされた挙句に人間達に討たれた格好となるわけだ」

「大損ってことね」

「つまり、悪魔にとって欲しいのは、最初から後戻りできないほどに生贄を捧げてくれる──言うなれば、最初から良心の箍が外れた狂人ってわけさ」

「そうなると、段々見えてきましたね」と、これはクオレ。

「大聖堂に残っている残党たち。彼らがなぜ、この圧倒的な戦力的不利を前にしても恐れずに『魔孔』を守ろうとしているのは──彼らには確実に人間へ転生できることが保障されているからと理由づけることができるでしょう」

 そう言うと、元巫女の少女はラーラへと向き直った。

「ラーラ様。その転生先の選択権を譲渡されるのは、果たして何人程度の生贄が必要なのでしょうか?」

「……最低でも十人程度、と記されております」

「そんなに……」クオレは言葉を失った。

 自分も途中までとは言えども、巫女儀式の生贄として捧げられた経験がある。

 その苦痛たるや筆舌に尽くしがたく、大半の適正がない者はそれに耐えきれずに最中で命を落とし、肉体と魂は『魔孔』に住まう悪魔への生贄として捧げられてしまう。

 一人の人間が、転生の魔力を得る──そんな身勝手な理由のため、十人以上の少女に死の苦痛を与えている。しかも、それを行っているのは一人だけではない。ルインベルグ大聖堂がこれを組織的に実行しているのだ。

 残虐性、非人道性──いずれにおいても常軌を逸している。

 そして現在も継続されており、被害者は加速度的に増加している。

 とても人間の所業とは思えぬ。だが、このシーインから徒歩で半月程度離れた場所で行われている、まさに現実での出来事なのだ。

 クオレは胸中に沸々とした感情が芽生えていくのを感じていた。今すぐにでも飛び出して、あの大聖堂に殴り込みたい衝動に駆られる。

 だが、今の自分の立場を思い出し、心を鎮めていく。奥歯を強く噛んで感情を封殺する。

 そんな思いを肌で感じたのだろうか。まるで話題を変えるかのようにラーラは続けた。

「そして、最後の恩恵とは──死から次の転生に至るまで時間の短縮です」

 アイザックらの目つきが鋭くなった。

 それこそが今、自分達が求めていた情報であったがゆえに。

 死から転生にかかるまでの日数の大凡を測ることができれば、ルインベルグ攻撃に何かしらの目途を立てることができるのだから。

 その日数が、ルインベルグ攻略から『魔孔』の消滅までにかかるとされる時間よりも長いのならば──当然、敵兵の殺害を前提とした作戦を立てることが可能となる。それだけでも戦いの自由度の面で言えば、まさに雲泥の差と言えよう。作戦の自由度が上がれば、それだけ味方の犠牲を少なくすることにも繋がる。

 戦いの開始を決断する動機にもなるのだから。

「では、確実に人間へ転生できることが保障されている状態──即ち、生贄を十人程度捧げている契約者が次の転生にかかるまでの日数を教えて下さい」

 ラーラより放たれるであろう言葉に、期待を寄せる。

「最短で三日程度と記されています」

「三日……」アイリは親指の爪を噛んだ。

「想像していたよりも短いわね」

「そうなのですか?」

 ラーラは女騎士に問うた。

「噂では大聖堂側に現存する戦力はほとんど残されていないと聞きます。ルインベルグを攻略するだけならば、さほど時間は必要としないのではありませんか?」

「市街戦になるからね。平原の戦いよりもよっぽど面倒で時間もかかるそうよ」

「攻撃側の軍勢が効力を発揮する大通りに瓦礫を積み、折れた刃や陶器をばら撒くなどして通れない状態にし、人員と戦力を集中させている狭い路地や裏道に誘導することができる──壁や建物などの遮蔽物が多い場所では少ない戦力でも効果的に防衛力を発揮できるという話だ」

