大晦日の昼下がり、ここはオンラインショップの本部。いつもであればとっくのとうに仕事納めをして各々が自由気ままに過ごしている筈のド年末。
だが、今年は何かが違っていた。そう、何もかもが違うのである……。
事務所と倉庫があるビルの1階ガレージは、何故か湯気でもうもうと視界が煙っている。
近付いて見ればたちまち出汁と蕎麦粉のいい香りが立ち込めて、知らぬ者であれば此処が蕎麦屋であるかのように錯覚するだろう。
否、錯覚などではない。よくよく見れば入口には何やら急拵えの看板が掲げてある。
≪蕎麦処 八神庵≫――……。
***
『手打ちの味が自慢です。代々木駅前徒歩1分、出前迅速…………』
「黙れ!!そのテープを止めないか!!」
だいぶ擦り切れて伸びたカセットテープから、店のCMらしき音源が繰り返し流れている。庵はそのテープを再生し続けているラジカセのコンセントを抜いてエンタに向かって憤怒の様相で迫る。
「ええっ、でもお店のPRに」
「大体此処は蕎麦屋ではない!!貴様とて解っているだろう!?」
彼が言っていることはもっともで、何一つ間違っていない。此処はオンラインショップの事業本部で、蕎麦屋ではない。此処に居る誰もがそれを理解している。しかし、何故か皆蕎麦を作っている。揃いの作務衣に和帽子を被り、ガレージに出現した大きな寸胴で湯を沸かしては庵が打った蕎麦を茹でている。
「そもそも俺たち、何で蕎麦作ってるんですかね……?」
「知らん!!」
香り高いかつおぶしと利尻産の高級昆布で出汁を取りつつ秘伝のレシピでめんつゆを作っていた真吾が、今この状況に誰もが抱いていた疑問を漸く口にした。しかしエンタは「そういうことになったんです……」としか言わない。だからそれはどういうことなんだ、と聞いても「会社の指示なので」を繰り返すばかりで話にならないし、気まずくなったのかいつの間にか姿を消してしまっていた。
会社の決定に振り回されるのはこれが初めてではないが、まさか今になって本当に蕎麦屋をやらされるとは思ってもみなかった。
すると横で悠長にそば団子を食べていたアッシュが厨房に身を乗り出し庵を指差してケタケタと笑う。
「自分で蕎麦処八神庵っ!とか言ってたからじゃんネ」
「やかましい!!アレは台本だと言っているだろう!!」
うっかりネタになってしまったものが広まった所為で何処からかナレーションの台本が出来てきて、嫌々読まされたと思ったら何故かそのままCMになりCDに収録されて、他のキャラクターまで巻き込んでドラマの予告になったと思ったら皆が忘れかけた頃を見計らってこうなってしまった。何のいやがらせかと伸し棒を握る手に力が入る。
幾ら愚痴を言った所でこうなってはもう仕方が無い、何時の間に宣伝していたのかは知らないが、注文の電話がジャンジャンと鳴っている。こんな得体の知れない蕎麦屋によく注文するものだと真吾は恐怖すら覚えて背を丸めた。
庵は蕎麦を伸しながら店内に姿の見えない一人の男を探す。電話番も兼ねている真吾だけでは手の回らない仕込みを分担させようと思っていたのだが何度呼び掛けても返事が無い。
「おい、K'は、アイツはどうした、応援に来てたはずじゃないのか」
その男の名はK'。秋葉原のイベント事業部に配属されているが、年末のこのどう考えても気が違っているオンラインショップの営業の為に特別に応援に来てくれている筈だった。だが今、彼は何処にも居ない。いや、居る、居た。厨房の床にびったりと倒れ込んでそば用のどんぶりを抱えている。
その異様な姿に流石に少々驚いた庵は、「は!?」と大きな声を出した後で真吾の方を見る。真吾もさっきこのヤバいことになっているK'に気付いたようで、溜息混じりで庵に説明した。
「それが冬休みに入ってからの秋葉原が相当忙しかったみたいで、ちょっと……疲れてるっぽいというかですね……」
「黒だよ……真っ黒!!!!」
言い終わらないうちに床でK'がどんぶりの底に向かって叫ぶ。別に技を出したわけでもない、ただただ叫んでいる。庵はK'の肩を掴むとそのまま床を擦って店の外へと放り出してしまった。
「解った!!もう帰れお前は!!帰って寝ろ!!」
「マキシマさーーーん!!マキシマさん早く迎えに来てくださーーーい!!!!!」
……『年明けにはクーラと一緒に遊びがてら迎えに行くから、ウチの子をよろしくなあ』……電話口で聴いた優しく逞しいお母さんのような声が恋しい。どうせなら今来て欲しい、と庵と真吾は眉間の皺を深くして蕎麦を作り続けた。
