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コラムというより疑問?
行間を読む。
この言葉はどんな意味ですか? という問いに“この言葉のまま、文章の行と行の間を読むことである。”こんなことをいう人間がいたら、もっと言葉を勉強しましょうと私は言うだろう。行間という言葉は確かに1文章の行と行の間のことであるが、それを読むことは何かと聞いているにもかかわらず、こんなことを返す人間は本当に行間の読めない人間である。
では上の問いにはどう答えればよいかといえば、“筆者が直接表現していないことを、文章を読んで汲み取ること”という風になる。
ここで私が疑問に思うことがでてくる。
“はたして台詞が8~10割の小説と言えないような散文(後述から台詞集と書く)において行間を読むことは可能かどうか。”
というものだ。
結論から言えば、“行間を読むことは可能”ということになる。ただし、これは行間を読むという言葉の意味だけをとった場合であり、小説を読む楽しさにおいての行間を読むではないと私は思う。
この台詞集での行間を読むという行為は、筆者が本来描写しなくてはならない地の文を読者が創造するというもので、本来の行間を読むという行為では決してない。
本来の行間を読むという行為は、例として拙作で申し訳ないが“竹林哀話”のラストにおいて“一刀が後ろにいるから秋蘭後ろを振り向け”なんてことを思うことではなく、この一刀の幻影に振り向かない行動が過去を振り切る秋蘭の決意という風に文章を読み取ることである。(自作をこう解説しないといけないというのは悲しいが、向上心に振り向けたいと思います)
では、台詞集にこういった本来の意味での行間を読むということができるかというと、決してできないと私は考える。
すでに読者の創造で地の文ができてしまっている以上、筆者の直接表現していない意図を汲み取るということが不可能であるからだ。なぜこんなことを言えるのか、例を出してみよう。
「これ使いなさいよ」
「ありがとう。助かるよ」
「気にしないでいいわ」
この3行においてどんなことを筆者は言いたいか考えてみよう。まず私ならこれだけでは考えられないというだろう。どんな表情で、どんな声音で、どちらを向いてやり取りしているのか、まったくもってわからないからだ。
そしてここで読者はそのどんな表情で、どんな声音で、どちらを向いてやり取りしているかを自分勝手に創造する。
この自分勝手というところが行間を読むことにおいて、筆者の言いたいことを遠ざけてしまう。
だからこそ台詞集だと本来の意味での行間を読むということを不可能にしていると言える。
では上の3行に地の文を入れてみよう。
「これ使いなさいよ」
試験用紙に目を向けたまま小声で隣に座るBが、Aの落とした消しゴムの代わりにと自分の消しゴムを半分にして、教室を歩いて監督している教師に見つからないように手渡した。
「ありがとう。助かるよ」
AもB同様、試験用紙に目を向けたまま小声でお礼を言う。消しゴムの予備を用意していなかった彼は、残りの時間消しゴム無しで試験を受けずにすんで安堵のため息を漏らした。
「気にしないでいいわ」
彼女にしてみれば、ライバルである彼が本来の実力を発揮できないことこそ本意ではない。そう彼女は実力を発揮した彼に勝ちたいのだ。
上の台詞だけのときに甘酸っぱい男女のやり取りを創造した人もいるだろう。だけれどもこんな風な一方的にライバル視するようなものを創造することもできる。
つまり地の文がないだけで人によって全く別の物語になってしまうといえる。それにもかかわらず、筆者の言いたいことを読み取れ、汲み取れとはどれだけ筆者は傲慢なのかと私は思う。別に読み取らなくても、汲み取らなくてもいいよというなら、なぜ人様に発表したのかと思う。言いたいことがあるからこそ文章にしたのだろうし、発表したのだろう。ならばなぜより多くの人間に筆者の言いたいことを読み取らせる努力を惜しむのだろうか。
読者にしても行間を読むなんてめんどくさいことをするわけないという人もいるだろう。それは全く嘆かわしいことだと思う。そのようなことを言うのなら本を読む、文章を読むという行為をしないほうがいいと私は思う。本を読む、文章を読むという行為は、本来なら筆者の考えを感じる、筆者の言いたいことを汲み取るという行間を読むという行為だと私は考えているからだ。
私はここでもう一度問いたい。
行間を読む。この言葉はどんな意味ですか?
そしてこのコラムで書きたい私の考えは読み取れましたか? と。
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