 二人の騎士が尼僧に答えを与えた。

 大聖堂側の兵の練度や士気次第ではあるが、三日で街の攻略と『魔孔』の消滅までこなすのは困難であろうと。

「市街戦の話も連合軍内で経験のある人達から伝聞で学んだだけの──俄かな知識でしかないわ。先頭に立つ私たちに経験がない以上、たとえ街の攻略に成功をしたとしても、余分に時間を使ってしまいかねない」

「街を制圧したあと、即座に北の『聖塔』へ向かい、賢者の霊の庇護を受けて『魔孔』の中心へと赴いて、その核を構成する『もの』を破壊しなければならないんだ。その中心までの距離がわからない以上、完遂させるまでにどれだけの日数がかかるか、皆目見当がついていない」

 二人は淡々と勝利へと道筋、『魔孔』消滅へと至るまでの課題の数々を並べていく。

 そのいずれも険しく、どれも一筋縄ではゆかぬものばかり。

 クオレとラーラにとって、アイザックとアイリの発言ひとつひとつが、実現不可能の理由づけをしているかのように聞こえていた。

 二人の胸中に失望にも似た、暗い感情が広がっていく。

 しかし、それは二人の勝手な印象に過ぎなかった。

「だが──」

「それでも──」

「その条件でやるしかない」

 アイザックもアイリも諦めてはいなかった。

 瞳に強い光を宿したまま互いを見つめる様は、前に進むことを誓いあっているかのよう。

 ──彼らは最初から期待などしていなかった。

 もし、この場にいるのが稀代の英雄や、生まれながらにして才能に満ち溢れた傑物──神の寵愛を一身に受けた人間ならば、期待通りの答えがもたらされていたかも知れない。

 でも、ここにいるのはそんな者達などではない。

 アイザックやアイリと言えば、魔物の襲撃で故郷を失うだけでなく、養父の恩義に報いるため幼少の夢を捨ててまで志した騎士の道も、国政の乱れ、気紛れによって完全に閉ざされてしまったのだ。

 クオレに至ってはもっと残酷である。

 ルインベルグ大聖堂にいる母と再会をするため、巫女の道を志すも、その道そのものが大聖堂の欺瞞によって舗装されていた道であったのだ。

 生きていると伝えられていた母は既にこの世になく、自分を『魔孔』への生贄とするための寄せ餌に使われているという有様。

 その結果、彼女は生贄に捧げられかけ、その後遺症によって一年近くもの間、寝たきりの生活を強いられたのだ。

 そう。この場にいる三人とは、言うなれば英雄や傑物などと呼ばれる者とは真逆の存在。

 ──神に見放された者たちである。

 幸運などというものは神の気紛れの産物でしかない。

 そんな人間が神に何を期待する?

 幸運など求めて何になる?

 そんなものに期待など寄せても、徒労に終わるだけだ。

 能もなければ才もない。幸運を引き寄せるに必要なものを自分達は何一つ持ちあわせてはいない。

 ならば簡単な話だ。

 期待などしない。

 求めもしない。

 ただ、前へ進むだけ。

 凡人の歩調で、心を削りながら。

「こんな私たちに三日も猶予が与えられるなんてね」

「むしろ奇跡だ。散々、俺たちのことを無視し続けてきた神も、ここにきて少し気紛れでも起こしたのだろうな」

「──上等じゃない」アイリが僅かに微笑んだ。

「私たちにとって、この上ないほどに絶好の機会じゃないか」

「アイザックさん……? アイリさん……?」

 クオレは一度、二度と瞬きをする。

 一見すると、二人は強がりを言っているように見える。

 どう考えても、この戦いを三日の間で収めることなど困難としか思えないのだから。

 事実、二人は強がりを言っていた。強がりを言いあって、今にも頽れそうな互いを支え合うために。

 だが、その一方で二人はどこか満足げな笑みを浮かべていた。

 強がりを補強するための、演技の笑みなのか?

 それとも生来の不運ゆえに、三日の猶予が与えられたことを、本当に僥倖と思っているのか?