そしてまたジリリと古めかしい黒電話の音が鳴る。慌てて真吾が電話に出ると、やはり出前の注文だった。真吾は素早くメモを取って電話を切り厨房に注文を通す。通したところで作るのは自分と庵しかいないのだが。
「団体さん向けの出前みたいで、結構な量あるんですけど……」
「っ……俺は休まず打つからお前は茹でとつゆを頼む」
「わかりましたっっ」
今この店を回しているのは蕎麦を打つ庵とその他全てを担う真吾の二人しかいない。後はバイクで出前を届ける京くらいしかまともに働いているとは言い難いのだが、その京が先刻の出前から戻ってこない。そう遠くない場所だったのだが道にでも迷っているのだろうか。
「草薙は?出前行ったっきり見てないケド」
「ちょっと心配ですね……俺電話してみます」
庵の作業の合間をみて前掛けで手を拭いた真吾はスマホを取り出し京に電話を掛けてみる。呼出音が数回鳴って、気だるげないつもの声で「何だよ」と帰ってきたので真吾は一安心しつつも店の状況を説明して戻ってきて貰うよう試みた。
「あ、草薙さん!俺ッス、あの今どちらに……こっち凄く大変なので一度戻っ、えっ、あっ、えぇ……ちょっとそんな……ア、ハイ……ハイ…………」
真吾の声のトーンがどんどん下がっていく。庵もアッシュも察していた、多分、いや確実に、草薙京は戻ってなどこない。
スマホをタップして電話を切った真吾は、重苦しく吐息したあと、ゆっくりと庵に向き直る。
「草薙さん、今日はもう直帰したそうです」
「出前に直帰の概念があると思っているのか!?」
仕事というものへの意識が破綻しきっている。いや、そもそも京にそんなものを求めるのが間違っていたのかもしれない。諦めの後に大いなる怒りが襲いかかってきて庵が蕎麦粉を捏ねる手には最早堪え切れずに紫の炎がじわりと燃えている。
「おのれ京……こうなったら貴様への恨み辛みを全てこの蕎麦にぶつけてやる……練り込んでやる…………ククク、ハハハ、ハァーッハッハッハァ!!」
「八神さーーーん!!」
庵がダメになってしまった。いや、蕎麦を打っているだけマシだが、恐らく彼は今草薙京への怒りと恨みだけで蕎麦を打っている。すさまじい負のオーラはオロチの呪いのそれとは異なってはいたが、もしかしたらそれ以上のどす黒い何かを感じさせて真吾は涙目でアッシュに縋りついている。
「こりゃ暫くまともに話せそうにないネ。こっちで仕込みやってよーよ、矢吹クンおネギ切って」
「うう、わかりました……あの、アッシュさんは?」
「大丈夫、キミがネギをしっかり切れるか、ちゃーんと見といてあげるネ」
「いや手伝って下さいよ!しかも速攻スマホ見てるじゃないですかあ!!」
大晦日はまだ半日ある。乗り切れるのか、乗り切るしかないのだ。
『手打ちの味が自慢です。代々木駅前徒歩1分、出前迅速…………』
エンドレスで流れるテープの声を掻き消さんばかりに咆哮して蕎麦を打ち、茹でる庵、つゆを注ぐ真吾、特に何もしないアッシュ。ギリギリ瀬戸際のオンラインショップの2019年は、蕎麦と共に終わろうとしていた。
***
「お、終わったあ……」
表の看板に≪閉店≫の札を下げて、真吾は床にへたりこむようにして座った。厨房では庵が蕎麦の打ち粉塗れの身体で座り込み、まるで真っ白に燃え尽きているみたいだ。
アッシュはいつの間にか引っ張ってきたテレビで歌合戦を見ている。遂に年の瀬、年越し蕎麦を食べることはあってもまさか身を粉にして年越しそばを作ることになるなんて。真吾はよいしょ、と立ち上がると椅子に座って和帽子を取った。
すると、目の前にことん、と黒い器が置かれる。香りのいい出汁、自分が必死に取った合わせ出汁の香りだ。中にはコシのある手打ち蕎麦、ネギが散らしてあるだけのシンプルなかけ蕎麦が目の前に置かれている。
「……あ」
「食え」
いつの間にか復活していた庵が拵えたかけ蕎麦だった。そういえば殆ど休憩も取らずに働いていた所為でお腹がぺこぺこだ、真吾は「いいんですか?」と庵を見上げると、「良いも何も、俺とお前が作った蕎麦だ」とだけ言って、自分とアッシュの分もテーブルに置く。アッシュは何だかんだでちゃんとしている八神庵という男を笑うと割り箸を手にして庵と真吾に手渡した。そして、床に張り付いているあの男にも。
「ソコで寝てるキミもおいでヨ」
「……」