 クオレにはわからない。

 だが、これほど絶望的な状況に陥っても、戦いへの意志が萎えていないこと。それだけが救いだった。

 それがたとえ、単なる開き直りだったとしても。

「──戻りましょう。セルバトへ」

 決して満足のいく情報ばかりではなかった。だが、それでも全てが出揃ったのだ。

 迷う理由は全て排除された。

 あとは、これをどのように活かして戦いに臨むかだ。

 三人は頷きあう。

 そして、ラーラに最後の挨拶を交わすと、足早に部屋を後にしようとする。

 そんなクオレの背中に、ラーラは語り掛けた。

「クオレ。私は──」

「許せるはずがないでしょう? いくら知らなかったとはいえ、貴女は巫女になろうとした母を止めることをせず、私のもとより引き離し、結果として『魔孔』への生贄にしようとした大聖堂に加担をしたことになったのですから」

「クオレ……」

 厳しい視線に射貫かれ、ラーラの表情が悲しみの色彩を帯びる。

 暗く沈んでいく尼僧の表情を見つめつつ、クオレは数瞬の間を置き、そして続けた。

「もし、それでも許されたいと思っているのであれば、どうかこの戦いが終わるまで祈り続けていて下さい──私の無事を。アイザックさんにアイリさん、そして連合軍の皆の無事を。そして大聖堂への天罰と、『魔孔』の完全なる消滅を。もし、貴女の祈りが天に届き、神がそれを聞き届け、叶えてくれたのならば。全てを終え、いずれ私が生きて貴女のもとへ帰ることができたのならば……」

 そこまで言うと、クオレは穏やかな笑みを向けた。

 年相応の、穏やかな少女の笑みを──

「その時こそ、私はラーラ様──貴女のことを許しましょう」

「クオレ……!」

 その言葉が耳に届いた刹那、尼僧の目に光るものが浮かんだ。

 無意識に浮かんだ涙であった。

 だが、不意に訪れた目頭の熱さの正体がそれであると気付いた途端、尼僧は胸中より吹き上がってくる激情に押し流された。

 浮かぶ涙は滂沱となって頬を伝い、口より出る声といえば大きな嗚咽のみ。

 悲しみでもない。喜びでもない。

 言うなれば、これは浄罪の涙。

 十四年もの間、母を失ったクオレの悲しみに寄り添い続けた女司祭の罪。それが今、洗い流されようとしていた。

 ──この贖罪の慟哭をもってして。

 

 <4>

 

 連合軍によるセルバト制圧の報がもたらされてより、迫りくる脅威に屈したルインベルグ大聖堂では僧侶の脱走が相次いでいた。

 ルインベルグは東西を氷海に挟まれた地。南部に軍勢が迫っている状況下において、逃亡を図るには更に北──天を衝くかのごとく聳え立つ、山々へと逃げ込む以外に方法はなかった。

 だが、ルインベルグ一帯は年中豪雪に覆われ、寒風吹き荒ぶ極寒地帯。そこに聳え立つ高山とあれば、その環境たるや過酷の一言。夜の闇に紛れて脱走しようものならば遭難は必至。

 今も哀れな僧兵が、夜の黒と雪の白に抱かれ、その命を落とした。

 ベルゼは、今しがた命を落とした魂が『魔孔』へと吸い込まれていく様を目にしていた。

「──初めからわかっていたことさ」

 闇の中へと消えゆく魂を眺めながら、まるで悟っていたかのようにこぼす。

「こうなることなんてさ」

 セルバトが陥落された今、彼に残された軍勢は街の外門を防衛する部隊が二百。門より大聖堂へと至る道中の道を防衛する部隊が三百。

 そして、聖堂内を防衛する部隊が百人弱。

 彼らは全て、『魔孔』と契約を交わして転生の能力を授かった僧兵たち。

 言うなれば、ベルゼにとって最後の虎の子。今まで万にも届くであろう女たちを生贄に捧げ、言葉の通り死力を尽くして作り上げた秘蔵の部隊であった。

 大聖堂の実行部隊であった『聖皇庁』はもうすでになく、ロナン侯爵より提供された傭兵たちも、蓋をあければ巫女拉致のみのために雇われた者達に過ぎず、戦力として手元に置いておくことができなかったのだ。

 今の大聖堂が持ちうる勢力は最盛期に比べ三割程度といった有様。

 対する連合軍の勢力は、今も拡大を続けているのだという。

 何が両者との間にこれほどまでの差を生みだしたのか?

 理由は明白。

 彼ら連合国軍は法に則った大義名分がある。国際的な平和を目指す機運に乗じている。

 或いは戦後、実質的な支配者の存在せぬこの北教区の経済的支配権を得るため、障害の最たるものである『魔孔』消滅という明確な目標に向かい、各々の意志によって戦いに参じている。

 それに比べて大聖堂の僧兵たちの、なんと脆弱なことか。

 彼らには連合軍の者達ほど強い意志を持ち合わせてはいなかった。

 彼らには『死』という終わりがない。たとえ、彼らを殺めたとしても数日もすれば別の肉体に憑依し再び復活する。

 見方によれば最強の軍勢と言えよう。だが、彼らはその能力の強さゆえに、戦士として最も重要な資質が欠如していたのだ。

『死』が塞がり、来世という逃げ道が確保されているがゆえ、今の命に対する執着。即ち『生き抜く』という意志が薄かったのだ。

『魔孔』と契約し、命への執着を司る『魂の核』を聖書に預けている──まさに、それゆえの弊害と言えよう。

 戦士とは過酷な戦場を生き抜き、勝利を目指して邁進することを本分とする者達である。

 無論、そのためには戦のたび落命の覚悟が必要なこともあろう。

 だが、落命そのものが目的ではない。むしろ逆──命の危機に瀕しようとも、生存に対する強靭な意志、異常なまでの執着がなければ、戦場で生き抜くことなどできはしない。

 戦士の本分を貫くことなど不可能なのだ。

 そう。転生の魔力を得て、今の命に対する執着を失ってしまった大聖堂の僧兵たちは、真の意味において戦士ではなかったのだ。

 彼らにとって命とは一度限りのものではなくなっていた。

 生とともに有となり、死とともに無となるものではなく、ただ慢性的に続いていく──永遠に有しかない世界。

 死という無の概念がなくなったがゆえ、それに対する覚悟を決める必要もない。生への意志を貫く必要もなければ執着を抱く必要もない。

 そんな者が、どうして戦場で力を発揮できようか?

 そんな転生者特有の慢性的な空気が軍内に蔓延していたのだろう。それゆえに、転生の能力を持たぬ一般の僧兵にも伝播。戦闘集団としては極めて腑抜けた状態に陥り、結果として六割以上にも及ぶ仲間を失うことになったのだ。

 だが、ベルゼはそんな惨憺たる現実を、一言で切って捨てていた。

 ──初めからわかっていたことだ、と。

「ロナン侯爵は僕に『閃光』発動の準備を整えさせ、連合国の連中と膠着状態に陥らせたいと画策していたようだけど」

 その交換条件として、侯爵は南教区におけるベルゼの名誉回復と地位の保障を申し出てきた。

 ラムド国を侵略しつつある他国勢力を退け、政治的混乱を収め、巫女制度という伝統を取り戻した英雄として。

 だが、ロナン侯爵が捕縛され全てが明るみとなったことによって、その望みも潰えた。

 もう、故郷に帰ることは叶わぬ。

 あの時のように豊かで、何不自由なく暮らすことができた日々は帰らぬ。

「生贄は十分に与えられ、『閃光』を発動できるほどの力を蓄えることができた。それだけでもあの詐欺師の手を取った価値があったというもの」

 ロナンが敵の手に落ちた今、彼はこの力を連合軍との戦いのため──『閃光』発動のために使うつもりなどなかった。

「これだけ『魔孔』が拡大しておけば、ラムド国外にまで影響を及ぼすことが可能だろう。そうすれば、この窮地からの脱することが可能となるだろう──ラムド国外の人間に転生することによって」