むくりと起き上がったK'は暫しその割り箸をじっと見ていたが、フイ、とそっぽをむいてしまう。その様子に溜息を吐いた庵は厨房に戻るとサッともう一杯かけ蕎麦をこさえてテーブルに置いた。
「貴様も食え」
「煩い」
言葉とは裏腹に盛大にK'の腹が鳴る。思わず真吾が笑ってしまうと、ぎろりと睨みつけられてしまってので「すいませんっ」と庵の影に隠れて様子を伺った。しかしK'は特に何もせず素直にテーブルに座って目の前に出された蕎麦をじいっと見ていた。食欲とはいつだって素直なものだ。
「じゃ、みんなで年越ししちゃおっかァ」
アッシュの言葉を合図にして4人は手を合わせて「いただきます」をしてから割り箸を割った。一斉に蕎麦を啜ると、まず真吾が満面の笑みでその味に驚く。
「美味しい……八神さんの打ったお蕎麦、凄く美味しいです!」
隣で自分の蕎麦を褒めちぎる真吾に、やぶさかではない顔をする庵。アッシュがすかさず庵へ声を掛ける。
「矢吹クンの取った出汁も利いてるよネ~、ね、どう?」
「……そうだな」
「マジっすか!やったあ!嬉しいですっ」
自分の働きを素直に褒められはしゃぐ真吾の髪に、庵は何かが揺れているのを見つける。何も言わずに手を伸ばすと、一瞬驚いた真吾に構わずそれを抓み上げた。
「えっ、なっ、何、何ですか……?」
「髪にネギが付いていた」
困惑する真吾の目の前に、抓んだネギを見せてやる。激務の中でいつしか付いてしまったのだろう。まさかネギを付けたままだったなんて、と真吾は顔を赤くして「すいません……」と頭を掻いた。庵は、自分と共に店を仕切りこの難局を乗り切ってくれた真吾のことを他意なく褒めてやる。
「お前がいなければ、此処まで出来ていたかどうかわからん。よくやったな」
「や、八神さん……」
まさか庵に正面からまともに褒められるとは思わず、謎の気恥ずかしさが襲ってくる。火照る頬を擦りながら真吾は一気にかけ蕎麦を啜って、そして改めて庵に向き直って照れ臭そうに笑う。
「ごちそうさまでした!!……あと、お疲れさまでした八神さん」
「お前もな」
真吾の頭を軽く撫で付けた庵は、その様子をニヤニヤと眺めていたアッシュと呆れたように頬杖をついているK'に向かって咳払いをする。妙なことでも考えられていては困ると思うのは確かだが、こんな状況でもがむしゃらに立ち向かう真吾に思うことが無いわけではない。それはまた別の話にすることにしよう、と庵は腕組みをして傍らの真吾に視線を投げる。目が合った真吾は、もう一度くしゃっと笑った。
「あ、除夜の鐘」
テレビはいつの間にか除夜の鐘の中継に切り替わっていた。もう直ぐ今年も終わる。激動の一年だった、と庵は次々に脳裏を過る今年会社にやらされた様々な仕打ちに苦い顔をする。しかし、オンラインショップのバイトを共にしている者たちと今こうして迎える年の瀬は、まあ悪くはないような気がしているのも確かだった。
わからないものだ、と、椅子の背もたれに体重を預ける。すると真吾が隣から庵の顔を除き込んでくる。
「今年もありがとうございました!来年も、よろしくお願いします!」
「……ああ」
「皆さんも、よろしくお願いします!」
この暑苦しい少年は、きっと年が変わろうと何があろうと、なあんにも変わらずに暑苦しいままなのだろう。アッシュもK'も、呆れ半分の笑顔で応えて真吾を見つめていた。
「あー!カウントダウン始まりますよ!10、9……」
来年もきっと良い年になる。思いがけず共にした蕎麦の味を思いながら、各々そう考えていたのだった。
***
新年を迎えてから約一時間後。
ガレージにカブが停まったかと思ったらカブに似合わぬ大男が降りて即中に乗り込んできた。
「ウォーーーイ!!クッソ寒ィ中草薙の代わりにずっと配達してた俺への労わりは!?」
今日の代わりに出前配達に出ずっぱりだった社は、輪の中に混ざれていないし呼び戻されもしなかったことに憤慨、いや、哀しみを露にして立っていた。けれど目の前で庵と真吾は一緒に寝落ちしているし、起きていたアッシュとK'も特に意に介せず別の歌番組を眺めているだけだった。
「ハイハイお疲れ。よくやるよネ」
「うるせぇ」
「テメェら~~~~~!!!!」
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【ほんのりBL気味?】2019年にもなって蕎麦処のお蕎麦が食べられるようになったので初投稿です。例の◯alcon先生のツイートが元ネタになってます。オンラインショップバイト組ほんとすき……