 そう。ベルゼは『魔孔』に蓄えられた最後の力を逃避に使うことに決めていた。

「──もう、馬鹿馬鹿しくてやっていられるか。こんな国とっとと捨てて、新天地でリーゼとローラとの三人で、今度こそのんびりと平和に暮らすのだ」

 恐らく、その逃亡先も多国籍軍に属する国のどれかであろう。

 戦いが終わり、軍が解散となれば、その国に属する戦力が戻ってくることだろう。もし、そこで正体がばれてしまったのならば、さすがにただでは済むまい。

 だが、目立たなければいい。下手な野心を起こさなければいい。

 偽名を用い、正体を隠し通し、平民の一人として、ひっそりと暮らしてさえいれば勘付かれることなどあるまい。

 ベルゼはここにきて遂に悟った。

 ──地位や名誉など、自分には不相応なものであったのだ、と。

 地位や名誉を維持するには相応の責任を全うせねばならない。

 二百年かかっても自分はそれすら出来なかったのだ。だからこそ、身を滅ぼした。

 そのたびに自分に絶望し、自らの命を絶ち、来世に期待をしても、また同じことを繰り返した。

 そして今、『白書』が敵の手に渡り『魔孔』の仕組み──転生の秘術、その正体が解明されようとしている。

 恐らく、次の次はない。

 この戦いで自分が討たれた瞬間、多国籍軍の連中はラムド国中を血眼になって探すことだろう。

 無論、その標的とは転生先となった肉体。人格が急激に豹変した人間を探し出し、殺すことだろう。

 再び生贄を捧げ、新たに転生の魔力を授かる前に。

 その虚をつく。

 今世の死をもって、自分は逃げる。

 奴らの目が光っているラムド国の外へ。

 そして、そこで今度こそやり直す。

 自分の能力相応の生活を送るのだ。

 そう。人間、生まれたときは着るもの一つもたぬ裸の状態なのだ。

 だが、今はどうだ?

 充分ではないか。

 自分を愛し、尽くしてくれる女が二人もいるのだから。

「──よし」

 ベルゼは意を決した。

 今よりこの肉体を棄てることを。

 そう思い至ると彼はリーゼとローラの来訪を求めた。

 最後に二人と存分に愛し合い、来世での幸福を誓いあうために。

 彼女たちとはまさに以心伝心の間柄。

 遭いたいと願えば、それは叶えられる。

 そして、それは程なくして現実のものとなった。

「ベルゼ様!」

 聞き慣れた、二人の声が闇の中に木霊する。

「リーゼ! ローラ!」

 その声にベルゼも答える。

「どうしてここに?」

 そして、問いかける。

 いつものやり取りであった。

 そして、彼女たちはこういう時には決まって、こう答えるのだ。

 ──ベルゼ様に会いたくなったのです、と。

 そして、彼女たちはこういう時には決まって、あの衣服を纏うのだ。

 普段着を。

 自分が彼女たちを抱きたい、と願ったとき──二人は普段の甲冑や僧衣ではなく、一人の少女としての姿を見せてくれる。

 そのいつもの光景、いつもの反応を期待し、ベルゼは声のした方を向く。だが、その視線の先に現れたのは、彼の期待に沿ったものではなかった。

 二人は普段の甲冑、僧衣を纏っていたのだった。

「連合軍に動きがありました」

「北教区各地の街や集落が復興の目途が立ち、補給の拠点としての最低限の機能が回復。物資の類がセルバトへと集まっております」

「それを受け、連合軍の主力部隊は遂にセルバトの街を発ち、ルインベルグを目指して北上をはじめた模様」

 矢継ぎ早に戦況を報告する。その二人の姿はまさにベルゼの片腕に相応しき戦士のそれであったのだ。

 彼女らの言葉が真ならば、彼女らの行動こそが、彼にとって最も利となるものと言えよう。

 そう。ベルゼはこのルインベルグ大聖堂の長。この街に残留する僧兵六百人の頂点に立つ人物。連合軍が本格的にルインベルグへの進軍を始めた今、性愛に現を抜かしている場合ではないのだから。

「リーゼ? ローラ?」

 だが、ベルゼは困惑の表情を見せていた。

 このような事務的な反応など、彼は求めていなかった。

 逃げたかった。

 不甲斐ない自分を慰めて欲しかった。

 愛を囁いて欲しかった。

 肌を重ねたかった。

 そして、一緒に安息の未来──来世へと旅立って欲しかった。

 いや、自覚していなかっただけで、実は求めていたのか?

 いまだ心の奥底で憎悪が燃えているのか?

 連合軍に。その中枢にいるであろう三人の人物に。

 アイザックとアイリ、クオレの三人に。

 巫女制度の撤廃という勅命を受けたにも関わらず、それが『閃光』発動のきっかけとなり頓挫。

 任務の失敗。閉ざされた騎士への道。

 そして、宮廷からも見放された。

 ……にも関わらず、奴らは復活した。

 宮廷の意向に背き、『魔孔』消滅という主張を止めなかったのだ。

 その意志の強さに、当時、王都に駐留して宮廷に介入していた周辺諸国の勢力が呼応。盟主である鷲獅子国クラウザー公爵家、公女エルシェの手引きにより、ラムド国騎士団の残党をも含めた多国籍による連合軍が結成されたのだ。

 調査によればアイザックらもただのお飾りの主導者で終わることなく、日々の努力の積み重ねによって軍内の信頼を獲得することに成功していたという。

 以降、その活躍たるは目覚ましく、『聖皇庁』の拠点であったエインゼルクを攻略、復興を遂げさせると、カイルス、セルバトといったルインベルグ近辺の都市までをも手中に収めたのだ。

 そして、事もあろうかアイザックとアイリは、セルバト攻略の武勲を称え『白騎士』の称号を授けられたのだという。

 白とは正義を象徴する色であり、武人に対する称号としては『聖騎士』に次ぐ第二位。

 今の彼らはまさに英雄と呼ぶに相応しき様相と言えよう。

 ──そう。昔日の自分が夢見ていた英雄の姿がそこにあった。

 いくら求めても、手に入れることのできなかった憧れの境遇が、そこに。

 まだ、嫉んでいたのか? 僕は。

 まだ、妬んでいたのか? 奴らを。

 リーゼとローラは僕の胸中、その奥底、無意識に燃え盛る昏い感情に呼応していたというのか?

 ──ベルゼはわからなくなっていた。

 いずれも正であり、いずれも誤であるように思えていた。

 彼自身、おのれの感情に整理ができていなかったがゆえに。

 だからこそ、一見すると自分の意志から離れたと思しき彼女らの行動を、完全に疑い切ることができずにいた。

 困惑の視線を向けられながらも、剣士リーゼは続けた。

「これより私は南門、ローラは南西門へと向かい、防衛部隊の指揮にあたります」

 戦力面において、ベルゼの手勢は連合軍の主力部隊に比べ遥かに劣っている。

 門を破られれば、忽ち街は落ちることだろう。

 ゆえに、街の外門における防衛戦こそが、ルインベルグの──延いてはベルゼの命運を決めると言っても過言ではない。

 そこに、手勢のうち最高の指揮能力を有するリーゼとローラを配置することは極めて合理的であったのだ。

 だからこそ、ベルゼはそれに異を唱えることができなかった。

「ベルゼ様……」もう一人の情婦、ローラが優しい声で言った。

「貴方様をお守りするため、私とリーゼは最善を尽くしてまいります」

 そう言うと彼女は一礼し、先を行くリーゼの後を追いかけた。

 闇の中、ベルゼは一人取り残された。

 頭のなかはいまだ混乱の極みにあった。

 逃亡と継戦。二つの意志がせめぎ合う。どちらが自分の本意なのかわからなくなっていた。

 ゆえに、ベルゼは最後まで気付くことができなかった。

 二人は自ら望んで、死地へと向かったことに。

 それは二百年ぶりに蘇った──二人の意志であった。

 

 
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